2010年3月 4日 (木)

パフォーマンスは始まっていた

パフォーマンスは始まっていた

杉原信幸×広瀬和洋
パフォーマンス
The Videocamera Man(「うたがきやま ほほえみのもり」)
2010年2月26日 茨城県陶芸美術館

杉原信幸が参加する展覧会『いつも静かに笑っている』のシンポジウムに出かけた。
シンポジウム終了後、杉原がパフォーマンスをやるというので、展覧会場に行こうとしたら、杉原が戻ってきてしまった。
シンポジウムの客席を見て、「ここでやってもいいですかね」と言っている。
杉原の今回の制作パートナーである広瀬君が、客席のところでずっと佇んでいて、展覧会場に降りて来ないので、急遽予定を変更したらしい。
椅子に手をかけて何かを想っている広瀬君の前で、杉原はビデオカメラを取り出した。
パフォーマンスというのは、その場で消えていく芸術だから、記録をとったり、ドキュメンテーションをすることが重要である。「杉原、ぼくが撮ろうか」と言っているうちに、ビデオカメラのテープが巻戻り始めた。巻戻りの音が、ヤケにうるさいなと思っていたら、そうではなかった。杉原が、甲高い奇声を発していたのである。

アーッ、アーッ、アーッ、アーッ。キーィ、キーィ、キーィ、キーィ

巻き戻しだと思ったのは、杉原の奇声だった。

パフォーマンスは始まっていた。

杉原が発する音を、広瀬君は聴くとも聴かないともつかぬ顔で佇んでいる。そのうち、杉原の方を見始めた。杉原は、ビデオカメラを構えて、広瀬君を撮影し続けている。
広瀬君が、にっこりと笑った。そうして、杉原からビデオカメラを受け取った。
相変わらず、鶏系の妖怪のように身体をかすかに揺らしながら奇声を発し続ける杉原。広瀬君は、そんな杉原に対して、にこにこ笑いながらビデオカメラを向け、そのうち写真をパチパチ撮り始めた。
鶏系妖怪杉原。その顔が、ビデオカメラのビューファインダーの中に捉えられ、フラッシュがたかれ、そうして定着される。
10分余りの時間が流れた。
杉原が、立ち上がる。広瀬君に、額をつけた。広瀬君が笑って、杉原の肩をたたいた。

パフォーマンスは終わっていた。

http://sugihara.blog27.fc2.com/


杉原信幸×広瀬和洋
The Videocamera Man(「うたがきやま ほほえみのもり」)
2010年2月26日 
茨城県陶芸美術館におけるパフォーマンス(最初の10分)
撮影 茂木健一郎

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Ken Mogi 27th February 2010. Qualia Review #6

3月 4, 2010 at 09:25 午前 |

乱世への、最上の励ましの音楽

乱世への、最上の励ましの音楽
Pirate Radio 第8回

桑原茂一さんがプロデュース、編集するPirate Radioの第8回。近田春夫さんと、モブ・ノリオさんが、音楽について、平和について、日本のメディア状況について語る。

二人の会話のテンポが、異様に小気味よく、「詰まって」いる。そうして、本音の熱が、電球のように明々と伝わってくる。対話として、夜更けに耳を傾けるにふさわしい、魂を突き刺す密度にあふれている。スッゲーよ、近田さん、モブさん。
そうして、桑原茂一さんが、二人のロックンローラーのソウル・カンヴァセーションに音楽をのせる。その組み合わせが絶妙。ぼくは、桑原さんに、言葉と音楽のコラボレーションには、まだまだ未知の可能性があるのだなと教えてもらったような気がする。

リズムと内容は、決して無関係ではない。ヒップホップのリズムは、ヒップホップの内容を引き出す。重々しい行進曲のリズムは、重々しい行進曲の内容を引き出す。ヴィトゲンシュタインは意味が個人に閉じられたprivate languageなどないと看破したが、同じように、適用が個人に閉じられたprivate rhythmなどないのだ。

