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2012/10/24

イタリア紀行2012(4) システィナ礼拝堂。絵画の力。

 システィナ礼拝堂は、前回バチカンを訪れた際に、サン・ピエトロ広場しか見ることができなかったので、一番残念に思っていた場所だった。ヨハネ・パウロ・2世が立っていらした、その向こうのどこかにシスティナ礼拝堂があるのだと、勝手に想像していると、ますますゆかしく感じられるのである。

 想像の中で、礼拝堂は輝かしい様子であった。カトリックの総本山にふさわしい、光に満ちて、それでいて厳かな。精細で、工夫の限りをつくした設いに包まれてある。そんな風に、勝手に想像していた。

 しかし、現実に見たシスティナ礼拝堂は、拍子抜けする程簡素なものだった。ただ、壁と天井があり、広々とした空間がある。しかしそこにミケランジェロの絵画が描かれている。有名な『アダムの創造』や、『最後の審判』の図がある。つまりは、絵が主役である。

 ローマ法王を選ぶ枢機卿たちの会議「コンクラーベ」が、専らこのシスティナ礼拝堂で行われること一点を見ても、バチカンの中でも最も重要な建物の一つであることには疑いがない。その大切な場所が、このような簡素な設いになっていることに、不思議な感慨があった。

 絵画の力とは、何だろう。イエスが、実在した自然人としてのイエスではないように、あるいは神が、アダムが、いつかどこかに存在した具象ではないように(スピノザによれば、神は人格も身体も持たない絶対無限である)、カトリックにおいて重要な意味を持つ宗教画は、すべて、人間の仮想のなせるわざに過ぎない。

 人間の基盤や自由に関する抽象的な宗教論ではなく、きわめて鮮明な、世界の始まりと終わりに関するヴィジョンがカトリックの総本山の最も重要な建物の主要な(というよりも唯一の)構成要素となっているという事実から、バチカンの担っている伝統、そしてその存在が美術や社会のあり方に与えた影響について、考えるきっかけをもらったように感じた。

10月 24, 2012 at 07:44 午後 |

イタリア紀行2012(3) バチカン美術館、地図のギャラリー。

あれから十五年。ローマに、もう四十回以上来ている(今回が、ちょうど四十一回目!)という佐賀新聞社長の中尾清一郎さんに連れていかれたのは、サン・ピエトロ広場とは別の場所である。

 城壁なようなものの横に、人々が並んでいる。その列は、そこが、バチカン美術館の入り口のようであった。ずいぶん長い列に感じたが、これでも、昼間よりも短いのだという。年に限られた時にだけ可能な、夜の拝観を、中尾さんがアレンジして下さったのだ。

 セキュリティ・ゲートを入って、階段を上がっていくと、庭と、その中に立っている木が見えた。反
対側に歩いていくと、思いもかけず広大な庭があった。壁の方に、大きな松の実の彫像があった(後で知ったが、この庭の名前は、Cortile della Pignaというのだと知った)。

 暗闇の中、頬を吹き付ける風が心地よい。ローマの夜の感触を確かめて、それから、バチカン美術館へと入っていった。

 「バチカン宮殿」とも呼ばれるように、美術館の建物自体の様式は、ヨーロッパ各地の宮殿のそれとほぼ同じである。その中に、歴代の法王が収集した美術品が収蔵されているのだと、中尾さんが言った。

 特筆すべきは。「地図のギャラリー」。両側の壁に、イタリアを中心とする地図が大きく描かれている。ローマの後に訪れる予定の、シチリア島の大きな地図もあった。 

各地の地図を掲げるということは、すなわち、その地域に自分たちのスポットを当てるということであり、また、それらの羅列の中に、世界の多様性を把握するということである。

 カトリックの信仰は、バチカンの人たちにとっては、もちろん、世界のどこでも通用する「普遍」であるはずである。そのことを示すのに、信仰が行われている世界各地の地図を掲示する、ということ以上の設いがあるはずもない。

