皺だらけの手の爺さんになりたい。
僕たちは美しく生きていけるのだろうか。
第十八回
茂木健一郎
美しさとか、幸せというものは、ほんの小さなことの中に潜んでいるものだと思う。決して、青天井の人生や、波乱万丈の成り行きの中に美しさがあるのではない。美しさとは、むしろ、「自らの限定」を受け入れる勇気の中にあるのかもしれない。
大学院生の時、予備校でアルバイトをしていた。週に2回くらい、郊外の校舎に通って数学や物理を教えた。二時間声を張り上げると、もうくたくたになった。服の裾がチョークまみれになった。それでも、高校生を相手にエネルギーをぶつけることは、爽快だった。向こうのエネルギーもまた、半端ではなかったからである。
夜の授業を終えて、他の先生方と雑談をしたり、いろいろ事務処理などをしていると10時近くになる。空きっ腹を抱えて、予備校の校舎を出る。「労働した」という高揚感からか、夜風が気持ちいい。そんな風にしてふらふらとたどり着くのが、一軒の中華料理屋だった。
駅の近くの雑居ビルの一階。兄弟で切り盛りしている、小さな店。何となく訳あり風な、と思い込んでいたのは、二人の身体から放射される何とも言えない雰囲気と、店の場所の構えの間尺が合っていないようにも感じられたからだろう。大きなフライパンをふるって調理をするのは、少しごつい顔をした兄の方。小柄な弟の方は、皿を出したり、テーブルを拭いたりした。二人とも寡黙で、余計な言葉は発しなかった。
テーブルにつくと、まずは瓶ビールを注文する。一人でグラスを傾けながら時を刻む楽しみを覚えたのは、予備校帰りのあの中華料理屋でのことだったかもしれない。いつも頼んだのはレバニラいため、それにチャーハン。お腹が空いている時には、餃子も追加した。ビールでちょっと気持ち良くなったところで、箸で口に放り込む。ラー油とお酢を、たっぷり使った。身体にストンとしみ込んでいく。その時私は幸せだった。
冴えない大学院生が、バイト帰りにぱっとしない中華料理屋に行って、油だらけのテーブルでご飯を食べている。それは、普通に考えればどう見ても「美しい」光景ではなかった。しかし、本人としては、それでけっこう充足していたのだ。
一人前に仕事をして、その「労働の報酬」でご飯を食べる。それは、一つの「生の頂点」と言ってもいいくらいの時間だったのだろう。あの中華料理屋における食事の時間が、その後にさまざまな場所で、いろいろな人と共に体験した、世間的に言う「美しい時間」と比較して、劣っているとは思えない。そもそも、生きるということの方が、美しいということよりも、はるかに大きいのだろう。美が生きることに追いつけないのならば、それだけの話である。
アルバイトをしていた予備校の近くには、中華料理屋以外にもいろいろな店があった。今でも鮮明に思い出すのは、一軒のお寿司屋さん。当時の懐具合からして、寿司屋に行く機会は中華料理屋に行く回数に比べて圧倒的に少なかった。それでも、時折、出かけることもあった。
最初にその寿司屋に行ったのは、予備校の校長が「奢るよ」と誘ってくれたのがきっかけだったかもしれない。私たち学生アルバイトの講師にもいろいろと話しかけてくれる、気さくな人だった。色が浅黒く、どこか風の匂いのする人。一度、下町にある校長の家に招かれたこともある。室内をウッディに装ったそのインテリアは、いかにもその校長らしかった。
「金の先物をやっていてね。」そんなことを自慢気に話す校長は、
時折危うげにも思えたが、この人ならば大丈夫だろうという安定感もあった。時は、日本経済がまさにバブルを謳歌していた頃。日本の地価を合わせると、アメリカ全土を買ってお釣りが来た。今となっては信じられないくらいに世間が浮ついていた。
ある時、「先物取引でもうけたから」と校長が寿司屋に連れていってくれた。がらがらと戸を開けると、店内には私たち以外に客はいなかった。カウンターに座り、ガラスのケースに入っているネタをいろいろと注文した。白い帽子をかぶった、実直そうな御主人が握ってくれる魚や貝は、どれも美味しかった。
腕はいいのに、場所にあまり恵まれていないのだろうか。その後も、校長に連れられて何度か訪れたが、その度に客の影はあまりなかった。私たちの他に誰もいずに閑散としている。帰るころになって酔っぱらったお客がぽつりとくるというようなことが多かった。これで経営は大丈夫なのだろうかと、他人事ながら心配になった。
