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2011/12/30

ぼくが突然歩き出したのは、もう終わろうとしているこの年の正月のことだった

長い距離を歩いていると、街のレイアウト、呼吸のようなものが見えてくる。

駅から遠ざかると、次第に家々の間の暗闇が濃くなってきて。しっとりと包まれる。黒い樹木のシルエットがあると、ああ、このあたりは昼間は鳥たちが飛んでいるのだろうなと思ったり。思わぬ小径を見つけたり、小川の流れが聞こえてきたり。

そしてふたたび、だんだん明かりが増えてきて、商店街の看板に迎えられると、ああ、次の駅に来たんだと気づくのだ。

ぼくが突然歩き出したのは、もう終わろうとしているこの年の正月のことだったけど、それ以来思い立っては一時間とか二時間とか、時には四時間も移動の時に歩くことがある。

どうしてだろう、と思うけれども、結局、その間のひんやりとした時間が好きなのだということに気づく。

目的があるわけではない。ただ、その活動に没入することがうれしいだけ。

そんな時間が、人生を作っていくのであればと思う。

12月 30, 2011 at 08:17 午前 |

2011/12/23

ECHOES 連帯の日 TOKYO 2011

田森佳秀と、表参道のクリスマスツリーの前で待ち合わせて、てくてく歩いていった。

途中、代々木公園で「缶コーヒーでも飲む?」と聞いたら、田森が、「えへへ、もう飲んじゃったよ」という。あやつ、マイ魔法瓶を持ち歩いていて、それでスタバで入れてもらったらしいのだ。

「こっちだよね」

「オレ、実は、ロックとかポップのライブ行くのは初めてなんだ。」

「オレもそうだよ。」

「あっ、ロッカーあった。ここに荷物入れておくか。」

「うん、そうしよう」

なんて、初心者めいた会話を交わして席に座ったら、普通に指定席だった。
荷物、持ってくればよかったな。

そしたら、中山美穂さんがいらして。それから、野口美佳さん、GLAYのTERUさん、高橋源一郎さんや津田大介さんがわらわらと周囲にいらして。

ステージの真ん中には、

ECHOES
連帯の日
TOKYO
2011

と書かれた幕が下がっている。

辻仁成さんの演奏を生で聞くのは初めてだったけど、とってもよかった。何よりも辻さんの人柄が伝わってきて。

辻さんが、「きみたちが入ってくるのを実はモニターで見ていたんだけど、オレたちも年をとったなあって。あと、男が多いね。ECHOESでやると、マッチョになるんだよ。」
と言っていたけれども、その辻さんは、確かな男性らしさと、それから繊細な女性らしさを合わせもっていて、要するに不思議なアマルガムになっている。

そこが、魅力的なんだな。

だいたいにおいて、目が離せない人は、何か危うげで怪しげなものを持っている。だから、はらはらして目が離せなくなるのだ。

「あの頃は、バブルで、ちょっとひねたことを言っても伝わったけど、この頃は、まともなことを言っても隠蔽されたり、そもそも何が真実なのかわからなかったり、だから、ぼくたちは、ストレートに目セージを出すことにしました」と辻さん。

曲の合間に、「今、歌詞違ったけど気付いた? 間違ったんじゃないよ、この場で新しく作ったんだよ。」
なんて話す辻さんの語りが、とてもチャーミングで。

となりで、高橋源一郎さんもゆらゆら笑っていらしたな。

最後に、ECHOES福島LIVEを受けて、語った想い。

「国難ともいうべきとき。ぼくは左でも、右でも、真ん中でもありません。外れた人間。ここに来ているみんなも、外れた人間だよね!」

もちろん、ぼくも、外れた人間だよ。

外れた人間だからこそ、この世のためにできることがある。そう信じたいやね。

ECHOESライブは、まさに、「連帯の日」だった。

辻仁成さん、バンドメンバーのみなさん、すばらしい時間をありがとう。

12月 23, 2011 at 09:54 午前 |

2011/12/21

ユニクロによる「通年採用」の開始について

昨日発表された、ユニクロによる、「学年、新卒・中途、国籍を問わない」かたちでの「通年採用」の開始を、心から歓迎するとともに、ユニクロの英断に賛辞と敬意を表します。

ユニクロの方針は、社会に付加価値を提供し、自らも利益を上げ、仕事にかかわるものが人生を全うするという企業経営の合理性をつきつめた結果だと私は考えます。

日本の企業において一般的な「新卒一括採用」の慣習は、学生から貴重な勉学の機会を奪うだけでなく、多様なキャリア形成という今日の世界においてもっとも大切な価値を損ない、結局は企業の人的資源を劣化させるものであり、一日も早い是正が望まれます。

ユニクロの先端的な試みが日本の他の企業にも広がり、グローバル化する世界において、真に付加価値を生み出す企業が日本からさらに生まれていくことを、国を愛するひとりの人間として心から願うものです。

2011年12月21日 茂木健一郎


参照:
ユニクロ、通年採用を開始(プレスリリース)

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12月 21, 2011 at 09:46 午前 | | コメント (39)

2011/12/20

「今年のウェブサイト」2011年、『虚構新聞』

昨年は、 私が個人的に選んだ「今年の人物」2010として、国際部門でウィキリークスのジュリアン・アサンジュ氏、国内部門で上杉隆氏を選出させていただきました。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/12/post-ed5e.html

私が個人的に選んだ、「今年のウェブサイト」2011年(website of the year 2011)は、『虚構新聞』です。

http://kyoko-np.net/index.html

社会事象をウィットにあふれた切り口で論じ、日本に今までになかった知的で批評性に富んだユーモアを根付かせた『虚構新聞』。イギリスのBBCのコメディ(Have I got news for youなど)や、アメリカのThe Onion紙に相当する質の「ニュース」を提供し続けていることに、敬意と感謝を表します。
これからも、『虚構新聞』の発展に期待いたします!


