周囲に、論理哲学論考に興味を持つ人が一人もいない状態でものを考えること
新神戸の駅から、神戸大学まで歩いて行った。
グーグルマップの予想は、一時間とちょっと。
郡司ペギオ幸夫がいたころは、しょっちゅう、神戸大学に行った。タクシーだと、あっという間に着いてしまう。
日差しが暖かい日。ぽかぽか、てくてくと歩いていくと、次第にのびやかな気持ちになってくる。
歩くと、思わぬ発見がある。途中に、パンダがいる動物園があるなんて知らなかったし、横尾忠則さんの美術館もあった。
店がある。レストランがある。人々の生活の息吹きがあり、兆しがある。
途中から、左に折れたら、山登りみたいになった。なだらかに上って、それでもまだ上って、曲がって、郡司のいた理学部からさらに坂を上って、右の細い道を降りていったら、そこが工学部だった。
会場は、そこからさらに上がって。経済学部は、神戸大の発祥だという。きれいな建物が並んだ、素敵なキャンパスだった。
脳、イノベーション、人工知能について話して、学生さんたちと懇談して、帰るときに、ああ、楽しかったなあという感想と、もう一つ、別の気づきがあった。
どうやら、私は、一人も好きらしい。
マラソンも、みんなで走るのも好きだけど、ひとりで街を走るのは、もっと好きだ。
大学のような場所も、周囲の人が、自分と同じような興味や志向性を持っているのも好きだけど、周りに、誰もそんなことを考えている人がいないところで、ものを考えるのはさらに好きだ。
大学院の時や、学会に参加している時に感じる/感じていた「違和感」の根底に、周りに自分と同じような志向性を持っている人だけが集まっているという「息苦しさ」があった/あるのだなあと、山を下りながら気づいた。
時折、山の中に籠もったり、森の中をさまよったりして仕事をする人がいる。
周囲に、論理哲学論考に興味を持つ人が一人もいない状態でものを考えることは、実際、ひんやりとして気持ちが良いに違いない。
12月 9, 2014 at 06:27 午前 | Permalink
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