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2011/10/22

小林秀雄さんの講演について

小林秀雄さんの講演について

茂木健一郎 

 小林秀雄さんは、言うまでもなく日本における近代批評を確立した人である。その名前を私は小学生の時から知っていたが、私がこの批評家を深く愛するようになったのは、大学を卒業してかなり経った頃に、講演の録音を聴いたのがきっかけである。

 今はCDになっているが、当時はまだテープだった。最初に入手したのは、「現代思想について」だったと思う。私自身の生涯の探究のテーマである心と脳の関係について、最も深い思索を積み重ねた者からしか出ない言葉が私の胸にひしひしと迫ってきた。

 それから、夢中になって次々とテープを求め、気が付いたら全部聴き終えていた。

 本居宣長。源氏物語。柳田国男。ベルクソン。文学。生きること。死ぬこと。愛すること。信じること。徒党を組まないこと。

 小林さんがお話されるテーマの一つひとつが魂の中に深刻かつ愛しいかたちで入ってきて、一連の講演記録が、知らず知らずのうちに私にとってのかけがえのない宝物となっていたのである。

 小林秀雄さんの講演の音声記録の魅力は、意味内容はもちろんのこと、その語り口にある。ちろちろと燃える炎にあぶられるような、熱を帯びていて、それでいてしっとりと湿り気のある声。落語家の5代目古今亭志ん生のような軽妙な味わいのある語りのリズム。

 一つの「音楽」として聞いても、その講演は実に味わい深い。難しい理屈を考えなくても、心がマッサージされたようで、力が湧いてくる。小林さんの講演の音声記録を、文化や芸術にうるさい玄人筋にも、あまり難しいことは考えないような人にも聴くように勧めたくなる理由がここにある。

 言うまでもなく、小林さんの本領はその文章にある。先の大戦中に書かれた『無常といふ事』や『当麻』などのエッセイは、文芸批評という文脈を離れても、一つの散文として高い芸術性を持つ。戦後になると、『近代絵画』や『本居宣長』といった日本の散文史に高い峰々として聳える仕事を小林さんは続けた。様々なテーマにわたる論考を残したその偉業は今後も評価が動くことはないだろう。

 なかでも私にとって個人的に特別な意味を持つ作品の一つは、未完に終わった『感想』である。お母さんが亡くなった後、鎌倉の家の近くで見た蛍に「おっかさんは、今は蛍になっている」と直覚する印象的な導入部。物質である脳に心がいかに宿るかというこの上ない難問を解くためにどうしても叩かなければならないドアの鍵が、小林さんが辿った思索の道筋のどこかに隠れているような気がして折りにふれ読み返す。

 『感想』に結実しているように、小林さんが心を寄せた人物の一人であるアンリ・ベルクソンは、19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したフランスの哲学者である。『意識に直接与えられたものについての試論』や『物質と記憶』、『創造的進化』といったその著作は、思想的深みにおいてはもちろん文章としても素晴らしい。ベルクソンのこれらの功績に対して、1927年にノーベル文学賞が与えられている。

 小説や詩だけが文学なのではない。小林さんの文章は、ベルクソンの哲学的エッセイに通じる、世界に誇るべき知的達成になっていると私は考える。その仕事の神髄は、狭い意味での文藝評論という枠を取り払って、ベルクソンのような哲学的思索の世界に解き放たなければ掴むことができない。このような意味での小林さんの仕事の再評価は、私たちに残された課題である。

 すぐれた文章を読むことは、魂を成長させ、生きる上で必要な「もののあはれ」を知るためにも大切である。その一方で、活字だけを追っていれば良いというわけではないと思う。世の中には、小林さんの文章しか読んだことがない人が沢山いると考えると、そのような状況を口惜しいと感じる。

 小林さんの講演は、今よりももっと多くの人に聞かれて良い。講演の音声記録から伝わってくる小林秀雄という人の魅力は、散文家としてのその事蹟を補い、さらには新しい宇宙を見せてくれる。伝説中の遠い人物だと思っていた人が、息づき、心臓を鼓動させ、時には激高したり気分を落ち込ませたりもする生身の人間として、現前する。学生たちとの質疑応答に誠実に答え、その講演を聞く者を感激させて、涙を流させるような、そんな存在感のある人格がそこにあるのである。

 小林さんは、講演を周到に準備されたらしい。ホテルの部屋で練習していたと聞いたことがある。その一方で、当意即妙。演壇に登るなり、いきなり、「いや、今そこでちょっと引っかけてきてしまいましてね」と言って会場の雰囲気を和ませる。そのような心の機微にも長けていた。かの高名な落語家に似ているというのもまずは確実なところで、ある時、パーティー会場に遅れていった人が、「あれ、なぜ志ん生が来ているんだろう」と思ったら、小林さんだったと言う。

 出会って以来、私は小林秀雄さんの講演とともに生活してきた。テープからCDになった時は全部買い換えて、その美しい装丁がうれしくて本棚に並べた。コンピュータのハードディスクの中に取り入れ、携帯用音楽プレイヤーの中にも移した。歩きながら、車を運転しながら、あるいは出張先のホテルのベッドの上で、何回も繰り返し聴く。特に重宝するのは、海外に出かける時の飛行機の中である。ゆったりと時間が流れて、そして深まっていく。その間合いが良いのである。