 今日、カトリックの信仰は、中南米などより広い世界に広がっている。今日、もし「地図のギャラリー」がつくられるとしたら、地図は、地球上のさまざまな地域をカバーすべきなのかもしれない。

 「地図のギャラリー」の成された1580年から1583年にかけてのカトリック世界。当時の、各地域の「スナップショット」を提示する表象たち。その背後にある、継続して確固たる「普遍」への「意志」が、バチカンという重要な歴史的存在をつくり出してきた巨大な「造山運動」であるように感じられた。

 地図の意匠自体も面白い。ある一点に太陽のようなものが描かれ、そこから光が四方に放射しているデザインが複数の図に見られた。象徴的な表現なのだろう。何を表しているのか、もっと知りたく思った。

10月 24, 2012 at 07:43 午後 |

イタリア紀行2012(2) バチカン広場の思い出

 バチカンを訪れたのは、実に約十五年ぶり、二回目である。

 以前に来たときには、ナポリであった国際学会の時に、確か一日だけやってきて、コロッセオや、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会にある「真実の口」、スペイン階段といったお約束の観光地を訪問する中で、サン・ピエトロ広場にだけは行ったのではないかと思う。バチカン美術館にも、サン・ピエトロ大聖堂にも行かなかった。

 十五年前のサン・ピエトロ広場訪問には、愉快な思い出がある。畏友の田森佳秀といっしょだった。ちょうど、先代の法王、ヨハネ・パウロ2世が祝福を与えるということで、たくさんの人が広場を埋め尽くしていた。大聖堂のだいぶ手前に柵があった。そこから入ろうとすると、イタリア語で、「信者じゃないとダメだ」というようなことを言われて、止められてしまったのである。

 それから、不思議なことが起こった。私は諦めて柵のすぐ外に立っていたのだが、隣にいた田森が、イタリア人のおばさんの団体が通り過ぎる時に、さっと、そのおばさんの一人の肘を掴むようにして、紛れて入り込んでしまったのである。ちょうど、体型とか雰囲気とか、田森は、イタリア人のおばさんたちと印象が似ていて、うまく溶け込んでしまったようだった。
 
「あっ、あいつ、うまくやりやがった!」

 唖然としているうちに、おばさんたちの団体は通りすぎてしまって、私は田森に続いて中に入るタイミングを失ってしまった。

 まったく、田森らしいな。あいつは

 やがて、ヨハネ・パウロ2世がいらした。人々が喜びの声を上げる。遠くに、豆粒のように小さく、しかししっかりと、法王の姿が見えた。儀式が終わると、人々が解散し始めた。やがて、田森も柵の中から戻ってきた。

 「おい、うまくやったな。どうだった? 法王、近くから見えた?」

 私がそう聞くと、田森ががっかりしたように答えた。

 「いや、全然ダメ。前に人の頭がたくさんありすぎて、何も見えなかった。」

 結局、柵の外にいた私の方が、法王の姿をしっかりと見ることができたのである。

10月 24, 2012 at 07:42 午後 |

2012/10/21

イタリア紀行2012(1) モンタルバーノ警部

 イタリアに向かうアリタリアの機内で、思い立っていくつかイタリアのテレビの番組を見た。すべてイタリア語だが、英語の字幕がついている。

 一本目は、老夫婦のコメディで、夫がとなりに住む若い女に惹きつけられる。アパートメントで「慈善」のための活動をすると聞いて、最初は断るが、若い女も参加する「ストリップショー」があるという話で気が変わる。20分ちょっとの短編。

 二本目、三本目は、刑事ドラマ。(Il commissario Montalbano)「モンタルバーノ警部」というタイトルで、イタリアでは大人気のテレビ・シリーズらしい。第一話のThe snack thief, 第二話のThe voice of the violinを見た。一本100分だから、それなりに時間がかかったのだけれども、要するに大変面白かったのである。

 イタリアに限らず、テレビというものは基本的にドメスティックなものである。インターネット時代には情報は国境を越えて流通するものだが、テレビは、基本的に「国家」を単位として、その中で流通することで国民を「統合する」。

