蝶の胸 (『生きて死ぬ私』より)
私は、少年の時、昆虫採集をしていた。
ヘッセ、北杜夫、養老猛司。様々な人が、少年の時の昆虫採集の思い出を、一つの究極の幸せのイメージとしてとらえている。
なぜ、男は、少年時代に幸せのイメージを託すのだろうか。
私にとって、夏の森の緑の中で、どこから現れるかわからない蝶を待ちつつあるあの気配は、最も濃密で幸せな生の記憶と結びついている。
だが、ある時から、私は、突然、蝶を採るのをやめてしまった。蝶の胸を潰すのが、いやになってしまったのである。ちょうど、思春期を迎えるころだった。
蝶の採集をし、標本をつくる時には、羽根をいためないように、すぐに胸を潰して殺してしまう。もっとも、潰すと言っても、正確には胸を圧迫して、窒息させてしまうのだ。
小学生の時、北海道の網走の原生花園に行った時には、十数匹のカバイロシジミの胸を潰した。青くやさしいたおやかな蝶たちは、ローカル線の無人駅の周りに咲き乱れる花を訪れていたのに、私のネットにとらえられてしまった。彼らは、自分のそんな運命を予想だにしていなかったろう。
そして、カバイロシジミは、私の指の間で死んでいった。
蝶の中枢神経系など、たかが知れている。むねをつぶされた時、蝶は人間のような意味では、何も感じないのかもしれない。そうでなくても、初夏の草原は死に満ちあふれている。飛び回って傷ついていった、カバイロシジミの死体に満ちあふれている。
だが、いつの日からか、私は、自分の指がこの節足動物たちに早すぎる死をもたらすことを、何となく気分の悪いことと感じるようになってしまった。
荘子は、蝶が夢を見て人間になっているのか、人間が蝶の夢を見ているのかわからないと書いた。
蝶は、私たちに、生命というもののはかなさ、時間の経過の不思議さについて語りかけているように思われる。
私が、将来また蝶を採集する時があるかどうかわからない。ネットに収まった蝶の震える胸を指でつぶすことができるか、それはわからない。
私の心の中には、私の指の間で死んでいった蝶たちの生の震えの感触が残っている。
茂木健一郎『生きて死ぬ私』(ちくま文庫)より
1月 17, 2012 at 06:06 午前 | Permalink
最近のコメント