« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011/10/31

つかみが、「アイ談脳」だってさ

デザセンが終わる頃になって、教室の後ろにカダフィ、こと、サコカメラと助川夏子さんの姿が見えて、終わって二人が降りてきたら、もう一人いらっしゃる。
あれっ、と思ったら、亀やの阿部公和社長だった。

そしたら、なんと、その場にいた東北造形芸術大学の中山ダイスケさんと、竹内昌義さんが亀やの部屋をデザインしているんだという。

びっくりしたね。「茂木さん、1111」ですよ。

亀やに着いたら、私の部屋が、まさにその「1111」だった。

食事のあと、カダフィ、助川さん、阿部社長で飲んだ。そしたら、「自分が落語をやるとしたら、どのネタをやりたいか」という話で盛り上がった。

カダフィは、「寝床」だという。阿部社長は、なんだっけ。

ぼくがやりたいネタは、「居残り佐平次」とか、「あくび指南」とかかな。

おまけに、立川流に入門するとしたら、どんな名がいいか、なんて、考えてしまった。阿部社長は「亀や」の「亀」をとって「談亀」で、ぼくは「談脳」だって。それで、つかみが、「アイ談脳」だってさ。

お酒を楽しくのむと、人間はへんなことを考えるね。談志師匠、本当にもうしわけありません。

10月 31, 2011 at 06:07 午前 |

2011/10/30

不在にこそ、いきいきとした在り方の基礎があると思うと、人生がより味わい深い。

北山修さんとお話していて、いろいろと示唆をいただいたのだけれども、とりわけ心に残ったのは「不在」についての考え方だった。

母親が子どもの安全基地になると言うけれど、大切なのは、母親が目の前にいないときに、どのように自分を支えるか。

北山さんは、九州大学を退官するにあたっての最終講義において、「ぼくはもうすぐいなくなりますよ。みなさんの前からいなくなりますよ」と言われた。

目の前からいなくなったとき、どんな印象を残すか。それが、いちばん大切なことのように思う。

目の前から消えたときに、そのあとで、どんどんその人の残像が育って。それが思い出だったり、恋だったり、師だったり。

不在にこそ、いきいきとした在り方の基礎があると思うと、人生がより味わい深い。

10月 30, 2011 at 07:08 午前 |

2011/10/29

始まる前に、少しでもと、抜け出して周囲の街を歩いてみる。

 最近、旅先で夕暮れを迎えることが多かったけれども、あれは、心細いものだな、と思う。

 周辺の地理を知っている慣れ親しんだ場所ならばともかく、初めて訪れる土地で、日が落ち、次第に薄暮が迫ってくるあの時間の流れには、どこか、心をしっとりとさびしくさせる何かがある。

草臥れて 宿かる頃や 藤の花  松尾芭蕉

 夕暮れに、その日の宿に着く。考えてみれば、それはかつて普遍的な体験だったはずだから、私たちの中に何かが染みついているのだろう。

 私は到着してすぐに仕事をしなければならないことが多いから、まずはお風呂にでも、というわけには行かないけれども、始まる前に、少しでもと、抜け出して周囲の街を歩いてみる。一日歩き続けて、くたびれて見知らぬ土地の宿屋につく、古の人たちの気持ちと、重なっている。 

10月 29, 2011 at 09:01 午前 |

2011/10/28

母親が居間で叫んで教えてくれて、ぼくが二階から戦闘機のスクランブル発進のように駆け下りてくる。

 子どもの頃、私の部屋は二階にあって、テレビは一階の居間にあった。本を読んだりしていると、ときどき、下から母親の叫び声が聞こえてきた。

 「健一郎、降りてきなさい。早く早く。」

 部屋を出て、階段を駆け下りて、居間に走っていく。この間、10秒とか、15秒が経っていただろう。

 「ほら、やっているわよ。」

 ぼくは、5歳の時に近所に住んでいる、大学で昆虫学を研究している学生さんに紹介してもらって、その人の弟子になった。渋谷の志賀昆虫店で網や三角缶や、その他の道具をそろえて、蝶々を追いかけた。日本鱗翅学会にも入った。

 要するに蝶好きだったから、テレビのニュースや情報番組などで、蝶のことが出てくると、母親が居間で叫んで教えてくれて、ぼくが二階から戦闘機のスクランブル発進のように駆け下りてくる。そんなことが何度もあったのだ。

 あの頃は、インターネットもなかったし、どんな映像がいつ流れるかもわからなかった。だから、母親が叫んで、ぼくが二階からかけ降りて、オオムラサキが空を舞っているところや、外国の美しい蝶が森の中を通り抜けていくその画面を見る、そんなやり方でしか、蝶の映像との出会いはなかった。もちろん、家庭用のビデオレコーダーなんて、ありはしなかったし。

 昨日、夕方頃から、ブータンシボリアゲハ発見のニュースをたくさんの人が親切にボクに教えてくれた。ツイッターのタイムラインに、「ブータンシボリアゲハ」の文字が並ぶ。

時代は変わったなあ。新潟から東京に帰り、iPadでブータンシボリアゲハの動画を見た。iPadは標準ではFlashに対応していないから、Puffinとかいうソフトをインストールしなければならなかったけれど。

今まで、Flashなしでもなんとか我慢していたのが、どうしてもブータンシボリアゲハが見たくなって、インストールしちゃったよ。そうやって出会えた、ブータンシボリアゲハが飛んでいる映像。

子どもの頃、母親の叫び声を聞いて二階から戦闘機のスクランブル発進のように駆け下りてきた、あの出会い方とは違うけれども、やっぱり熱狂を引き起こす何かが、未知の蝶の映像にはある。

懐かしいな。二階から駆け下りていた、あの日々。

10月 28, 2011 at 07:34 午前 |

2011/10/27

日本を救って前進させる、核心をついた設計を求めているさ。

磐田の駅からタクシーに乗ったら、方向と時間帯のせいか、なかなか着かなくてはらはらしたけれども、なんとか、18時前にYAMAHA発動機コミュニケーション・プラザに着くことができた。

池上高志が、マックをつないでいる。「よう!」

ものすごく楽しみだった。池上の話を、しばらく聞いていない。何の話をするのかな、と思ったら、グーグルの計算と、インターネットの話だった。

ものすごくわかるな。複雑系の研究が、大量のデータを扱うグーグル的存在の登場により、変質してしまった。少数自由度の「トイ・モデル」では、もはや太刀打ちできないんだ。

スライドのトーンが、かぶっていて笑ってしまった。あいつも、チュニジア革命とか、エジプト革命のスライドを使っていたよ。

終了後、YAMAHAの方々と懇親したあと、浜松のホテルのバーで飲んだ。「計算論」のレベルが大事だ、ということも、お互い独立に思っていて、驚いた。あとは、建設的な提案、画策いろいろ。

やっぱり、作るしかないよね。日本はいよいよ行き詰まってきたから、絶対に、建設的な意見が必要とされる局面になってきている。霞ヶ関だって大企業だって、マスコミだって、本当は、日本を救って前進させる、核心をついた設計を求めているさ。だって、それが、生命の本能というものだからね。



池上高志。浜松のバーにて。

10月 27, 2011 at 06:38 午前 |

2011/10/26

どんな環境にあっても、自分の純なる中心を失わない。

ある時、ある寺院に行ったときのこと。

そこの仏像は、日本にあるものの中でも最も美しいものの一つとして有名で、その清楚で、可憐で、しかし深いお姿を拝見するのが楽しみだった。

そしたら、その安置されている場所に近づいたら、何やら音がしている。

まさか、とは思ったが、いやな予感がして。

そうしたら、やっぱり、テープで説明が流れている。

やり切れないな、と思った。何だか、ラジカセのようなものが置いてあって、そこから延々と説明が流れている。口調からして、お寺の人が喋っているんじゃないかな。

ぼくは、呆然として、そのきれいな仏像をただ拝見していた。

静寂の意味を、理解できない人たち。日本の、等身大の自画像。これを堕落と言わずして、何を堕落と言うのだろう。

しかも、こんなに美しい仏像にいつも仕えていらっしゃる方々が、そうなってしまうなんて。

唯一の救いは、その仏像が、一切汚れず、凛として、そこにたたずまいとしていらしたことだった。

それはそうだ。ずっと、何百年も、いやもっと長い時間、この地上にいらした。どんな時も変わらず、人々の心に火を灯して。

どんな環境にあっても、自分の純なる中心を失わない。

ぼくは、そのお姿を心の底からありがたいと感じて、いつまでも拝見していた。

10月 26, 2011 at 07:10 午前 |

2011/10/25

いつ会っても、何か面白いネタを持っているやつ。

田森佳秀が、iPadをもってきて、「これがメインだよ」と言うから、おかしいなと思った。

キーボードがあるのはいいとして、それだけであいつが終わるはずがない。

「お前、どんな使い方しているんだよ。へんなことをやっているんだろう」と聞いたら、やっぱりヘンだった。

「ウィンドウズが立ち上がるんだよ。」と田森が言う。

「ほら、これ、研究室のデスクトップ。ここからこうやって、全部見えるだろ。この窓を閉じても、向こうはやっているから。これで、大学の書類とか、全部できるんだ。」

なぜ、田森がiPadをメインにしている、というのがおかしいな、と思ったかというと、あいつはいろいろハックしてへんな使い方をするやつだから、iPadみたいに、初心者に親切に何でもできている製品と田森のイメージが合わなかった。

それと、Preziとかいうやつで、プレゼンも作っていた。

「ほら、Clifford代数についての説明。こうやって、ズームして、動いて。凄いだろう。」

田森はやっぱり田森だった。

夜の金沢の街を、iPadを持って歩く田森。いつ会っても、何か面白いネタを持っているやつ。

10月 25, 2011 at 07:48 午前 |

2011/10/24

勉強法に悩んでいるみなさんへ (6)一秒で集中する方法

勉強が苦手だとか、成績が伸び悩んでいる人たちの中には、勉強法がわからずに苦しんでいる人たちもずいぶんといるのではないかと思います。

以下、小学高学年の子どもでもわかるように、できるわけわかりやすく「勉強法」を解説したいと思います。参考にしてください。

なお、ここで解説する勉強法は、大人になってももちろん活用できます。脳は、「完成型」のない「オープン・エンド」。意欲さえあれば、何歳になっても新たな学びを積み重ねることができるのです。

