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2011/10/01

宮野勉と老荘思想

このところ、この文章のことを時々ふっと思い出すので、ここに掲示します。なお、書籍では「宮野勉」が「M」となっていて、それはぼくなりに気をつかったつもりだったのですが、宮野勉本人が「名前を出せ」と言うので、次に増刷することがあったとしたら、「M」から「宮野勉」にしたいと思います。

 ティーンエージャーの頃、私は孔子よりも老子の方が好きだった。高校のクラスメートで、「論語」を愛読している宮野勉という男がいて、老荘思想にかぶれていた私と何時も議論になった。私が、孔子は世俗を説くだけじゃないかと言うと、宮野は、老子は浮世離れしていて役に立たないと言い返す。「世間知」と「無為自然」の間はなかなか埋まらない。妥協の仕方が見つからないままに、時は流れ、宮野は弁護士に、私は科学者になった。やはり三つ子の魂百までか、というと、人間はそんなに単純でもない。

 私は、孔子が次第に好きになってきたのである。社会に出て人間(じんかん)に交わるようになって、「論語」の持つ思想的深みが味わえるようになってきた。しかも、単なる処世知として評価するというのではない。「私」という人間の存在の根幹に関わるような根本的なことをこの人は言っている、と孔子を見直すようになった。人間を離れて、世界の成り立ちについて考える上でも、孔子の言っていることを避けて通ることができないと思い定めるようになってきた。逆に宮野は、孔子の知は、時に余りにも実践的過ぎて鼻につくこともあると近頃漏らすようになった。人生というのは面白い。正反対から出発して、いつの間にか近づいて行く。やはり、中庸にこそ真実があるのだろう。

 そうは言っても、忙しさに取り紛れて「論語」を真面目に読み返すこともできないでいた。ただ、「論語」のことが、半ば無意識のうちにずっと気になっていた。ある時、私は地下鉄のホームに立って、ぼんやりと現代のことを考えていた。人間が自らの欲望を肯定し、解放することで発展してきたのが現代文明である。自らの欲望を否定し、押さえつけることほど、現代人にとって苦手なことはない。現代人の脳は、欲望する脳である。昨今の世界情勢の混乱も、現代人の野放図な欲望の解放と無縁ではあるまい。そんなことを考えながら電車を待っていた。

 突然、何の脈絡もなく、論語の「七十而従心所欲、不踰矩」という有名な言葉が心の中に浮かんだ。私は雷に打たれたような気がした。この「七十従心」と呼ばれる文の中で、孔子は、とてつもなく難しく、そして大切なことを言っていることがその瞬間に確信されたように感じたのである。

 人間の欲望は、いかに生きるべきかという倫理性と決して分離できない。倫理ほど、難しい問題はない。物体を投げれば、放物線を描いて飛んでいくといった単純な法則では、人間の欲望のあり方は記述できない。正解がないかもしれないからこそ、人間は悩む。今も悩み続けている。

 人間の行動は、どのようにして決定されているのか? 人間は自由な意志を持つのか? それとも、利己的な遺伝子に踊らされる哀れな存在でしかないのか? 資本主義が、人間社会の最終的な到着点なのか? 人間の知性は、所詮は自己の利益を計る企みの結果なのか? 愛の起源は何か? 脳内の報酬系は、どのような原理で動いているのか? 人間の幸せとは何か?

 今や、全てのイデオロギーは力を失い、大きな物語も消滅したかに見える。剥き出しの動物的欲望が情報技術の発達によって繊細にコントロールされる。そのような実存を私たち一人一人が受け入れつつあるように見える現代において、人間の欲望を巡る様々な問いほど、アクチュアルな問題はない。正義を求める心も、また、欲望の一つのあり方である。正義への欲求が、異質な他者同士が交わる国際社会で物理的な力として表現された時にどのような混乱が生じるか、私たちは日々目撃し続けている。

 脳科学、認知科学、経済学、哲学、進化心理学、国際政治学などの諸分野における、人間のあり方を巡る様々な問い。それらの問いが、人間の欲望という一つの「焦点」のまわりで交錯し、一つの像を結び始めている。そのぼやけた焦点に、孔子の言葉がストンとはまった。私には、あの時、そのように感じられた。明確な根拠のない不思議な確信が、時間が経つにつれて次第に強まってきている。

 周知の通り、「七十従心」は、孔子が自分の人生を振り返った論語「爲政篇」中の有名な文章の最後に位置する。

 子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。

 子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰えず。
 
 孔子が七十で到達したとする「自分の心の欲する所に従っても、倫理的規範に抵触しない」という境地は、人間の究極の理想像である。もし、孔子が本当にそのような境地に達していたとすれば、正真正銘の聖
人だと言えるかもしれない。

 私たち人間の欲望と倫理的規範の間には、緊張関係がある。その緊張関係の中で、私たちは自分の欲望を抑えることで、矩=倫理的規範を侵害することを避けようとする。

 子供は、しばしば、自分の欲望をむき出しに主張する。しかし、「心の欲する所に従って」いる子供は、決して倫理的な存在ではない。自らの欲望に従うのではなく、それを必要に応じて抑制し、調節することを学ぶことこそが、人間にとっての倫理の始まりである。

