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2011/12/09

続生きて死ぬ私 第二回 科学の情熱

 東日本を未曾有の大震災が襲ってから約1ヶ月後、私は日本を離れた。
 飛行機がヒースロー空港に向かって高度を下げて行くにつれて、私の中で、何とも言えぬ感情が芽生え始めた。
 これから私は、きっと、今私たちに起こっていることの事実を、「外」から見ることになる。
 信じられないほどの災害。日々の圧迫。そんな中で、一生懸命努力している人たちの姿。これから、私たちの国はいったいどうなってしまうのか。いつ、元通りの、日差しの中のひなげしのような微笑みが戻ってくるのか。

 ロンドンで会った人たちは、みな一様にやさしかった。目を合わせ、握手するとすぐに、彼らから心からの言葉が流れ出し始めた。
 「今回の、あなたの国で起こっている災害について、一体どのような言葉をお伝えしてよいのかわかりません。」
 「私たちの心は、あなたとともにあります。」
 「この大変な事態において、日本の方々が示している忍耐力と勇気に、心からの敬意を表します。」
 「日本の状況を見ていると、9・11テロが、何でもなかったかのようにさえ思えてきます。」
 「ある国民の本質は、このような危機の時に明らかになるのではないでしょうか?」
 いつもはクールな、感情をそう簡単には表さないイギリス人たち。彼らが慰めの言葉を発するのを聞いているうちに、私の心の中で何かが溶けていくのが感じられた。

 実際には私は泣いたわけではない。涙をこぼしたのではない。しかし、ホテルに戻ってベッドに横たわり、一日の出来事をふり返っている時に、こんなことを思い出した。
 子どもって、どこかで遊んでいて転び、怪我をしても、その場では泣かないんだよな。我慢して家に帰って、母親の顔を見た瞬間に、火がついたように泣き出す。そんなところがある。何故って? 親の顔を見て安心する、ということもあるけれども、本質は人間の社会性にある。
 涙は、他者がそれを目撃して初めて意味を持つ。泣くほど哀しいということが相手に伝わって、何かが達成される。そしておそらくは、「自己」の中にも「他者」が顕れる。哀しいから泣くのではなく、泣くから哀しい。自分が泣いている、というその状態を「目撃」することでかえって、私たちは、自分自身へと回帰していくのだ。
 まだまだ大変な状況にある、私の母国。これからも、緊張と不安は続いていく。しかし、第二の故郷とも言えるイギリスに身を置くことで、私の中の「社会性」が、美しいかたちでほぐされ、そしてバランスを回復していくのかもしれない。そんな手応えがあった。
 まだまだ、あるはずだ。できることが。日本は、こんなことで終わってしまう国ではない。そして、ちっぽけな私にできること。ささやかな、しかし確かな伏流となって続いていくもの。

 ロンドンからケンブリッジに移動した。なつかしいキングス・クロス駅。二年間留学しているその間、ロンドンとの往復の道を何度通り過ぎたことだろう。
 一時間ほどでケンブリッジに着く。改札が自動になっていて驚いた。駅から歩いていくと、やがてパーカーズ・ピースに出る。大きな緑地の中を、細い通りが交差している。リージェント・ストリートに出てしばらく行き、左折すると、そこが生理学研究所のあるダウニング・サイト。私が御世話になったホラス・バーロー教授の研究室がある。
 さらに進んで右に曲がると、DNAの二重らせん構造を発見したジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックがいたキャベンディッシュ研究所。彼らがしばしば訪れ、ビールを飲みながら議論したパブ「イーグル」はその先だ。
 イーグルの前の道を進み、右に曲がると、壮麗な建物が姿を現す。キングス・カレッジ。ここのチャペルは音響がすばらしい。一度、ヘンデルの『メサイア』を聴いたことがある。名前が示すように、イングランドの王様たちがここで学生時代を過ごした。
 キングス・カレッジの前を通り過ぎ、細い道に入ると、やがて左手にトリニティ・カレッジが姿を現す。トリニティ・カレッジの正門、「グレート・ゲート」は大きく、そして美しい。右手の芝生の上には、アイザック・ニュートンが重力を発見するきっかけとなったリンゴの木の、その子孫だと伝えられるリンゴが植えられている。

