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2013/02/26

今年のアカデミー賞における『アルゴ』作品賞発表の演出について

(今朝の連続ツイートの記事を、まとめて、補足いたしました。)

 日本にいる時に、朝日新聞の「アカデミー賞「アルゴ」 異例の大統領夫人発表に批判も」という記事を読んだ。なんとはなしに「おやっ」と思ったんだけど、その違和感がどこに由来するのか、自分でも突き止められないまま飛行機に乗った。

記事は、アメリカのCIAを中心とする、人質救出作戦を描いた『アルゴ』が作品賞を得るに当たって、アメリカ大統領夫人がホワイトハウスからアナウンスして、いわば「国家」を上げてこの作品をエンドースしている、みたいなトーンで書かれている。記事自体はエッジが立った、印象に残るものではあった。

それで、飛行機に乗って、ロサンジェルス国際空港について、タクシーに乗って、ロングビーチに着いて、ルームサービスでソーセージエッグを頼んでコーヒーで流し込んで(ここの表現、アメリカ的ね!)、回復のための一眠りをして、今起きて、何故朝日の記事に違和感を覚えたのか、わかった。

昨年の今頃、私はロングビーチに一日早く来ていた。去年はTEDのメインステージで話すことになっていたから、意外と必死で、それでも、米国時間日曜に生放送されるアカデミー賞はやっぱり見たくて、スピーチの準備をひととき休めて、ABCかNBCの中継を見ていたのである。

それで、その時初めて知って、感動したから確かツイッターか何かに書いたと思うのだけれども、アカデミー賞は、純粋に会員の投票のみにて決まり(一人一票。民主主義の国だね。)、その結果は、プレゼンターが封筒を開けるまで、集計を担当する調査会社の人しか知らないらしい。

封筒を開けて発表するプレゼンターも知らないし、式典の演出担当の人も知らない。もちろん、ショートリストに載っている人も知らない。賞の命は、選考過程にある。有力者があうんの呼吸やなれ合いで決めてしまうような賞も、どこかの国にはあるけど、それとはアカデミー賞は違う。
アカデミー会員のガチの投票結果が、封筒が開けられるまで「秘密」だからこそ、賞の価値も権威もある。その理解で言うと、最も注目される「作品賞」を発表するのがミシェル・オバマさんだとしても、彼女は、(そしてその演出を担当した人も)、結果がどうなるか知らなかったはずである。

もちろん、下馬評で『アルゴ』が有力で、それをホワイトハウスから発表すれば絵になるな、くらいな演出意図はあったかもしれない。しかし、お互いに連絡を取り合うわけではない数千人のアカデミー会員の投票結果を完全に予想することなど不可能なはずである。受賞が、他の作品になる可能性も大いにあった。

 実際、映画通の人たちからは、むしろ『リンカーン』の方が、ミシェル・オバマさんが発表するという演出意図としては筋が通っていたのではないか、という声が上がった。確かに、アメリカ大統領の偉大なる伝統、という視点から見れば、『リンカーン』が作品賞で、それをオバマ大統領夫人が発表する、という「絵」は、ぴったりとはまるようにも思われる。

 それにしても不思議だな、と思って、当該朝日新聞の記事を読み直すと、「批判の声が上がった」と言っても、下で見るように、ツイッターなどをソースとしている。アメリカのメディア関係者の認識としても、オバマ夫人が『アルゴ』の発表をしたのはたまたまはまっただけのことだと思うのだが、違うのかしら。

実際、アメリカに来てから、いくつかの新聞の記事を読んでみたけれども、『アルゴ』作品賞を、ホワイトハウスからオバマ夫人が発表したことについて、朝日新聞の記事のような角度から論じたものを見つけることができなかった。(もしあったら、どなたかご指摘下さい)

ここで、デジタル会員以外は見ることができないようだけれども、当該記事の一部を、(著作権法上のフェアユースの範囲内で)引用する。

「….第85回米アカデミー賞授賞式で、イランの米大使館占拠事件での人質救出の舞台裏を米国の視点で描いた「アルゴ」が作品賞に輝いた。ミシェル・オバマ米大統領夫人がホワイトハウスから中継で発表する異例の演出に、米国内でも「国が前面に出すぎでは」と疑問視する声が上がっている。…会場の大画面に映ったミシェル夫人は軍の礼服姿の若者に囲まれ、受賞作を笑顔で読み上げた。ツイッター上では「文化と国家の分離はどうなってるの? なぜ軍人に囲まれているのか」「オスカーが台無しだ」などの声が相次いだ。」