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12月 20, 2011 at 12:31 午後 | | コメント (9)

同じ都会の空間を、それぞれの人生の時間を刻みながらみんなでシェアしているんだ。

ちょうど去年の今頃、学生たちとごはんを食べていたら、お腹がいたくて、トイレにいった。
その頃は仕事がたくさん詰まっていて、あまり運動ができていなかった。

これじゃあまずいと思って、そうそう、今年の正月に、突然2時間30分くらい歩いたのだった。東京ってこんな街だったのか、とびっくりしたなあ。昨日も、調子に乗って2時間も歩いてしまったよ。バカだなあ。

仕事から仕事の間、できるだけ歩く。そんな風にしていると、次第に街の風景が身体にしみ込んでくる。もの思いにふけりながら歩いているが、できるだけアジェンダは設けないようにしている。アジェンダを設けるのは、机に座っているときだけ。机に向かっているときにどれくらい集中しているかで、歩いているときに込み上げてくるさまざまな想念の質が決まってくる。逆ではない。

そうすると、時間帯によっては、学生たちが下校してみんなで歩いていることがあって、そんなとき、あいつらに見つかるとやっかいだ、「アハ」なんて言われるからとさっと逃げていくんだけど、逃げながら、ああ、オレにも、あんな時代があったなあと思う。

つまり、同じ都会の空間を、それぞれの人生の時間を刻みながらみんなでシェアしているんだ。素敵なことだね。

12月 20, 2011 at 08:05 午前 |

2011/12/18

続生きて死ぬ私 第三回 桜の樹に追いつくこと

 桜の樹には、何か尋常ならざるものがある。そのことを、私たちはうすうす知っている。そのような直観を、梶井基次郎は短編『桜の樹の下には』の中で、次のように見事に捉えられているではないか。

桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

 何という、印象深い言葉だろう! 梶井基次郎と花見酒を酌み交わすことができたら、どんなにか良かったろう!
 生きることは恐ろしい。息づくことは美しい。私たちの存在の恐ろしさと美しさは、きっと、一つにつながっている。
 小学校に上がる時、あれは3月の下旬だったか、学校の体育館に集められて身体測定をした。片隅に積み上げられたマットの匂いや、入り口に並べて脱がれた上級生のうわばきや、ちょっと赤く錆びた鉄の棒に何か得体の知れないものを感じた。胸がきゅっと締め付けられるような思いがあった。鼻がつんとした。
 やがて、入学式になった。真新しいランドセルをしょって、学校への道を歩いた。太陽が照り返されて、やたらと白く見えた。式が終わると、それぞれの教室に入った。後ろには保護者たちが立った。その中には、私の母親もいた。担任は、新井梅子先生。新井先生のお話を聞いているうちに、ついついほおづえをついた。そうしたら、新井先生に見つかった。「あらあら、ぼく、退屈しちゃったかな」と言われた。はっとして顔が赤くなった。
 教室の後ろにいる保護者たちが一斉に笑った。ひどいことに、うちの母親まで大声で笑った。ぼくは、頬が真っ赤になった。自分でもわかるくらい、ほっぺたが熱を発していた。
 恥をかくこと。人前にさらされること。自分の中に、何かをため込むこと。それは、間違いなく、生きていることの証しだった。ぼくの中で、何かがすでに爛熟していたのだろう。膿んでさえいたかもしれない。
 やがて、母親たちと一緒に校庭に出て記念撮影をした。その時には、もう頬の火照りはだいぶよくなっていた。外を吹く風がさわやかだった。その風の中で、私は、確か、そうだ確か、満開の桜の樹を見上げたのではないかと思う。
 あふれるばかりの生命力で、桜の花が咲いている。それを見上げる私がいる。瞳に、桜が映っている。何かが通じ合う。私の中の何かと、桜の中の何かと。そして、桜の樹の下には、豊かな滋養をたたえた土が広がっている。
 桜の花が咲く下を、ランドセルを背負った小学生たちが登校していく。そんな光景は、私たち日本人にとって、ほとんど不動不滅のアイコンのようなものになってしまっている。最近でこそ、地球温暖化の影響か開花の時期もだいぶずれてしまって、入学式の時にはもはや桜が散ってしまっていることも多くなった。しかし、あの頃は、桜たちはずいぶんと日本人の情緒の文法に律儀だった。

 生命とは、絶えざる変化のことであるならば、その移行の先には必ず「死」がある。生命は、屍を乗り越えて横溢していく。桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 生きるということが、こんこんとした泉のようにあふれ出るものだからこそ、時は流れていってしまうものだからこそ、二度とも戻らないからこそ、私たちは、満開の桜を見ると、とにかくもう、どうすることもできなくなってしまって、その下に座り、見上げ、嘆息し、筵を敷き、酒でも飲まずにはいられなくなるのだろう。
 だからこそ、「花見」がある。それは決して遊興や贅沢ではない。とにかくもう、満開の桜の花を見たらそうせずにはいられないという、私たちの生命の切ない叫びがそこにあるのだ。

 満開の花を見てうわあと思う。叫びたくなる。どうしたらかいいかわからない。先生に注意される。ほっぺたが火照る、校庭に出る。さわやかな風。母親に手を引かれる。満開の桜の下を歩く。マットの匂い。上級生のうわばき。赤く錆びた鉄棒。桜の思い出。記憶の古層。

