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2012/02/25

大学のガラパゴス化(茂木健一郎 「日本八策 再生への処方箋」第一回より)

「新潮45」 連載 茂木健一郎 「日本八策 再生への処方箋」第一回より、「2、大学のガラパゴス化」をここに公開いたします。

「1、 日本の危機」、
「3、「ものづくり2.0」への不適応」
「4、「黒船」の正体」
「5、日本八策」を含めた全文については、現在発売中の「新潮45」2012年3月号

http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/
をご覧ください。


2、大学のガラパゴス化

 一つの価値基準、一つの文脈から見れば優秀であるが、一方で柔軟性を欠くことになる。結果として、日本の国内市場の中では通用するけれども、グローバル化した世界では意味を持たない制度やシステムが温存されることになってしまう。これが、今の日本の危機の象徴である。

 それを象徴するのが、「ガラパゴス化」という言葉。ある視点から見てすぐれた「部分最適」にはなっても、全体から見た「全体最適」にはならない。つまりは、グローバルな地球社会に貢献するような価値に結実しない。そのことが、急速に「ソフト化」し、「ネットワーク化」する世界の中で、日本の変調、凋落をもたらしている。

 「ガラパゴス化」という言葉は、2009年くらいからメディアの中で見られるようになったと記憶する。他の「流行語」とは異なり、「ガラパゴス化」という言葉が指し示している日本の病理は、そう簡単に解消されそうもない。むしろ事態は慢性化、膠着しており、その実態から目を背けては、日本の未来はない。

 たとえば、大学。日本の大学は、明治期において、ヨーロッパの技術や文化を輸入して、日本の隅々まで行き渡らせる「文明の配電盤」として役割を果たした。最初は「御雇い外国人」が外国語で直接講義していたが、そのうちに日本人が講義をするようになり、学問は急速に「日本語化」して行った。

 ある文化圏の中にもともとない概念を移入するのは難しいとされる。明治期の日本人は、乃木希典さんの漢詩に見られるような、深い漢文の素養を持っていた。文明開化の前の「概念宇宙」がもともと十分に広く深いものであったことが、学問を日本語化する上で大きな意味を持った。

 「科学」、「自由」、「経済」、「時間」、「空間」などといったいわゆる「和製漢語」は、明治期の日本人がその漢文の素養を駆使して生み出した偉大なる遺産である。私たちは、明治期に作られたこれらの言葉を、今日まるで空気のように使いこなして日本語の学問を展開している。また、これらの言葉が漢字の母国である中国にも「逆輸入」されて、使われることにもなった。西洋列強が圧倒的な力を示していた当時の世界で、祖先が成し遂げた学問の日本語化は、私たちの誇りである。

 日本語で一通りの学問ができるようになった結果、今日に至る日本の大学の「かたち」が出来上がった。それは、一つの偉大な革命であった。「文明の配電盤」として、欧米の先進的な文化、技術を日本に紹介し、広める役割を果たしていた頃の大学は輝いていた。東京大学をピラミッドの「頂点」とする大学の「序列」も、そんな時代の中でつくられていったのである。

 時代は流れ、その日本の大学が、「ガラパゴス化」の危機に瀕している。日本語で学問ができるようになったのは、一つの偉大な成果だった。しかし、それゆえに、日本の学問、とりわけいわゆる「文系」の学問は、世界と切り離される結果となってしまった。

 自然科学の研究者たちは、英語で論文を書くということを基本としている分、まだしも良い。それでも、日本人研究者には多くの人が指摘する弱点がある。体系的な「レビュー論文」を書いたり、まとまった思想、世界観を一冊の本として提示するような仕事は、きわめて少ないのである。

 文系の研究者は、残念なことに多くが「内弁慶」になってしまっている。もちろん、諸外国の最先端の学術情報を日本語で伝えるという営みは尊いし、時にクリエイティヴである。翻訳は、現在のところコンピュータ上のプログラムではなし得ない高度な作業であり、日本の文系の研究者たちが、原著の翻訳、紹介を業績の一部と見なしてきたことには正当性がある。

 問題は、学問の表現が日本語に大きく依拠していることである。もちろん、文系の教授たちだって、国際会議に行って英語で発表したり、議論することはある。ところが、理系の研究者と同様、レビュー論文や著作を通しての体系的、総合的な世界観の提示という分野においては、なかなかインパクトのある論者が出ない。何しろ、学問の成果を公刊し、流通させるための手段としての「日本語」の吸引力があまりにも強いのだ。