 だから、案外、その国の独自の「文化」がある。特に『モンタルバーノ警部』を見ながらそう感じた。事件に対する反応、操作の仕方、そこに絡んでくる人間的次元が、日本やアメリカ、イギリスの刑事物とは違っていて、新鮮である。その一方で、人間としての普遍的な性質ももちろんある。

 もっと、イタリアのテレビが見たいな。と思った。だから、ローマに来て以来、RAI(イタリア放送協会、Radiotelevisione Italiana)を中心に、ホテルの部屋ではかけっぱなしにしている。このイタリア放送協会、イタリアではチャンネル合わせて40%以上の視聴占拠率を持つ。しかも、視聴者からの「受信料」に加えて、広告費でも稼ぐ、いわば公共放送と民放のハイブリッドのような存在なのだという。

 国が変われば、テレビのあり方も変わる。しかし、通常は、「国境」を超えて向こうの様子が見えることはない。面白いね。

10月 21, 2012 at 01:42 午後 |

2012/10/14

田森佳秀、謎のプログラム開発遅れの真実!

今回、Society for Neuroscienceで、田森佳秀と共同研究の発表をする。

その上では、一つ不思議なことがあった。田森に、あるプログラムの開発の分担を頼んだのだが、コンピュータについて、異常な才能と集中力を見せる田森が、珍しくなかなかプログラムを仕上げて来なかったのである。

おかしいな、よっぽど忙しいのかな、と思いながら、結局、他の方法でデータを集めて、今回の発表はだいじょうぶな形になった。

ニューオリンズに来て、田森とごはんを食べていたら、ようやく、今回の「プログラム開発遅れ」の真実がわかった。それは、案の定、私が想定していたのよりもはるかにディープで、複雑な話だった。

夕食の時、田森が突然、「プログラム遅れてごめんね」と言った。
「ううん。」

「あれさ、Google appsを使ったのが、失敗だったんだよね。」

「そうなんだ。」

「あれ、バグだらけでさ、結局、自分でシステム構成をするような羽目になった。」

「えっ。」

「こんな動作をするはずがない、おかしいな、と思って、英語のヤフー知恵袋みたいなのを検索したら、みんな、おかしい、こんな動作をするはずがないとか、文句言っているんだ。」

「・・・」

「それで、どんな誤動作をするのか見るために、適当な文字列を打って、それでどんな返答があるか見て、内部の状態を推測していた。」

「・・・・」

「最初から、自分でサーバーを構築すれば簡単だったんだけど、Google apps だと、サーバー提供してくれるじゃない。それは便利だ、と思って使い始めたのが、失敗だった。」

「・・・・」

「でもさ、思うんだけど、Google apps、だいじょうぶかな。あれだと、社内の事情を良く知った人じゃないと、つかえないと思うよ。」

「・・・・」

我々がつくろうとしていたのは、あるウェブ上の実験環境だったのだけれども、それをつくろうとして、Google appsのシステム構成の一番深いところまで入って行ってしまうのが、田森佳秀という男なのである。「適当な文字列を打って、それでどんな返答があるか見て、内部の状態を推測」するのが田森佳秀なのである。

そして、Google appsのことを心配する。あのねえ、ぼくたちがやりたかったのは、ウェブ上の実験環境をてっとりばやくつくることだったのであって、Google appsの仕様のことを心配することではなかったんじゃ、とう突っ込みは、田森佳秀には通用しない。

何か始めると徹底的にのめり込んでいく。田森佳秀は、そんな男なのである。

↓ 昨年のSociety for Neuroscience での発表の様子。今年は、slide presentation (talk)です。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/photos/qualiadiary/tamogiposter.jpg

10月 14, 2012 at 10:45 午後 |

わが親友田森佳秀、ニューオリンズでも大騒動の巻!