 今年の桜の樹は、少し可哀想だった。
 みんな、桜の花びらを愛でる気持ちの余裕を失っていたのではないか。何とはなしに、桜を見上げることにすら罪悪感を抱いていた。街を歩きながらふと、桜のつぼみが膨らんでいることに気付いても、あたかも視野に入らぬかのようにそそくさと通り過ぎた。そんな時の流れがあった。
 あれほど欠かさずにやってきたお花見もせずに、時は過ぎてしまった。気付けば、東京の桜は、すっかり散ってしまっていた。そういえば、いつも花びらがちらちらと落ちる頃に舞う可憐なツマキチョウも、今年は目撃せずじまいだった。モンシロチョウに似た、少し弱々しく飛ぶ、羽根の先端がオレンジ色のその姿を見なければ、春が来ないかのように感じていたのに。私は、すっかり風に流される気持ち良さをとんと忘れてしまっていたのだろう。
 未曾有の震災に襲われた日本。花見ができないというくらいで、とやかく言うべきではない。わかってはいる。それでも、満開の桜を逃し、ツマキチョウも見失ったそのダメージは、思ったよりも重かった。
 桜の花は、自らの生命を横溢させるだけのことである。人間がそれを見ようと、見なかろうと、桜の生命の本質には関係がない。誰もその音を耳にしていなくても、森の中で樹木は倒れる。それでもなお、人に見られることなく散っていった無数の桜の花たちのことを思う時、私は心が落ち着かなかった。
 桜の花、という現象自体に対してではない。それを私たちがどう受け止めるか、その人間側の心の淀み、枯れ、失われてしまった機会を思い、そしてそのような齟齬をもたらした未曾有の災害の恐ろしさを思い、私は惑っていたのである。

 東京の桜がすっかり散って、新緑が目に沁みるようになってきた4月も下旬のこと。私は仕事で大阪に行った。新幹線に乗るという、かつては「日常」だったはずのことが、とにもかくにもうれしく、有り難かった。
 文明は、その細部の一つひとつが、もはや魔法なのだから。
 仕事の場所は、大阪城に近かった。考えてみれば、大阪には数限りなく通っているのに、お城をきちんと見たことがなかった。遠くからあああれだと眺めたことはある。それでも、お城に近づこうとしなかったのは、大阪には楽しい場所がたくさんあると同時に、何かが邪魔をしていたのだろう。
 間近に見た大阪城は、思った以上に壮大で、華麗だった。まずはお堀の石垣の高さに度肝を抜かれた。天守は再建されたものである。当時の絵画を元に描かれたという壁面の虎が、大阪人の気概を表しているように見えた。
 「ああ、これがタイガースか。いっちょ、やったるか!」
 同行の二人につぶやいた。
 知らないということは恐ろしい。もっと以前にお城を間近に見ていたら、私の中の大阪のイメージも変わっていたことだろう。蝶の羽ばたき効果。小さな変動が、やがて大きな違いに通じる。人生はだから、どんな些細なことでも、おろそかにしてはいけない。その一方で、私たちは、一度には一カ所にしかいることができない。
 そうして、奇跡は、お堀をぐるりと回ってホテルに戻ろうとしていた時に起こった。梅林の中を歩いていると、前方に白い印象の樹が現れた。梅の木たちは、もちろんのこと花はとっくの昔に散っていて、今はごつごつとした肌に緑の点々を繁らせている。そんな中、日がすっかり傾いた薄暮の中、あくまでも白く輝くその樹の印象は、心の中にぽっと灯った希望のようでもあった。
 何だろうと思って近づいた。しだいに精しくなっていく。
 驚いた。
 桜だ!
 満開の桜。いや、よく見ると、小林秀雄が生前「見頃」だと言っていたという、ちょうど7分咲きの頃。ぽつんぽつんと蕾がまだある。わかわかしくて、優美で、勢いにあふれていて、それでいて少しも押しつけがましくない。
 「こんなのがいいな」と頭の中で思い描くような、そんな理想の姿をした桜が、目の前にあった。季節もすっかり過ぎてしまった時期に、東京よりも西で温暖な印象の大阪の街で、壮麗な大阪城の虎が見下ろすその場所に、私の桜は咲いていた。
 一体全体、想像しているだけなのだろうか。どんなに疑って見ようと思っても、桜はあくまでも端正な美しさの中に咲いている。みれば見るほど、ほれぼれとするほど可愛らしく、美しい桜の樹。私は、心を奪われて、いつまでもその優しい姿を眺めていた。
 私の桜は、こんなところにあった。
 奇跡って、こんな風に訪れるんだろうな。すっかりしょげかえって、大切な機会を逃してしまったと確信して、それでも、前に進もうと思って、砂利道をとぼとぼと歩くことを覚悟していて、上の唇をぎゅっと締めて、脇目もふらず進んでいる時に、こうやって、一撃で心を溶けさせるような何かが、自分の前に現れるということがあるんだろうな。
 人生は、ひょっとしたら、後からはっと気付いても、取り返しがつくものなのかもしれない。私はああ、そうか、と思って、ぐるりと回転した。風の流が戻ってきた。それから、城を一緒に観に来た仲間と、すっかりはぐれてしまっていることに気が付いた。
 
 流れが、私を充たす。もはや、どこにいるというわけでもない。過去が押し寄せる。先生に注意されてほっぺたが熱くなり、それから、爽やかな風の中を母親に手を引かれて歩いた、満開の桜の樹。あの遠い日からずっとつながっているものが、自分の心の中にようやく解きほぐれていく。
 そして、再びちろちろと流れていく音がする。蕾がふくらんでいく。
 ああそうか、まだ、ここにあったんだ。
 ようやくのこと、桜の樹に追いついたのである。

「続生きて死ぬ私」は、メルマガ『樹下の微睡み』に連載中です。

http://yakan-hiko.com/mogi.html

12月 18, 2011 at 08:33 午前 |

2011/12/17

もし、うまく群れから離れることができさえすれば。

アサカルで、最後に小林秀雄の講演の一部を聴いた。そうしたら、やっぱりあまりにも素晴らしくて、同時に、現代という時代の中で、この水準の講演をすることはなかなかに困難だということを痛感した。