 人間にとっての倫理は、この世界において「生き延びる」ためにこそ進化して来た。現世人類に至る長い進化の歴史においては、自分の欲望が満たされることよりも、むしろ満たされないことの方が多かった。マルサスの「人口論」を引くまでもない。「食べたい」という生物として最も基本的な欲望でさえ、満足できずに死に瀕することは普通だったのである。私たちの脳は、欲望が必ずしも満たされないという条件の下で進化して来た。欲望を周囲の環境に合わせて調整する脳の仕組みがあることはむしろ当然のことである。倫理は、何よりも生物学的な必要の下に進化してきたのである。

 科学技術の発達により、人間は次第に自分の望むものをほとんど手に入れられるようになってきた。とりわけ、衣食住といった生存のために必要な最低限の条件は、ほぼ満たされるようになってきた。生産力は常に需要を上回る危険をはらみ、経済システムを維持するためにも、欲望を解放し、消費を奨励することが求められた。その結果、欲望を我慢しないという点において、現代の成人は、むしろ子供に近づいて来ている。もっとも高度に発達した消費社会を実現したアメリカ人の振る舞いが、しばしば大きな子供に喩えられるのも当然の帰結である。

 もし、孔子の「心の欲する所に従って、矩を踰えず」という命題が、欲望が満たされるための物質的条件の整備によって実現するのであれば、事は簡単である。ポップコーンを頬張り、コーラを飲みながらハリウッドの娯楽大作を見る現代人は、皆、孔子が七十にして到達した境地に達しているということになりかねない。

 しかしもちろん、事態はそれほど単純ではない。どれほど社会の富が増し、物質的には贅沢が可能になったとしても、人間の欲望には、原理的に予定調和では行かない側面があるからである。それはすなわち、人間関係に関する欲望である。

 人間関係において、自分の欲望と他人のそれが必ずしも一致しないことは、恋愛を考えただけでも明らかであろう。世間には両思いよりも片思いの方がはるかに多い。心の欲する所に従えばそれで済むのであれば、恋愛の悩みなど存在しない。心の欲する所に従うことができないからこそ、文学が成立する。夏目漱石の『三四郎』で、三四郎がもし自らの欲望に従っていれば良かったのならば、美禰子に翻弄されることもなかったろう。三四郎のほろ苦い体験に誰でも思い当たるような普遍性があるのは、それだけ他人の心が自分の思う通りにはならないからである。

 元来、生きるということは不確実性に満ちている。どうなるかわからないという状況に対処するために、脳の感情のシステムは進化して来た。人間にとって最も切実な不確実性は、他人の心である。新生児にとっては、果たして母親が自分の面倒を見てくれるかどうか、不確実である。見知らぬ人との折衝は、その人が正直かどうか、不確実である。思春期を迎えれば、自分が思う人が自分を思ってくれるかどうか、思い続けてくれるかどうか、不確実である。そのような不確実な他人の心に頼らなければ自らの欲望が満たされないのだとすれば、「心の欲する所に従っても」などと悠長なことばかりも言っていられない。

 人間関係において、「心の欲する所に従って」いれば、人は簡単にストーカーになる。犯罪者になる。恋愛ばかりではない。社会の中で居心地の良い地位には限りがある。誰でも自分が望む職業に付き、夢見る名声を得られるわけではない。人の不幸を楽しむことを、ドイツ語で「シャーデンフロイデ」と言う。自分が幸せになることと、他人が幸せになることは残念ながら一致しないのが、この世界の実相である。

 人間の脳は複雑な文脈を引き受けて、欲望の調整をしようとする。大脳辺縁系のドーパミン細胞を中心とする情動系は、前頭葉の神経細胞のネットワークと協働して、簡単には解が見つからない人間の欲望の方程式を計算し続ける。そこには、野放図な欲望の解放はあり得ない。ただ、周囲の都合に合わせた、控えめな欲望の発露があるだけである。

 人間の欲望の間に予定調和がないことは、脳科学だけでなく、「ゲーム理論」のように、個人間の利害調整を扱う学問体系の常識である。自らの欲望だけに忠実な人は、社会的な評判を落とす。評判が落ちれば、罰こそ受けなくとも、結局不利益を得ることになる。だから、人間の脳は先回りして、短期的な欲望の実現をある程度犠牲にしても、長期的な利益を図ろうとする。功利主義を説いたイタリアの政治思想家、マキャベリにちなんで「マキャベリ的知性」と呼ばれるそのような配慮こそが、人間の社会的知性のあり方の本質である。それが、現代の諸学問の基本的了解である。

 ならば、孔子の「七十従心」とは、一体何なのか? 年をとったら欲望のレベルが落ちて、結果として矩を踰えなくなった、などという陳腐なことを言っているはずがない。マキャベリ的知性の下での先回りした節制を指しているとも思えない。「七十従心」は、もっとのびやかな印象を与える。現代の科学主義の知的射程を超えてしまった何かがそこにあるようにさえ感じる。一体、孔子は何を言おうとしたのだろう。

 今、私の前に、「七十而従心所欲、不踰矩」という言葉が、一つのエニグマとしてぶら下がっている。このエニグマを避けては、人間理解という学問的興味の上からも、一人称を生きる意味からも、先に行けそうもない。二千五百年前に一人の男が残した言葉を清玩しつつ、人間の欲望を巡る探究を始めようと思うのである。

集英社新書『欲望する脳』所収

10月 1, 2011 at 09:40 午前 |