大学のガラパゴス化(茂木健一郎 「日本八策 再生への処方箋」第一回より)
「新潮45」 連載 茂木健一郎 「日本八策 再生への処方箋」第一回より、「2、大学のガラパゴス化」をここに公開いたします。
「1、 日本の危機」、
「3、「ものづくり2.0」への不適応」
「4、「黒船」の正体」
「5、日本八策」を含めた全文については、現在発売中の「新潮45」2012年3月号
http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/
をご覧ください。
2、大学のガラパゴス化
一つの価値基準、一つの文脈から見れば優秀であるが、一方で柔軟性を欠くことになる。結果として、日本の国内市場の中では通用するけれども、グローバル化した世界では意味を持たない制度やシステムが温存されることになってしまう。これが、今の日本の危機の象徴である。
それを象徴するのが、「ガラパゴス化」という言葉。ある視点から見てすぐれた「部分最適」にはなっても、全体から見た「全体最適」にはならない。つまりは、グローバルな地球社会に貢献するような価値に結実しない。そのことが、急速に「ソフト化」し、「ネットワーク化」する世界の中で、日本の変調、凋落をもたらしている。
「ガラパゴス化」という言葉は、2009年くらいからメディアの中で見られるようになったと記憶する。他の「流行語」とは異なり、「ガラパゴス化」という言葉が指し示している日本の病理は、そう簡単に解消されそうもない。むしろ事態は慢性化、膠着しており、その実態から目を背けては、日本の未来はない。
たとえば、大学。日本の大学は、明治期において、ヨーロッパの技術や文化を輸入して、日本の隅々まで行き渡らせる「文明の配電盤」として役割を果たした。最初は「御雇い外国人」が外国語で直接講義していたが、そのうちに日本人が講義をするようになり、学問は急速に「日本語化」して行った。
ある文化圏の中にもともとない概念を移入するのは難しいとされる。明治期の日本人は、乃木希典さんの漢詩に見られるような、深い漢文の素養を持っていた。文明開化の前の「概念宇宙」がもともと十分に広く深いものであったことが、学問を日本語化する上で大きな意味を持った。
「科学」、「自由」、「経済」、「時間」、「空間」などといったいわゆる「和製漢語」は、明治期の日本人がその漢文の素養を駆使して生み出した偉大なる遺産である。私たちは、明治期に作られたこれらの言葉を、今日まるで空気のように使いこなして日本語の学問を展開している。また、これらの言葉が漢字の母国である中国にも「逆輸入」されて、使われることにもなった。西洋列強が圧倒的な力を示していた当時の世界で、祖先が成し遂げた学問の日本語化は、私たちの誇りである。
日本語で一通りの学問ができるようになった結果、今日に至る日本の大学の「かたち」が出来上がった。それは、一つの偉大な革命であった。「文明の配電盤」として、欧米の先進的な文化、技術を日本に紹介し、広める役割を果たしていた頃の大学は輝いていた。東京大学をピラミッドの「頂点」とする大学の「序列」も、そんな時代の中でつくられていったのである。
時代は流れ、その日本の大学が、「ガラパゴス化」の危機に瀕している。日本語で学問ができるようになったのは、一つの偉大な成果だった。しかし、それゆえに、日本の学問、とりわけいわゆる「文系」の学問は、世界と切り離される結果となってしまった。
自然科学の研究者たちは、英語で論文を書くということを基本としている分、まだしも良い。それでも、日本人研究者には多くの人が指摘する弱点がある。体系的な「レビュー論文」を書いたり、まとまった思想、世界観を一冊の本として提示するような仕事は、きわめて少ないのである。
文系の研究者は、残念なことに多くが「内弁慶」になってしまっている。もちろん、諸外国の最先端の学術情報を日本語で伝えるという営みは尊いし、時にクリエイティヴである。翻訳は、現在のところコンピュータ上のプログラムではなし得ない高度な作業であり、日本の文系の研究者たちが、原著の翻訳、紹介を業績の一部と見なしてきたことには正当性がある。
問題は、学問の表現が日本語に大きく依拠していることである。もちろん、文系の教授たちだって、国際会議に行って英語で発表したり、議論することはある。ところが、理系の研究者と同様、レビュー論文や著作を通しての体系的、総合的な世界観の提示という分野においては、なかなかインパクトのある論者が出ない。何しろ、学問の成果を公刊し、流通させるための手段としての「日本語」の吸引力があまりにも強いのだ。
さらに深刻な問題がある。現代の多くの問題、たとえば貧困の解消や、教育の充実、エネルギー問題、環境保護、持続可能な成長といった地球規模の課題を解く上では、文系、理系という垣根を超えた学際的なアプローチが求められている。ところが、なかなかそれができない。さまざまな分野の最先端の成果を世界に通用する言葉で共有する知的インフラを欠いているからである。
文系、理系に関係なく、現代の地球規模の学術情報における「リングワ・フランカ」(共通語)である英語で成果を発表し、議論し、教育するという「圧力」が足りないために、日本国内の大学の世界的プレゼンスが向上しない。特に学部学生の段階においては、十分な数の留学生を受け入れる体制になっていない。国際化の停滞は、英国タイムズ誌が毎年発表する「世界大学ランキング」において、国内最高が東京大学の30位という、低い評価にもつながっている。
あげくの果てに、大学3年から就職活動が始まる「新卒一括採用」の下、大学が「就職予備校」と化している。日本の企業の関心は、18歳の段階でどんな入試を通ってきたかという点にあるのだという。これでは、知的な創造性が最大の付加価値を生み出す現代の世界において、グローバルな競争を勝ち抜くことなどできない。
学術情報や技術のイノベーションが国境を超えて流通し、世界的な大競争が行われている現代において、日本の大学の「真価」が問われている。日本語を母語とする人しか受験できないような入試を続けている日本の大学は、ガラパゴス化の典型である。
茂木健一郎
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