なによりも、聴衆という存在がある。

生身の人間を前にすると、どうしても人はそちらに引っ張られてしまう。だからこそ、グレン・グールドはコンサートをやめてしまってスタジオに引きこもってしまったのだろう。

だから、ぼくは、いつか、聴衆なしで、自分にとって理想の講演というものを組み立ててみたい。もっとも魂の芯に近しい題材を選んで。それは、誰の魂の近くにもあるはずのものだ。もし、うまく群れから離れることができさえすれば。

12月 17, 2011 at 09:36 午前 |

2011/12/13

日本八策

日本八策

近代日本の夜明けにおいて重要な役割を担った坂本龍馬は、「船中八策」の想を練った。日本は困難な時代を迎え、新たな発展へのヴィジョン、改革の処方箋を必要としている。ここに、日本の未来を切り開くための「日本八策」の私案を発表する。

2011年12月13日 茂木健一郎 kenmogi@qualia-manifesto.com

日本八策(1)インターネット、グローバル化という「偶有性」の文明の波が押し寄せる時代。福澤諭吉が「適塾」で示したような、寝食を忘れて猛勉強する精神を復活させる。「知のデフレ化」の逆転。吉田松陰が松下村塾で講じたように、現実の状況に安易に妥協せず理想を貫く「心の整え方」を磨く。

日本八策(2)記者クラブに象徴されるマス・メディアの守旧体勢、独占体制を改め、真のジャーナリズムを醸成するための方策を実現する。メディアを、既得権益層の自己保身の手段とせず、日本を先に進める改革のためのメディアとする。結局はメディアのためにもなる。自己否定なくして、成長もない。

日本八策(3)役所における悪しき文書主義、形式主義を改め、公務員が実質的な職務にだけ専念できるようにする。民間も「お上頼み」「指示待ち」の風潮を改める。市場における自由闊達な競争、共創を図るための法的制度、インフラの整備を進める。多様なキャリア形成を妨げる「新卒一括採用」の廃止。

日本八策(4)大学を世界に開かれた、真に高度な学問の切磋琢磨の場に。小中高校における学習を、大学入試への準備の負担から解放する。教科書のデジタル化、クラウド化は不可避。大学を、ガラパゴスな「クラブ」から進化させ、自立して世界で活躍するクリエイティヴ・クラスの資質醸成の場とする。

日本八策(5)現代における最大の付加価値は、世界規模に展開した情報価値ネットワークから生まれる。モノ重視の「ものづくり」の時代から、ネットワークと結びついた「ものづくり2.0」へと、日本の産業構造を進化させる。プログラミング能力、システム思考を新たな「読み書きそろばん」に。

日本八策(6)「みんなちがって、みんないい」の精神で、個性を育む。一人ひとりがユニークな属性をもってこそ、共同して事に臨んだ際に「かけ算」でものごとを大きくすることができる。みんなが同じになってしまっては、積算が大きくならない。個性がゼロだと、かけてもゼロになる。

日本八策(7)自らの歴史や、文化を引き受ける「プライド」のないところに成長はない。「隣の芝生」が青いからと自らを全否定するのではなく、むしろ、過去からの継続を身体化し、新たな生命をよみがえらせること。「和魂洋才」の精神を、地球全体に開かれた「和魂球才」へと進化させる。

日本八策(8)「もののあはれ」のような伝統的価値観、里山における自然との共生は、世界に誇るべき日本の文化。マンガやアニメに見られる表象の豊かさ、「おまかせ」の食文化など、日本の伝統をさらに掘り下げ、発展させること。感性に根ざしたクオリア立国。自らを開いて、世界に贈り物を。

「日本八策」 pdf file 版

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12月 13, 2011 at 08:50 午前 | | コメント (63)

2011/12/11

田森佳秀と「かよう亭」の露天風呂で、日本の大学について話す。

田森佳秀と、山中温泉の「かよう亭」の露天風呂に入りながら、日本の大学の話をした。

(オレ)「そもそもさ、大学の偏差値って、どういう意味があるんだ? あれって、受験生の平均値ではないよね。合格確率80%とか、しきい値のこと? でも、実際には、いろいろな偏差値の学生が入ってくるよね。」

(田森)「そうなんだよ。でも、日本の企業はばかだから、新卒なんとか採用だっけ、で影響があるのは、偏差値が上の大学だけさ。」

(オレ)「そもそも、アメリカの大学入試には、偏差値なんて概念はないよね。この前さ、波頭亮さんと話していて、日本の大学は回収型産業だって言うんだよね。つまり、受験料や、授業料などと、あとは文科省の補助金が収入源。それに対して、アメリカの大学は、投資型産業。在学中に一生懸命教育して、人を育てて、卒業生が活躍してくれれば、寄付をしてくれる。」

(田森)「お前も知っているとおもうけどさ、アズビー・ブラウン、仲がよくてときどき話すんだ。あいつ、大学の入試の面接をしている。」

(オレ)「ああ、ハーバードだっけ? イェールだっけ?」

(田森)「イェール。それで、彼が言うには、SATなんてバカみたいに簡単だし、そんなのは重視しない。重視するのは面接。そうしたら、自分の友人とか、親戚を入れちゃうんじゃないか、と心配して言ったら、卒業生としてプライドがあるし、自分の大学が将来もっとよくなってもらいたいから、そんなことはしないって言ってた。」

(オレ)「ある意味では、卒業生が、どんな学生がふさわしいか、一番よく知っているわけだもんな!」

(田森)「それで、そんな風に面接で選んじゃって、不公平だ、と文句を言われないかと聞いたとき、アズビーが言ったことが、忘れられないよ。」

(オレ)「何て言ったんだ?」

(田森)「そもそも、選ぶということが不公平なんだから、そんなことを言っていたら、選ぶことなどできない。だから、自分たちの基準で選んでいいんだって。」

(オレ)「それ、重要なポイントだね。日本のように、センター試験の点数や、偏差値で選んでいたら公平だなんて、そんなことを言っているからダメなんだ。アズビーの言うように、そもそも選ぶということは不公平なことだよな。」