6、1秒で集中する方法

 はっと気付いた瞬間に、集中する。1秒で集中する。そんなことができたら、苦労しないよ、という子がいるかもしれません。

 確かに、どれくらい集中できるかどうかには、個人差があります。一方で、それは、鍛えることができるものでもあります。生まれつきの「性格の差」で、集中できる、できないということが決まっているわけではありません。

 腕立て伏せや、腹筋といった運動をすると、筋肉を鍛えることができますよね? 集中するために必要な脳の回路も同じことです。前頭葉にある、「文脈」(今自分が置かれているようすを判断すること)を切り替えたり、脳の回路を目の前の目的のために動員したりするために使われる部位は、集中することを繰り返すことで鍛えることができます。だから、「私は集中できない性格なのだ」と諦めてしまってはいけないのです。

 だらだらしてしまったとしても、「さあ、勉強しよう」と始める。その時に大切なのは、「勉強すること」と「自分」との間に、「壁」を作らないことです。

 勉強しようと思っても、なかなかな始めない子がいます。このテレビ番組が終わったら、とか、あの時計の長い針が12のところに来たらとか、いろいろと理由をつけて始めないのです。

 あるいは、「勉強の環境を整えてから」などと言う子もいます。「まずは机のまわりを掃除してから」とか、「教科書や参考書を整理してから」などと言っているうちに、すぐに5分や10分の時間が経ってしまうのです。

 そうではなくて、「はっ」と気付いたら、即座に始める。そうして、わき目もふらずに集中する。この時に大切なのは、なかなか調子が出なくても、諦めないことです。すぐには集中できなくても、やめずにそれを繰り返していることで、次第に、瞬間的に「トップ・スピード」に入れるようになってきます。

 どんなに机の回りが散らかっていても、教科書や参考書が揃っていなくてもいいのです。例えば、「分数の計算をしよう」「英語の単語を覚えよう」と思ったら、机の端でも、ソファに座って自分の膝の上でも、とにかく即座に始めてしまう。テレビがついていようが、妹が隣りにいようが、関係ない。さっと始めて、一気に加速する。

 それで、5分でも10分でもやったら、さっとやめてしまっていいのです(もちろん、もっと長く勉強してもかまいませんが!)。肝心なのは、「立ち上がり」の時のスピード。そこで、何の前触れもなくさっと勉強に入ることが、人生で、必ず役に立ちます。

 「はっ」と思ったら、「さっ」と集中する。実は、これは日本の武道の伝統的な極意でもあります。武士は、いつ敵がせめてくるかわからない。道をのんびり歩いていても、敵が襲ってきたら、即座に対応しなくてはなりません。

 みなさんが、幕末に活躍した坂本龍馬だと想像してみてください。宿にいるところを、いきなり新撰組がせめてくる。一秒どころか、もっと早く集中して対応しなければ、命がありません。「今、準備をするから、5分待ってくれ」と言っても、相手には通じません。そんなことをしているうちに、切られてしまいます!

 みなさんが、ついつい言ってしまいがちな、「机を整頓してから」「教科書や参考書をそろえてから」「時計の長い針が、12のところに来たら」といった言い訳は、それを武士に置き換えると、とってもおかしなことになる、そうは思いませんか?

 「はっ」と思ったら、「さっ」と集中する。そんな「1秒で集中する」勉強法は、坂本龍馬と同じなんだと考えると、ちょっとかっこいいですよね!

10月 24, 2011 at 02:05 午後 |

今度夕暮れの空を見上げるときは、アタマの中から、できるだけカメラを追い出すことにしよう。

夕方、空を見上げたら、雲の様子とか、光のニュアンスとか、本当に素敵でならなかった。

子どもの頃は、よくそうやって上を見ていた。写真を撮る、という考えさえ浮かばなかったから、「今、この時」を留めようと、必死になって見つめていたのだろう。

最近の研究によると、記憶課題において、この言葉は後で検索できると思っていると、脳がなまけてしまうのだという。

たとえ、カメラを手に持っていなくても、写真を撮ることができる、という可能性を思い浮かべているだけで、私たちは「今、ここ」の切実さから離れていくのかもしれない。

今度夕暮れの空を見上げるときは、アタマの中から、できるだけカメラを追い出すことにしよう。

10月 24, 2011 at 07:30 午前 |

2011/10/23

ずっとぶっこわれた青い靴でがまんしていたのが、急に靴持ちになっちゃった。

ずっとはいていた靴がこわれたので、白いビートルズのりんごが入った靴をかった。

そしたら、かかとのところが痛くなった。なにしろ裸足で歩き回っているので、すれるのだ。

さわってみたら、靴の内側が、キャンバス地ということもあって、紙ヤスリみたいになっている。困ったな、と思って、たまたま通りかかかった店で、また靴を買った。革靴のまじめなやつ。でもやわらかくて、履きやすい。

しめしめ、と思っていたら、フジテレビで朝倉さんが「はい、茂木さん」と靴をくれた。神原さんが持ってきてくださった。恐縮。「誕生日のプレゼントです。」

わあ、はきやすい! スリップオン! でも、これで、京都に靴持っていかなくてはならなくなったよ。

ロッカーにでも、と思ったけれども、乗るのが品川で、帰り降りるのが新横浜だから無理だ。

すごいなあ、たった3日で、三足の靴がぼくのところにやってきた。ずっとぶっこわれた青い靴でがまんしていたのが、急に靴持ちになっちゃった。

でもね、裸足だといつ寒くてたまらなくなるかもしれないと思って、リュックの中にはいつもエマージェンシー・ソックスを入れている。

10月 23, 2011 at 07:43 午前 |

桃源郷はここにあった。星のや京都

 素晴らしい景勝地の多い京都においても、嵯峨野は格別であろう。

 市内の喧噪から離れて、ゆったりと散策する。自転車を借りて走っても良い。清涼寺。大沢池。落柿舎。心をのびやかにする風景に囲まれていると、なぜ最初からここを目指さなかったのか、とさえ思う。

 私が特に好きなのは、大河内山荘から下る竹林の風景である。夏の夕方など、青いものを通して頬に触れる風も涼しく、生きるということがもともと持っていたはずの爽快感が戻ってくる。そのままゆったりと下っていくと、源氏物語にも登場する野宮神社にたどり着く。

 道なりに進んでいくと、にぎやかな通りに出る。人力車のお兄さんが元気な声をかけてくる。土産物屋の並びを抜けていくと、目の前に渡月橋が現れる。

 桂川にかかるこの橋を、私は何度眺めてきたことだろう。最初は、修学旅行で訪れた中学生としてそれを見た。美しい風景だとは思ったが、ろくに観賞もせずに仲間たちと騒いでいた。大学生になってから、何度も接するようになった。親友とともに広隆寺を訪れ、弥勒菩薩半跏像の優美な姿に心を震わせた後、ぶらぶらと歩きながら見た渡月橋はとりわけ忘れがたい。

 いつしか、渡月橋を前にすることが、自分の人生における「定点観察」のような体験になっていた。そのことについては、一つ不思議なことがあった。気付いてみれば、訪問を重ねているのに、私は一度も渡月橋をわたって「向こう側」に行ったことがなかったのである。

 いつも、京福嵐山線の「嵐山」駅のある北川から眺める。わたっていけば、紅葉の名所である嵐山に至るということは知識としてはわかっていたが、何故か実行することがなかった。あたかも、渡月橋の向こう側はこの世ならぬ「彼岸」の別世界のように感じられていたのだろう。

 その別世界の中に「星のや京都」がオープンしたと耳にした時、一気に期待が広がった。船で川を遡上し、宿入りするのだという。そのような浮世離れした設いが、いかに人の心を癒すものか私は知っている。

 訪問の機会に恵まれた。上り桟橋は、渡月橋の「向こう側」にある。ついに、渡月橋をわたる。待屋に入る。「船が来ました」との声に外に出る。夢が現実になる時がきた。

 移行は、ゆっくりと身体に浸透していく。心地良く川風に吹かれているうちに、宿は桂川のほとりに奇跡のように姿を現した。

 役行者が「投げ入れた」との伝説がある国宝の三徳山三佛寺「投入堂」を思い出す。手つかずの大自然の中に忽然と現れた宿。夕暮れ時。美しくライトアップされた敷地から、温もりが伝わってくる。昔話の旅人のように、ひと心地がした。

 夕食は、宿のレストランでとった。季節のものが程よく調理されて出てくる。きりっと冷えた酒とともに堪能した。望めば、船で対岸の嵐山吉兆に出かけることも可能だという。美食の「かけ流し」である。

 木の葉のさざめきと川のせせらぎに包まれて眠りに入る。夢の中で、鹿の声を聞いたような心持ちがする。目覚めて外を眺めると、桜の花がほころんでいる。桂川の流れを見てぼんやりとしていると、対岸をトロッコ列車が通った。

 庭に立ち、木の梢を見上げる。山の空気に包まれることの心地よさをゆったりと思い出す。

 桃源郷はここにあった。仙人にこそなれなかったが、心身が深く充たされた。すべては、渡月橋をわたって船に乗ったおかげである。


(2010年5月に書き、集英社のUOMOに掲載された文章です)


星のや 京都
http://www.hoshinoyakyoto.jp/

10月 23, 2011 at 07:27 午前 |

2011/10/22

日常が底光りする理由

日常が底光りする理由  茂木健一郎

 最初に見た小津の映画は、「東京物語」だった。私はその頃大学院の学生で、講師のアルバイトをしていた塾の近くのレンタルビデオ屋で、正月休みに他の映画と一緒に借り出した。