 グレート・ゲートの前でしばらく待っていると、木戸を開けてホラス・バーローが出てきた。
 「やあ、ホラス」「やあ、ケン」。ホラスの顔を見ると、安心する。私が留学していた1990年代半ばと、あまり変わっていない。考えてみると凄いこと。何しろ、ホラスは、1921年生まれ。今年の12月が来ると、90歳となるのだ。
 ホラスは、トリニティ・カレッジのフェローである。トリニティ・カレッジは、ケンブリッジを構成する30余りのカレッジの中でも、名門中の名門。重力を発見したアイザック・ニュートンを始め、電子を発見したJ・J・トムソン、電磁気学のさまざまな法則を明らかにしたクラーク・マックスウェルなど、錚々たるメンバーが在籍した。トリニティ・カレッジだけで、30名以上のノーベル賞受賞者を輩出している。
 ホラスと一緒に、トリニティ・カレッジの「グレート・コート」を歩く。いつものように、ホラスが最近やっている実験の話をする。90歳を前にしても、ホラスは、精力的に研究を続けている。今は、運動視のメカニズムを、ランダムに動き回るドットの刺激を用いて研究している。どのような相関が、神経細胞によって計算されて「動き」の認識へと結びつくのか。若くして、ウサギの網膜で「動き」に反応する神経細胞を発見して以来の、ホラス・バーローのライフ・ワークだ。
 ホラスは、『種の起源』でさまざまな生物がどのように進化してきたかを明らかにしたチャールズ・ダーウィンのひ孫にあたる。陶磁器のウェッジウッド家にもつながる、名門の出自。留学中、そしてその後のたびたびの訪問を通して、私がホラスから学んだことは数限りない。
 何よりも、科学が最初にある。ホラスからは、この世に生を受けた以上、それを理解せずにはいられないという執念のようなものを感じる。その「情熱」は、何に由来するのか。ホラスと会う度に、私は考える。
 トリニティ・カレッジは、美しい。あまりにも美しい。年を経た建物に這う植物は、細心の注意を持って手入れされている。庭園の美しさは、一つの「叡智」の顕れでもある。トリニティ・カレッジだけで、30人の専門の庭師がいるのだという。

 「ケン、君の方は、最近は何をしているの?」ホラスが聞いた。私は、顔の認識のメカニズムについての研究を説明した。自己と他者の顔の認識が、どのように関わっているか。「鏡」の中の自己を認識できることから始まるもの。
 「それと、ロンドンのパトリック・ハガードがやっているような、主観的な時間の成り立ちについての研究をしています。感覚と運動の連合を通して、主観的認識がどうやって認識されるか。そのメカニズムを、研究しているのです。」
 ホラスが日本の地震、津波、そして原発事故のことについて触れたのは、研究の話が30分ほど続いて、一段落した頃のことだった。
 決して、関心がないというわけではない。そんなホラスの心の温度は、伝わってくる。まずは、研究の話をする。それはいつもそう。それから、さまざまな個人的な話が始まる。
 「日本でのさまざまは、私も聞いているよ。。。」
 控え目な、しかし、しっかりとしたホラスの言葉の端々に、重大な関心を持ってそれを見ているという人間の温かさと、それから、科学者としての冷静な目が感じられた。


ホラス・バーロー教授。ケンブリッジのトリニティ・カレッジにて。

 ホラスと別れて、ケンブリッジの街を歩く。あちらこちらに、自分の思い出が埋まっている。クオリアのことを考えながら、さ迷い歩いた道。私はどこに来て、どこに向かおうとしているのか。その行く末は、私なりのやり方で、ささやかに、微力ながら自分の国のためにがんばるという思いと重なるように見えた。
 個別のことを離れるからこそ科学となる。一つひとつのプライベートな事情にこだわっていては、客観的で、普遍的な法則には至ることができない。その一方で、私たちの人生が、その一つひとつの瞬間が、後生大事なものであることも事実である。

 ここには、一つの深い謎がある。自然法則に従って変化する、広大な宇宙。その中に生を受け、懸命に活き、やがて死んでいく私たち。意識をもった私たちの中に顕れ、通り過ぎていくさまざまな現象。客観と主観は、いったいどのように結びついているのだろう。
 対象から、自分を離すこと。その「ディタッチメント」の精神にこそ、私は感染したのではなかったか。ケンブリッジで得たもの。この世に生を受けた喜びと哀しみ。遠く離れて、初めて見えてくるもの。結局、私たちは、主観と客観のその間を、行ったり来たりするしかないのだろう。
 科学の「情熱」は、きっと、自分自身を見つめること、逃れられない境遇を引き受けること、そんな「受難」から発しているのだろうな。

 夜、パブを出て、オレンジ色の街灯に照らし出されたケンブリッジの街を歩く。再び、できるだけ早く、ホラスに会いに来ようと誓った。

「続生きて死ぬ私」は、メルマガ(樹下の微睡み)に連載中です。

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12月 9, 2011 at 10:53 午前 |