日本のこれからは、魂の乱世。武力を使わない平和な下克上。来るべき自由と創造の時代に向けて、桑原茂一さんのpirate radioは最上の励ましの音楽となる。

http://soundcloud.com/pirate-radio-ooo/pirate-radio-2


桑原茂一氏

Ken Mogi 28th February 2010. Qualia Review #5

3月 4, 2010 at 08:15 午前 |

他者に対する「リスペクト」 藤井直敬 『ソーシャルブレインズ入門』

藤井直敬 『ソーシャルブレインズ入門』 <社会脳>って何だろう 

講談社現代新書 2010年2月19日

 藤井直敬さんは、『ソーシャルブレインズ入門』で、今脳科学に静かに起こりつつある革命についてわかりすく解説する。
 一つひとつの脳を切り離し、コントロールされた実験室環境に置き、特定の文脈の中で神経細胞がどのように活動するかを観察する脳科学の方法は、多くの成果を収めた。『ソーシャルブレインズ入門』は、そのような過去の成果を踏まえつつ、さらに新しい領域へと踏みだそうとする。
 周知のように、人間は社会的動物である。本書に引用されているように、ハーロウの子ザルに関する古典的実験は、たとえ栄養が満たされていてもその上に関係性欲求が充足される必要があることを示した。人間は、猿よりもさらに複雑な社会性を発達させた。脳を社会性の文脈において考えることは、いわば論理的な必然である。
 藤井さんは、社会性の文脈における脳のふるまいを、継続的、俯瞰的に見ることの必要性を強調する。そうして、「独創的な実験的研究が行われている研究室には、必ず独自に開発した実験装置がある」という経験則に違わず、ECoGを用いて脳活動を計測するという新しい試みについて語る。藤井さんのグループの研究を記述した章は、未来への胎動の確かな手応えに満ちており、今後の展開を期待させるものである。
 人間の社会性には、暗黒面もある。イェール大学のスタンレー・ミルグラムが行った「ミルグラム実験」や、「スタンフォード監獄実験」に関する解説は、社会性が時に暴走するという負の側面を描いて迫力がある。そのような暗黒面を見据えつつ、最後に、他者に対する「リスペクト」こそが社会的関係性の基礎だと論ずる著者の姿勢に共感した。
 社会的な文脈で脳の機能を議論する時に必ず持ち出される「ミラーニューロン」について、その重要性を認めつつ、実験的な手法の問題点について技術的に論じた箇所は、情報としての価値が高い。また、社会的振る舞いの説明原理としての「認知コスト」など、著者が長年の研究から構築してきた理論的なアイデアについての議論も、大変興味深い。
 人間の社会性の起源を脳の働きからどのようにとらえるか。この重要な問題に興味を持つ全ての人に、一読を勧めたい。
 


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Ken Mogi 27th February 2010 Qualia Review #4

3月 4, 2010 at 08:14 午前 |

現実世界は狭すぎる

現実世界は狭すぎる
ー『クォンタム・ファミリーズ』 東浩紀ー

 量子力学においては、波動関数の収縮と呼ばれる過程がある。このプロセスをどのようにとらえるかという点について、複数の考え方がある。
 標準的な「コペンハーゲン解釈」では、波動関数は確率を計算する方法だという実際的な立場をとる。波動関数の収縮が提示するさまざまな哲学的な課題は、物理学の問題ではないと考えるのである。
 それに対して、アルベルト・アインシュタインや、ロジャー・ペンローズなど、偉大な知性たちが反対を唱えてきた。波動関数の収縮のプロセスについて明確な概念的枠組みを提示できない現在の量子力学の枠組みを、不完全なものと考える論者も多い。
 量子力学に当てはめられる一つの世界観が、「多世界解釈」である。波動関数が収縮する時、世界は複数に分裂する。分裂したそれぞれの世界は、配列的に存在する。エヴァレットIII世によって唱えられたこの解釈は、その提示する世界観が常識外れなものであるにもかかわらず、論理的整合性においてはすぐれている。現在でも、量子計算の研究をしているデイヴィッド・ドイッチュなど、多世界解釈を指示する論者が存在する。
 東浩紀氏は、小説『クォンタム・ファミリーズ』の背景となる世界観に、多世界解釈の下での並列宇宙を採用した。並列宇宙が、私たちのこの現実の宇宙と密接に絡み合う概念装置となる。東氏が展開する論理には概念的ガジェットとしての愉しみがある。特に、インターネット上に増大し続ける情報空間と絡めた論が面白い。

「・・・量子回路がある閾値を超え、ネットワークの直径がある閾値を超え、かつ特殊なタイプの経路が出現すると命題空間全体が量子的に発散していまう、そんなシミュレーション結果が発表されているとのことでした。二〇二三年の時点では、すでに学術データベースの三割が「脱現実化」した命題に寝食され、検索はほとんど役に立たなくなっていました。」

