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2012/12/28

東アジア共同体について(2)

東アジア共同体について(1)(http://www.facebook.com/ken.mogi.1/posts/265300016929996)から続く
 
 日本、韓国、中国は、東アジア地域のみでなく、世界全体の繁栄と平和を考える上で、大切な役割を果たす国々である。これらの三カ国を中心とする地域の安定がなければ、私たちの幸せもない。

 ただ、東アジア共同体(East Asian Community)の実現に当たっては、いくつか実現しなければならない課題もある。
 
 東アジア特有の、歴史認識の問題もある。かつて、日本は「大東亜共栄圏」の思想を唱えた。欧米の植民地支配から脱して、アジアで新秩序を形成することを目指したものだった。その評価は、さまざまだが、東アジア共同体の構想を日本が主導で唱えることに対する抵抗感は、アジア諸国だけでなく、日本人自身の中にもある。

 東アジア共同体の構想を現実的なものとするためには、過去の「大東亜共栄圏」という概念の問題点をきちんとふり返って整理し、また、21世紀に東亜アジア共同体を構築することの同時代的な意味を打ち出す必要があるだろう。

 東アジア共同体の本部機能は、どこに置かれるべきだろうか。ヨーロッパ共同体においては、本部機能は、構成国のなかでの大国であるフランスやドイツ、イギリスではなく、ベルギーの首都ブリュッセルに置かれた。このため、「ブリュッセル」が、ヨーロッパ共同体の代名詞にもなっている。

 
 同じ意味で、東アジア共同体の本部機能は、主要国のどこにも偏らない、比較的規模の小さな国に置くのがよいのかもしれない。一方、日本、アジア、韓国からあまりにも遠い場所におくと、利便性が失われる。その意味では、たとえば、台湾に置くというのは一つの考え方である。しかし、台湾には、中国本土との関係で微妙な政治的な問題もある。

 鳩山由紀夫さんは、東アジア共同体の本部を、沖縄に置く、という構想をお持ちのようだ。実現すれば、さまざまなメリットのある考え方だろう。沖縄は、主要国の一つの日本にありながら、歴史的、文化的に周辺地域との交流もあり、東アジアの交流、コミュニティのシンボルとしてふさわしい。

 東アジア共同体における使用言語は、何であるべきだろうか。日本語、韓国語、中国語といった主要言語は当然使えるようにすべきだが、一方で行き過ぎた多言語化は、事務作業の肥大化を招く。「漢字」は伝統的には地域の共通表記として機能してきたが、日本語のひらがなやカタカナ、韓国のハングルのように、各地域独自の表記も根付いている。そして、韓国では、漢字を用いない傾向が強まってきている。

 そこで、東アジア共同体における地域内の比較的多くの人が学んでいる英語使うことが実務的だろう。英語を共同体の言語的基盤とすることは、言語政策に伴う共同体内の主導権争いを領域内の議論を、広く世界に対して拡散できるものにする上で効果的である。アメリカがオブザーバー参加することを考えても、使用言語として英語に基盤を置くこと、あるいは、英語を主要言語の一つとすることにはメリットがある。

 東アジア共同体の使用言語として域外の言語である英語を用いることには異論もあるだろう。しかし、別の角度から見れば、それだけアジア地域が言語的、文化的に多様であるということの証左でもある。また、グローバル化の時代における地域共同体のあり方としての、新機軸ともなり得る。

(東アジア共同体について(3)に続く)

12月 28, 2012 at 09:35 午前 |

2012/12/23

東アジア共同体について(1)EUとの比較において。

茂木健一郎

 東アジア地域は、領域内の国々の高い経済成長で、世界的にその存在が重要になりつつある。欧州、アメリカ、そしてアジアへと、21世紀における世界の重心は移ると予想されている。この東アジア地域において、平和と繁栄を維持するために、今こそ、「東アジア共同体」(East Asian Community)の構想を真剣に検討すべきときだろう。

 鳩山由紀夫さんは、一貫して「東アジア共同体」の大切さを説いてきた。鳩山さんのホームページには、東アジア共同体についてのステートメントがある(http://www.hatoyama.gr.jp/eastasian/)。

 また、民主党への政権交代直後の、2009年11月15日のシンガポールにおける東アジア共同体についてのスピーチの起こし原稿がある
(http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200911/15singapore.html)。