 当時、私は、ヨーロッパ映画ばかりを見ていた。西洋かぶれの青年だった。日本の映画に、ヴィスコンティやタルコフスキーに相当する人がいるとは、思ってはいなかった。もちろん、「東京物語」が傑作であるということは聞いていた。だからこそ、レンタルビデオ屋で目に止まったのだろう。しかし、「惑星ソラリス」や、「イノセント」に匹敵するような体験が、「東京物語」という作品の中に潜んでいるとも期待してはいなかった。 


 実際、最初に見た時の印象は、何だか良くわからないものに出会ったという感じだけだった。自分が何を見たのか、良くわからなかった。ただ、見終わった後に、何かわだかまりのようなものが残っていた。

 それで、3月末くらいになって、もう一度借り出して見てみた。それで、潜伏していた毒が心の中に回り始めた。智恵熱が出た。しばらくは、東京物語のことしか考えられなくなった。居ても立ってもいられなくなって、私は、2回目にビデオを見た一週間後、新幹線に乗って尾道にでかけた。尾道の細い路地をさまよいながら、映画の中に出てきた風景を探し求めた。


 当時の尾道には、「東京物語」の中で、老母が亡くなった直後の朝の場面に現れる船着き場がまだ残っていた。私は桟橋に立ち、朝の海辺の風景が現れた瞬間、観客に「ああ、危篤だったお母さんは亡くなってしまったんだ」と悟らせる、あの映画史上に残る一連のシークエンスのことを思い出していた、笠智衆が、原節子に「ああ、きれいな夜明けだったあ。ああ、今日も暑うなるぞ。」と語りかける、海を見下ろす高台の場所を探して歩き回った。映画の最後で、香川京子が演じる先生が原節子が乗った蒸気機関車を見送る小学校のある場所を求めて、千光寺公園の下の迷路のような道をさまよった。

 何が、あの時私を衝き動かしていたのか、今でも十分には言語化できてはない。後にも先にも、映画を見て、あれほど居ても立ってもいられないような気持ちになったことはない。東京物語という作品と出会ったこと、小津安二郎という映画監督に出会ったことは、間違いなく私の人生における一大転機だった。

 私の有限の人生において、東京物語との出会いがいかに大きなことであったか、そのことを、今でも、感謝の念を持って思い出す。もし、小津がいなかったら、「東京物語」や、「晩春」、「麦秋」、「秋刀魚の味」といった作品群がなかったら、私にとって、世界は全く違った風景として見えていただろう。黒澤明のケレンも、溝口健二の様式美も、川島雄三のエスプリも、私にとっては、その後をついて行こうとは思うようなものではなかった。ただ、小津安二郎だけが、それまで私が積み上げたヨーロッパ映画、ヨーロッパ芸術の体験に匹敵する、そしてそれを超えるかもしれない何かを私に提示しているように思われた。

 自分の生まれた国を愛したくないと思う人間などいない。小津に出会うまで、私はきっと不幸な人間だったのだろう。私は、不覚にも、日本にそれほど大した文化があるとは思っていなかったのである。日本は、文化的後進国だと、本当に思っていた。私の個人的な体験というだけでなく、私の属していたコミュニティの中の一つの傾向だったのではないかと思う。ひょっとしたら、敗戦の精神的後遺症が1962年生まれの私の世代にまで影響を及ぼしていたのかもしれない。

 長谷川等伯の松林図に沈潜し、伊勢神宮の内宮の、あたかもそこに今まで宇宙になかった元素が誕生しているかのような佇まいに心を引かれ、本居宣長から樋口一葉、小林秀雄に至るもののあはれの系譜に共鳴する時間を積み重ねた今となっては、どうしてあのような世界観を持っていたのか思い出せないほど、青年期の私は日本の文化を低く見ていた。小津の作品との出会いは、私にとって、「日本への回帰」の重大なターニングポイントだったのである。

 二十代半ばの「東京物語」との出会い以来、私は、小津の作品がなぜ私の心をここまで惹きつけるのか、折りに触れ考えてきた。映画について考える時間の半分以上を、小津の作品について考えてきたと言っても過言ではない。
 
 もちろん、小津との出会い方は、人それぞれだろう。私の見る小津が、他の人にとっての小津とどのような関係にあるのか、必ずしも明らかではない。それでも、私が、右のようなきわめて個人的なことをあえて書き留めておきたいと思ったのは、小津映画を繰り返し繰り返し見る中で強まってきた、人間にとって、全ての普遍的なものは、有限の人生の中の個別性に現れるという思いと関係している。普遍性は個別性を通してしか表れないということが、繰り返し確認されるべき、重大なことであると信じるに至ったのである。

 私にとっての小津安二郎という普遍は、私の人生の個別性と切り離して考えることができない。私はそう考える。よけいなお世話かもしれないが、どんな人にとっても、小津安二郎の普遍は、それぞれの人生の個別性の中に顕れるのではないか。私はそうも考える。人生の個別性の数だけ、異なる小津安二郎という普遍があるという意味ではない。確かに、抽象的な意味での小津安二郎の普遍を考えることはできるし、様々な体験が収束していく先に見えてくるものはあるように感じられるけれども、そのような抽象的な普遍も、必ず、個々の人生の具体的なエピソードにおいて感じられるということは、決して忘れてはいけないことのようにも思われる。

 「東京物語」を見て、熱病になって尾道に出掛け、映画の面影を探して歩き回り、細い路地でおばあさんの曲がった背中を見て、千光寺公園に登ったら桜が咲いていたという、私の人生のきわめて個別的な思い出から切り離して、私にとっての小津という普遍はあり得ないように思う。あの体験が、私のプライベートであるとともに、どこか、「東京物語」という作品の万人にとって開かれた抽象的なパブリックにもつながっているはずだと、私は信じたい気持ちでいる。

 人間にとっての普遍的なことがらは、それぞれの人生の個別性において顕れるということを、小津ほど徹底的に貫いた映画作家はおそらくいないのではないか。小津安二郎本人が、そのことを言語化していたか、自覚していたかは判らない。しばしば、芸術の天才とは無意識の天才である。本人が意識していたかどうかは判らないが、生、死、出会い、別れといった人間にとって普遍的な意味を持つ事象を、日常と切り離した観念的存在として描くのではなく、日々繰り返すごくありふれた営みの描写の中に描くことに、小津安二郎ほど洗練された手腕を見せた作家はかっていなかったのではないかと思う。

 小津の作法は、戦争のように、人間にとって非常の事象が描かれる時にもっとも先鋭的な深みを示す。小津は、戦争を主要なテーマにした作家ではないが、戦争がその作品にモティーフとして現れることはあった。小津映画において、戦争が穏やかな珊瑚礁の海に遠くからかすかに聞こえる外洋の波の音のように姿を現すとき、どのような表現ジャンルにおいてもかって見られたことのない形で、普遍と個別の交錯の形式が示されているようにさえ思われる。


 戦争は人類の歴史における重大事だから、何らかの普遍的な原理を標榜してそれを議論したいという欲望は誰にでもある。一方で、戦争という事象の本質は、それを体験する一人一人の人間にとっては、必ず些細とも思われるような具体的なエピソードの中に現れるのではないかとも思う。

 太平洋戦争勃発の翌年に封切られた「ハワイ・マレー沖海戦」は、円谷英二が真珠湾攻撃の特撮シーンを担当したことで知られる。この映画で、私にとって特に印象的だったのは、攻撃の前夜、駆逐艦の中で、士官たちがアメリカの戦艦のシルエットを見て、その名前を当てる訓練を行うシーンだった。教官がシルエットを見せ、士官たちが「オクラホマ!」、「ミズーリ!」などと答える。当たっていれば「轟沈!」と教官が言って士官たちが笑う。外れれば、「お前の嫁さんの顔くらい覚えておけよ」と冷やかす。戦争というものを、抽象的な存在としてとらえているのでは思い着くことさえできないようなそのシーンに、私は当時の日本人にとっての対米戦争体験のリアリティを感じた。

 戦争はマクロな事象であるが、それに巻き込まれる人間にとっては、それぞれの有限な人生の個別性と絡んで感じられる、ミクロでプライベートな事象でもあることも確かである。もちろん、ミクロでプライベートな体験そのものが、戦争であると言うのではない。ミクロでプライベートな体験を積み重ねていった時に、ぼんやりと姿が見えてくる巨大な化け物を、私たちは戦争と呼んでいるはずである。最初から、確固とした抽象的存在として、戦争があるのではない。だとすれば、戦争を描くには、ミクロでプライベートな体験の切実さに寄り添う以上の方法はないとも言えるはずだ。

 「秋刀魚の味」で、笠智衆扮する「艦長さん」が、加藤大介が演ずる昔の部下と交わす会話は、私にとっては、どのような観念的、イデオロギー的な議論よりも説得力を持つ戦争論であり、大河ドラマ的な演出を超えた、リアルな戦争描写であるように思われる。 

「けど艦長、これでもし日本が勝ってたら、どうなってますかね。」
「さあ、ねえ。」
「勝ってたら艦長、今頃あなたも私もニューヨークだよ、ニューヨーク。パチンコ屋じゃありませんよ。ホントのニューヨーク。アメリカの。」
「そうかね。・・・けど、負けてよかったじゃないか。」
「そうですかねえ。うーん。そうかもしれねえな。バカなやろうが、いばらくなっただけでもね。艦長、あんたのことじゃありませんよ。あんたは別だ。」


 笠智衆が、「さあ、ねえ」と言いながら浮かべる微笑みに接すると、私はいつも居ても立ってもいられないような気持ちの動きを感じる。先の大戦の是非に関するどのような観念的な議論にも勝る、生の実感がその表情に込められているように感じる。

 小津映画においては、俳優の顔の表情が、しばしばイコンとして忘れがたい印象を残す。杉村春子のような例外的な存在を除いては、俳優たちの自発的演技というよりは、小津が意図していたことのはずである。小津が、俳優の顔の表情筋の細かい動きまで指示して演出していたことは、よく知られた事実だ。