(記事全文は、朝日新聞のデジタル会員登録をして、お読み下さい)

この記事からそこはかとなく漂う「陰謀史観」は、おそらく現実からはかなりかけ離れているのではないかと、私は推察する。どうも、朝日新聞の「アカデミー賞「アルゴ」 異例の大統領夫人発表に批判も」という今回の記事は、実際に談合や事前の根回しで賞や演出が決まる傾向のある、日本の「認知モデル」をアカデミー賞に当てはめたゆえの実質的「誤報」だとも思えてくる。

実際はどうなのか、詳しい方、検証ください。

このような角度のある記事を、記者の方が書くということ自体は、「あり」だと思う。実際、平板なアカデミー賞の記事よりも、よほど印象に残ったから、このような文章を書いている。しかし、この記事の趣旨が物事の本質を的確にとらえたものであったかどうかについては、私は、以上のような理由で、大いに疑問だと考える。

一つ思うのは、もし、この記事が英文で書かれていたら、ソッコーで、「受賞作は、封筒を開けるまではわからないはずだ」とか、いろいろな方面から突っ込みが来ていたはず、ということ。日本(そして日本のメディア)が言語的に閉じていることの問題点を、改めて考えされられた。

2月 26, 2013 at 02:18 午後 |

2013/02/21

MENSAのこと

JAPAN MENSAのことを、昨日テレビでやったみたいで、それで、私も会員だ、みたいなことを言ってたみたいで、メールで問い合わせてきた人がいた。

MENSAというのは、「IQが高い」ということを、唯一の会員資格としている組織で、それだけ聞くとなんだかイヤミな組織のようだけれども、まあ、ちょっと読んで見てください。

私がMENSAのことを知ったのは、高校の時。定期購読していた「リーダーズ・ダイジェスト日本版」(今はない)で、確か、IQ130以上(全人口の上位2%)を唯一の会員資格としている、とか書いてあった。

それで、なぜぼくが「じゃあ、受けてみようかな」と思ったのかと言うと、会の説明に、「会員の職業はさまざまです。医者や弁護士、大学教授もいますが、ダンサーやウエイトレス、トラックの運転手もいます」みたいなことが書いてあって(いかにも、原文が英語で、訳している、という感じだよね)、「あっ、それじゃあ、面白いから試験受けてみようかな」と思ったのである。

これを読むと、「ダンサーやウエイトレス」というところに反応したんじゃないか、と思うかもしれないし、実際そういうところもあったかもしれないけど(なにしろ高校生の男の子だからね)、とにかく、難しい言葉で言えば「多様性」がありそうだ、と思って、試験を受けてみた。

そしたら、会場で、係員の人が、「名前と、所属を書いてくださいね、所属には、たとえば、東京大学とか」とか言っているのを聞いて、「あれ、それじゃあ、ぼくが思っていたとの違う」と感じた記憶がある。そういんじゃ要らない、みたいな。まだ、高校生だったわけだけど。

それで、試験を受けて、受かって、会員になったのだけれども、忙しくて(また面倒くさがり屋で)あまり会に行かず、そのまま幽霊になった。

ところが、30年以上の時を経て、JAPAN MENSAの会長さんが、昔の記録を調べていたらしく、突然メールをくださって、「茂木さんの会員資格はまだ有効です!」と言うので、じゃあ、一度行ってみよう、と思って名古屋の会にお邪魔してお話したのである。

ご親切に探し出して下さった会長さん、ありがとう!

その時の印象を言えば、やはり変人奇人の集まりというか、仕事もいろいろな人がいて、まさに多様であり、会に行けばかなり楽しいんじゃないかと思う。もし興味がある人は、試験受けてみたらどうでしょう。

ちなみに、IQというのは最近の研究によれば変動するし、知性を表す一部の指標に過ぎないから、受かっても受からなくても、あまり気にしなくていいと思います。

IQの試験の練習すれば、それなりにスコア上がると思うしね。


Japan Mensaのウェブページ

http://www.japanmensa.jp/

2月 21, 2013 at 07:43 午前 |

2013/02/20

ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチから、ジョブズが歩いた切実な理由。

日本人にとって、英語を空気のように感じる環境が不可欠だと信じて、毎日、こんなメルマガを発行しています。

樹下の微睡み 英語塾 第78回 ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチから、ジョブズが歩いた切実な理由。