 ほとんど暗記しているような箇所もあるが、音楽として魅力的だから、飽きずに聴く。聴く度に、新しい発見がある。この喜びを、もっと多くの人が知ってくれれば良いのにと思う。

 どうしてそこまで「はまった」か。新しい世界の存在を学び、その中に魂の一部が住み始めたのである。講演テープを初めて聴いた時、私は不意打された。そして、不明を恥じた。生きるということがわかっていなかったんじゃないかと思った。大げさではなく、小林さんの講演の音声に、生きるということの本質の一端を学んだ。

 世界をどのような場所として見て日々を過ごしているか。人間の生き様を、どんなフィルターを通して感受するか。活字を通してしか小林秀雄さんを知らなかった私が、かの偉大な批評家の、何を見落としていたか。人間は、どのようなものを尊重し、どんなものを軽んじるのか。全ては、「生きる」ということに対する態度につながる。つまりは、生命哲学の問題である。

 不思議なことに、私たちは、自分たちの生命活動の中核を軽んじてしまうところがある。私たちの生きる様は、よくよく観察してみると、様々な揺らぎや波乱に満ちている。その中であっちをふらふら、こっちをふらふらしながら動き回っている。どうなっちまうかわからない。しかし、だからこそ生きている甲斐がある。

 『無常ということ』の中で、小林さんは川端康成に向かって、生きている人間などというものはどうにも仕方のない代物で、鑑賞にも観察にも堪えない、其処に行くと死んでしまった人間というものは大したもので、まさに人間の形をしている、してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かなという有名な問いかけをする。

 推敲され、校閲を受け、ゲラを手直しして活字になった文章は、確かに立派な姿をしている。生きている作家のものしたものでも、それは、すでに過ぎ去って二度と還らない時に属するという意味では「死んでしまった人間」と同じである。

 一方、話し言葉は、あっちへふらふら、こっちへふらふら。文字に起こしてみると心許なく、脈絡がつかないことも多い。まさに何を言い出すかわからないのが、生身の人間のやる講演というものである。しかし、だからこそ、そこには生命の躍動がある。「今、ここ」に託すしかない、生きとし生けるものの切ない思いがある。

 小林秀雄さんの講演を聞く喜びとは、つまりは生きている小林さんの魂に接することの胸躍る思いである。確かに、活字の小林さんに比べたら、あっちへふらふら、こっちへふらふらしている。だからこそ、私たち自身に近しい。とにかく録音技術というものが出たおかげで、生きた小林さんの謦咳に接することができる。これは一つの奇跡である。

 古代ギリシャの哲学者プラトンは、書かれた言葉よりも話し言葉の方が上だと考えた。そのお師匠さんであるソクラテスの演説は、もし残っていたら、私たちに大いなる感銘を与えていたことだろう。もしも、東京美術学校における夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」が聴けたら。しかし、残念ながら、ソクラテスから夏目漱石までの人類の歴史においては、生命の躍動を後世に伝えるテクノロジーがなかったのである。

 あれこれ思えば、小林秀雄さんの講演の記録をバッハの「平均律」や、モーツァルトの「レクイエム」のように繰り返し聞くことができるのは実にありがたいことである。その一方で、疑心暗鬼の気持もある。本当は、どこかに、まだ知られていない音声記録が埋もれているのではないか。だとしたらもったいない。そんなものがあるんだったら、何としても聴いてみたい。小林秀雄さんの講演の音声記録の発見は、実に一つの惑星の発見に相当する意味を持つ。もし、世に出ないうちに散逸してしまったらどうしよう。そう考えると心配で、居てもたってもいられない。人類は、案外、大切なものをそれとは気付かずにぽいと捨ててしまうものだから、気が気ではない。

 普段からそんな思いを抱いていたから、今回、新潮社から新たな講演の音声記録がCDとして出ると聞いて、思わず身を乗り出した。

 今回世に出ることになったのは、『小説について/ゴッホの手紙』と『白鳥の世界』の二つの講演の記録である。どちらも素晴らしい内容で、その神髄に接するには聴いていただくしかない。ゴッホが自らの個性を乗り越えて普遍に至るために取り組んだ壮絶な闘い。ルソーが生涯の最後に至って行った「告白」。正宗白鳥さんとの小心温まる交流。小林秀雄さんの語りは、それを聴く者に、「ああ、生きているということは何と素晴らしいことだろう」という思いを抱かせる。

 この世の中に人間として在ることの意味について知ることは、生きるためのエネルギーにつながる。真実に触れることが生命体としての糧となる。だからこそ、何を言い出し、しでかすかわかないとしても、理性と感情を持ち、言葉を解する人間として生きることには尽くせない喜びがある。

 その事を想うと、胸がいっぱいになって、声があふれる。小林秀雄さんの講演を聴くことを、もっと元気に生きたいと願う全ての人に薦めたい。

(2007年5月)

10月 22, 2011 at 09:20 午前 |