東アジア共同体について(2)
東アジア共同体について(1)(http://www.facebook.com/ken.mogi.1/posts/265300016929996)から続く
日本、韓国、中国は、東アジア地域のみでなく、世界全体の繁栄と平和を考える上で、大切な役割を果たす国々である。これらの三カ国を中心とする地域の安定がなければ、私たちの幸せもない。
ただ、東アジア共同体(East Asian Community)の実現に当たっては、いくつか実現しなければならない課題もある。
東アジア特有の、歴史認識の問題もある。かつて、日本は「大東亜共栄圏」の思想を唱えた。欧米の植民地支配から脱して、アジアで新秩序を形成することを目指したものだった。その評価は、さまざまだが、東アジア共同体の構想を日本が主導で唱えることに対する抵抗感は、アジア諸国だけでなく、日本人自身の中にもある。
東アジア共同体の構想を現実的なものとするためには、過去の「大東亜共栄圏」という概念の問題点をきちんとふり返って整理し、また、21世紀に東亜アジア共同体を構築することの同時代的な意味を打ち出す必要があるだろう。
東アジア共同体の本部機能は、どこに置かれるべきだろうか。ヨーロッパ共同体においては、本部機能は、構成国のなかでの大国であるフランスやドイツ、イギリスではなく、ベルギーの首都ブリュッセルに置かれた。このため、「ブリュッセル」が、ヨーロッパ共同体の代名詞にもなっている。
同じ意味で、東アジア共同体の本部機能は、主要国のどこにも偏らない、比較的規模の小さな国に置くのがよいのかもしれない。一方、日本、アジア、韓国からあまりにも遠い場所におくと、利便性が失われる。その意味では、たとえば、台湾に置くというのは一つの考え方である。しかし、台湾には、中国本土との関係で微妙な政治的な問題もある。
鳩山由紀夫さんは、東アジア共同体の本部を、沖縄に置く、という構想をお持ちのようだ。実現すれば、さまざまなメリットのある考え方だろう。沖縄は、主要国の一つの日本にありながら、歴史的、文化的に周辺地域との交流もあり、東アジアの交流、コミュニティのシンボルとしてふさわしい。
東アジア共同体における使用言語は、何であるべきだろうか。日本語、韓国語、中国語といった主要言語は当然使えるようにすべきだが、一方で行き過ぎた多言語化は、事務作業の肥大化を招く。「漢字」は伝統的には地域の共通表記として機能してきたが、日本語のひらがなやカタカナ、韓国のハングルのように、各地域独自の表記も根付いている。そして、韓国では、漢字を用いない傾向が強まってきている。
そこで、東アジア共同体における地域内の比較的多くの人が学んでいる英語使うことが実務的だろう。英語を共同体の言語的基盤とすることは、言語政策に伴う共同体内の主導権争いを領域内の議論を、広く世界に対して拡散できるものにする上で効果的である。アメリカがオブザーバー参加することを考えても、使用言語として英語に基盤を置くこと、あるいは、英語を主要言語の一つとすることにはメリットがある。
東アジア共同体の使用言語として域外の言語である英語を用いることには異論もあるだろう。しかし、別の角度から見れば、それだけアジア地域が言語的、文化的に多様であるということの証左でもある。また、グローバル化の時代における地域共同体のあり方としての、新機軸ともなり得る。
(東アジア共同体について(3)に続く)
12月 28, 2012 at 09:35 午前 | Permalink
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