東浩紀 『クォンタム・ファミリーズ』より

 量子力学における平行宇宙は、たとえば電子が二つのスリットのどちらかを通るという際に、観測が行われれば分裂する。世界は、その素粒子レベルの微細な成り立ちにおいて、ありとあらゆる場所で、ありとあらゆる瞬間に分裂し続けているのであって、そのような分裂の「直積」として生まれる平行宇宙の数は、想像することも不可能なほどの巨大なものとなる。
 『クォンタム・ファミリーズ』は、このような平行宇宙の「マルチチュード」のうち、二つの世界の「並列」を骨格に組み立てられている。展開されるのは、ある一つの家族をめぐる物語。人間の心のダイナミクスは、現実世界には留まらず、非現実、仮想の世界にもその故郷を持つのである
 人間の脳の認知プロセス、意識が生み出されるメカニズムに即すると、平行宇宙への道筋は、志向性(intentionality)の中にも見いだすことができる。志向性自体は、宇宙の履歴が一つしかないという保守的な考え方とも整合的である。
 Aを選んだから、このような人生になったが、もしあの時Bを選んでいたとしたら。そのような仮想のシミュレーションを、私たちは常に行っている。そして、実際に選んだAよりも、Bの方が自分自身に忠実な選択だったかもしれぬ、その方が幸福だったかもしれぬという比較が、「後悔」(regret)の念を引き起こすのである。
 前頭葉において文脈認知などにかかわる眼窩前頭皮質(orbitofrontal cortex)が、後悔の認知にかかわることがわかっている。
 後悔を含め、さまざまな感情や記憶の力学が、現実と、志向性の向かう宇宙の間に事実上の並列世界をつくる。存在するのは、常に「今、ここ」の神経細胞の活動でしかない。しかし、それによって生み出される「志向性」は、この現実世界の限定を離れて、それこそカントが『純粋理性批判』の中で言ったように、「私の上なる満天の星空と、私の内なる倫理規則」にまで及ぶ。
 人間の精神性の力学のスペクトラムを収めるには、この現実世界は狭すぎる。東浩紀氏は、並列世界という広々とした空間を手に入れることで、一つの家族の切実な物語を綴ったのである。

『クォンタム・ファミリーズ』 東浩紀
新潮社 2009年12月

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Ken Mogi 9th February 2010. Qualia Review #3

3月 4, 2010 at 08:13 午前 |

「永遠の故郷」の確かな予感

吉田秀和 『永遠の故郷 真昼』 書評

 なぜある人が卓越しているのか、その理由がはっきりと明示できないことがある。背景となっている教養、感性の鋭さ、経験の蓄積。そのようなことがあまりにも重層的に積まれていて、容易には「こうだから」とその理由を提示できない。
 簡単にはその理由を指し示すことができない卓越のかたち。それは人間として目指すべき一つの到達点であり、私たちが愛する良きもの、美しきものが生み出されてくる精神の「故郷」である。
 遙かに遠く、そしてゆかしいもの。吉田秀和さんには、常に敬慕の念を抱いていた。高校時代に愛読したニーチェの『悲劇の誕生』に目を向けられたのも、確か吉田秀和さんの文章がきっかけだった。
 昨年の夏、吉田秀和さんにお目にかかる機会があった。潮風が気持ち良い、海辺のレストラン。音楽批評を芸術の域に高めた、一人の卓越した表現者が目の前に座っていて、ニコニコと笑っていた。
 「私が旧制高校の頃はね」と吉田さんはおっしゃった。「ドイツ語で、初日にアーベーツェーと初等文法をやって、二日目にはニーチェのショウペンハウエル論を読まされました。いやあ、野蛮な時代でしたよ。」
 吉田秀和さんが追想するような、「高貴なる野蛮さ」が日本の社会にはもっと必要なのではないか。
 文章に魅せられているうちに、ふくよかに、連想が膨らんでいく。読んでいて、とても心地良い吉田さんの文体。最新刊の『永遠の故郷 真昼』(集英社)でも、その優美な響きは健在である。
 例えば、マーラーの交響曲について書かれた、次の箇所