 これらのテクストを参照いただいた上で、東アジア共同体の可能性と課題について幾つかの視点から論じたい。

 
 二つの大戦がもたらした惨禍についての真摯な反省に基づいてつくられた欧州共同体(EU)は、さまざまな問題を抱えながらも定着している。今年度のノーベル平和賞にも輝いた。

 東アジア共同体を構築するにあたっては、EUは参考になる事例だが、いくつか重要な差異もある。

 まず、地理的な差異。東アジア地域には広大な海があって、地理的な一体性が弱い。日本、韓国、中国といった中心となる国はもちろん、フィリピンや台湾、インドネシアといった参加が見込まれる国は、お互いに海で隔てられている。この点が、イギリスを除いて陸続きのヨーロッパと条件が異なる。

 人口、経済規模、軍事的バランスも、東アジアとヨーロッパでは異なる。ヨーロッパでは、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアといった主要国がそれぞれの特色を出しつつ拮抗しているのに対して、東アジア地域では、中国が、国土面積、人口で突出し、さらには経済的にも軍事的にも「唯一の大国」となりつつある。

 EUが、冷戦期から、自由や民主主義といった共通の価値観を共有する国々の集まりだったのに対して、東アジア地域にはそのような基盤がない。日本、台湾、韓国には市場経済と民主主義という共通価値があるが、圧倒的な存在感を持つ中国は、これらの価値を共有していない。

 北朝鮮は、経済システムも、政体も他の国とは異なる。いわば、冷戦期の名残りであるが、かつてのEUが、東ヨーロッパの共産圏に対峙して成長していったように、北朝鮮の存在は、東アジア共同体が発足し、発展する上でのさまたげには必ずしもならないだろう。より課題になるのは中国の存在である。「共同体」は、構成員がある程度平等な立場で参加することが前提だが、中国がそのような地位を受け入れるかどうかは予断を許さない。

 このように、東アジア共同体を考える上での状況は、EUとは異なる。しかし、異なるからといって、東アジア共同体が不可能なのではない。むしろ、異なる条件下において、「共同体」の試みが実現できるかどうか、人類史的なチャレンジがそこにあると積極的に考えるべきである。

 東アジアを隔てる広大な海は、竹島、尖閣諸島、南沙諸島のような領有権争いの現場にもなるが、一方で地続きの国境がもたらす緊張から解放する緩衝材としても機能し、またコミュニティ構築における一つのメリットともなりうる。鳩山由紀夫さんのシンガポール講演の中で提案された「友愛の海」構想は、その一つの例だろう。

 東アジアがヨーロッパとは違うからこその可能性もある。中国は、「中華思想」に象徴されるように、東アジア地域における「盟主」として振る舞ってきた。東アジア共同体は、そのような中国の動きに対する一つのチェック&バランス機能を果たせるかもしれない。

 米国は、東アジア共同体の発足を、自国の利益に反するものとして警戒する可能性がある。実際、EUは、米国に対する一つの対抗軸としても機能してきた経緯がある。共通通貨ユーロは、そのような動きの結実である。一方で、EU加盟国の多くは、北大西洋条約機構(NATO)を通して、米国と防衛協力をしてきた。イギリスは、歴史的、言語的なつながりから、米国との関係性が強い。

 EUにおけるのと同じように、米国は東アジア共同体における重要な存在であり続ける。東アジア共同体にも、米国がオブザーバー参加させるなど、何らかの結びつきを図るべきだろう。また。日米安全保障条約などを通しての米国との結びつきが強い日本は、東アジア共同体の中で太平洋地域への架け橋となる、主要な役割が期待される。

(東アジア共同体について(2)に続く)

12月 23, 2012 at 11:27 午前 |

2012/12/22

鳩山由紀夫さんの「友愛」について

茂木健一郎

 鳩山由紀夫さんの政治理念を象徴する言葉である「友愛」。今こそ、この言葉をかみしめ、活かし、深化させる時期が来ているように考えます。

 世間では、「友愛」という言葉のニュアンスが、現実を直視しない甘い認識であるかのような印象もあるようです。「友愛」を唱える鳩山由紀夫さんを、浮き世離れした「宇宙人」と評する向きもある。しかし、実際には、「友愛」は、厳しい現実認識に根ざした、実践的な政治思想なのです。