 さらに深刻な問題がある。現代の多くの問題、たとえば貧困の解消や、教育の充実、エネルギー問題、環境保護、持続可能な成長といった地球規模の課題を解く上では、文系、理系という垣根を超えた学際的なアプローチが求められている。ところが、なかなかそれができない。さまざまな分野の最先端の成果を世界に通用する言葉で共有する知的インフラを欠いているからである。

 文系、理系に関係なく、現代の地球規模の学術情報における「リングワ・フランカ」(共通語)である英語で成果を発表し、議論し、教育するという「圧力」が足りないために、日本国内の大学の世界的プレゼンスが向上しない。特に学部学生の段階においては、十分な数の留学生を受け入れる体制になっていない。国際化の停滞は、英国タイムズ誌が毎年発表する「世界大学ランキング」において、国内最高が東京大学の30位という、低い評価にもつながっている。

 あげくの果てに、大学3年から就職活動が始まる「新卒一括採用」の下、大学が「就職予備校」と化している。日本の企業の関心は、18歳の段階でどんな入試を通ってきたかという点にあるのだという。これでは、知的な創造性が最大の付加価値を生み出す現代の世界において、グローバルな競争を勝ち抜くことなどできない。

 学術情報や技術のイノベーションが国境を超えて流通し、世界的な大競争が行われている現代において、日本の大学の「真価」が問われている。日本語を母語とする人しか受験できないような入試を続けている日本の大学は、ガラパゴス化の典型である。

茂木健一郎

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東京大学Liberal Arts Collegeに関する私案

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2011/10/liberal-arts-co.html

2月 25, 2012 at 03:44 午後 | | コメント (27)

2012/02/11

G1サミット、「浮湯」の脱衣場における、原研哉さんとの会話

御立尚資さんと浮湯でいろいろお話していたら、のぼせてきたので上がって髪の毛を洗った。

ぼくは、絶対に朝しか洗わない。夜洗うと、翌朝ぴょんぴょんになるから。

脱衣場が着衣場になって、一つだけずいぶん乱雑に脱いでいるのがあるな、と思ったら、自分のだった。

髪の毛をがーっとやって、パンツをはいて、「ファイティング・ポーズOK!」になったら、すっとやってきたのは風格のある大人。原研哉さんだった。

「おやすみになれましたか?」

「ええ、ぐっすり」

「昨日のクラウドのセッション、面白かったですね。あの、ソーシャルで最適化、というの、どう思いましたか?」(茂木)

「あれはあれでいいと思うのですが、やはり最適化とイノベーションの違いがあると思うのです。これからは、一杯300円でご飯を売る時代だと思うのです。」(原)

「実際、ワインでは、それが実現しているわけですからね。」(茂木)

「それで、最適化というのは、つまり、一杯30円が28円になってしまうような世界だと思うのです。それでもヴォリュームをかせげばいい、という業界もあると思うのですが、それだけではない」(原)

原さんは、パンツも脱いでしまったけれども、私としゃべっているので、ゆかたをもう一度はおっている。そのように立っていると、本当に風格がある。

「そうですね。やはり、ソーシャルを使った最適化、というのは、一つの文脈の中でのことじゃないかと思います。」(茂木)

「やはり、デザインのどこかに、人々が「こちらがいい」と考えるそんなベクトルにあらがう側面がある」(原)

「実際、アップルのイノベーションは、そのあたりをついてきていますからね。」(茂木)

「それでも、ソーシャルで最適化するとか、そういうことは一つの流れではあるとは思う。」(原)

「ぼくも、聞いていて、そんなことを考えるのか、という一種の解放感がありました。」(茂木)

「彼らの話、全体として、自信に満ち溢れているんだよな。」(原)

「やはり、時代の流れに乗っていますから」(茂木)

ぼくと原さんは、そこで別れた。

朝ごはん会場の前を通る。

「お待ちしています!」と言われた。

ぼくは、部屋に帰って、今の原研哉さんとの会話をクオリア日記に記録して、それから腕立てふせをするころには、髪の毛はかわいてしまっているかもしれない、そう思った。

2月 11, 2012 at 07:30 午前 |

2012/02/06

続生きて死ぬ私 第19回 ジャンヌに呼ばれて

続生きて死ぬ私 

第19回 ジャンヌに呼ばれて

 モディリアーニの画集を初めて見たのは、確か小学校5年生くらいだったのではないかと思う。というのも、私は突然「絵を習いに行きたい!」と思い立って、親に頼んで通い始めたのだ。その教室に、確かそうだ、モディリアーニの画集があったのではないかと思う。