(田森)「そうなんだよ。選ぶということは、不公平っていうことなんだよ。」

(オレ)「そもそも、プライベート、ということは、自分の基準で選ぶ、ということだもんな。それぞれの大学が、それぞれの基準で選ぶ。それで、在学中の教育で、懸命に在校生に「投資」する。卒業生が活躍すれば、大学の名声も高まるし、寄付で財政的にもうるおう。それが、本当の姿だよな。」

ここまで話したところで、ぼくははっと思って、iPhoneをとりに戻った。植田工と田森佳秀が風呂に入っているところを、撮った。田森が、「お前、やめろよな、体型が写るだろ!」と言った。ぼくは、「だいじょうぶ、小津のようなローアングルで撮るから」と言ったが、田森はばしゃばしゃ水をかけてきたので、早々に退散したのである。


かよう亭の露天風呂で談笑する植田工(左)と田森佳秀(右)。田森は手を挙げて笑っているように見えるが、本当は、「お前やめろ〜」と言いながら、私に水をかけていた。

12月 11, 2011 at 10:51 午前 |

2011/12/10

ナン・ライス症候群

 子どもの頃から、カレーライスが好きだった。小学校高学年の頃は、いっしょに食べている祖父が「たくさんたべるなあ」と驚くのがおもしろくて、3杯とか4杯とか食べていた。
 
 もっとも、あの頃は、いくら食べても身体はスリムだったよ。

 食堂でカレーライスを頼むと、スプーンが水を入れたコップに刺さっているのが常だった。なんで、あんな風にしていたんだろうねえ。

 カレーにはライスがつきものだった。なんと素晴らしい相性! 実に味わい深い。

 それが、大学生の頃だったか、マハラジャとか、本格インド料理、みたいな店に行くようになって、そうか、ナンというものがあるんだな、と気付いた。
 カレーにはライス、という考えから、カレーにはナン、という選択肢も知った。
 そうしたら、そっちの方が本来そうだし、お洒落、みたいな気持ちになってきた。

 カレーにはライス、という黄金律が揺らぎ、ナンもいいよね、いや、ナンの方が本格的だ、というような「目覚め」が生じたのである。

 それから、本格インド料理屋に入ると、カレーとナンばかり食べていた。最初にタンドリーチキンやサラダを頼んで、続いてカレーとナン。とにかくナン。パンをカレーにつけたり、載せてくるっと巻いて食べる。

 イギリスに留学したとき、なにしろカレーは今や国民食だから、たくさんインド料理屋があって、あっちこっち行っていた。もちろん、ナンと一緒に食べる。

 そんな日々の中、どうも、本当は、脳は、ある種の物足りなさに気付いていたに違いない、とふりかえると思えるのだ。

 ある日、ロンドンのインド料理屋でごはんを食べていて、はっと気付いた。周囲のイギリス人を見ると、誰もナンを食べていない。みんなライス!

  イギリス風のやり方は、大きなお皿があって、そこにカレーでもライスでも何でも載せて食べる。イギリス人たちは、ライスとカレーを混ぜて、うまそうに食べている。

 がーんと思った。ぼくは、手元のナンを見た。急に、それが色あせて見えた。

 次に行ったとき、迷わずカレーとライスを頼んだ。うまい! 長粒米だが、実にカレーに合う。やっぱり、カレーにはライスだ。ナンの方がお洒落だなんて、なんで思い込んでいたのだろう。ぼくの迷いは終わった。

 江戸っ子が、そばなんてそばつゆにたっぷりつけるのは野暮だと、さっとつけるかつけないかくらいでたぐっている。そばつゆにたっぷりつけるのは田舎者だとばかにしている。

 それが、死の床になって、思い残すことはないかと聞かれる。「あるんだ。いやね、一度でいいから、つゆにたっぷり浸してそばを食ってみたかった。」

 そんな落語があったように思うが、ぼくもライスをずっとがまんしていたような気がするな。これは、ナン・ライス症候群という。気付いてみれば、なあんだ、みたいな話だよね。

12月 10, 2011 at 07:13 午前 |

2011/12/09

続生きて死ぬ私 第二回 科学の情熱

 東日本を未曾有の大震災が襲ってから約1ヶ月後、私は日本を離れた。
 飛行機がヒースロー空港に向かって高度を下げて行くにつれて、私の中で、何とも言えぬ感情が芽生え始めた。
 これから私は、きっと、今私たちに起こっていることの事実を、「外」から見ることになる。
 信じられないほどの災害。日々の圧迫。そんな中で、一生懸命努力している人たちの姿。これから、私たちの国はいったいどうなってしまうのか。いつ、元通りの、日差しの中のひなげしのような微笑みが戻ってくるのか。

 ロンドンで会った人たちは、みな一様にやさしかった。目を合わせ、握手するとすぐに、彼らから心からの言葉が流れ出し始めた。
 「今回の、あなたの国で起こっている災害について、一体どのような言葉をお伝えしてよいのかわかりません。」
 「私たちの心は、あなたとともにあります。」
 「この大変な事態において、日本の方々が示している忍耐力と勇気に、心からの敬意を表します。」
 「日本の状況を見ていると、9・11テロが、何でもなかったかのようにさえ思えてきます。」
 「ある国民の本質は、このような危機の時に明らかになるのではないでしょうか?」
 いつもはクールな、感情をそう簡単には表さないイギリス人たち。彼らが慰めの言葉を発するのを聞いているうちに、私の心の中で何かが溶けていくのが感じられた。

