今年のアカデミー賞における『アルゴ』作品賞発表の演出について
(今朝の連続ツイートの記事を、まとめて、補足いたしました。)
日本にいる時に、朝日新聞の「アカデミー賞「アルゴ」 異例の大統領夫人発表に批判も」という記事を読んだ。なんとはなしに「おやっ」と思ったんだけど、その違和感がどこに由来するのか、自分でも突き止められないまま飛行機に乗った。
記事は、アメリカのCIAを中心とする、人質救出作戦を描いた『アルゴ』が作品賞を得るに当たって、アメリカ大統領夫人がホワイトハウスからアナウンスして、いわば「国家」を上げてこの作品をエンドースしている、みたいなトーンで書かれている。記事自体はエッジが立った、印象に残るものではあった。
それで、飛行機に乗って、ロサンジェルス国際空港について、タクシーに乗って、ロングビーチに着いて、ルームサービスでソーセージエッグを頼んでコーヒーで流し込んで(ここの表現、アメリカ的ね!)、回復のための一眠りをして、今起きて、何故朝日の記事に違和感を覚えたのか、わかった。
昨年の今頃、私はロングビーチに一日早く来ていた。去年はTEDのメインステージで話すことになっていたから、意外と必死で、それでも、米国時間日曜に生放送されるアカデミー賞はやっぱり見たくて、スピーチの準備をひととき休めて、ABCかNBCの中継を見ていたのである。
それで、その時初めて知って、感動したから確かツイッターか何かに書いたと思うのだけれども、アカデミー賞は、純粋に会員の投票のみにて決まり(一人一票。民主主義の国だね。)、その結果は、プレゼンターが封筒を開けるまで、集計を担当する調査会社の人しか知らないらしい。
封筒を開けて発表するプレゼンターも知らないし、式典の演出担当の人も知らない。もちろん、ショートリストに載っている人も知らない。賞の命は、選考過程にある。有力者があうんの呼吸やなれ合いで決めてしまうような賞も、どこかの国にはあるけど、それとはアカデミー賞は違う。
アカデミー会員のガチの投票結果が、封筒が開けられるまで「秘密」だからこそ、賞の価値も権威もある。その理解で言うと、最も注目される「作品賞」を発表するのがミシェル・オバマさんだとしても、彼女は、(そしてその演出を担当した人も)、結果がどうなるか知らなかったはずである。
もちろん、下馬評で『アルゴ』が有力で、それをホワイトハウスから発表すれば絵になるな、くらいな演出意図はあったかもしれない。しかし、お互いに連絡を取り合うわけではない数千人のアカデミー会員の投票結果を完全に予想することなど不可能なはずである。受賞が、他の作品になる可能性も大いにあった。
実際、映画通の人たちからは、むしろ『リンカーン』の方が、ミシェル・オバマさんが発表するという演出意図としては筋が通っていたのではないか、という声が上がった。確かに、アメリカ大統領の偉大なる伝統、という視点から見れば、『リンカーン』が作品賞で、それをオバマ大統領夫人が発表する、という「絵」は、ぴったりとはまるようにも思われる。
それにしても不思議だな、と思って、当該朝日新聞の記事を読み直すと、「批判の声が上がった」と言っても、下で見るように、ツイッターなどをソースとしている。アメリカのメディア関係者の認識としても、オバマ夫人が『アルゴ』の発表をしたのはたまたまはまっただけのことだと思うのだが、違うのかしら。
実際、アメリカに来てから、いくつかの新聞の記事を読んでみたけれども、『アルゴ』作品賞を、ホワイトハウスからオバマ夫人が発表したことについて、朝日新聞の記事のような角度から論じたものを見つけることができなかった。(もしあったら、どなたかご指摘下さい)
ここで、デジタル会員以外は見ることができないようだけれども、当該記事の一部を、(著作権法上のフェアユースの範囲内で)引用する。
「….第85回米アカデミー賞授賞式で、イランの米大使館占拠事件での人質救出の舞台裏を米国の視点で描いた「アルゴ」が作品賞に輝いた。ミシェル・オバマ米大統領夫人がホワイトハウスから中継で発表する異例の演出に、米国内でも「国が前面に出すぎでは」と疑問視する声が上がっている。…会場の大画面に映ったミシェル夫人は軍の礼服姿の若者に囲まれ、受賞作を笑顔で読み上げた。ツイッター上では「文化と国家の分離はどうなってるの? なぜ軍人に囲まれているのか」「オスカーが台無しだ」などの声が相次いだ。」
(記事全文は、朝日新聞のデジタル会員登録をして、お読み下さい)
この記事からそこはかとなく漂う「陰謀史観」は、おそらく現実からはかなりかけ離れているのではないかと、私は推察する。どうも、朝日新聞の「アカデミー賞「アルゴ」 異例の大統領夫人発表に批判も」という今回の記事は、実際に談合や事前の根回しで賞や演出が決まる傾向のある、日本の「認知モデル」をアカデミー賞に当てはめたゆえの実質的「誤報」だとも思えてくる。
実際はどうなのか、詳しい方、検証ください。
このような角度のある記事を、記者の方が書くということ自体は、「あり」だと思う。実際、平板なアカデミー賞の記事よりも、よほど印象に残ったから、このような文章を書いている。しかし、この記事の趣旨が物事の本質を的確にとらえたものであったかどうかについては、私は、以上のような理由で、大いに疑問だと考える。
一つ思うのは、もし、この記事が英文で書かれていたら、ソッコーで、「受賞作は、封筒を開けるまではわからないはずだ」とか、いろいろな方面から突っ込みが来ていたはず、ということ。日本(そして日本のメディア)が言語的に閉じていることの問題点を、改めて考えされられた。
2月 26, 2013 at 02:18 午後 | Permalink
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