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2015/01/18

 小林秀雄を学ぶ塾 参加者募集

小林秀雄さんの担当編集者を長年つとめられ、生前の小林秀雄さんを深く知る立場にある池田雅延さん(元、新潮社編集者)を「塾頭」とし、小林秀雄さんの著作を読み、その思想に触れ、困難な現代を生きる糧とすることを目指す「池田塾」は、2012年に発足し、三年間、学びを重ねてきました。

このたび、第四期の参加者(若干名)を募集いたします。 

 毎回の会合に、私、茂木健一郎も「塾頭補佐」として同席いたします。

 会合は月に一回、ほぼ週末、東京近郊の小林秀雄さんゆかりの場所で行います。午前11時〜午後1時くらいまで会合を開き、その後懇親の場を設けます。小林秀雄さんのテクストを入手することや、現地までの交通費を除き、参加者の負担や義務は一切ありません。

 会合の性質上、また会場のスペースなどから、お受けすることができる参加者数が限られるため、やむを得
ず選抜させていただきます。以下の事項を記した自己紹介の書類ファイルを、池田塾事務局yamanoue.ikeda.lab@gmail.comまでメールにてお送りください。細かい形式は一切ありません。締め切りは2015年2月10日(火)午後10時です。

塾生にお迎えする方には、2015年3月10日(火)までにお伝えいたします。

選抜は、塾頭の池田雅延さんと塾頭補佐の茂木健一郎が共同で行います。

(1)小林秀雄のどんな点に関心があるのか、お書きください。
(2)世の中の森羅万象、さまざまなジャンル、現代の問題など、小林秀雄以外で関心があることについてお書きください。
(2)御自身のバックグランドをお書きください。どのようなことに関心を持ってきたのか、取り組んできたのか、何に情熱を向けてきたのか、これから何をしようとしているのか、通常の履歴書のような形式でなくてもいいのですが、どんな方かがわかると助かります。
(4)御自身のお人柄がわかる、スナップ写真や作品などを添付してくださってもかまいません。
(5)twitterのアカウント、facebookのアカウントや、ブログなど、御自身のオンラインでの活動、発言内容がわかるような情報があったら添えてください。
(6)こちらから連絡できるように、メールアドレス等の情報をお願いします。地方在住の方もいらっしゃるかもしれないので、住所までは必要はありませんが、どのエリアにお住まいかお記しください。

重要! 応募書類をお送りいただく際、メールのsubject(題名)には、「池田塾入塾志望書」とお書きください。そうでないと、見逃してしまう可能性があります。

今回残念ながら会場スペースの都合で塾生に選ばせていただけなかった方も、何らかのご縁と思い、大切にしていきたいと思います。

みなさんのご応募をお待ちしております。

2015年1月18日 茂木健一郎 (池田雅延塾頭の補佐)

1月 18, 2015 at 07:29 午前 |

2015/01/14

思いやる言葉こそ、人は、心を込めて発するべきなのだろう

収録で、ある台詞がどうしても言えず、なんども言い直しても、うまくできない。
 スタッフを待たせているし、時間が経つし、どうしよう、と困り果てていた。

 追い詰められ、進退窮まった、そんな感情が、胸にわき上がっていた。

 そうしたら、監督が、「これ、言いにくい台詞ですよね。茂木さんの内面と合わない。言葉を変えましょう」と言ってくださって、それで、一気に気持ちがラクになった。
 今の監督の言葉で、逆に、もとのままの台詞でも言えそうだな、と思ったところで、目が覚めた。

 悪夢から覚めたときの、「現実ではなかった」というほっとした気持ちは、春の雪解けのようである。

 ぼんやりと考えた。
 何か行動しようとしても、無意識のうちに無理をしていて、そのせいでうまくいかないことがある。
 自分では気付かない障害があるのだ。
 そのことを、今の夢は象徴している。
 このところ、現実の生活の中で、何か、無理をしていたのかしら。

 それから、考えた。夢の中で、監督が言った言葉は、本質を理解した、やさしさに満ちていた。
 いつか誰かがどこかで発した言葉が、私の中で残っていて、熟して、今朝の夢の果実になったのだろう。

 言葉は、風船のように、あちらこちらに飛んでいって、思わぬ時に枯れ葉の下から姿を現す。

 いつどこで誰かの夢の中でよみがえるのかわからないのだから、あるいは、それまで、どれだけ長い時間を無意識の海で泳ぐことになるかわからないのだから、思いやる言葉こそ、人は、心を込めて発するべきなのだろう。

1月 14, 2015 at 07:17 午前 |

2015/01/06

カーテンが風にゆれて

新年、五日。
 日差しの温かい、よく晴れた日。
 鳩山会館への坂を上るのは、ちょっとした苦労だ。
 建物の中に入ると、鳩山由紀夫さんが、すでにいらしていて、にこにこと笑っていらした。

 あまりにも天気が良いので、思わず、庭に出た。
 鳩山一郎さんの銅像がある。
 ちょっと、まぶしい感じで、目を細めて見ていると、鳩山由紀夫さんも、庭に出ていらした。
 しばらく、お話する。

 建物の中に戻ると、いつの間にか、他にも、数人、人がいらしていて、鳩山さんと歓談し始めた。
 私は、隅っこの椅子に座って、ぼんやりとしている。
 鳩山さんが、かかっている絵を指して、話し始めた。
 「あそこ、へこんでいるでしょう。私が硬球を投げて、ガラスを割って、あの絵にぶつけてしまったのです。」

 しばらく経ってから、鳩山さんに聞いてみた。
 「鳩山さん、この家に、何歳くらいから住んでいらしたのでしたか。」
「小学校2年生からですね。」
「何年くらいいらしたのですか?」
「大学を出て、留学するまでです。」
「小学校は、どこにいらしていたのですか?」
「学習院ですね。」
「車での送り迎えですか?」
「いえいえ。当時は、都電が前を走っていたので。」
「じゃあ、あの坂を、毎日上り下りしたのですね。」
「はい。」
「大学へは、ここから、歩こうと思えば歩けますね。」
「今考えると、そうだなあ。」

「新春放談」の収録が終わって、みんなでお弁当を食べるということになった。
大きなテーブルがあって、外が見える側の席をどうぞ、とおすすめしようとしたら、鳩山さんは、さっさと窓を背にする席に座ってしまった。
「ここが、私の指定席だったのです。となりに、鳩山一郎がいつも座っていて。」
「お父さまも座っていらしたんじゃないですか」と誰かが聞くと、鳩山さんは、
「父と夕飯を食べることは、ほとんどありませんでした。いそがしい人で、いっしょに夕飯を食べたのは、年に一二回だったんじゃないかな」とおっしゃった。

辞するときになって、坂道をぐるりと下りながら、思った。
この木、あの木を、小学生の鳩山由紀夫さんは毎日眺めながら通学していたのだな。

一人ひとりの脳裏には、それぞれの「物語」があって、ごくたまに、カーテンが風にゆれてその一部がかいまみえる。

音羽の通りは、多くの人や車が行き交っていて、私は急ぎ足で江戸川橋の方向へと抜けていった。

1月 6, 2015 at 07:43 午前 |