 実際には私は泣いたわけではない。涙をこぼしたのではない。しかし、ホテルに戻ってベッドに横たわり、一日の出来事をふり返っている時に、こんなことを思い出した。
 子どもって、どこかで遊んでいて転び、怪我をしても、その場では泣かないんだよな。我慢して家に帰って、母親の顔を見た瞬間に、火がついたように泣き出す。そんなところがある。何故って? 親の顔を見て安心する、ということもあるけれども、本質は人間の社会性にある。
 涙は、他者がそれを目撃して初めて意味を持つ。泣くほど哀しいということが相手に伝わって、何かが達成される。そしておそらくは、「自己」の中にも「他者」が顕れる。哀しいから泣くのではなく、泣くから哀しい。自分が泣いている、というその状態を「目撃」することでかえって、私たちは、自分自身へと回帰していくのだ。
 まだまだ大変な状況にある、私の母国。これからも、緊張と不安は続いていく。しかし、第二の故郷とも言えるイギリスに身を置くことで、私の中の「社会性」が、美しいかたちでほぐされ、そしてバランスを回復していくのかもしれない。そんな手応えがあった。
 まだまだ、あるはずだ。できることが。日本は、こんなことで終わってしまう国ではない。そして、ちっぽけな私にできること。ささやかな、しかし確かな伏流となって続いていくもの。

 ロンドンからケンブリッジに移動した。なつかしいキングス・クロス駅。二年間留学しているその間、ロンドンとの往復の道を何度通り過ぎたことだろう。
 一時間ほどでケンブリッジに着く。改札が自動になっていて驚いた。駅から歩いていくと、やがてパーカーズ・ピースに出る。大きな緑地の中を、細い通りが交差している。リージェント・ストリートに出てしばらく行き、左折すると、そこが生理学研究所のあるダウニング・サイト。私が御世話になったホラス・バーロー教授の研究室がある。
 さらに進んで右に曲がると、DNAの二重らせん構造を発見したジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックがいたキャベンディッシュ研究所。彼らがしばしば訪れ、ビールを飲みながら議論したパブ「イーグル」はその先だ。
 イーグルの前の道を進み、右に曲がると、壮麗な建物が姿を現す。キングス・カレッジ。ここのチャペルは音響がすばらしい。一度、ヘンデルの『メサイア』を聴いたことがある。名前が示すように、イングランドの王様たちがここで学生時代を過ごした。
 キングス・カレッジの前を通り過ぎ、細い道に入ると、やがて左手にトリニティ・カレッジが姿を現す。トリニティ・カレッジの正門、「グレート・ゲート」は大きく、そして美しい。右手の芝生の上には、アイザック・ニュートンが重力を発見するきっかけとなったリンゴの木の、その子孫だと伝えられるリンゴが植えられている。

 グレート・ゲートの前でしばらく待っていると、木戸を開けてホラス・バーローが出てきた。
 「やあ、ホラス」「やあ、ケン」。ホラスの顔を見ると、安心する。私が留学していた1990年代半ばと、あまり変わっていない。考えてみると凄いこと。何しろ、ホラスは、1921年生まれ。今年の12月が来ると、90歳となるのだ。
 ホラスは、トリニティ・カレッジのフェローである。トリニティ・カレッジは、ケンブリッジを構成する30余りのカレッジの中でも、名門中の名門。重力を発見したアイザック・ニュートンを始め、電子を発見したJ・J・トムソン、電磁気学のさまざまな法則を明らかにしたクラーク・マックスウェルなど、錚々たるメンバーが在籍した。トリニティ・カレッジだけで、30名以上のノーベル賞受賞者を輩出している。
 ホラスと一緒に、トリニティ・カレッジの「グレート・コート」を歩く。いつものように、ホラスが最近やっている実験の話をする。90歳を前にしても、ホラスは、精力的に研究を続けている。今は、運動視のメカニズムを、ランダムに動き回るドットの刺激を用いて研究している。どのような相関が、神経細胞によって計算されて「動き」の認識へと結びつくのか。若くして、ウサギの網膜で「動き」に反応する神経細胞を発見して以来の、ホラス・バーローのライフ・ワークだ。
 ホラスは、『種の起源』でさまざまな生物がどのように進化してきたかを明らかにしたチャールズ・ダーウィンのひ孫にあたる。陶磁器のウェッジウッド家にもつながる、名門の出自。留学中、そしてその後のたびたびの訪問を通して、私がホラスから学んだことは数限りない。
 何よりも、科学が最初にある。ホラスからは、この世に生を受けた以上、それを理解せずにはいられないという執念のようなものを感じる。その「情熱」は、何に由来するのか。ホラスと会う度に、私は考える。
 トリニティ・カレッジは、美しい。あまりにも美しい。年を経た建物に這う植物は、細心の注意を持って手入れされている。庭園の美しさは、一つの「叡智」の顕れでもある。トリニティ・カレッジだけで、30人の専門の庭師がいるのだという。

 「ケン、君の方は、最近は何をしているの?」ホラスが聞いた。私は、顔の認識のメカニズムについての研究を説明した。自己と他者の顔の認識が、どのように関わっているか。「鏡」の中の自己を認識できることから始まるもの。
 「それと、ロンドンのパトリック・ハガードがやっているような、主観的な時間の成り立ちについての研究をしています。感覚と運動の連合を通して、主観的認識がどうやって認識されるか。そのメカニズムを、研究しているのです。」
 ホラスが日本の地震、津波、そして原発事故のことについて触れたのは、研究の話が30分ほど続いて、一段落した頃のことだった。
 決して、関心がないというわけではない。そんなホラスの心の温度は、伝わってくる。まずは、研究の話をする。それはいつもそう。それから、さまざまな個人的な話が始まる。
 「日本でのさまざまは、私も聞いているよ。。。」
 控え目な、しかし、しっかりとしたホラスの言葉の端々に、重大な関心を持ってそれを見ているという人間の温かさと、それから、科学者としての冷静な目が感じられた。