 あの頃は、絵の個性なんてものはわかってはいなかったけれども、ひと目見て惹き付けられた。モディリアーニの特徴とも言える、面長の女性の肖像。その表情に、何とはなしに大人の成熟のようなものを感じて、密かにあこがれた。


モディリアーニの描くジャンヌ。

 モディリアーニは、才能に恵まれながら貧困の中で苦闘し、ボヘミアン的な生活を送るという、私たちが「芸術家」と耳にすると思い浮かべる一つの典型のもととなった。病気の中でのその悲劇的な死はセンセーショナルに報じられ、結果として作品が世に知られるきっかけになったという。

 モディリアーニの悲劇をさらに深いものにしたのは、妻、ジャンヌがモディリアーニの死後2日目に、身を投げて死んでしまったことである。両親の住んでいたアパルトマンに身を寄せていたが、はかなんで死んでしまった。子どもの頃の私は、そんなことを全く知らずに、モディリアーニが描いたジャンヌの特徴的な表情を飽かず眺めていた。

 芸術というのは不思議なもので、何も知らずに見ていても何かが伝わってくる。本当のことは隠蔽されている。いちいち説明されなくても、強度のあるものは必ずこちらまで来ている。

 しかし、芸術に限らず、そもそも人生とはそんなものなのではないだろうか。通りで行き交う人たちの顔の表情から、私たちは何を読み取れるというのだろう。その人が感じてきたこと、苦しんできたこと、見てきたこと。そんなことを知らないままに、私たちは「無関心」というフィルターを他人に向けている。

 そんな中で、芸術作品は、おそらくは例外的で特権的な場所を占めているのであろう。それでも、子どもの私は、モディリアーニとジャンヌの物語など、知りはしなかった。それでも、絵は、私の心の中にくっきりとした像を結んでいた。

 知ると面白いものである。ジャンヌはモディリアーニにほれていた。ジャンヌ自身も美人だったが、モディリアーニは評判の男前。酒場で飲んだくれているモディリアーニを、ジャンヌはよく心配して迎えにきていたという。そんな生の現場のきらめきや風合いも、時間はすべて流していってしまう。残された肖像画は、そんなやわらかな命をたどる、かすかな手がかりに過ぎない。


モディリアーニその人

 たまらないよな、人生って、みんな変わっていって、やがて消えてしまうんだから。結局、私たちに与えられているのは、「今、ここ」だけだ。もちろん、モディリアーニが描いた肖像を眺めていた小学生の私が、そんなことを考えていたわけではない。

 ジャンヌは、私にとっての一つの理想の女性像となった。現実のジャンヌを知っていたわけではない。モディリアーニの描く、ちょっと小首をかしげてこちらを見ている、長い髪の女の人。そんな人がこの世界のどこかにいるのかもしれない、という思いが、子どもの頃の私にとって、一つの魅惑的なファンタジーとなった。

 今考えれば、私はジャンヌに呼ばれていたのかもしれない。

 今年の正月、モディリアーニの足跡をたどる仕事で、冬のパリを訪れた。モディリアーニがアトリエを構えていた、モンパルナスのアパルトマンを見る。中庭の木の美しいたたずまいに迎えられ、モディリアーニが毎日使っていた階段を上ると、ぎいぎいと古い木の音がした。

 モディリアーニが入りびたり、ジャンヌが心配して探しに来ていたという、件の酒場にも行ってみた。今の店主のはからいか、モディリアーニが描いたジャンヌの肖像のレプリカが懸かっている。ちょうどこのあたりに、画家と恋人は座っていたのかもしれない。もう決して戻らない、昔日のおもかげを探る。しかし、なかなかたぐり寄せることができない。

 驚いたのは、撮影クルーが移動を始めた時である。ディレクターが「それでは、ジャンヌが最期をとげた、アパルトマンに行ってみましょう」と言った。パリの街を走る車。おやっと思った。

 サン・ジャルマン・デ・プレを通り過ぎ、右に曲がる。やがて、左にフランスの偉人たちを祀った「パンテオン」が見えてきて、右前にはリュクサンブルグ公園が近づく。パンテオンに向かって左折し、道なりに右に行く。それから、パン屋さんの前を左折して、すぐに右折する。どんどん、「あの場所」に近づいていく。まさか。なんだか、胸がどきどきしてくる。