わが親友田森佳秀は、異様に「単位時間あたりのトラブルの数」が多いことで知られている。

一足先にニューオリンズに着いた田森佳秀だが、案の定、さまざまなトラブルに巻き込まれていた。

まず、これは日本にいる時から知っていたのだが、auの携帯の充電器を忘れてきてしまった田森は、仕方がなく、充電器を「自作」したのだった。

「いやあ、クリップで端子つくったんだよ。でも、放っておくと、クリップと端子がずれてきちゃうじゃないか、だから、うまく、携帯の重みでクリップがたわむようにして、それで接触が続くようにしたんだ。」

アメリカに来て、なんとかというスーパーでニッパーとか工具を買って、いろいろつくっている時点で、すでに普通の旅行者のそれではないが、田森佳秀のトラブルが、これくらいで済むはずがない。

「お前、ホテルどこなんだ?」

「ここから、10マイルくらい離れたところ。」

「えっ、だいじょうぶなのか?」

「いやあ、今日、学会会場に行こうと思って、バスを待っていたけれども、一時間待っても来なかったから、しょうがないからタクシーで来た。」

「・・・・」

「25ドルかかった。だから、一泊75ドルで安いけど、往復のタクシー代を考えると、125ドルかかっていることになる。」

「・・・・」

「昨日も、大変だったんだ。飛行機がニューオリンズに着いたのが午前0時過ぎで、それからホテルに行ったら、案の定、キャンセルされていた。メールで、ちゃんと、飛行機が着くのは日付が変わってからだから、一日前の予約だけど、ちゃんとホテルに行くと書いておいたのに。やっぱりダメなんだね。」

「それで、復活してもらえたのか?」

「いや、フロントが真っ暗で、誰もいないんだよ。」

「・・・・それで、どうしたんだ?」

「困ったなあ、と思って、ガラスの前で、手をぐるぐる動かしていたら、ああいうところって、深夜に掃除するんだね。掃除をするおねえちゃんが出てきて、どうしたんだ、と聞くから、説明したら、中に入れてくれた。」

「よかった。」

「それで、説明したら、それじゃあ、朝になったらフロントの人が来るから、それまでそこのソファにいるしかない、とか言うんだ。それで、20分くらい、どうでもいい話をしていたら、突然、そのおねえちゃんが、やっぱり電話する、といって、フロントで働いている、自分の友人に電話して、もう夜中の二時くらいだったんだけど、その友人が、おねえちゃんに電話で説明して、おねえちゃんが部屋の鍵のカードをつくってくれた。」

「部屋空いてたんだ、良かったね。」

「いや、そのホテル、廃墟みたいなところだから、部屋はいくらでもあるんだよ。」

「えっ?!」

「この前のハリケーンで壊れたんだね。窓とか割れていて、その一部が修復されて、営業しているんだ。」

「じゃあ、お前の泊まった部屋は、大丈夫だったのか?」

「いや、部屋に入って、暖房を入れたら、しばらく使っていなかったみたいで、煙が出て、火災報知器が鳴った。」

「えっ!? だいじょうぶだったのか?」

「仕方がないから、窓とドアを開けて、煙を出した。」

「それで、暖房はつかえるようになったの?」

「いや、煙が出るから、つかえていない。」

「・・・・」

「それからね、シャワーのお湯が出ないんだ」

「えっ!?」

「だから、しょうがないから、水でシャワーを浴びた。」

「冷たくないのか?」

「冷たいよ。」

「・・・・・。朝ごはんは、だいじょうぶだったの?」

「自分でつくって食べた。」

「何をつくったの?」

「カップ麺。」

「お湯は沸くんだ。」

「沸くよ。」

「カップ麺、どこで買ったの?」

「スーパー。ホテルの人に聞いたら、近いというんで歩いていったけど、遠かった。」

「どれくらい遠かったの?」

「30分くらいかな。」

「・・・・」

「ビールも6本買った。」

「・・・・・」

アメリカに着いてすぐ、トラブルに巻き込まれる田森佳秀氏。

田森は、私の知る限り、最も「単位時間あたりのトラブルの数の多い」男である。

10月 14, 2012 at 10:29 午後 |