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2011/12/18

続生きて死ぬ私 第三回 桜の樹に追いつくこと

 桜の樹には、何か尋常ならざるものがある。そのことを、私たちはうすうす知っている。そのような直観を、梶井基次郎は短編『桜の樹の下には』の中で、次のように見事に捉えられているではないか。

桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

 何という、印象深い言葉だろう! 梶井基次郎と花見酒を酌み交わすことができたら、どんなにか良かったろう!
 生きることは恐ろしい。息づくことは美しい。私たちの存在の恐ろしさと美しさは、きっと、一つにつながっている。
 小学校に上がる時、あれは3月の下旬だったか、学校の体育館に集められて身体測定をした。片隅に積み上げられたマットの匂いや、入り口に並べて脱がれた上級生のうわばきや、ちょっと赤く錆びた鉄の棒に何か得体の知れないものを感じた。胸がきゅっと締め付けられるような思いがあった。鼻がつんとした。
 やがて、入学式になった。真新しいランドセルをしょって、学校への道を歩いた。太陽が照り返されて、やたらと白く見えた。式が終わると、それぞれの教室に入った。後ろには保護者たちが立った。その中には、私の母親もいた。担任は、新井梅子先生。新井先生のお話を聞いているうちに、ついついほおづえをついた。そうしたら、新井先生に見つかった。「あらあら、ぼく、退屈しちゃったかな」と言われた。はっとして顔が赤くなった。
 教室の後ろにいる保護者たちが一斉に笑った。ひどいことに、うちの母親まで大声で笑った。ぼくは、頬が真っ赤になった。自分でもわかるくらい、ほっぺたが熱を発していた。
 恥をかくこと。人前にさらされること。自分の中に、何かをため込むこと。それは、間違いなく、生きていることの証しだった。ぼくの中で、何かがすでに爛熟していたのだろう。膿んでさえいたかもしれない。
 やがて、母親たちと一緒に校庭に出て記念撮影をした。その時には、もう頬の火照りはだいぶよくなっていた。外を吹く風がさわやかだった。その風の中で、私は、確か、そうだ確か、満開の桜の樹を見上げたのではないかと思う。
 あふれるばかりの生命力で、桜の花が咲いている。それを見上げる私がいる。瞳に、桜が映っている。何かが通じ合う。私の中の何かと、桜の中の何かと。そして、桜の樹の下には、豊かな滋養をたたえた土が広がっている。
 桜の花が咲く下を、ランドセルを背負った小学生たちが登校していく。そんな光景は、私たち日本人にとって、ほとんど不動不滅のアイコンのようなものになってしまっている。最近でこそ、地球温暖化の影響か開花の時期もだいぶずれてしまって、入学式の時にはもはや桜が散ってしまっていることも多くなった。しかし、あの頃は、桜たちはずいぶんと日本人の情緒の文法に律儀だった。

 生命とは、絶えざる変化のことであるならば、その移行の先には必ず「死」がある。生命は、屍を乗り越えて横溢していく。桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 生きるということが、こんこんとした泉のようにあふれ出るものだからこそ、時は流れていってしまうものだからこそ、二度とも戻らないからこそ、私たちは、満開の桜を見ると、とにかくもう、どうすることもできなくなってしまって、その下に座り、見上げ、嘆息し、筵を敷き、酒でも飲まずにはいられなくなるのだろう。
 だからこそ、「花見」がある。それは決して遊興や贅沢ではない。とにかくもう、満開の桜の花を見たらそうせずにはいられないという、私たちの生命の切ない叫びがそこにあるのだ。

 満開の花を見てうわあと思う。叫びたくなる。どうしたらかいいかわからない。先生に注意される。ほっぺたが火照る、校庭に出る。さわやかな風。母親に手を引かれる。満開の桜の下を歩く。マットの匂い。上級生のうわばき。赤く錆びた鉄棒。桜の思い出。記憶の古層。

 今年の桜の樹は、少し可哀想だった。
 みんな、桜の花びらを愛でる気持ちの余裕を失っていたのではないか。何とはなしに、桜を見上げることにすら罪悪感を抱いていた。街を歩きながらふと、桜のつぼみが膨らんでいることに気付いても、あたかも視野に入らぬかのようにそそくさと通り過ぎた。そんな時の流れがあった。
 あれほど欠かさずにやってきたお花見もせずに、時は過ぎてしまった。気付けば、東京の桜は、すっかり散ってしまっていた。そういえば、いつも花びらがちらちらと落ちる頃に舞う可憐なツマキチョウも、今年は目撃せずじまいだった。モンシロチョウに似た、少し弱々しく飛ぶ、羽根の先端がオレンジ色のその姿を見なければ、春が来ないかのように感じていたのに。私は、すっかり風に流される気持ち良さをとんと忘れてしまっていたのだろう。
 未曾有の震災に襲われた日本。花見ができないというくらいで、とやかく言うべきではない。わかってはいる。それでも、満開の桜を逃し、ツマキチョウも見失ったそのダメージは、思ったよりも重かった。
 桜の花は、自らの生命を横溢させるだけのことである。人間がそれを見ようと、見なかろうと、桜の生命の本質には関係がない。誰もその音を耳にしていなくても、森の中で樹木は倒れる。それでもなお、人に見られることなく散っていった無数の桜の花たちのことを思う時、私は心が落ち着かなかった。
 桜の花、という現象自体に対してではない。それを私たちがどう受け止めるか、その人間側の心の淀み、枯れ、失われてしまった機会を思い、そしてそのような齟齬をもたらした未曾有の災害の恐ろしさを思い、私は惑っていたのである。