ホラス・バーロー教授。ケンブリッジのトリニティ・カレッジにて。

 ホラスと別れて、ケンブリッジの街を歩く。あちらこちらに、自分の思い出が埋まっている。クオリアのことを考えながら、さ迷い歩いた道。私はどこに来て、どこに向かおうとしているのか。その行く末は、私なりのやり方で、ささやかに、微力ながら自分の国のためにがんばるという思いと重なるように見えた。
 個別のことを離れるからこそ科学となる。一つひとつのプライベートな事情にこだわっていては、客観的で、普遍的な法則には至ることができない。その一方で、私たちの人生が、その一つひとつの瞬間が、後生大事なものであることも事実である。

 ここには、一つの深い謎がある。自然法則に従って変化する、広大な宇宙。その中に生を受け、懸命に活き、やがて死んでいく私たち。意識をもった私たちの中に顕れ、通り過ぎていくさまざまな現象。客観と主観は、いったいどのように結びついているのだろう。
 対象から、自分を離すこと。その「ディタッチメント」の精神にこそ、私は感染したのではなかったか。ケンブリッジで得たもの。この世に生を受けた喜びと哀しみ。遠く離れて、初めて見えてくるもの。結局、私たちは、主観と客観のその間を、行ったり来たりするしかないのだろう。
 科学の「情熱」は、きっと、自分自身を見つめること、逃れられない境遇を引き受けること、そんな「受難」から発しているのだろうな。

 夜、パブを出て、オレンジ色の街灯に照らし出されたケンブリッジの街を歩く。再び、できるだけ早く、ホラスに会いに来ようと誓った。

「続生きて死ぬ私」は、メルマガ(樹下の微睡み)に連載中です。

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12月 9, 2011 at 10:53 午前 |

2011/12/08

象の時間、ジャガーの歩み。

打ち上げで盛り上がっているときに、仕事の都合などで先に帰らなくてはならないばあいは、ぼくはできるだけひっそりと消えることにしている。

墓場にひとりいく象のように。

ニコニコ生放送の打ち上げで、木村仁士さんが「ヒッチコックの裏窓を一年かけてみる」とかおもしろい話をしていて、植田工がひっひ笑っていて、盛り上がっているけれど、そろそろ象にならなくてはならない。

植田! とちょっとよんで、こそこそと消えた。

サヨナラして、移動しながら、さっと仕事を始めている。

そんなとき、あとで、まだみんなが盛り上がっているだろうな、と想像することに、独特の楽しみがあって、どうなっているんだろうなあ、と思う。

朝になってツイッターを見たら、植田たちはどうやら午前4時くらいまで飲んでいて、それから植田は家にむかってひたすら歩いたらしい。

@onototo

象の時間、ジャガーの歩み。

植田のあだながジャガーになったのは、かっこいい理由なんかじゃないけれども。

それぞれの時間が気配として感じられるとき。

12月 8, 2011 at 08:37 午前 |

2011/12/06

人生の節目に長い距離を

自由が丘にいて、次のみなとみらいでの仕事まで数時間あった。どこかで作業をするという考えもあったのだけれども、突然思い立って歩くことにした。

田園調布を過ぎ、多摩川を渡り、武蔵小杉、網島、大倉山、菊名、妙蓮寺、白楽。

白楽あたりで、高いビルの赤い光が見えたときには、ほっとした。東横フラワー緑道を通ってゴール。高鳥山トンネルを抜けた。

道筋の、iPhoneでの表示は、18キロ。途中脇道にそれたり、公園をうろうろしたりしたからおそらく20キロくらい。所要時間は、4時間20分だった。

慶應の日吉あたりを通る時が、一番疲れていた。オロナミンCを一本飲んだ。

私は、人生の節目に長い距離を歩く。

もっとも、前後で劇的に何かが変わるわけではなく、ただ、歩きながら、いろいろと振り返るだけである。

なんてダサイことをやっているんだろう、情けないなあなんてあたりから始まって、科学上のアイデアや、現代についての認識、日本のこと。いろいろなことがわかって、しみこんでくる。

みなとみらいの灯が見えてきたとき、昔の人だったらこれでわらじを脱いで、ほっとくつろぐのだろうと思ったけれども、私にはまだ仕事があった。

カフェに入り、ホットチョコレートを飲む。甘さと温かさがしみわたった。

12月 6, 2011 at 07:33 午前 |

2011/12/05

不適応として表れることもある

そういえば、「野蛮人の会」というのだった。

世間では、あたまのいい人は適応できると言うのだろうし、進化論的にもそうなのだろうけど、圧倒的な頭の良さが、不適応として表れることもある。

いまどき、煙草を吸わない、吸うことを推奨しない方が適応的なのだけれども、養老孟司さんはなにしろ圧倒的に頭がいいから、そんな適応にはならない。

楽しかった。虫の話とか、エラスムスのこととか。

「野蛮人」というのは養老先生の命名で、要するに世間から外れた人たちということらしい。残念ながらの欠席は、内田樹さんに甲野善紀さん。

養老先生、ありがとうございました!