 笠智衆の顔の表情には、戦争を体験した海軍の艦長さんの実感というものは、確かにそんなものだったのではないかというリアリティがある。顔の表情一つの中に、どんなに実証的な戦記物にも勝るとも劣らない戦争体験というものの切実さが表現され得ているのである。

 加藤大介とのかけあいのシーンは、ラスト近く、娘の結婚式を終えた笠智衆が一人でバーに現れるシーンへの伏線となる。岸田今日子が演ずるマダムが、礼服姿を見て「今日はどちらのお帰り? お葬式ですか?」と尋ねると、笠智衆が、「うん、そんなもんだよ。」と応える。この「うん、そんなもんだよ。」が、すなわち映画のテーマである秋刀魚のほろ苦い味の簡潔な表現となっている。

 マダムが、気を利かせて、軍艦マーチをかけると、それを聞いて、笠智衆の横に並んで座っていた男の一人客2名が即興で応酬し合う。

 「大本営発表」
 「帝国海軍は、今暁5時30分、南鳥島東方海上において」
 「負けました」
 「そうです、負けました」

 二人の、おそらく初見の自己紹介も交わしていない男たちが、それだけのことを言い、あとはにっこり笑って黙ってウィスキーを飲む。


 この場面は、日常の中で出会う出来事としては出来すぎているようでもあり、どこかに、そのように成熟したふるまいをする大人が確かにいるような気もする。いずれにせよ、この場面が、映画の芸術表現としてきわめて洗練された、忘れがたいものである事は間違いない。

 小津は、日常のとりとめもない光景の中のさりげない会話の中に、万感の思い、深い洞察を示すことができた。小津の世代では、そのような立ち居振る舞いは大人の身だしなみだったのかもしれないが、戦争や平和、社会正義といった問題を、イデオロギーに基づいて論ずる嵐のような時代が過ぎ去った直後に大学に入った私には、戦争のような重大事の本質を小津の映画の登場人物のようにさらりと突くことのできる先達たちは、身の回りに探そうと思っても見あたらなかった。小林秀雄のように、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみせるがいいぢやないか」と嘯く大人も見あたらなかった。

 秋刀魚の味が公開されたのは、昭和37年。私が生まれた年である。考えて見れば、戦争が終わってから、17年しか経っていない。昭和が終わり、平成になってから今までの時間の流れとさほど変わらない時間が流れ、その頃に撮影された小津の映画というフィクションの中で、バーのカウンターであのような会話を交わす男たちがいる。

 戦争の悲惨さ、死んでいくものの無念さについて、多くの言葉を費やして饒舌に語ることも時には必
要であろう。そのような映画が沢山制作されていることも知っている。小津の映画は、そのような映画ではない。だからこそ、まだ戦争の記憶が生々しい頃、「晩春」や「麦秋」を撮影した小津安二郎は、時代遅れだとか、のんびりしているとか揶揄されたのだろう。当時の社会的緊張の中、そのような威勢の良い小津批判を行った若い世代の気持ちも判らないわけではない。しかし、今となってみれば、社会的な事象を正面から扱おうとした映画よりも、「浮き世離れ」して「のんびり」した小津の作品群の方が、よほど当時の日本人にとっての戦争の記憶の持つ生々しさをリアルに表現しているように思われる。

 イデオロギーは、生の実感、生の具体から浮遊することで、道を誤らせるのである。
 
 そもそも、人類にとって、真理とは何か、善とは何か、美とは何かということを、それぞれの人生の個別性、具体性を離れた抽象的な形で議論することに、どれほどの意味があるのだろう。

 素朴に考えれば、個人の生活の具体性に埋没した議論よりも、抽象的な観念と論理に基づいて構築される議論の方が、高尚で普遍的なもののように思われることも事実だ。実際、哲学、思想というものは、個々の人生の具体性を離れた、抽象性、普遍性を獲得してこそ、初めて意味を持つと多くの人が暗黙のうちに前提にして来たのではないかと思う。私自身も、かっては、そのような形で思想を展開し、記すことに価値があると信じていた時期があった。

 しかし、思想というものは、そもそも、個人のきわめて具体的な生の実感と切り離せるものではないのではないか。

 私には、ニーチェが「悲劇の誕生」の中で展開する「個別化された世界」、あるいは、「アポロ的」と「ディオニソス的」というような抽象概念の持つ力に、強く惹かれていた時期があった。これらの概念が、なぜ、私にとって切実でありえたのかと言えば、何のことはない、きわめて個別的で具体的な日常生活の中のエピソードに結びついていたからこそであると、今となっては思われる。

 あの頃の私にとって、「個別化された世界」とは、つまり、自分が思いを寄せる人となかなか心が通じ合わないという恋愛生活上のディレンマのことに他ならなかった。当時のガールフレンドに、私は、人間の置かれている状況の根本的な問題は、それぞれの人々が「個別化された世界」に閉じこめられていることだ、と言ったことがある。いつどこでそんなことを言ったかも覚えている。研究室の飲み会の買い出しをしようと、東大の弥生門から、根津の交差点に降りる坂道を下っている時だった。その時、私のガールフレンドは「わかるけど、世界というものは、そういうものなんだから、仕方がないんじゃないの」と私の幼さをたしなめるように言った。

 あの時、私が「個別化された世界」という問題を持ち出した事情には、もちろん、人間と人間がなかなか解り合えないという世の習い一般に対する青年らしい慨嘆もあったけれども、一方で、私の幼さに対して成熟と余裕で接するように感じられた当時のガールフレンドが、なかなか私の心情の中心まで降りてきてくれないことに対する恨みのようなものにも発していた。このような自分の体験を記すことは恥ずかしいことであるが、そのような恥ずかしさを抜きに、私にとっての「個別化された世界」という概念の成り立ちもあり得ない。

 自分の人生の生の実感から離れて抽象へ向かうことを良しとする傾向は、死への衝動(タナトス)の一つの表れなのかもしれない。確かに、人間には、それぞれの具体的な人生のエピソード性を離れて、抽象性、普遍性に向かおうとする思考上の傾向がある。青年期に、大抵の人は、自分の考えていること、表現していることが、自分の人生という個別性から離れた普遍的な意味を持っていることを信じたいという衝動を感じるはずである。

 放っておいても、どうせ人は抽象性に向かう。それならば、むしろ、どのような抽象的、普遍的な概念も、必ずそれぞれの人の人生の個別性において感じられていると肝に銘じることを心がけた方がよい。「アポロ的明晰さ」とか、「ディオニソス的混沌」は、一体、自分の人生の具体的なエピソードの中で、いつのどのような形で出現していたのか、じっくりと考えてみるのが良い。

 そこに現れるものは、「アポロ的」とか「ディオニソス的」といった概念を抽象的なイデアとして考えている時に比べると、みっともなくて恥ずかしくも感じられる、具体と抽象の奇妙な混淆物であるかもしれない。概念の塔に籠もることで、人々は生の現場からの安全圏に自分を囲い込むことができる。しかし、生の現場に自分を投企することなしには、どんな抽象概念も切実さを持ち得ないということを徹底して省察するならば、多くの哲学書、思想書が前提としている生の個別性から遊離した形で立てられる「普遍性」の持ついかがわしさが、逆照射されるはずだ。

 小林秀雄のベルクソン論『感想』の主要部分は、抽象的な形でベルグソンを論じた本体ではなく、冒頭の有名な書き出しにこそあると考えるのは、それほど奇妙なことだろうか。

  終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたへた。それに比べると、戦争という大事件は、言はば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思ふ。(中略)母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。(中略)私の家は、扇が谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れてゐた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでゐるのを見た。この邊りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見たこともない様な大振りのもので、見事に光ってゐた。おつかさんは、今は蛍になってゐる、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考へから逃れることが出来なかった。

 もし、思想というものは抽象的で形而上学的であるのをもって良しとするという態度を貫くならば、小林のこの書き出しはカットしてしまえば良かったのだろう。しかし、この書き出しのない「感想」に、どれほどの価値があるのか。「感想」の価値は、この書き出しに尽きるのではないか。むろん、小林のベルグソン論本体に価値がないと言っているのではない。小林が、このような書き出しでベルクソンのクリティークを始めている点にこそ、深く味わうべき魅力があるのではないかと私は感じる。


 どのように普遍的なものとして構想されている概念も、個々の人間の猥雑で混沌に満ちた生の具体と
どのように交錯するかという問題を離れては、成り立たない。真理や美、善や悪という概念は、そのような普遍が個々人の生の具体とどのように関わって立ち上がってくるのかということを含めて、初めてその成り立ちが完結する。そのように認識する時、普遍哲学的な志向の限界と同時に、個人の生の具体に寄り添って問題を提示する文学の目眩がするほどの可能性が視野に入ってくる。

 概念を個別から切り離して論じるのをよしとするいわゆる哲学書、思想書のスタイルよりも、普遍が一人の人間の生の個別にどのように絡みついて顕れてくるのかを提示できる文学こそが、単に人間の生の実感に寄り添っているというだけではなく、思想そのものの本来の表現方法なのではないか。そのようなことを考えながら、たとえばプラトンの『饗宴』のような作品を読む時、人間はひょっとしたら思想の表現法に関して、二千年の迷妄の中にいるのではないかというように思われてくる。

 小津映画の魅力の一つが、その練り上げられた台詞にあることは言うまでもない。小津は、おそらくは文学者でもある。野田高悟と別荘に籠もり、毎日酒を飲み、空いた一升瓶を何十本も並べながら書いた脚本において、間違いなく第一級の文学的センスを示している。小津の研究で知られるドナルド・リーチが、最近、東京物語の台本を英訳した本を出版したことからも傍証されるように、小津の映画の脚本は、世界に通じる文学としての普遍性も備えている。

