「孤独」の理由。 新国立劇場 「ローエングリーン」2012年6月13日
新国立劇場で、『ローエングリーン』の新演出がある、ということは何とはなしに聞いていた。ワグネリアンとしてはぜひともかけつけたかったところだが、例によって何とはなしにぼんやりと過ごしていた。
ところが、さまざまなところから、ローエングリーン役のフォークトがすばらしいらしい、という噂が聞こえてきた。若き日のペーター・オフマンを彷彿させる、という声もあった。それで、いても立ってもいられなくなった。
ワグナーの書くテノールの役は、超人的な存在であることを要求される。声が輝かしいだけでなく、姿も美しくなければならない。ある種の理想のイデアなのだが、それを生身の人間が果たすのは難しい。
フォークトのローエングリーンを聴かないと、人生にぽっかり穴が開いてしまう、そんな気持ちにすらなって、初台の新国立劇場にかけつけた。
一幕。エルザが夢を語り、いよいよローエングリーンが登場する。その人は、思いもかけぬかたちでやってきた。「Mein Lieber Schwan!」さいしょの一声で、甘い旋律が走った。声量や、コントロールだけの問題ではない。やわらかくて、そして何とも言えない響きがある。山崎太郎さんは、「新種のヘルデンテノール」と評したそうだが、フォークトに聞き惚れていると、人間の声の質には、ワインと同じくらいのクオリアのスペクトラムがあるという単純な事実に気づかされる。
声だけではない。フォークトのローエングリーンが大評判になっているのも、わかる気がする。立ち姿が美しい。一種超然たるオーラがある。タイトルロールに合っている。どこかに持っていかれてしまうような、そんな気がする。夢を与えることこそ、芸術家の使命だろう。
新演出はとても良かった。ワグナーの作品は、見る度に新しい発見があって、だからこその「古典」なのだが、今回のシュテークマン演出だったからこそおそらくは気づいたことがいくつかあった。
一つは、私的な空間と公的な空間におけることばの違い。「ドラマ」は、三幕のエルザとローエングリーンのダイアローグで終わる。その二人だけの濃密なスピーチと、その後、ハインリッヒ王の前で身分を明かすパブリック・スピーチは、文脈が異なる。そのコントラストを強く感じたのは、演出の力だろう。
エルザの孤独に焦点を当てた演出だったと思う。もともと、一幕で弟殺しの汚名を着せられたエルザが「夢で見た騎士」に助けを求めるが、沈黙が支配する。その「孤独」はわかりやすいがしかし、実はエルザは一貫して孤独であった。
それが美しく視覚化されたのが、第二幕の最後だったように思う。演出家の意図は、ドラマが進むほどに深く浸透していった。孤独は私たちの誰にとっても「普遍」の体験である。だからこそ見る者の心は動かれ、癒やされる。
私的な事柄と公的な事柄の間の齟齬の中に、私たちの孤独の理由がある。ある役割を演じているとき、人は常に孤独である。そして、三幕の婚礼の合唱のあとの対話が示すように、私的な事柄においてさえ、二つの魂はついには交わらずに、遠くで相手のこだまを聴くだけなのだ。
終幕、ローエングリーンが「奇跡」によってもたらしたお世継ぎの少年が一人舞台に取り残される。エルザから少年への、「孤独」のリレー。私たちは一人ひとり、星の友情を通してかろうじてつながっているに過ぎぬ。
別れを前にして、ローエングリーンが出自を明らかにするとき、エルザを引き寄せてあたかも恋人語りのように切り出したのには不意打ちされた。山崎太郎さんによると、「グラール語り」をこのように演出したケースは記憶にないそうである。私の涙腺がゆるんだとしたら、この瞬間だったろう。
観客の反応は熱狂的だった。学生時代、自分たちが文化をつくるんだ、くらいの勢いで、東京文化会館のオペラ上演に通っていた、あの頃の興奮がよみがえってきた。
日本でこのような水準のワグナーが見られるようになったのは、昔日を思うと一つの奇跡のようである。新国立劇場の関係者に心から感謝したい。そして、フォークトさん、すばらしいローエングリーンをありがとう。
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/20000465_opera.html
(新国立劇場『ローエングリーン』公演は、あと16日(土)の一回のみ)
ローエングリーン役のフォークト。(http://news.ameba.jp/20120601-442/より引用)
6月 14, 2012 at 08:52 午前 | Permalink
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