続生きて死ぬ私 第5回 丸薬を飲み込めなかった。
続生きて死ぬ私
第5回 丸薬を飲み込めなかった。
自分という存在が、果たして他人に受け入れられるのかどうか。私たちの幸せは、多くが、その一点にかかっている。誰も、一人では生きてはいけないのだ。
もしも誰かに受け入れられたら、それは奇跡のようなこと。多くの場合、何とか大丈夫。誰かが受け入れてくれる。
だけど、どうしても、自信を持てない時間がある。自分という存在が、イヤで、こわくてたまらない。自分自身がどうしても受け入れられない。そんな、人生の季節があるのだ。
私もそんなことがあった。神経質な自分が情けなくて、どうにかしたくて、でもどうにもならない。そんな気持ちが、心の奥の中にしまわれてしまっていた。しまわれている分、やっかいだった。
このところは、対人関係にそれほど悩まずに、何とか暮らしている。でも、子どもの頃のことを考えると、随分といろいろなことがあったように思う。自分が他人に受け入れられる存在だとは、どうにも思えなかったこともあったのだ。何よりも、自分で自分のことを持てあましていたのだろう。
時々、「茂木さんはいつ今のようになったのですか」と聞かれることがある。本当は、何も変わっていないのかもしれない。心の奥底で、「オレは、他人に受け入れられるのだろうか」と震えている自分がいるのだ。
私は子どもの頃、「自家中毒」という病気によくかかった。神経質な子どもがかかるのだという。元気に遊んでいて、突然、気持ちが悪くなってしまうのである。
今でもはっきり覚えている。家の近くの児童公園で、仲間たちと飛んだり跳ねたりしている。野球をしたり、サッカーをしたりしている。そのうちに、どういうわけか、胸が気持ち悪くなる。家に帰って寝込む。
そうなると、近くの菱川さんに連れていかれた。先生が診る。菱川さんの白衣の姿に触れると、安心した。難しい顔をして、菱川さんが診察する。そうして、「自家中毒ですね」と言う。先生の口元が、少しゆるんでいる。ああ、大変な病気ではないのだと、身体の底から安心する。
「ジカチュウドク」。最初にその言葉を耳にしたのは、5歳くらいの時ではなかったか。もちろん、意味はわからない。ただ、どうなるかは知っていたし、治るプロセスにも慣れていた。何しろジカチュウドクになったのだから、しばらく眠っていればまた直る。ジカチュウドクは、自分の生活の一部分のようなものだった。
苦手だったのは、薬だった。菱川さんが「じゃあ、薬を出しておきましょうね」と言うと、身体が緊張する。「粉薬がいいかな、それとも丸薬がいいかな。」答えがわかっているのに、菱川さんはそういう。子どもの私をそうやって試していたのだ。
「すみません、まだ、粉薬しか飲めなくて。」
隣りで母がすまなそうに言う。私は、ジカチュウドクの気持ち悪さよりも、「ああ、私は丸薬が飲み込めないのだ」という事実の方に、かえって打撃を受けていた。
どうしてもダメだった。手のひらにのった丸薬が、あり得ないほどの巨大な塊に見えて、これが喉を通っていくなどということが、想像できなかった。何とか飲み込もうとして口に入れ、水を飲む。ところが、喉の奥で、引っかかってしまう。もう一度挑戦。やっぱり、戻ってくる。そのうちに、丸薬が溶け出して、何やら苦い味がしてくる。
「健一郎、いいかい、もしこの薬を飲まなかったら、死んでしまうとそう言われても、やっぱり飲めないのかい?」
見守っていた母が言う。そう言われても、どうしても飲み込めない。二つ下の妹が、苦もなく飲んでいるのに、私にはできない。それが自分でも情けなくて仕方がなかった。
そこで、菱川さんは、粉薬を出してくださるようになった。「本当は丸薬の方がいいんだけど」と言いながらも、処方してくれる。私はただただ有り難く、しかし一方で口の中に苦い味がするのは、やっぱりイヤだった。
どうして、あの頃、丸薬が飲み込めなかったのだろう。それがどうも、自分が他人に受け入れられるかどうか不安で震えていた、私の神経質さと関係があるように思えるのである。
丸薬がようやくのこと飲み込めた瞬間のことは、よく覚えている。あれは小学校2年の時だった。菱川さんが「もう大丈夫でしょう」と処方して下さった薬を飲んだら、ちゃんと飲み込めた。ごくんと、水と一緒に薬が喉を通って入っていった。あの時の、不思議で、飛び上がりたくなって、身体がほっと温かくなるような気持ちは、ずっと忘れられない。
哲学者のニーチェが、『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で、喉の奥を蛇に噛まれた男の話を書いているのを知るのは、ずっと後のことである。男は存在の不安に震えているのであるが、やがて、蛇を噛み切って立ち上がる。目がらんらんと輝いている。男は、超人になったのだ。高校の時に、この話を読んで、私は、丸薬をどうしても飲み込めなかった幼い日々のことを思い出した。
飲み込めるかどうか。思い切れるかどうか。そのような通過儀礼が、人生にはたくさんあるように思う。エイヤっと飲み込んでしまえば、次の自分に行ける。だけど、なかなか踏み切れずに、いつまでも丸薬を舌の上で転がしている。そのうちに、生きること自体の苦い味が、自分の舌を痺れさせていく。
飲み込めない苦しさ。飲み込めた喜び。今でも、きっとたくさんの丸薬が舌の上に転がっているに違いないと思って、時々人生をふり返ってみる。
「続生きて死ぬ私」は、メルマガ『樹下の微睡み』に連載中です。
1月 27, 2012 at 07:48 午前 | Permalink
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