 文学においては、登場人物のキャラクターや場面の雰囲気は、具体的な視覚的表象とは独立した、志向的表象として提示される。志向的表象としての純粋さこそが、文学という芸術形式においては、何よりも大切なことである。文学作品の映画化は、その作品世界の志向的純粋性の展開という視点から見れば、多くの場合失望すべき結果に終わる。「雪国」の駒子は、川端康成が書いた駒子という志向的表象において完結しているのであって、どんな名優がどんなに素晴らしい演技をしても、もともとの作品の志向的純粋性には届かない。志向的純粋性を維持することだけに関心があるのならば、映画化など最初からしない方が良い。文学作品の映画化は、作品の志向的世界を忠実に再現することなどでは決してあり得ず、原作と関係してはいるが、別の表象世界を提示する結果に終わる運命にある。

 一方、映画という芸術形式においては、志向的意味の世界ではなく、きわめて感覚的な表象の世界において、一つの仮想世界が提示されなければならない。ここに、もっとも普遍的な価値が、きわめて具体的な個別性と絡む、映画に固有の状況が現れる。

 どんなに小津に才能があっても、どんなに、松竹の小津組のスタッフが優秀であったとしても、もし、原節子がいなかったとしたら、笠智衆がいなかったとしたら、「東京物語」の最後の告白シーンが、あの特定の感触を持つことはなかっただろう。原節子が、「麦秋」の中で、買ってきたケーキを包んでいた紐を結びながら、見合いの話が持ち込まれている相手について、「専務さん、とっても良いかただっておっしゃるのよ」とうれしそうに言って、それからぽんと紐を投げる、あのシーンの何とも言えないかわいらしい優美さが表現されることはなかっただろう。


 小津が、俳優の箸の上げ下ろし、台詞の口調、顔の筋肉の動かし方まで一々指導したという史実には、映画という芸術形式の成り立ちに寄り添った本質的な誠実さが現れている。いかにすぐれた脚本があったとしても、原節子のあの顔が、あの表情で、あの声の質で、あの口調であのような感覚的表象をつくり出すことがなければ、小津安二郎の映画作品があの特定の質感を持つこともなかったのである。


 小津という天才が現れたこと自体は、多くの偶然のなせる業である。その出自が偶然の積み重ねであっても、結果として示される天才を、人間は普遍的な価値としてとらえる。一方、その作品を構成するマテリアルとしての俳優も、また偶然のなせる業としてこの世界に出現している。そもそも、原節子のような顔の造形で、声の質で、原節子のような表情を見せ、演技をする女優が現れる確率は、果たしてどれほどのものか。宇宙開闢以来、あの原節子の具体をピンポイントで帯びた女優が現れて、映画に出演する確率は、要するにゼロに限りに近いではないか。

 普遍が、具体に宿った形でしかこの世界に出現しない、ということ自体を、抽象的に考えているうちはまだ良い。その具体というのが、原節子であり、笠智衆であり、彼らの具体と小津の具体が出会うことがなければ、小津の映画という普遍も決して生成されることがなかったのだ、と考えると、あたかも、限りない深みから底光りのようなものが見えてくるような感覚が心の中にわき上がってくる。

 その感覚こそが、小津の作品の持つ文学性の本質なのである。

 小津の映画には、時折、見慣れた日常の中に、神々しい、彼岸の何ものかの気配が侵入してくるシーンがある。 「晩春」で、結婚を決意した原節子が演ずる娘と、笠智衆が演ずる父親が記念の京都旅行に出かけ、夜、宿屋で並んで床に就き、その日の感想を話し合う場面がある。再婚したおじさんが、汚らしい、と言っていたのを、原節子が反省する。再婚相手に実際にあってみたら、とてもいい人だったと。笠智衆は、そんなことはいいんだ、と応える。原節子が、

 「ねえ、お父さん。私、お父さんのこととてもイヤだったんだけど・・・」

と言いかけて、ふと気がつくと、隣の父は、もう寝息を立てている。

 原節子は、まずは父親の方を見て、それから、天井を見る。障子越しに、大きな月影が見え、笹の葉のシルエットが揺れる。月の中央を貫くように、壺が立っている。 

 象徴心理学的な分析をすれば、様々なことが言えそうなこの場面には、何か異様なものの気配が漂っている。その気配は、京都を発つ朝、原節子が笠智衆に、本当は嫁になど行きたくない、お父さんとこうしてずっと一緒に暮らしたい、と迫っていく場面の尋常ならざる気配につながっている。あの一連の場面での原節子がかもし出している雰囲気は、曜変天目茶碗と同じような様々な要素の化学反応の奇跡である。あのような具体は、決して簡単に再現されるものではない。

 もっとも、決して簡単に再現されるものではないのは、曜変天目茶碗や晩春の原節子に限る特別なことではない。本来、私たちが日常の中で出会うことの全ては、容易に再現されることのない一回性のものである。自分の人生という具体に特有の化学反応が生み出した、おそらく宇宙の歴史の中で二度と再現されないものたちである。その一回性を超えて普遍を立てるところに、人間精神に固有の可能性がある。その一方で、私たちは、普遍という罠に思わず知らずのうちにはまって、具体そのものを見失っていくのである。

 原節子であり、笠智衆であるところの特別な具体について考えるまでもない。目が覚めて、眠りに落ちるまで、自分が体験する状況の具体が、寸分違わず再び繰り返されることは決してない。「これは前と同じだ」と考えるのは、単なる便宜の問題である。具体との出会いを、一期一会であるととらえても、そのようにとらえること自体が、具体から普遍への飛躍を含んでいる。

 普遍への飛躍をせずに、ぐっとこらえて、まさに目の前にある具体の生々しさに寄り添うことは、おそらく私たち人間の脳が進化の過程で獲得してきた普遍化への傾向に反する、かなりしんどいことのはずである。しかし、そのしんどい作業がどのようなことを意味するのか、少なくとも想像してみることなしには、小津の作品の持っている本当のポテンシャルも、現象学の哲学を経て、小津映画を経た現代の我々にとっての文学の可能性も見えてこないように思う。

 禅の思想を持ち出すまでもなく、人間が体験する感覚世界の成り立ちからして、神や永遠は、私たちの生の猥雑で混乱した日常を離れては存在し得ない。人間は、往々にして、この地上の生の具体から離れた抽象的な普遍として、神や永遠といったものを仮想したいという衝動に駆られる。そのような衝動は、おそらくはタナトスの一つの変形である。

 小津が、美食や酒を愛したことは偶然ではない。人間にとっての普遍は、タナトスの先にあるのではなく、日々の感覚の具体の中にある。舌に載せたチョコレートが溶けていく時の感覚に、トンカツを食べた後ビールを飲む時の感覚に、永遠が宿っていると考えて、何が不都合なのか。そこに神が宿ってさえいると考えても、不敬だと言えるのか。有限で具体的なものが、そのまま、普遍的で永遠なものと等価であると考えては、道を誤るのか。私たちの生の、ごく些細に思われる具体の中にこそ、もっとも永遠で普遍的なものが宿っているからこそ、小津のような芸術家ができるのではないか。

 無限は、人間という有限の生にとっては、実無限ではなく可能無限としてしか顕れない。どんなに大きい数をとってきても、必ずそれよりも大きな数を与えることができる、というように、無限を得る手続きを与えることはできても、無限という実体そのものを扱うことはできない。人間にとっての無限とは、すなわち、有限の手続きの意味論の中に潜んでいる、可能性としての無限である。

 本来、死すべき人間にとって、普遍は、可能性としての普遍でしかあり得ない。それでも、人間が、実体としての普遍があたかも定立できるように思ってしまうのは、意識そのものの持つ傾向である。人間の意識は、その成り立ちからして普遍という形式に依拠せざるを得ないのであり、現実の世界で遭遇する具体の奔流の中で、その成立の根拠である普遍を探し続けなければならないのである。プラトンが、人間は魂の故郷であるイデアを求める存在であると書いた意味は、おそらくはそのようなことである。

 原節子が家の階段を上り降りしながら、次第に変わっていき、映画の最後には全く別の人間になっている。笠智衆が、老妻が生きていた時とまったく同じ恰好で、同じ場所で、近所の人と挨拶を交わす。ご飯の支度をしたり、服を脱いだり、服を着たり、ビールを注いだり、注がれたりしながら、気がつくと家族のあり方が取り返しのつかない形で変わってしまっている。小津の映画に描かれた日常の生の具体の中に、起こるべきことは全て起こっている。人間の生において特筆大書されるべき、生、死、出会い、別れといった出来事は、すべて、日常に由来し、日常に還って行く。

 日々の生活の些細な具体の積み重ねを離れて、人間にとって普遍も、永遠もないのだと思い定めたとき、それまで退屈に思われていたかもしれない日常が、突然、底光りして感じられてくる。「東京物語」に出会い、小津との出会いをする前の西洋かぶれの私が、日常生活などくだらない、本当の生活は、ここではないどこか他の場所にあると思い詰めていたのも、今から考えればそのことだったかと思い当たる。

 小津安二郎は、私たちの日常が底光りすることの理由をつかみ、表現し得た芸術家であった。今、映画作家としての小津安二郎の輝きが増しつつあるように感じられるとすれば、それは、現代の私たちが、戦争でも革命でも経済発展でもない、ごくありふれた日常に寄り添った精神生活を始めているからかもしれない。マルクスやレーニンは革命を発明した。二十一世紀の私たちは、日常を発明し、再定義しなければならない。そのような努力の向こうに見えてくるのは、具体と普遍の関係についての知見であり、人間性の本質に関する洞察であり、文学の可能性である。

2003年11月に記す。『文学界』に掲載。

10月 22, 2011 at 10:22 午前 |

小林秀雄さんの講演について

小林秀雄さんの講演について

茂木健一郎 

 小林秀雄さんは、言うまでもなく日本における近代批評を確立した人である。その名前を私は小学生の時から知っていたが、私がこの批評家を深く愛するようになったのは、大学を卒業してかなり経った頃に、講演の録音を聴いたのがきっかけである。

 今はCDになっているが、当時はまだテープだった。最初に入手したのは、「現代思想について」だったと思う。私自身の生涯の探究のテーマである心と脳の関係について、最も深い思索を積み重ねた者からしか出ない言葉が私の胸にひしひしと迫ってきた。