 前の年の夏のこと。ふだん、日常の雑事に追われてなかなかまとまった研究をする時間がないからと、夏に三週間パリに滞在していた。その時、暮らした街角。そう、あのパン屋さんに、毎朝クロワッサンを買いに来ていたのだった。その道を逆にたどって、撮影クルーの車は進む。

 「あの、ぼく、このあたりに住んでいたことがあるんですけれど。」

 ディレクターにそういうと、「ああそうですか」と言う。ぼくの動揺は、反響して自分に戻る。その間にも、車は、まるで魅せられるかのように「あの場所」に近づいていく。

 ついに、「ここが、ジャンヌが最後に住んでいたところです」とディレクターに教えられたときに、運命のありのままを突きつけられた気がした。そこは、まさに私が住んでいた建物と一連なりの、同じ通りのとなりの住所。書籍などで、ジャンヌ終焉の地の写真を何度もみていたはずなのに、それとは気づかなかった。その角度から立ってみると、確かにその建物である。

 呆然として、壁に寄り掛かってアパルトマンを見上げる。そんな私を、カメラが修めている。公共のようで、私的な時間が過ぎる。

 何ということだろう。モディリアーニが描いた、最愛の女ジャンヌ。子どもの頃から、画集で何度も眺めていたその人。こんな素敵な雰囲気の女性が、この世界のどこかにいるのかもしれない。そんな風の便りに耳を澄ませていた日々。

 そのジャンヌがこの地上のはかない生涯を終えた、その場所のすぐそばに私は住んでいた。毎朝起きて、ジャンヌのアパルトマンの前を通り、クロワッサンを買い、リュクサンブルグ公園に散歩に出かけ、夕陽を見つめていた。

 ジャンヌに呼ばれていた。ふりかえれば、そんな気がしてならない。もっとも、オカルトじみた意味ではない。人間には自由意志などない。それが、現代の科学の教えるところである。いろいろな要素が私たちを支え、影響を与え、通り過ぎていく。そんな宇宙の進行の中で、私の軌跡と、ジャンヌの軌跡が近づいていたのだろう。

 テレビロケがなかったら、一生気づかなかったかもしれない。ひどく動揺する体験であった。それはまた、一つの福音でもあった。私の人生には、あと幾つのジャンヌが隠れているのだろう。こんなことがあったら人生は、どこか深いところで変わらざるを得ない。


「続生きて死ぬ私」は、メルマガ『樹下の微睡み』に連載中です。
 
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2月 6, 2012 at 09:55 午前 |

2012/02/04

続生きて死ぬ私  第6回 権力者

続生きて死ぬ私  第6回 権力者

 最近、飛行機で成田に帰ってきた時のこと。

 ドアが開き、飛行機を降りて、連絡ブリッジに進み出たら、前を歩いているおじさんにさっと航空会社の人が歩み寄った。「お荷物をお持ちしましょうか」などと言って、あれこれと世話を焼こうとしている。

 きっと偉い方なのだろうな、と思った。私たち一般乗客とは異なる扱いを受ける、しかるべき理由があるのだろう。そのあれこれを見ていて、そうだ、最近、権力者というものについて考えていたのだと、夕刻の街、散歩の合間に心をよぎったことについて思い出した。

 結論から言えば、権力者になどなりたくない。権力者になどならなくていい。むしろ、一人の元気な子どもでいたい。あるいは、笑顔のかわいい老婆になりたい。取るに足らない存在でいいよ。これは、私のありったけの本気である。

 あれは、昨年の12月のことだった。パウル・クレーの取材で、北アフリカのチュニジアを訪れた。夜遅く、ホテルに着いてチェックインした。コーディネーターの方にパスポートを渡して、ロビーでぼんやりしていると、壁に肖像画写真がかかっているのに気付いた。立派な服を着て、勲章をたくさんつけている。アングルや照明にも細心の注意を払った写真。これは誰だろう? はて、チュニジアの王さまかしら、などと考えているうちに、まてよ、確か共和国だったはずだと思い直した。

 「これは誰ですか」とホテルの人に英語で聞くと、「プレジデント」がナントカカントカと言っている。それで、その人はチュニジアの大統領なのだと気付かされた。

 2010年12月当時、ベン・アリ氏は23年間の長きにわたって大統領職にあった。「独裁」との批判を受けながらも、改革の成果も上げていた。それでも、あまりにも長い政権の歪みはあったようである。情報統制も行われていた。部屋に入って、ベン・アリ氏についての英語のウィキペディアを参照しようとしたら、接続することができなかった。