__________ 
 中でも、特に《大地の歌》の最終章《告別》、第九と第十のそれぞれの第一楽章などは、かつて描かれた最も美しい音楽に属するというべきだろう。作曲者はそのどれ一つとしてきく機会を持たずに死んでしまったけれども。
 これらの音楽は眩しいくらい美しい。そうして、無意味だ。私はこれらの曲を聴いていると、時々、耳をふさぎ、目を手で覆いたくなる。そこには、きくものを酔わせずにはおかない強い、魔法のような牽引力がる。特に、中でも一番あとで知られるようになった第十交響曲には強い薬と毒があるのではないかと感じることがよくある。
 だが、この曲について書くことは、まだ、私には、できない。ここでは《大地の歌》の中の《告別》の話をしたい。
_________

 吉田秀和さんは、1913年9月23日生まれ。『永遠の故郷 真昼』は、集英社の文芸誌「すばる」に2007年から2009年にかけて掲載されたエッセイを集めたものである。上に引用した文章(《告別》)が掲載されたのは、2009年8月号。その時、吉田さんは95歳。
 95歳の音楽評論の大家が、マーラーの『第十交響曲』について、「だが、この曲について書くことは、まだ、私には、できない。」と書く。心あるものに強く響く言葉である。このような慎重さは、ドイツ語のアーベーツェーをやった後にニーチェのショーペンハウエル論をやるような「知的野蛮さ」と同じところから発している。現代は、遠くへと漂流してきてしまった。
 さまざまな歌曲について、楽譜や言語の歌詞を参照しながら論ずる『永遠の故郷 真昼』。頁をゆったりとめくり、繰り返し味読するにふさわしい滋養に満ちている。とりわけ、第一章「《愛の喜び》ーある思い出にー」のように、愛すべき楽曲に吉田秀和さん自身の人生の出会いと別れの思い出が響き合う時、読者は忘れがたい魂の感触にしばし立ち止まる。その瞬間、私たちは「永遠の故郷」の確かな予感にとらわれているのだ。
 本書の最良の読み方は、吉田秀和さんの文章を読みながら当該曲を聴いてみることだろう。CDやDVDを持っている人はそれをかければいいし、持たない人は、youtubeなど、インターネット上にあふれるリソースで曲のサンプルをかけてみればよい。そのようにして、心の中に眠っている「高貴なる野蛮さ」の種を探りあてるとよい。

吉田秀和 『永遠の故郷 真昼』
集英社、2010年1月10日刊

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Ken Mogi 30th January 2010. Qualia Review #2