 それから、夢中になって次々とテープを求め、気が付いたら全部聴き終えていた。

 本居宣長。源氏物語。柳田国男。ベルクソン。文学。生きること。死ぬこと。愛すること。信じること。徒党を組まないこと。

 小林さんがお話されるテーマの一つひとつが魂の中に深刻かつ愛しいかたちで入ってきて、一連の講演記録が、知らず知らずのうちに私にとってのかけがえのない宝物となっていたのである。

 小林秀雄さんの講演の音声記録の魅力は、意味内容はもちろんのこと、その語り口にある。ちろちろと燃える炎にあぶられるような、熱を帯びていて、それでいてしっとりと湿り気のある声。落語家の5代目古今亭志ん生のような軽妙な味わいのある語りのリズム。

 一つの「音楽」として聞いても、その講演は実に味わい深い。難しい理屈を考えなくても、心がマッサージされたようで、力が湧いてくる。小林さんの講演の音声記録を、文化や芸術にうるさい玄人筋にも、あまり難しいことは考えないような人にも聴くように勧めたくなる理由がここにある。

 言うまでもなく、小林さんの本領はその文章にある。先の大戦中に書かれた『無常といふ事』や『当麻』などのエッセイは、文芸批評という文脈を離れても、一つの散文として高い芸術性を持つ。戦後になると、『近代絵画』や『本居宣長』といった日本の散文史に高い峰々として聳える仕事を小林さんは続けた。様々なテーマにわたる論考を残したその偉業は今後も評価が動くことはないだろう。

 なかでも私にとって個人的に特別な意味を持つ作品の一つは、未完に終わった『感想』である。お母さんが亡くなった後、鎌倉の家の近くで見た蛍に「おっかさんは、今は蛍になっている」と直覚する印象的な導入部。物質である脳に心がいかに宿るかというこの上ない難問を解くためにどうしても叩かなければならないドアの鍵が、小林さんが辿った思索の道筋のどこかに隠れているような気がして折りにふれ読み返す。

 『感想』に結実しているように、小林さんが心を寄せた人物の一人であるアンリ・ベルクソンは、19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したフランスの哲学者である。『意識に直接与えられたものについての試論』や『物質と記憶』、『創造的進化』といったその著作は、思想的深みにおいてはもちろん文章としても素晴らしい。ベルクソンのこれらの功績に対して、1927年にノーベル文学賞が与えられている。

 小説や詩だけが文学なのではない。小林さんの文章は、ベルクソンの哲学的エッセイに通じる、世界に誇るべき知的達成になっていると私は考える。その仕事の神髄は、狭い意味での文藝評論という枠を取り払って、ベルクソンのような哲学的思索の世界に解き放たなければ掴むことができない。このような意味での小林さんの仕事の再評価は、私たちに残された課題である。

 すぐれた文章を読むことは、魂を成長させ、生きる上で必要な「もののあはれ」を知るためにも大切である。その一方で、活字だけを追っていれば良いというわけではないと思う。世の中には、小林さんの文章しか読んだことがない人が沢山いると考えると、そのような状況を口惜しいと感じる。

 小林さんの講演は、今よりももっと多くの人に聞かれて良い。講演の音声記録から伝わってくる小林秀雄という人の魅力は、散文家としてのその事蹟を補い、さらには新しい宇宙を見せてくれる。伝説中の遠い人物だと思っていた人が、息づき、心臓を鼓動させ、時には激高したり気分を落ち込ませたりもする生身の人間として、現前する。学生たちとの質疑応答に誠実に答え、その講演を聞く者を感激させて、涙を流させるような、そんな存在感のある人格がそこにあるのである。

 小林さんは、講演を周到に準備されたらしい。ホテルの部屋で練習していたと聞いたことがある。その一方で、当意即妙。演壇に登るなり、いきなり、「いや、今そこでちょっと引っかけてきてしまいましてね」と言って会場の雰囲気を和ませる。そのような心の機微にも長けていた。かの高名な落語家に似ているというのもまずは確実なところで、ある時、パーティー会場に遅れていった人が、「あれ、なぜ志ん生が来ているんだろう」と思ったら、小林さんだったと言う。

 出会って以来、私は小林秀雄さんの講演とともに生活してきた。テープからCDになった時は全部買い換えて、その美しい装丁がうれしくて本棚に並べた。コンピュータのハードディスクの中に取り入れ、携帯用音楽プレイヤーの中にも移した。歩きながら、車を運転しながら、あるいは出張先のホテルのベッドの上で、何回も繰り返し聴く。特に重宝するのは、海外に出かける時の飛行機の中である。ゆったりと時間が流れて、そして深まっていく。その間合いが良いのである。

 ほとんど暗記しているような箇所もあるが、音楽として魅力的だから、飽きずに聴く。聴く度に、新しい発見がある。この喜びを、もっと多くの人が知ってくれれば良いのにと思う。

 どうしてそこまで「はまった」か。新しい世界の存在を学び、その中に魂の一部が住み始めたのである。講演テープを初めて聴いた時、私は不意打された。そして、不明を恥じた。生きるということがわかっていなかったんじゃないかと思った。大げさではなく、小林さんの講演の音声に、生きるということの本質の一端を学んだ。

 世界をどのような場所として見て日々を過ごしているか。人間の生き様を、どんなフィルターを通して感受するか。活字を通してしか小林秀雄さんを知らなかった私が、かの偉大な批評家の、何を見落としていたか。人間は、どのようなものを尊重し、どんなものを軽んじるのか。全ては、「生きる」ということに対する態度につながる。つまりは、生命哲学の問題である。

 不思議なことに、私たちは、自分たちの生命活動の中核を軽んじてしまうところがある。私たちの生きる様は、よくよく観察してみると、様々な揺らぎや波乱に満ちている。その中であっちをふらふら、こっちをふらふらしながら動き回っている。どうなっちまうかわからない。しかし、だからこそ生きている甲斐がある。

 『無常ということ』の中で、小林さんは川端康成に向かって、生きている人間などというものはどうにも仕方のない代物で、鑑賞にも観察にも堪えない、其処に行くと死んでしまった人間というものは大したもので、まさに人間の形をしている、してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かなという有名な問いかけをする。

 推敲され、校閲を受け、ゲラを手直しして活字になった文章は、確かに立派な姿をしている。生きている作家のものしたものでも、それは、すでに過ぎ去って二度と還らない時に属するという意味では「死んでしまった人間」と同じである。

 一方、話し言葉は、あっちへふらふら、こっちへふらふら。文字に起こしてみると心許なく、脈絡がつかないことも多い。まさに何を言い出すかわからないのが、生身の人間のやる講演というものである。しかし、だからこそ、そこには生命の躍動がある。「今、ここ」に託すしかない、生きとし生けるものの切ない思いがある。

 小林秀雄さんの講演を聞く喜びとは、つまりは生きている小林さんの魂に接することの胸躍る思いである。確かに、活字の小林さんに比べたら、あっちへふらふら、こっちへふらふらしている。だからこそ、私たち自身に近しい。とにかく録音技術というものが出たおかげで、生きた小林さんの謦咳に接することができる。これは一つの奇跡である。

 古代ギリシャの哲学者プラトンは、書かれた言葉よりも話し言葉の方が上だと考えた。そのお師匠さんであるソクラテスの演説は、もし残っていたら、私たちに大いなる感銘を与えていたことだろう。もしも、東京美術学校における夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」が聴けたら。しかし、残念ながら、ソクラテスから夏目漱石までの人類の歴史においては、生命の躍動を後世に伝えるテクノロジーがなかったのである。

 あれこれ思えば、小林秀雄さんの講演の記録をバッハの「平均律」や、モーツァルトの「レクイエム」のように繰り返し聞くことができるのは実にありがたいことである。その一方で、疑心暗鬼の気持もある。本当は、どこかに、まだ知られていない音声記録が埋もれているのではないか。だとしたらもったいない。そんなものがあるんだったら、何としても聴いてみたい。小林秀雄さんの講演の音声記録の発見は、実に一つの惑星の発見に相当する意味を持つ。もし、世に出ないうちに散逸してしまったらどうしよう。そう考えると心配で、居てもたってもいられない。人類は、案外、大切なものをそれとは気付かずにぽいと捨ててしまうものだから、気が気ではない。

 普段からそんな思いを抱いていたから、今回、新潮社から新たな講演の音声記録がCDとして出ると聞いて、思わず身を乗り出した。

 今回世に出ることになったのは、『小説について/ゴッホの手紙』と『白鳥の世界』の二つの講演の記録である。どちらも素晴らしい内容で、その神髄に接するには聴いていただくしかない。ゴッホが自らの個性を乗り越えて普遍に至るために取り組んだ壮絶な闘い。ルソーが生涯の最後に至って行った「告白」。正宗白鳥さんとの小心温まる交流。小林秀雄さんの語りは、それを聴く者に、「ああ、生きているということは何と素晴らしいことだろう」という思いを抱かせる。

 この世の中に人間として在ることの意味について知ることは、生きるためのエネルギーにつながる。真実に触れることが生命体としての糧となる。だからこそ、何を言い出し、しでかすかわかないとしても、理性と感情を持ち、言葉を解する人間として生きることには尽くせない喜びがある。

 その事を想うと、胸がいっぱいになって、声があふれる。小林秀雄さんの講演を聴くことを、もっと元気に生きたいと願う全ての人に薦めたい。

(2007年5月)

10月 22, 2011 at 09:20 午前 |

ぼくの周囲の人は、どんどん飲んでいてかまいません!

昨日、Angry Birdsを作っているアンティが来て、いろいろ話して、わに家で日本酒飲んで、わーっと楽しくて、それで、今朝目が覚めて、突然、ふと思いついたことがあったので、やってみようかと思う。

えー、今日から実験します!