そのお寿司屋さんで記憶に残っているのは、いかにも気のよさそうなおかみさんである。御主人に大切にされているのだろう。どこか、日だまりの中のみかんのような大らかさがあった。お世辞にも美人とは言えないおかみさん。その上、牛乳瓶の底のような黒縁の眼鏡をかけ、化粧もろくにしていない。髪の毛はいつもぼさぼさ。それなのに、なぜか好感が持てた。
校長に連れて行かれることが何度かあった後、その寿司屋に私も一人で行くようになった。大抵は、週末の授業の時や、休み中の講習期間にランチをしに行く。店の中に入っていくと、いつもおかみさんがにこやかに迎えてくれた。その笑顔を見るだけで、なぜか癒された。
ある日の昼下がり、午前中の授業を終えて、少し遅めのランチを食べにその寿司屋に訪れた。がらっと開けると、やはり客は誰もいない。こんにちは、と言うと、おかみさんが、店の奥からこちらを見上げてにこっと笑った。
その店には、カウンター席以外に、奥の方に四畳半の座敷があった。おかみさんは、座敷いっぱいにジグソーパズルを広げて、その前に座り、そのままこちらを見ていた。営業時間内なのだが、お客が来ないであまり暇だったので、思わずパズルをしてしまったのだろう。私が来た時には、熱中していて、不意を衝かれたという様子がありありと感じられた。
今でも、その時の光景を思い出す。寿司屋の奥に座敷がある。畳の上に、ジグソーパズルが広げられている。膝を崩しただらしない格好で、おかみさんが座っている。決して美人とは言い難い、牛乳瓶の底のような黒縁の眼鏡をかけた、化粧っ気のない、髪の毛の乱れたおかみさん。大きな口を開けて、ニカッと笑っている。その様子を今でも鮮明に覚えているのは、その瞬間、私がおかみさんに「一目惚れ」してしまったからかもしれない。
自分とは対照的に、端正な顔立ちのいい男。惚れて結婚した主人が、一生懸命寿司屋をやっている。しかし、場所が悪いのか、時代に合わないのか、一向に繁盛しない。昼に店を開けていても、客はさっぱり来ない。普通ならば、生活の心配をしたり、亭主にハッパをかけたり、そわそわしたり、ふてくされたりしてもいいはずなのに、そんなそぶりは一切見せない。何の心配もないように、ただ、太陽のように大らかに笑っている。そんなおかみさんの姿に、私はすっかり惚れ込んでしまったのだ。
それから、時が流れた。「ジグソーパズル事件」の後も、何度かその寿司屋を訪れたが、大学院の卒業とともにすっかり足が遠のいてしまった。数年前、仕事のついでに久しぶりに予備校があった校外の街を訪れてみると、様子がすっかり変わっていた。校舎には別のテナントが入り、中華料理屋があった雑居ビルは取り壊されていた。そうして、牛乳瓶の底のようなおかみさんがいた寿司屋は、跡形もなく消え去っていた。私は、あきらめ切れずに、しばらくそのあたりを歩いてみた。
あのおかみさんは、今ではどうしているのだろう? おかみさんの記憶のすぐ近くに、仕事帰りに寄った中華料理屋の、レバニラ炒めの味がある。中華料理屋もおかみさんも、「美しい」という言葉からは程遠かった。それでも、私の思い出の中でこれらのものは時とともにどんどん純化して、ほとんど「聖なる」存在にすらなってしまっている。
ただ一生懸命、ひたすらに働くことの尊さ。今さらながらの平凡な感想だが、私の芯から出たため息である。あの頃、おかみさんは、人影がまばらなあの寿司屋で、どんな思いでお客さんを待っていたのだろう。背中に寂しさを漂わせたあの兄弟は、どういう経緯で中華料理屋をやることになったのだろう。たくさんの水が橋の下を流れる中で、彼らは世間のどこに消えて行ってしまったのだろう。私の大切な人たちよ。
そんな感傷に浸った後で、じっと自分の手を見る。そのうち、この指も手のひらも、みんな皺だらけになってしまうのだろう。人生の浮き沈みの中で、どこにたどり着くのかさえわからない。「私は精一杯働いてきた」。せめてはそんなことが言えるような爺さんになりたい。
(幻冬舎 茂木健一郎 『ぼくたちは美しく生けていけるのだろうか』に所収)
6月 17, 2012 at 09:03 午前 | Permalink
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