 東京の桜がすっかり散って、新緑が目に沁みるようになってきた4月も下旬のこと。私は仕事で大阪に行った。新幹線に乗るという、かつては「日常」だったはずのことが、とにもかくにもうれしく、有り難かった。
 文明は、その細部の一つひとつが、もはや魔法なのだから。
 仕事の場所は、大阪城に近かった。考えてみれば、大阪には数限りなく通っているのに、お城をきちんと見たことがなかった。遠くからあああれだと眺めたことはある。それでも、お城に近づこうとしなかったのは、大阪には楽しい場所がたくさんあると同時に、何かが邪魔をしていたのだろう。
 間近に見た大阪城は、思った以上に壮大で、華麗だった。まずはお堀の石垣の高さに度肝を抜かれた。天守は再建されたものである。当時の絵画を元に描かれたという壁面の虎が、大阪人の気概を表しているように見えた。
 「ああ、これがタイガースか。いっちょ、やったるか!」
 同行の二人につぶやいた。
 知らないということは恐ろしい。もっと以前にお城を間近に見ていたら、私の中の大阪のイメージも変わっていたことだろう。蝶の羽ばたき効果。小さな変動が、やがて大きな違いに通じる。人生はだから、どんな些細なことでも、おろそかにしてはいけない。その一方で、私たちは、一度には一カ所にしかいることができない。
 そうして、奇跡は、お堀をぐるりと回ってホテルに戻ろうとしていた時に起こった。梅林の中を歩いていると、前方に白い印象の樹が現れた。梅の木たちは、もちろんのこと花はとっくの昔に散っていて、今はごつごつとした肌に緑の点々を繁らせている。そんな中、日がすっかり傾いた薄暮の中、あくまでも白く輝くその樹の印象は、心の中にぽっと灯った希望のようでもあった。
 何だろうと思って近づいた。しだいに精しくなっていく。
 驚いた。
 桜だ!
 満開の桜。いや、よく見ると、小林秀雄が生前「見頃」だと言っていたという、ちょうど7分咲きの頃。ぽつんぽつんと蕾がまだある。わかわかしくて、優美で、勢いにあふれていて、それでいて少しも押しつけがましくない。
 「こんなのがいいな」と頭の中で思い描くような、そんな理想の姿をした桜が、目の前にあった。季節もすっかり過ぎてしまった時期に、東京よりも西で温暖な印象の大阪の街で、壮麗な大阪城の虎が見下ろすその場所に、私の桜は咲いていた。
 一体全体、想像しているだけなのだろうか。どんなに疑って見ようと思っても、桜はあくまでも端正な美しさの中に咲いている。みれば見るほど、ほれぼれとするほど可愛らしく、美しい桜の樹。私は、心を奪われて、いつまでもその優しい姿を眺めていた。
 私の桜は、こんなところにあった。
 奇跡って、こんな風に訪れるんだろうな。すっかりしょげかえって、大切な機会を逃してしまったと確信して、それでも、前に進もうと思って、砂利道をとぼとぼと歩くことを覚悟していて、上の唇をぎゅっと締めて、脇目もふらず進んでいる時に、こうやって、一撃で心を溶けさせるような何かが、自分の前に現れるということがあるんだろうな。
 人生は、ひょっとしたら、後からはっと気付いても、取り返しがつくものなのかもしれない。私はああ、そうか、と思って、ぐるりと回転した。風の流が戻ってきた。それから、城を一緒に観に来た仲間と、すっかりはぐれてしまっていることに気が付いた。
 
 流れが、私を充たす。もはや、どこにいるというわけでもない。過去が押し寄せる。先生に注意されてほっぺたが熱くなり、それから、爽やかな風の中を母親に手を引かれて歩いた、満開の桜の樹。あの遠い日からずっとつながっているものが、自分の心の中にようやく解きほぐれていく。
 そして、再びちろちろと流れていく音がする。蕾がふくらんでいく。
 ああそうか、まだ、ここにあったんだ。
 ようやくのこと、桜の樹に追いついたのである。

「続生きて死ぬ私」は、メルマガ『樹下の微睡み』に連載中です。

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12月 18, 2011 at 08:33 午前 |