ビールやお酒を飲まなかったら、体重がどう変化するか、観察することにします。

いろいろ飲み会とかあって、周囲がみんな飲んでいる時に飲まないのは難しそうに見えるけれども(特に白洲信哉とかが問題だ)、へらへらしているのは得意なので、やってみようと思う。

ぼくの周囲の人は、どんどん飲んでいてかまいません! ぼくは、実験で、これからしばらく飲まないことにします!

いつまで続くか、わからないけれども!

10月 22, 2011 at 08:13 午前 |

2011/10/21

エントロピーと歩いた青春。

Nick HumphreyのSoul Dustを読み終えたので、引き続き、iPad上のKindleで、Roger PenroseのCycles of Timeを読み始めた。

ペンローズの本というのは、だいたい最初は小さな寓話から始まるんだけど、そのセンスがとても良くって、うっとりしてしまう。

そして、ところどころに挿入されている自身の手による絵も、素晴らしい。

最初はエントロピーの話から始まる。好きだな、熱力学の第二法則をめぐる謎。卵がテーブルから落ちて、壊れる。その逆に、散らばっていたかけらが集合して、テーブルの上の卵になる。どちらも、物理法則から言えば「あり得る」わけだけれども、なぜか、世界の中には片方しかない。なぜか。

エントロピーや、その過程で出てくる「粗視化」の話とか、考えていると、飽きないね。大学院生の頃、ノートを5冊くらいつぶしたことがあった。結局、もちろん、第二法則についての新しい視点なんて出なかったけれども。

なぜ、過去は覚えているけれども、未来は覚えていないのか、そのことを、第二法則と結びつけようとしていろいろやったな。

エントロピーと歩いた青春。あの頃は、塩谷とうだうだ街をふらついて、熱っぽく哲学を議論する心の余裕があったな。また、あの頃に戻りたいな。

10月 21, 2011 at 07:52 午前 |

2011/10/20

ガッツ石松さんによると、鎌倉幕府はまだできていないけれども、4Sはとっても欲しい。

 西早稲田キャンパスを歩いていたら、学生が後ろから走って追いかけてきた。そういうことはよくあるから、何かな、と思っていたら、チラシをくれた。

 ガッツ石松さんが、早稲田祭にやってくる。ガッツ石松のバーナーナ白熱教室。
 世界最高の教室にようこそ! 「正しいバナナの食べ方は?」
 なんて書いてある。

 おれ、こういう下らないことをやるやつら、大好きだな、と思いながらさらに歩いていたら、後ろからまたぱっぱっぱと追いかけてくる。

「一緒に写真撮ってもいいですか?」

男子学生二人組だ。うーんとぼくは庭園方面に「こっちに来い」と逃げた。いいんだけど、大隈講堂の前にはおばちゃんとか見学の高校生とかたくさんいて、こいつらと写真撮っているとわーっと集まってきたりするから、あくまでこそこそ、瞬間的に撮った方がいいと思う。

写真撮るのは、非合法活動だよ。

緑のあたりで、ここでいいでしょう、と二人と撮った。iPhoneだ。あっ、そういえば、と4Sがもう無性に欲しくなった。For Steveだから。今すぐ欲しい!

次の現場に歩き出す。

そういえば、ガッツ石松さんの本で、「鎌倉幕府ができたのは?」「4192年でしょ。」「は?」「だって、ヨイクニつくろう鎌倉幕府でしょ。」というのがあった。

ガッツ石松さんによると、鎌倉幕府はまだできていないけれども、4Sはとっても欲しい。Siriというのが面白いんだ、と誰かが噂しているのを聞くと、もうたまらないよ。

さてこれから、ヨイクニつくろう日本人!

10月 20, 2011 at 07:25 午前 |

2011/10/19

気持ちなんだな、気持ち。

 那覇空港で、オリオンを飲みながら、関原さんと沖縄の話をしていたら、ますます沖縄が好きになった。

 「方法論とか、そういうことじゃないよ〜。でもね、スイッチが入ったら、ばーっとやりますよ。たくさん、面白い人がいるからねえ。まーちゃんね、ああやってブレイクする前に、街づくりのこと手伝ってくれていて、申し訳ないけれども、どんなことをやってもらっても、一日一万円しか出せないから、と言ってたら、わかりましたっ、って言って、30人連れてきちゃう、そんな土地柄だからねえ。」

 ぼくは「ん?」と思った。一万円×30人だと、ちと大変ではないか。そしたら、関原さんが笑った。

 「そうじゃないよ。とにかく、一万円しか予算がないからって言っているんだけど、わーっと30人集まっちゃたんだから。」

 そうか。。。一人330円。気持ちなんだな、気持ち。

 関原さんも、気持ちの人だあ。


那覇空港で。左が宮島さん。右が関原さん。

10月 19, 2011 at 08:27 午前 |

2011/10/18

いいねえ。沖縄。 

 石垣島で会った学生は、中国語ができないのに、いきなり台北の大学に留学していた。
 
 「石垣市と提携していて、申請すると入学許可が出るんです。」ってあっけらかん。

 「授業わかるの?」

 「30%くらいしかわかりません。」

 「だいじょうぶなのか?」

 「はい、でも、台湾の人たちは、大学に来るような人たちは英語ができますし、授業も、肝心なところや難しいところになると英語でやるので、だいじょうぶです。」

 「確かに、自分の国の言葉で学問ができるというのは、日本の特長なんだよね〜」

 沖縄の人たちは、あんがい身軽に外国に行ってしまうようだ。アメリカや、台湾や、ホンコンや。そして、外国からも沖縄に人々が来て定着する。
 
 「世界のウチナーンチュ大会」というのをやっていたが、世界中に沖縄の人たちが散らばって活躍し、そして故郷と結びついている。

 うーむ。沖縄、いいかんじじゃないかい?

 ガラパゴス化というのは、しゃちほこばっている内地だけに当てはまる言葉であって、沖縄はとっくにグローバル化しているねえ。いいねえ。沖縄。 

10月 18, 2011 at 06:22 午前 |

2011/10/17

勉強法に悩んでいるみなさんへ (5)「はっ!」と気付いた瞬間から始めればいい。

勉強が苦手だとか、成績が伸び悩んでいる人たちの中には、勉強法がわからずに苦しんでいる人たちもずいぶんといるのではないかと思います。

以下、小学高学年の子どもでもわかるように、できるわけわかりやすく「勉強法」を解説したいと思います。参考にしてください。

なお、ここで解説する勉強法は、大人になってももちろん活用できます。脳は、「完成型」のない「オープン・エンド」。意欲さえあれば、何歳になっても新たな学びを積み重ねることができるのです。

5、「はっ!」と気付いた瞬間から始めればいい。

 勉強法を実践するにも、そもそも、勉強をする気が起こらない、なかなか勉強に身が入らないという人もいるのではないかと思います。

 そのような人には、一つ、オススメの方法があります。それは、「はっ!」と気付いたら、即座に勉強を始めて、あっという間に集中するという方法です。

 人間には、調子の波というものがあって、ついついだらだらしてしまうこともあります。家に帰ってきて、勉強する前に、ちょっとだけ、とソファに寝転がって、近くにあった漫画本を読み始める。思わず夢中になって、気付くとすっかり勉強のことを忘れている。

 あるいは、テレビを夕方から見始めて、アニメ、バラエティ、ドラマと、ついついだらだら見てしまう。気付いてみたら、5時間も経っていた。私はダメだ、とひたすら落ち込む。

 ネットを見始めて、そんなつもりはなかったのに、次から次へとサーフィンして、気付いてみたら、すっかり勉強時間をムダにしている。友だちとチャットしたり、メールしたり、楽しかったけれども、もっと大切なこともあった。。。

 そんなことがあると、人間の心の中には、「後悔」という感情が生まれます。「後悔」は、過去の自分の行いや考え方をふりかえり、反省し、これからは違った生き方をしようと「修正」するという意味では良いのですが、いきすぎると、かえって害になることもあります。

 どうせサボってしまったのだから、もう努力してもムダだ。これから勉強を始めても、もう遅いさ。ぼくなんか、どうせダメなんだ。まあ、いいさ、勉強だけが全てではない。。。

 そんな風に、自分で自分を正当化して、ますますさぼってしまう。人間には、「墜ちてゆくよろこび」というものもあって、困ったことに、どんどん怠けて、「もうどうせダメなんだ」と思うことが快感になってしまったりするのです。

 ちょっと待ってください! 生き方を変えるならば、今です! 

 どんなにさぼってしまっても、だらだら過ごしてしまっても、「はっ!」と気付いたその瞬間に、修正すればいい。人間をはじめとした生きものにとって、「過去」はもう変えることができません。どんなに後悔しても、ああすればよかったと思っても、過ぎ去ってしまったことは、修正しようがないのです。

 自由になるのは、「今、ここ」から先の未来だけ。だから、さぼってしまった過去の自分があったとしても、くよくよしても仕方がない。「はっ!」と気付いたその時から、全速力で走り出せばいいのです。

 勉強ができない、と悩んでいる子どもと話していると、実に、「さぼってしまったからもうダメだ」と思っている子が多い。もったいないことです。気付いた今から、走り出せばいい。そうすれば、必ず追いつくことができますよ。

 もっとも、気付いて走り出したあとも、思わずぼんやりしたり、サボってしまうことがあるかもしれません。そんな時は、また「はっ!」と気付いて、そこから走り出せばいい。

 勉強は、何度でもやり直しがききます。時には、ぼんやりとさぼってしまうことも、その先にぐんと伸びるために、必要だとさえ言えるかもしれません。何度だらだらしても、サボっても、それはそれでいい。「はっ!」と気付いた瞬間に、走り出せばいい。後悔したり、ぐずぐず考えたりしているのはもったいない。いつも、前のめりで生きていればいいのです。

 それでは、「はっ!」と気付いた瞬間に、どうやって集中すればいいのでしょうか。次回は、「1秒で集中する」方法について、伝授いたしましょう。

*コメント、ご質問を下のコメント欄にお書き下さい。なお、個々のご質問には、直接はお答えできないので、ご理解ください。(今後のこの欄の参考にさせていただきます)。また、ニフティの仕様により、メールアドレスを記入すると公開の状態になるので、それでは困るという方は、メールアドレスは空欄のままにしておいてください。