 偶数回の講座では、さまざまな英文を読んでいます。引き続き、アップルの創業者で、2011年に亡くなった、スティーヴ・ジョブズさんに関する英文をとりあげましょう。

 今回は、ジョブズさんのスタンフォード大学でのスピーチから、「歩く」ということについて考えさせる部分を取り出します。

 2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式でのスティーヴ・ジョブズ氏のスピーチは、今や古典、伝説の仲間入りをしています。
 全編、ぐっとくるんですよね。人生の重みが、かかっています。

それでは、今回の英文です。

It wasn't all romantic. I didn't have a dorm room, so I slept on the floor in friends' rooms, I returned coke bottles for the 5¢ deposits to buy food with, and I would walk the 7 miles across town every Sunday night to get one good meal a week at the Hare Krishna temple. I loved it. And much of what I stumbled into by following my curiosity and intuition turned out to be priceless later on.

それでは、日本語で、だいたいの意味を見ていきましょう。

それは、ロマンティックというわけではなかった。(It wasn't all romantic.)私は、寄宿舎の部屋を持たなかった( I didn't have a dorm room,)だから、友だちの部屋の床で寝た。( so I slept on the floor in friends' rooms, )私は、コカコーラの瓶を店に返して、五セントのデポジット代をもらい、それを集めて食べ物を買った。(I returned coke bottles for the 5¢ deposits to buy food with, )毎週日曜の夜には、町を横切って、7マイル歩き、(and I would walk the 7 miles across town every Sunday night)ハレークリシュナの寺院で供される(無料の)まともな食事にありついた。( to get one good meal a week at the Hare Krishna temple. )でも、そんな生活が好きだった。(I loved it.) そして、その頃、私が好奇心と直感のままに出会った多くのものが、後に、かけがえのないものだとわかった。(And much of what I stumbled into by following my curiosity and intuition turned out to be priceless later on. )

 いかがですか?

 前回、歩くことの効用として、アイドリングすることによって、脳の中のデフォルト・ネットワークが活動して、情報が整理され、創造や創発に結びつくのだと述べました。

 学生時代のジョブズは、しかし、それが脳にいいから歩いていたわけではありません。町の端から端へ、7マイル(約11キロ!)歩いて、無料の食事にありつくために歩いていたのです。

 もともと、人間が歩くということは、そのような切実な思いからなのかもしれません。飲み水を汲むために、一日何キロも歩かなければならない場所が、世界にはまだまだあります。現代の私たちは、歩くということをまるで「ついでに」やること、オプショナルな行為だと思いがちですが、本当は、切実なことなのですよね。

 そんな原点を思い起こさせてくれるジョブズのスピーチ。英語の醍醐味がそこにはあります。

 いやあ、英語って、本当に深いですね。ではまた!

 英語の学習に関するご質問、この講座でご紹介した文章に対する感想等を、随時受け付けています。メールの題名を「樹下の微睡み英語塾」として、茂木健一郎のメールアドレス kenmogi@qualia-manifesto.comまでお送りください。ご質問の文章と、それに対する回答は、メールマガジンで適宜ご紹介させていただきます。メルマガ内でご紹介してもよい本名/ハンドル名をメール内に明記ください!

2月 20, 2013 at 09:21 午前 |

2013/02/18

ベンチャーキャピタルとは何か

日本ではベンチャーが少ない、育たないという。ならば制度、システムを変えよう。

時々、講演などで、「ベンチャーキャピタルの本質は、なんだと思いますか?」と聴衆に聞く。なかなか答えが返ってこない。そこで、私が、「正解は、会社が失敗しても返さなくていい金です」と言うと、みんなどっと笑う。

笑うということは、つまり、そこに不安や恐怖があるということだ(笑いの進化的説明。)

シリコンバレーの人に聞いた話。ある大学教授が、三回ベンチャーの会社をつくって、失敗してつぶれた。そして、三回とも、住んでいる家が大きくなった。

日本だと笑い話(むしろおとぎ話?)になるが、そこに本質がある。

大学教授は、専門性(expertise)を提供した。それに対して、資金と報酬が提供された。そのリスクは、貸した側が追う。しかし、もし会社が成功してIPOでもすれば、莫大な利益となる。

