自分から求めるのではなく、向こうからやってきたもの
ダライ・ラマ法王が私を見ての第一声は、「ああ、髪型が一年前と同じですね!」だった。
セッションが終わったあと、大広間で皆で食事をした。
私は、食事の間は遠慮していて、自分の分が済んだあと、ダライ・ラマ法王の前に進んだ。
ダライ・ラマ法王は、まだ食事をされていた。周囲の人とお話されていたが、私が前に座ると、笑顔になられた。
それから、15分くらいお話したろうか。今までで、もっとも近くで、親しくお話することができた。
「私は、あなたにもうすでに言ったかもしれないけれども、仏陀は、自分の言葉を、決して、信者として信じろ、とはおっしゃらなかった。仏陀がむしろ強調したのは、探究すること(investigate)することの大切さでした。自分の言うことを鵜呑みにするな。必ず、自分で探索せよ、と。」
「そういう意味においては、仏陀は、一人の科学者だったのです。」
「だから、瞑想をするにしても、心の状態にどのような要素と成り立ちがあって、それが実践によってどのように変化するか、ということをきちんと見つめなければ、ただ目を閉じてぼんやりする、ということになってしまいます。」
「ある場所で、瞑想センターをつくるというので、訪問したのですが、その建物を見て、私はこう言いました。ここではどんな瞑想をするのか。もし、仏教の瞑想をするのならば、ただ単に座って目を閉じる、というだけではなく、講義があり、実践があり、話し合いがあるという風に、心の成り立ちを探究するのでなければ意味がない。そうでなければ、単に、忙しいビジネスマンが休みにくる場所になってしまう。」
「魂」(ソウル)というのは、仏教の伝統の中から出てきた言葉ではありません。仏教の中では、セルフ(自己)しかない。そのセルフが、連続した心(mind)の上に成り立っている。」
「脳は大きくて複雑です。だけど、心は、もっと大きくて複雑でしょう。」
「ああ、私は、まだ食べ終わっていませんね。みんな食べ終わっているというのに。でも、これは、私の昼食と夕食の両方を兼ねているんですから、まあいいですよね。」
「たとえばタイでは、仏教の僧侶の食事は、正午前に出すことに決まっています。それで、必ず午後1時までに食事を終えることになっている。」
「私も、お昼までしか食べません。そのあとは食べない。でも、午後から夕方にかけて、おなかが空いたときは、ビスケットを食べることもあります。仏陀だって、それくらいは見逃してくれるでしょう。」
「これは何という果物ですか?」
(通訳の人が)「カキ(persimmon)です」
「はあ。本当にうまい!」
法王は、三きれあるのを、すべてお食べになられた。
みんなが本を持ってきてサインをしてくれと言ったり、写真をとってくれと言ってきたりしても、私はお行儀よく黙っていた。シャイだということもあるし、法王に負担をかけたくないということもあったのである。
そうしたら、チベットの人たちが、気を使ってくれたのか、The Universe in a single atomを持ってきて、法王に差し出している。それにサインするように促している。法王が、チベット文字でサインを書いた。そうして、どうするのだろうと見ていたら、なんと、私に下さるではないか。
本当は、どうやらサインをチベット文字でされているらしい、と気付いたときから、どんな風なのか、興味津々で、見たくてみたくて仕方がなかったのだけれども。
こうして私にいただいたので、ゆっくりと見ることができる。
チベットの人たちの、その心遣い、やさしさが本当にうれしかった。
そうして、自分から求めるのではなく、向こうからやってきたものを、大切にしたいと思う。
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11月 4, 2011 at 07:46 午前 | Permalink
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