 「友愛」を最初に唱えたのは、オーストリア・ハンガリー帝国の駐日大使を父に持ち、日本人を母に持つリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーでした。クーデンホーフ=カレルギーが、その著書『Totaler Mensch, totaler Staat』の中で唱えた「Brüderlichkeit」(友愛)の概念が、鳩山由紀夫さんの祖父であった第52、53、54代内閣総理大臣、鳩山一郎さんに大きな影響を与えました。

 クーデンホーフ=カレルギーは、友愛の精神に基づく「汎ヨーロッパ主義」を唱え、国際汎ヨーロッパ連合(International Paneuropean Union)の初代会長となりました。

 ヨーロッパは、人間の理性に信頼した近代文明の発祥の地となりながら、二つの世界対戦を通して多くの犠牲者を出しました。そのような反省の下に、今のEU(ヨーロッパ共同体)はあります。ドイツとフランスなど、歴史上争いを繰り返し、対立感情も強かった国同志が一つの共同体となっている。もう二度と、戦争の惨禍を繰り返したくないという決意が、そこにはあります。

 今年のノーベル平和賞は、EUが受けることになりましたが、1972年に亡くなった。クーデンホーフ=カレルギーさんがもし生きていらしたら、間違いなくクーデンホーフ=カレルギーさんこそが受賞にふさわしい方だったでしょう。

 クーデンホーフ=カレルギーの理想主義は、強い印象を与えたようで、映画『カサブランカ』(1942年、アメリカ)に登場する、レジスタンス運動の指導者ヴィクター・ラズロ(イングリッド・バーグマンが演じるイルザ・ラントの夫)のモデルは、クーデンホーフ=カレルギーだと言われています。

 この映画がつくられ、公開された当時はナチス・ドイツに勢いがあり、戦況の帰趨は明らかではありませんでした。そんな時代に自由の大切さをとなえた『カサブランカ』。この映画史に残る名作に通じる骨太の思想が、「友愛」です。

 鳩山由紀夫さんが唱える「友愛」には、このような歴史的経緯があります。そして、今、とりわけこの東アジア地域において、「友愛」の思想を深め、実践する必要性が増していることは、心ある人にはすぐにわかることでしょう。

 鳩山さんが提唱されている「東アジア共同体」の構想は、「友愛」の理念の一つの実践です。現実認識が甘いから、「友愛」を唱えるのではない。現実が厳しいことを認識した上で、しかし人間的価値を諦めないからこそ、「友愛」がある。「友愛」の思想を深め、実践すべき時は、今です。

12月 22, 2012 at 10:35 午前 |

2012/12/19

 米長邦雄さん。大きい人だった。

 米長邦雄さんが亡くなった。何度かお目にかかって、その大きなお人柄に感銘を受けていただけに、早すぎる死が悼まれる。

 本当に、大きい人だった。

 ご自身が、コンピュータの将棋ソフトと対戦され、また将棋連盟会長として、棋士と将棋の棋戦を仕掛けるなど、新しい時代における将棋のあり方を考え抜かれた方だった。

 米長さんのことで、どうしても書いておきたいことがある。

 あれは十年くらい前だったか。対談させていただく機会があった。その際、米長さんに、将棋は男性と女性の棋戦が別で、女性棋士はなかなか男性に勝てないけれども、そのことについてどうお考えですか、とご質問した。

 その時の米長さんの答に、私は大変深い感銘を受け、今でも忘れることができない。

 米長さんはきっぱりと言われた。

 「私は、男性と女性で、将棋の能力に差があるとは思っていません。将来、必ず、女性で男性と闘って名人位をとる人が出てくると思います。問題は、女性の棋士がまだ少ないことと、世間の女流棋士の扱い方にあるのではないでしょうか。私の弟子の○○は、大変才能があって、私も期待していましたが、彼女がまだ十代の時、ある会社の社長と対談する仕事があって、そのギャラがとても高額だった。その仕事は、彼女の棋士としての才能よりも、美貌に注目したものであることは明らかだった。私は、その仕事を受けるのならば、私の弟子をやめるつもりで受けなさい、と言った。彼女は、その仕事を受けました。もし、彼女があのまま精進していたら、名人になっていたと思います。」

 世間で、男女の脳の差がどうだとか安易に決めつける風潮がある中で、米長邦雄さんはなんと大きく、そして厳しい方だったことだろう。

 稀代の棋士、そして人間であった米長邦雄さんの死を悼み、ここに心からご冥福をお祈りいたします。

2012年12月19日 茂木健一郎

12月 19, 2012 at 09:31 午前 |