貸し借りがいい意味でドライにならなくてはならない。日本のように、不動産や連帯保証人の担保をとって貸すんだったら、貸す側はリスクも負わないし、そもそも相手の将来性を査定する能力も育たない。連帯保証人の問題に限らず、日本の社会全体に蔓延する風土病であろう。そして、その誤解を、よくわからない理屈で正当化する人も多い。経営者の善し悪しは能力の問題であって、市場で評価されるべきこと。個人資産を担保に入れるのが「筋」だなどと、倫理の問題と混同されるべきではないのだ。

2月 18, 2013 at 11:13 午前 |

連帯保証人の制度について

毎日新聞が、次のようなニュースを報じている。

銀行や貸金業者が中小企業などに融資する際に求めてきた個人保証について、法制審議会(法相の諮問機関)が原則として認めないとする民法改正案を本格的に検討することが分かった。

http://mainichi.jp/select/news/20130218k0000m010107000c.html

 この動きを歓迎する。同時に、これでも十分ではないと考える。

 まず、同記事中にある「経営者本人が会社の債務を保証する「経営者保証」は例外として認める案が検討されている。」という点。

 経営者本人でも、その私的生活と、会社の運営に供される資金は、性質が違う。両者は混同されるべきではない。

 会社の経営が破綻しても、個人資産にその累が直ちに及ぶべきではない。もちろん、経営者が、自主的に個人資産で弁済することもあるだろう。しかし、それを法的義務とすべきではない。

 また、「住宅ローンやアパートの賃貸借契約、奨学金の借り入れなどで求められている個人保証は今後も認め」という点。私は、このような分野でも、連帯保証は原則として禁止すべきだと考える。

 アパートの賃貸借契約において、連帯保証人を求めることは、制度設計として間違っている。外国から日本に留学、就業で来た人など、非典型的な人が排除される。また、日本人でも、親族と非典型的な関係にある人もいる。結果として、連帯保証の強要は、社会の流動性を低下させ、多様性を奪い、経済発展の条件を劣化させる。

 連帯保証制度を廃すると、貸し手のリスクが増すという。その通りである。そして、そのリスクは、貸し手が追うべきである。保険制度などの利用によって、連帯保証以外の方法で、リスクを分散させるべきである。その結果、利率や家賃が結果として上がるかもしれない。その方がいい。連帯保証というかたちで、リスクが社会から見えない個人的な領域に閉じ込められるよりは、ネットワークに晒され、市場原理の下でヘッジされる方が良い。

 諸外国の状況については、敢えて言及しない。一つ確実なことは、連帯保証制度は、円滑な経済、社会の運営に、不可欠でも好適でもないということである。むしろそれは、日本の後進性の象徴であろう。

2月 18, 2013 at 09:56 午前 |

2013/02/17

「表現の洗練」と「翻訳可能性」(芥川賞受賞作、黒田夏子『abさんご』に触発されて)

 この度、芥川龍之介賞を受けられた黒田夏子さんの『abさんご』を、月刊文藝春秋で読んだ。

 横書きで、ひらがなを多用したこの小説は、すでに報じられているように、非常に洗練されており、また、言葉のクオリアの織りなす世界として、広がりを持っている。芥川賞を受けるにふさわしいだろう。

 賞の命は、その選考で決まる。今回のような作品を選ぶことで、芥川賞は、商業主義とイコールではない矜持を示していると言える。しかし、その姿勢が逆に話題を呼び、黒田さんの小説も売れるのだから、賞の設立者の菊池寛の言う「興業」としても、奥が深い。

 
 黒田夏子さん、そしてそれを選んだ選考委員の方々、賞を運営している日本文学振興会(その母体である文藝春秋)は、以上のような意味でgood job!である。

 さて、『abさんご』を読みながら、私は考えていたことが一つあった。

 私はカフカの『審判』や『城』が好きだが、これらの小説を原語であるドイツ語で読んでいるわけではない。ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を、ロシア語で読んでいるわけではない。それでも、これらの小説の本質は、伝わって来ているのだと思う(そう信じたい)。『老人と海』を小学校の時に日本語訳で読んだとき、感動した。高校になって、ペーパーバックで読んだが、英語の表現に感激しつつも、本質は11歳の時につかんでいたように思う(それは幻想であるかもしれないが)。

