「表現の洗練」と「翻訳可能性」(芥川賞受賞作、黒田夏子『abさんご』に触発されて)
この度、芥川龍之介賞を受けられた黒田夏子さんの『abさんご』を、月刊文藝春秋で読んだ。
横書きで、ひらがなを多用したこの小説は、すでに報じられているように、非常に洗練されており、また、言葉のクオリアの織りなす世界として、広がりを持っている。芥川賞を受けるにふさわしいだろう。
賞の命は、その選考で決まる。今回のような作品を選ぶことで、芥川賞は、商業主義とイコールではない矜持を示していると言える。しかし、その姿勢が逆に話題を呼び、黒田さんの小説も売れるのだから、賞の設立者の菊池寛の言う「興業」としても、奥が深い。
黒田夏子さん、そしてそれを選んだ選考委員の方々、賞を運営している日本文学振興会(その母体である文藝春秋)は、以上のような意味でgood job!である。
さて、『abさんご』を読みながら、私は考えていたことが一つあった。
私はカフカの『審判』や『城』が好きだが、これらの小説を原語であるドイツ語で読んでいるわけではない。ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を、ロシア語で読んでいるわけではない。それでも、これらの小説の本質は、伝わって来ているのだと思う(そう信じたい)。『老人と海』を小学校の時に日本語訳で読んだとき、感動した。高校になって、ペーパーバックで読んだが、英語の表現に感激しつつも、本質は11歳の時につかんでいたように思う(それは幻想であるかもしれないが)。
「世界文学」という言葉があるが、前提になっているのは、文学の本質は、(かろうじて)翻訳可能だということだろう。夏目漱石の語彙は、周知の通り流麗だが、しかしその小説(たとえば『三四郎』)を、英語で読むと、かえってその小説の醍醐味が見えてくるように感じたこともあった。小林秀雄の言う、正宗白鳥が『源氏物語』の神髄にウェイリーの英訳で目覚めた、というエピソードが面白いのは、そこに文学の何らかの本質があると感じられるからだろう。
今回、黒田さんの作品は、その洗練された日本語表現で注目されたが、私は読みながら時々、これを例えば英語に訳したらどうなるのだろうと考えた。それから、村上春樹さんのことを考えた。村上さんが、アメリカ文学に親しみ、小説創作を始めたとき、最初に英語で書いたことは有名な話である。
その村上春樹さんは、ついに芥川賞を受けることがなかった。ノーベル賞の候補にはなっているが。その村上さんの小説の新作が、このほど文藝春秋から発刊されるという。
私は、イギリス最高の文学賞である、Booker Prizeの受賞作を三つ(The Remains of the Day, Life of Pi, The sense of an ending)読んだことがあるが、どれもストーリー性が豊かで、日本で言えば「直木賞」の領域にも重なるものであった。日本独特の「純文学」の概念がどのように出来て、どのように機能し続けているのかを考えるのもいいだろう。もっとも、芥川賞が果たしていわゆる「純文学」の賞かと言えば、議論をする人もいるに違いない。賞に名前が冠されている芥川龍之介の作品は、どちらかと言えば物語の構造がしっかりしていて、論理性もあり、ハリウッド映画の原作になるような大衆性もある。
そんなこんなをいろいろ考えていると、文学におけるある言語の固有の表現の洗練と、翻訳可能(であるはず)な一つの小説の文学的本質など、いろいろなことが面白いのだが、今朝はこれくらいにして、『京都サロン』で泊まっていた星のやを出る準備をしなければならない。
いずれにせよ、いい小説との出会いは世界を広げてくれます。『ab さんご』、ありがとう。
2月 17, 2013 at 10:25 午前 | Permalink
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