3月 4, 2010 at 08:13 午前 |

歌舞伎の奇跡 ー市川海老蔵 『伊達の十役』ー

歌舞伎の奇跡
ー市川海老蔵 『伊達の十役』ー

 『伊達の十役』は、七代目團十郎が初演した後、長い間演じられなかったのを、市川猿之助が復活上演して評判になった演目。私は、以前、その猿之助の舞台を何回か見たことがある。まだ学生だった頃である。
 それから時が経って、市川海老蔵が伊達の十役に挑戦するという。心待ちにしていたその日がいよいよ来た。良く晴れた寒い日。新橋演舞場へと向かった。
 海老蔵の歌舞伎への精進は凄まじい。昨年八月にお父さんの團十郎と共演した『石川五右衛門』での、花道を六法で下がる海老蔵の演技が忘れられない。演劇の精髄がまさにエビのように跳ねる。手指の先まで神経が行き届いていて、踊りの精神そのものの化身のようだった。
 その海老蔵が、今回の舞台には期するところがあると聞いていた。猿之助の演出で上演する。以前には、猿之助のまさに十八番だった『義経千本桜』の「四の切」を猿之助型で演じた海老蔵。今回はどんな舞台になるのか、楽しみにしていた。
 定式幕が開く。市川海老蔵が、舞台中央に居ずまいを正して座っている。まずは、これから演ずる伊達の十役についての説明の口上。あらかじめ、芝居の概略を観客に説明しておこうという配慮である。
 変化の魔術が支配する時間はすぐそこ。しかし、口上では、まだまだ「素」の海老蔵が出ている。真っ直ぐで、太陽そのもののような好青年。張りのある、若々しい声。慣れ親しんだ、海老蔵の声。
 それが、最後に「隅から隅までずずずいっと」となると、急に声色が変わる。何かが乗り移ったように、空気が移る。演舞場の客席のあちらこちらを「にらむ」海老蔵の表情には、歌舞伎の若神の風格がすでに表れている。
 いよいよ芝居が始まる。
 海老蔵には、荒事や立ち役というイメージがある。しかし、女形もびっくりするほど色っぽかった。せりふを伴う女形は、今回の舞台がほとんど初めてだと聞く。しかし、とてもそうは思えないほど女形が堂に入っていた。
 とりわけ、終幕の『大喜利』で、高尾と累の亡霊を演ずる海老蔵には、白鷺が地上に降り立ったような色香があった。踊りも、繊細で優美だった。
 もともと、人間の魅力とは、両性具有のものではないかと思う。現代においても、男性的な側面と、女性的な側面を両方併せ持つ人が、もっとも輝いている。
 きわめて男性的な海老蔵だが、一方で女性らしい感性がある。「見られる」ということ。それを意識し、引き受けるということ。「女性」というジェンダーの文法との共鳴が、海老蔵の表現に奥行きを与える。色っぽいのである。
 『伊達の十役』の見所は、何と言っても目まぐるしく早替わりで十役をこなすということ。もともとは、初演時、夏の休暇で大立て者が皆いなくなってしまい、七代目團十郎が一人でさまざまな役を兼ねるための「窮余の策」だったと聞く。
 幕府のお達しで女性が舞台に出られなくなったことが、歌舞伎の「女形」のもととなった。制約を可能性に変えてしまうという、歌舞伎のしたたかさがこんな所にも現れている。
 それにしても、速い。あれだけの役を早替わりでこなさなければならないということは、舞台裏は戦場のような様子のはずである。スッポンから引っ込む。走る。助手たちが一緒に走りながら衣裳を替える。化粧を施す。かつらを変える。居ずまいをチェックする。そうしたらもう出番である。
 息を整えて、舞台に出る。その瞬間には、たった今まで疾走していたということを観客に一切悟られないような、端正な静寂の中にいなければならない。そうでなければ、「変化の魔法」が完成しない。舞台に出た時には、もうすでにその役になっている。いわば、人形振りのように。この点の完成度において、海老蔵の「伊達の十役」は水際立っていた。
 早替わりの楽しみは序幕と二幕目でたっぷりと味わえる。海老蔵は、まさに躍動するアスリートとなる。
 三幕目、足利家奥殿の場は、打ってかわって、じっくりと見せる芝居。主君を守るため、あえてわが子を犠牲にする。なぶり殺しにされるのを、じっと耐える。
 人々が去る。ひと目をはばかる必要がなくなる。いよいよわが子の亡きがらと二人きりとなると抑えていたものが込み上げる。
 悲しみを政岡が語る段になると、「待ってました」と客席から声がかかった。
 声をかけたのはよほどの見巧者と思われた。政岡の語りは、まさに見所。聞き所。役者の身体が、一つの楽器になるのである。
 海老蔵はまさに「政岡」だった。わが子の亡きがらをかき抱き、身体を激しく震わせて泣く。声の調子。顔の表情。手足の仕草。すべては高度に調整され、しかもどこかでその融和を破らなければ、見る者の心を動かすことはできない。何かが堰を切るということ。海老蔵の中の情念が、時を超え、政岡に乗り移ってあふれ出す。
 歌舞伎の奇跡。歌舞伎の祝福。全身全霊を込めて打ち込まなければ、それは起こすことができない。
 政岡と並んでやはり特筆すべきは、仁木弾正であろう。お家の乗っ取りを狙う、悪の化身。海老蔵の仁木弾正には、凄まじいまでの悪の美しさがある。黒澤明監督の『用心棒』における、仲代達矢の演技にも通じる。見る者の魂をひんやりとさせる生命の特異点。怖ろしい。それでいて、刺すような美しさがあって目を離せない。
 集中と帰依。美と旋律。人間の中には、これほどのダイナミックレンジがある。あふれるばかりの魅力が詰まった『伊達の十役』。海老蔵が、「歌舞伎の奇跡」を通して、人間の奥の活き活きとした中心をもう一度教えてくれる。

 
新橋演舞場 初春花形歌舞伎 『伊達の十役』
2010年1月2日初日から、1月26日千秋楽まで。

Ken Mogi 2010. Qualia Review #1

3月 4, 2010 at 08:02 午前 |