 「世界文学」という言葉があるが、前提になっているのは、文学の本質は、(かろうじて)翻訳可能だということだろう。夏目漱石の語彙は、周知の通り流麗だが、しかしその小説(たとえば『三四郎』)を、英語で読むと、かえってその小説の醍醐味が見えてくるように感じたこともあった。小林秀雄の言う、正宗白鳥が『源氏物語』の神髄にウェイリーの英訳で目覚めた、というエピソードが面白いのは、そこに文学の何らかの本質があると感じられるからだろう。

 今回、黒田さんの作品は、その洗練された日本語表現で注目されたが、私は読みながら時々、これを例えば英語に訳したらどうなるのだろうと考えた。それから、村上春樹さんのことを考えた。村上さんが、アメリカ文学に親しみ、小説創作を始めたとき、最初に英語で書いたことは有名な話である。

 その村上春樹さんは、ついに芥川賞を受けることがなかった。ノーベル賞の候補にはなっているが。その村上さんの小説の新作が、このほど文藝春秋から発刊されるという。

 私は、イギリス最高の文学賞である、Booker Prizeの受賞作を三つ(The Remains of the Day, Life of Pi, The sense of an ending)読んだことがあるが、どれもストーリー性が豊かで、日本で言えば「直木賞」の領域にも重なるものであった。日本独特の「純文学」の概念がどのように出来て、どのように機能し続けているのかを考えるのもいいだろう。もっとも、芥川賞が果たしていわゆる「純文学」の賞かと言えば、議論をする人もいるに違いない。賞に名前が冠されている芥川龍之介の作品は、どちらかと言えば物語の構造がしっかりしていて、論理性もあり、ハリウッド映画の原作になるような大衆性もある。

 そんなこんなをいろいろ考えていると、文学におけるある言語の固有の表現の洗練と、翻訳可能(であるはず)な一つの小説の文学的本質など、いろいろなことが面白いのだが、今朝はこれくらいにして、『京都サロン』で泊まっていた星のやを出る準備をしなければならない。
 
 いずれにせよ、いい小説との出会いは世界を広げてくれます。『ab さんご』、ありがとう。

2月 17, 2013 at 10:25 午前 |

2013/02/13

毎週水曜日は、クオリアの日。

 毎朝ツイッターアカウント(@kenichiromogi)でお届けしている「連続ツイート」ですが、今朝から、毎週水曜は趣向が変わります。

 先日、根津美術館で国宝の「那智瀧図」を見ていた時、ふと、全く脈絡なく、「そうだ、これから、週一回くらいは、クオリアのことを連続ツイートでとりあげよう」と思ったのです。

 世間にまみれて、あっちにいったり、こっちに行ったりしている私ですが、クオリアの解明がライフワークだという思いは『脳とクオリア』を書いた1997年の当時と同じです。

 もちろん、世間には見えない密かな場所で、その試みは続けているわけですが、連続ツイートという、たくさんの方とつながる場所でも、週に一回くらい、クオリアのことを考えても、ワーク・ライフ・バランスならぬ何らかのバランスが良いのではないかと考えたのです。

 それで、水曜日がいいと思いました。「那智瀧図」を見ていた、ということもあるのかもしれませんが、頭の中で、「日曜日」、「月曜日」、「火曜日」、「水曜日」、「木曜日」、「金曜日」、「土曜日」とそれぞれの曜日のイメージを転がしたとき、「水曜日」が、なんとはなしに一番「クオリアっぽいな」と思ったのです。流れる感じというか。科学的根拠は、何もありませんが。

 旧約聖書によると、神さまは世界の創造を7日目に休まれて、その日を安息日とした、ということになっていますが、私も、週一回くらいは、クオリアのことについてツイートしようと思います。また、その日が「日曜日」や、ユダヤ教でいう「土曜日」ではなく、「水曜日」というのも、おっちょこちょいの私らしいかな、と思っています。

 どうぞ、おつきあいください。

 (毎週水曜日はクオリアの日というのは、原則であり、諸事情で別のことをツイートしたり、ツイートを休む日もありますので、ご容赦ください)

 なお、クオリアのことはよく知らない、という方は、いかの私の著作も、参考にしていただけると、うれしいです。

 『脳とクオリア』(日経サイエンス社)
 『クオリア入門』(筑摩書房。旧『心が脳を感じるとき』(講談社))
 『心を生み出す脳のシステム』(NHKブックス)

2月 13, 2013 at 06:54 午前 |