 ロビーにベン・アリ氏の肖像写真が掲げられていたのは、ホテルのオーナーが取りたてて大統領ファンだったからというわけではなかった。翌日、街に出てわかったのは、大統領の写真は至る所に掲示されているということ。通りに面して巨大な看板があり、盛装した大統領が笑っている。大統領の写真の横には、政治的スローガンらしいものがアラビア語で記されている。商店街を歩くと、どんなに小さな店にも、ベン・アリ氏の肖像写真が掲げられている。まるで、至るところに「自分」というスタンプを押さずにはいられないとでもいうように。それを見ていて、正直、権力者というのは大変なのだなと思った。

 弾圧される側からすれば、鬼のような顔に見さええたかもしれない。しかし、私がベン・アリ氏の肖像写真から受けた印象は、むしろ「小心者」のそれであった。どこかに幼い面影を残した、はにかむような顔。強権を振るう段になれば、それは一変するのかもしれない。自分の肖像が国土の至るところにあることをよしとし、あるいはそれを命令すらしている男の心根。独裁者というものは、孤独である。そこまでしなければ気が済まないのだ。

 政治状況とは関係なしに、チュニジアの風景は美しかった。パウル・クレーが滞在したという海辺の別荘の周囲の風情。「私は色彩に目覚めた」。チュニジア滞在中の日記に、クレーはそう記す。「色と私は一体となった。私は画家なのだ。」クレーはこの海や空を見上げて、自分と色彩の関係を探ったのだな。そんなクレーの心根を想ってみると、そこには信頼するに足る何かがあるように感じた。

 クレーの絵は、今も人々を惹きつけている。最初は味のある線画を描く人だったが、後に色彩を空間の中に巧みに配置する「詩人」となった。チュニジアへの旅は、そんなクレーの画家人生の転換点である。

 クレーが多くの人々に影響を与えるのは、その芸術の卓越を通してである。感化と共感。強制されているわけではない。そんな芸術家の人生は誰にでも選ぶことができるわけではないが、それでも信じることができると思う。

 権力者はどうだろう。この世界に一人で立っていたら、権力を持つことなどできない。権力者とは、つまりは、他人に依存している存在なのだ。恐怖を通して、国民の生活の隅々までに自分の肖像画を入り込ませる。命令一つで、人々を動かす。そこにあるのは法律や恐怖を通した強制である。さびしいな。自分一人では何にもできないのだ。

 クレーの滞在した別荘から市内に戻る途中、突然、バイクの警官が道路を封鎖した。バスの運転手が、すっかり慣れているように事も無げに停車させる。目の前の通りから車が消えた。しばらくすると、パトカーが猛スピードで通り過ぎて、その後を黒い車列が続いた。

 「大統領が、移動しています。」

 ガイドの方がそう言った。私が子どもの頃野山で蝶を追いかけていた時、蝶たちはコンクリートなどの居心地の良い場所では素速く飛んで、緑の中など、快適な環境ではゆったりと飛んでいた。

 はて、チュニジアの街中は、大統領にとって居心地の悪い場所だったのかしら。私は、さっきまで見ていた海辺の別荘を包む気持ち良い風を思い出そうとしていた。

 チュニジアから日本に帰り、年が明けると世の中が動き始めた。ツイッターやフェイスブックが道具となって、チュニジアで「ジャスミン革命」が起こり、ベン・アリ大統領は国外に脱出した。私は、パウル・クレーの「黄色い鳥」にインスパイアされた絵に取り組んだが、うまく描けなかった。

 画家って大変だな。キャンバスの上の自分の手の動きが全て。誰にも頼めない。命令できない。逃げ出しようがない。そんな人生を、私は送っていきたいな。

 チュニジアの国内から、大統領の肖像画はすっかり消えてしまったのだろうか。国を追われ、ただの人になったベン・アリさんに、会ってみたい。一人で海を見ている彼の表情は、もっとずっと落ち着いていることだろう。その内側から響く音楽に、耳を傾けてみたいと思う。人間は、結局は一人なのだ。
 
「続生きて死ぬ私」は、メルマガ『樹下の微睡み』に連載中です。

http://yakan-hiko.com/mogi.html

2月 4, 2012 at 04:25 午後 |