12月 5, 2011 at 06:53 午前 |

2011/12/04

藪入り

 夜のコンビニに寄って、そこで黙々と働いている店員さんを見ると、すごいなあ、偉いなあと思うと同時に、日本人も捨てたものじゃないと思う。

 何とはなしに、古の商家を想像してしまうのだ。小僧さんがいて、番頭さんがいて、みんな一生懸命働いている。当時は年に藪入りが二日しかなかったけれども、それでも人間はなんとかやっていたのだろう。

 勤労の美徳は、日本人の文化的遺伝子の中にしっかりと受け継がれている。それさえ勘違いして失わなければ、ぼくたちはきっと大丈夫なのではないか。

12月 4, 2011 at 08:49 午前 |

2011/12/03

続生きて死ぬ私 第一回 トンネルの夢

 今となってはもう、遠いかすかな響きのようではあるけれども、ふり返ってみれば、子どもの頃は、「死」が大人になってからよりもむしろ身近にあったのではないかと思う。
 子どもは、若さとエネルギーに満ちあふれているようでいて、自分の命が、「何もない真っ暗闇」のすぐ近くにあることを、直覚している。生きることの危うさを知っている。老人に比べると、子どもが「死」の桎梏に囚われてしまうまでには実際にはまだまだ猶予がある。それでも子どもが死を肌に近しく感じるのは、「無」から「この世」に生まれ落ちるという奇跡から数えて、まだそんなに時間が経っていないからではないか。
 最初は、無明の中にある。次第に、分別がついてくる。自分と世界の境が認識され始める。自分が心を持つ存在であることが知られる。他人もまた、傷つけられやすく、震える心を持つことが感じられてくる。

 ちょうど、その頃ではなかったか。私は、ある一つの夢を繰り返しみるようになった。私は、トンネルの中にいる。トンネルは狭くて、しかし息苦しくはない。それでも、つんと鼻をつくような気持ちがする。
 トンネルは曲がっていて、私がいるのは、その「曲がり」のちょうど手前だった。向こうを見通すことはできない。曲がったその先も、こちらのように薄暗い気もする。あるいは、さらに暗いような予感さえもある。
 トンネルの中は温かくて、その中にいることに不安は感じなかった。ただ、このまま時間は経過して行くのだな、という何とはなしに肝に堪える感覚のようなものはあった。時間が流れていることの作用か、ずっと鼻がつんとしていた。
 トンネルが目の前に現れる度に、ああ、これは、前にも見たことのある夢だと思った。夢には、ストーリーも展開もなかった。ただ、まるで凍ってしまったように、「現在」がずっとそこにあった。そうして、私は、幼いながらに、どこか凄まじいような、それでいてのんびりとしたような、永遠であるような、刹那であるような、とにかく、大人になってから手に入れたヴォキャブラリで記述すればそんな妙な気持ちに、夢を見る度に出会っていたのである。
 最後にトンネルの夢を見たのは、小学校に上がるかどうかくらいの時ではなかったか。私は自分の部屋で遊んでいて、ついうとうとしてしまった。はっと気が付くと、私はトンネルの中にいた。さっきまで襖の模様を眺めていたはずなのに。トンネルは、いつものように曲がっていた。そう、私の右手の方に。

 小学校に入ってしばらくすると、いつの間にかトンネルの夢を見ないようになった。小学校2年生の時、「そういえば昔はトンネルの夢を見ていたっけ」とふと思い出している自分がいた。それはもう、すでにとてつもなく懐かしいような気持ちで、すべてはこうして変化していってしまうのだと、それが怖いような、楽しみのような気持ちだった。
 幼い時間は、ただ、言葉を使って表現できないだけで、色鮮やかな気持ちや、強い気持ち、弱い気持ち、いろいろな気持ちに満ち溢れているように思う。トンネルの中にいる夢を見て、鼻がつんとして、永遠のようで刹那のようで、不安なようで安心だった、その頃の魂の感触を、私はありありと思い出すことができる。
 科学的な言葉で説明しようとすれば、「トンネルの夢」は、出生の記憶ということになるのかもしれない。そして、トンネルを抜けるというヴィジョンは、死に瀕した人が時々出会うという「臨死体験」の内容にも似ている。
 アメリカの科学者カール・セーガンは、臨死体験で人々がトンネルを見るのは、出生の時の記憶によるのだという説を唱えた。そのようなケースにおいては、人々は、トンネルの向こうに、まばゆい光を見ている。
 一方、私が幼い頃見た夢は、いつもトンネルの向こうが真っ暗であった。私がトンネルの向こうに光を見ることがあるのか、それはわからない。
 今でも、時々、トンネルの夢を思い起こすことがある。ちょうどあの時のように、手を伸ばせばそこに届くくらいに、死を身近に感じ続ける。そのことこそが、「生きている」という証しという思いがある。

 人間には、「連想」というやっかいな働きがあって、少しでも死に関したことを思うことを「縁起でもない」と嫌う人もいる。
 しかし、そうではないと思う。生命が漲る人生の早春においても、人は、「死」と「生」の接続領域を思うことがある。この世に生まれたばかりの私にとって、それは、「トンネル」という形をとって出現した。途中で曲がってその先が見通せないトンネルは、自分がこの地上で打ち震えながら生きているという、まさにその事態そのものだった。
 どんなに時間が経っても、どんな人生の節目を迎えたとしても、そこには「トンネルの夢」に相当するものがあるに違いない。形を変えて。密かに潜って。それこそが、生きていることの証し。私は、そのように確信している。

「続生きて死ぬ私」は、メルマガ(樹下の微睡み)に連載中です。

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12月 3, 2011 at 11:13 午前 |

2011/12/01

歓喜の歌が聞こえてきた。

ロビーを入っていくと、あっと思った。クリスマスツリーを背景に、あの方がいる!

「マエストロ!」

思わずかけより、握手した。となりに、武満眞樹さんがいらしてニコニコ笑っている。

「お元気そうで!」

精気に満ちていて、それでいて木もれ日のようにやわらかい小澤征爾さんがそこにいらした。

「お姿を拝見して、安心しました。」

「だいじょうぶだよ。君は、今、何歳だっけ?」

「49です。」

「そうか、その頃のことは、もう忘れてしまったなあ。」

雨宮処凛さんと対談していると、向こうにマエストロが見える。

ベルリンフィルの主席オーボエ奏者と何やら打ち合わせしている。話しているうちに、マエストロは立ち上がって、大きな身振りで何かを表現している。エネルギーにみちあふれている。その髪に、光がこぼれている。

元気になられたんだ。弾ける喜び。どこからか、歓喜の歌が聞こえてきた。


12月 1, 2011 at 07:01 午前 |