続生きて死ぬ私 第19回 ジャンヌに呼ばれて
続生きて死ぬ私
第19回 ジャンヌに呼ばれて
モディリアーニの画集を初めて見たのは、確か小学校5年生くらいだったのではないかと思う。というのも、私は突然「絵を習いに行きたい!」と思い立って、親に頼んで通い始めたのだ。その教室に、確かそうだ、モディリアーニの画集があったのではないかと思う。
あの頃は、絵の個性なんてものはわかってはいなかったけれども、ひと目見て惹き付けられた。モディリアーニの特徴とも言える、面長の女性の肖像。その表情に、何とはなしに大人の成熟のようなものを感じて、密かにあこがれた。
モディリアーニの描くジャンヌ。
モディリアーニは、才能に恵まれながら貧困の中で苦闘し、ボヘミアン的な生活を送るという、私たちが「芸術家」と耳にすると思い浮かべる一つの典型のもととなった。病気の中でのその悲劇的な死はセンセーショナルに報じられ、結果として作品が世に知られるきっかけになったという。
モディリアーニの悲劇をさらに深いものにしたのは、妻、ジャンヌがモディリアーニの死後2日目に、身を投げて死んでしまったことである。両親の住んでいたアパルトマンに身を寄せていたが、はかなんで死んでしまった。子どもの頃の私は、そんなことを全く知らずに、モディリアーニが描いたジャンヌの特徴的な表情を飽かず眺めていた。
芸術というのは不思議なもので、何も知らずに見ていても何かが伝わってくる。本当のことは隠蔽されている。いちいち説明されなくても、強度のあるものは必ずこちらまで来ている。
しかし、芸術に限らず、そもそも人生とはそんなものなのではないだろうか。通りで行き交う人たちの顔の表情から、私たちは何を読み取れるというのだろう。その人が感じてきたこと、苦しんできたこと、見てきたこと。そんなことを知らないままに、私たちは「無関心」というフィルターを他人に向けている。
そんな中で、芸術作品は、おそらくは例外的で特権的な場所を占めているのであろう。それでも、子どもの私は、モディリアーニとジャンヌの物語など、知りはしなかった。それでも、絵は、私の心の中にくっきりとした像を結んでいた。
知ると面白いものである。ジャンヌはモディリアーニにほれていた。ジャンヌ自身も美人だったが、モディリアーニは評判の男前。酒場で飲んだくれているモディリアーニを、ジャンヌはよく心配して迎えにきていたという。そんな生の現場のきらめきや風合いも、時間はすべて流していってしまう。残された肖像画は、そんなやわらかな命をたどる、かすかな手がかりに過ぎない。
モディリアーニその人
たまらないよな、人生って、みんな変わっていって、やがて消えてしまうんだから。結局、私たちに与えられているのは、「今、ここ」だけだ。もちろん、モディリアーニが描いた肖像を眺めていた小学生の私が、そんなことを考えていたわけではない。
ジャンヌは、私にとっての一つの理想の女性像となった。現実のジャンヌを知っていたわけではない。モディリアーニの描く、ちょっと小首をかしげてこちらを見ている、長い髪の女の人。そんな人がこの世界のどこかにいるのかもしれない、という思いが、子どもの頃の私にとって、一つの魅惑的なファンタジーとなった。
今考えれば、私はジャンヌに呼ばれていたのかもしれない。
今年の正月、モディリアーニの足跡をたどる仕事で、冬のパリを訪れた。モディリアーニがアトリエを構えていた、モンパルナスのアパルトマンを見る。中庭の木の美しいたたずまいに迎えられ、モディリアーニが毎日使っていた階段を上ると、ぎいぎいと古い木の音がした。
モディリアーニが入りびたり、ジャンヌが心配して探しに来ていたという、件の酒場にも行ってみた。今の店主のはからいか、モディリアーニが描いたジャンヌの肖像のレプリカが懸かっている。ちょうどこのあたりに、画家と恋人は座っていたのかもしれない。もう決して戻らない、昔日のおもかげを探る。しかし、なかなかたぐり寄せることができない。
驚いたのは、撮影クルーが移動を始めた時である。ディレクターが「それでは、ジャンヌが最期をとげた、アパルトマンに行ってみましょう」と言った。パリの街を走る車。おやっと思った。
サン・ジャルマン・デ・プレを通り過ぎ、右に曲がる。やがて、左にフランスの偉人たちを祀った「パンテオン」が見えてきて、右前にはリュクサンブルグ公園が近づく。パンテオンに向かって左折し、道なりに右に行く。それから、パン屋さんの前を左折して、すぐに右折する。どんどん、「あの場所」に近づいていく。まさか。なんだか、胸がどきどきしてくる。
前の年の夏のこと。ふだん、日常の雑事に追われてなかなかまとまった研究をする時間がないからと、夏に三週間パリに滞在していた。その時、暮らした街角。そう、あのパン屋さんに、毎朝クロワッサンを買いに来ていたのだった。その道を逆にたどって、撮影クルーの車は進む。
「あの、ぼく、このあたりに住んでいたことがあるんですけれど。」
ディレクターにそういうと、「ああそうですか」と言う。ぼくの動揺は、反響して自分に戻る。その間にも、車は、まるで魅せられるかのように「あの場所」に近づいていく。
ついに、「ここが、ジャンヌが最後に住んでいたところです」とディレクターに教えられたときに、運命のありのままを突きつけられた気がした。そこは、まさに私が住んでいた建物と一連なりの、同じ通りのとなりの住所。書籍などで、ジャンヌ終焉の地の写真を何度もみていたはずなのに、それとは気づかなかった。その角度から立ってみると、確かにその建物である。
呆然として、壁に寄り掛かってアパルトマンを見上げる。そんな私を、カメラが修めている。公共のようで、私的な時間が過ぎる。
何ということだろう。モディリアーニが描いた、最愛の女ジャンヌ。子どもの頃から、画集で何度も眺めていたその人。こんな素敵な雰囲気の女性が、この世界のどこかにいるのかもしれない。そんな風の便りに耳を澄ませていた日々。
そのジャンヌがこの地上のはかない生涯を終えた、その場所のすぐそばに私は住んでいた。毎朝起きて、ジャンヌのアパルトマンの前を通り、クロワッサンを買い、リュクサンブルグ公園に散歩に出かけ、夕陽を見つめていた。
ジャンヌに呼ばれていた。ふりかえれば、そんな気がしてならない。もっとも、オカルトじみた意味ではない。人間には自由意志などない。それが、現代の科学の教えるところである。いろいろな要素が私たちを支え、影響を与え、通り過ぎていく。そんな宇宙の進行の中で、私の軌跡と、ジャンヌの軌跡が近づいていたのだろう。
テレビロケがなかったら、一生気づかなかったかもしれない。ひどく動揺する体験であった。それはまた、一つの福音でもあった。私の人生には、あと幾つのジャンヌが隠れているのだろう。こんなことがあったら人生は、どこか深いところで変わらざるを得ない。
「続生きて死ぬ私」は、メルマガ『樹下の微睡み』に連載中です。
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2月 6, 2012 at 09:55 午前 | Permalink
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