優雅さから、アホな私への転落
日本友愛協会の、60周年の式典にお招きいただいた。先日亡くなった鳩山安子さんの御遺影が飾られ、鳩山由紀夫、鳩山邦夫、井上和子さんが挨拶に立たれた。
鳩山会館には、優雅な空気が流れていた。
太陽が輝き、薔薇が咲き乱れ、空は青かった。
協会の、上品にして情熱に満ちた方々が、庭園を散策しながら、ゆったりと語り合っていた。
式典が終わって、朝日出版の仁藤輝夫さんがいらして、「友愛」に関する本の出版の打ち合わせを、鳩山由紀夫さんとしていたら、井上和子さんが入っていらした。
ぼくが持参した、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの「自由と人生」の原書を、「ほら、こんなものが」と由起夫さんが和子さんに見せていらっしゃる。
鳩山さんたちは、この家で育ったのである。由紀夫さんにお伺いすると、大学を出て、米国に留学するまで、ここで過ごしたのだという。井上和子さんが、「ほとんど変わっていません」とおっしゃる。
日本を代表する名家、鳩山家に流れる、優雅な時間。60周年を迎えた日本友愛協会の会合も、この鳩山家で行われてきたのだという。まさに、歴史を刻んだ空間に、私はいた。
ただ、この日記の読者ならばわかるように、優雅なままでは終わらないのである。優雅さから、アホな私への転落が、まるでお約束のように、待っていたのだ。
大阪に行かれるというので、鳩山由紀夫さんが出発されたあと、私と井上和子さん、そして仁藤輝夫さんが話をしていた。井上和子さんは、本当に上品な方で、お話にぴんと一本、筋が通っていらっしゃる。
そうだ、ぼくは60周年というので、ジャケットにネクタイだったけど、着替えてこよう、というので、トイレに立った。いつもの、Tシャツとイッセイミヤケの薄手の黒いセーターに着替えると、なんだかほっとした。
そして、ぼくは、いかにも優雅に、井上和子さんと仁藤輝夫さんがいるところに戻ったのである。(このあたり、モーツァルトが流れている感じ?)
ところが、そのとき、異変が起こった。腹部に、突然、膨満感が生じたのである。それは、明らかに、おならの兆候であった(この日記を読んでいらっしゃる方は、すでにおなじみの光景ですね)。
しかも、そのおならは、私の今までの経験から言えば、もし放出されたならば、かなりの音響と、臭気が出るんじゃないか、みたいな気配があった。
これは困った。鳩山家の優雅な空気の中で、それはマズイ。おそらく、トイレに行って出した方がいい。ところが、ぼくは、たった今、着替えのためにトイレにいったばかりなのだ。
仁藤さんや、井上和子さんが座っている、鳩山家の優雅な居間から、私がいった男子トイレの距離は近く、もしまたトイレに行ったら、「あら、茂木さんまたトイレいっているわ」(井上安子さん)「ぷぷぷ。茂木さん、またトイレいってるし」(仁藤輝夫さん)という反応が起こることは、目に見えていた。
さて、どうするか。どうごまかすか。ぼくは、まず、「あああ」と思い切りのびをするふりをした。それから、「あれえ?」みたいな感じで、携帯を取り出して、わざとらしく見た。それから、「あっ、そうそう」みたいな感じで、鳩山家の居間を横切って、あとは、ものすごく素早く、トイレへと入って事なきを得た。
井上和子さん、仁藤輝夫さんが、そんな私の動きをどうとらえたのか、知らない。知りたくない。「あっ、茂木さん、電話しに行った」と思ったかな。しかし、電話するにしても、なぜ、トイレの中へ?
事態を収拾させ、何食わぬ顔で居間に戻った。井上和子さんも仁藤さんも立ち上がって、外の景色を見ていた。そうだ、世界は広いよ。太陽だって、輝いているじゃないか。ぼくは、なんだか、心の底からほっとした。
5月 20, 2013 at 08:04 午前 | Permalink
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