10月 17, 2011 at 10:05 午前 | | コメント (34)

とぅばらーま

 飛行機に乗って、さて、さっき旭川−>羽田で聞いた日航名人会の続きを聞こう、と思ったら、なんかヘンだ。

 チャンネルが6とか8は聞けるんだけど、7が聞けない。他にも聞けないチャンネルがある。

 となりの席は空いていた。このコードをすーっとのばして、あの穴に入れれば、ひょっとしたら7が聞けるかもしれない、と思ったけれども、そのまたとなりのひとになんだか悪い気がする。

 仕方がないのでJTAの機内誌を読み始めた。沖縄のことばかり書いてあるので、とっても興味がわく。

 そしたら、む! と思った。何だか、とんでもないことが書いてあるぞ。

 「とぅばらーま」というのがあって、同じメロディーで、いろいろな歌詞をうたうのだという。恋だとか、いろいろのテーマ。もともと畑で働いて、戻ってくる時とかにうたっていたのだという。

 メロディーがドレミファから微妙に外れているので、覚えるのが難しいのだという。毎年十三夜に大会があって、月明かりの下でそれぞれの歌詞でとぅばらーまを歌うのを競うのだという。

 いいね! なんだか知らないけど、とってもいいね!

http://www.youtube.com/watch?v=mE3sZlnVV8g
とぅばらーま  比嘉真優子(高校生) 島唄楽園 2008

石垣には何回も来ているけど、人間は知らないことがまだまだたくさんあるもんだな。

空港に降りたら、すぐに気持ちがいいね。


そしたら、懇親会の時に歌ってくれたよ。とぅばらーま。

一生懸命聞いたなあ。泡盛ぐびっと飲んでね。いいなあ、とぅばらーま。でも、まだ歌えないや。 

10月 17, 2011 at 07:48 午前 |

2011/10/16

勉強法に悩んでいるみなさんへ (4)時間を自分の味方にしよう

勉強が苦手だとか、成績が伸び悩んでいる人たちの中には、勉強法がわからずに苦しんでいる人たちもずいぶんといるのではないかと思います。

以下、小学高学年の子どもでもわかるように、できるわけわかりやすく「勉強法」を解説したいと思います。参考にしてください。

なお、ここで解説する勉強法は、大人になってももちろん活用できます。脳は、「完成型」のない「オープン・エンド」。意欲さえあれば、何歳になっても新たな学びを積み重ねることができるのです。

4、時間を自分の味方にしよう

 さて、そろそろ、「勉強法」においてもっとも大切なこと、「時間」の使い方について学んでいきましょう。

 受験生にとって、「時間」はもっとも貴重なものです。誰でも時間は平等に一日二十四時間与えられているはずです。それなのに、なぜかその使い方がうまい人と下手な人がいて、長い目で見ると大きな差がついていってしまうのです。

 「時間」を制するものが、受験を制す、と言っても良いでしょう。そして、時間を「味方」にするためには、前回勉強した、「自分で自分にプレッシャーをかける」やり方を貫く必要があります。

 制限時間内で問題を解く、あるいは、できるだけ早く計算を終わらせる。これは、プレッシャーをかける方法としては最高のものです。同じ問題を解くのでも、だらだらとゆっくりやるのと、必死になって素早く解くのでは、脳に与える刺激、解けた時の喜びが変わってきます。

 同じ問題でも、「制限時間」をあらかじめ決めておくことで、脳へのプレッシャーを調整することができる。勉強をする上で、「時間」を制限して、その中で問題を解こうとすることは、もっとも有効なプレッシャーの調節法となります。

 実際、勉強が苦手な子は、時間の使い方がルーズなことが多いのです。私自身、学生時代は家庭教師をしたり、塾で教えたりしてアルバイトをしていましたが、勉強が苦手な子は、だらだらと勉強を始めて、だらだらと続けることが多かったように思います。

 逆に、「時間」の使い方さえ身につければ、一気に勉強のやり方がうまくなって、成績もぐんと伸びる。そんなケースを、たくさん見てきました。

 「勉強」というものを、一つの「競技」、ないしは「ゲーム」として見た時に、時間を一切気にしないというのは、なんだかおかしいと思いませんか? たとえば、オリンピックの100メートル走は、スタートからゴールまで成るべく短い時間で行く、というルールだから面白い。ボルト選手の、9秒58という世界新記録が素晴らしかったのも、「できるだけ短い時間で走り抜ける」という競技のルールがあればこそです。

 もし、100メートル走が、「何秒かかっても、何分かかってもいいから、スタートラインからゴールまで、適当に走っていく」という競技だったらどうでしょう? 何を目標にしてトレーニングしたらいいのかわからず、だれてしまいます。そんな競技を見たいという人もいなくなってしまうでしょう。

 「制限時間」があってこそ、100メートル走は意味がある。勉強も同じことです。制限時間を設けてこそ、勉強という「ゲーム」の意味が生まれます。もっとも肝心なこと。本番の受験には、必ず「制限時間」があるのです。

 このように、勉強を考える上で時間はとても大切なのに、勉強机の回りに時間を図れる時計を置いているという人は案外少ないのです。ある時、大学へのすぐれた進学実績で知られるある高校を訪問した時にも、「タイマーを勉強机のまわりに置いている人?」と聞いたら、全学年で数人しかいませんでした。

 ストップ・ウォッチを持たずに、100メートル走の練習をしても意味がないですよね。勉強も同じことです。

 まずは、勉強机の上に、簡単なタイマーを一つ用意しましょう。何秒経ったか時間を測れる「ストップ・ウォッチ」機能や、設定時間が経ったらブザーが鳴る「タイマー」機能を持ったものを、今では簡単に手に入れられます。100円ショップにも売っているかもしれません。そんなタイマーを一つ用意して、さあ、これから、時間の活用法を勉強していきましょう。

10月 16, 2011 at 01:09 午後 |

大空の下で考えると、発想が変わってくる。

 カルチャーセンターの後で酒に酔って、「変われない日本なんて、もういいや。日本に飽きた」なんて言っていた男が、飛行機に乗って、たった1時間20分空の人となり、降りて空港に着き、車で走り出して、旭川郊外の大きな澄み渡った空をみたら、とたんに「人生もなかなかいいね」なんて思うんだから、気分なんて本当にいいかげんだし、一時の気分で人生をああだこうだなんて言うもんじゃないと思う。

 だって、本当に透明で、大きくて、空気もひんやりと気持ち良くって。いざとなれば、大きな空の下に逃げていけばいいんだよ。せこいやつらの話なんて、知るものか。

夜、居酒屋で懇談していたら、誰かが、中央の政治かが相変わらずバカやっているんだったら、北海道は独立しちまえばいいんだ、なんてこと言っていたけど、そういうの大いにいいね。食糧自給率200%だし、と誰かが続いた。

大空の下で考えると、発想が変わってくる。旅は大事だよ。

ほっけも、ビールもおいしかったな。ほっけは、内地で食べるよりもずっと肉厚でふんわりしていて、噛みしめるとじんわりと元気になる、そんな味がした。

10月 16, 2011 at 07:20 午前 |

2011/10/15

愛する店、自分の大切な場所がそのままある。それだけで、星を眺める力がわきあがってくるような

ロバート・ハリスさんと、車に乗って六本木ヒルズを出発した。

走りながら、ラジオの録音をする。いいね、楽しいね。イキなことをやるね、J-Wave。ハリスさん、いい人だね。気があうね。ハリスさんも、オスカー・ワイルドが好きなんだ。

オレ達はみんなドブの中にいる。
でもそこから星を眺めている奴らだっているんだ。
オスカー・ワイルド

・・・シドニーのブックショップが破産に追い込まれた時、友人で店のマネージャーだった詩人のニック・パウンダーがぼくに贈ってくれた言葉だが、それから今まで20年以上もの長い間、この言葉はぼくの意識から離れることはない。

(ロバート・ハリス著『アフォリズム』

着いたよ、東大正門前。すたすた降りて入っていく。二階に行くんだね。

ぷーんとカレーの匂いがする。ルオー! なつかしいルオー! よく、塩谷と来て、窓際のこの席で、哲学の話をしたよね。

オレたち、何の将来の展望もなくって、それで、このセイロン風カレーを食べて、デミタスコーヒーを飲んで、ハッピーになって、また街を歩いて、哲学の話をして、将来には何の展望もなくって。

マスター、変わらず元気だなあ。よく、美術展のチケットを下さいましたね。

愛する店、自分の大切な場所がそのままある。それだけで、星を眺める力がわきあがってくるような気がして。

そろそろ出発。マスターと、ルオーの前で写真を撮る。初めてのツーショット。

学生時代から数限りなく通ったけど、写真を撮るという発想はなかったな。時代が流れたね。

また車に乗って、ハリスさんと一緒に喋っていくんだね。

10月 15, 2011 at 08:09 午前 |

2011/10/14

あの星は、今日も一粒の当事者として、天空に輝いている。

 有吉伸人さんと、PHPを出たときには、気分がまだあいまいなままだった。

 でも、iPhoneの地図でみたら、25分くらいだというので、そのまま歩いていくことにした。

 有吉伸人さんは、プロフェッショナルから移って、かえって前より忙しくなってしまったのだという。
 「いろいろな番組にかかわっているので。」

 ルートを見ると、国会議事堂や議員会館、さらには首相官邸の横を通る。

 何やら警察の車がたくさんあるな、と思ったら、自民党本部の裏だった。

 「なんだか、さっきから、日本の権力の中枢をかすっていますね。」
 
 「そのものではなく、かすっている、というところがいいですね。」

 ホテル・オークラは、アメリカ大使館の横を上がったところにあった。

 入ると、すでに谷口法子さんがいた。歩き方が何かおかしい。

 「腰を痛めてしまったのです。茂木さん、腰は大事ですよ。」

 谷口さんに合わせて、ゆっくりと階段を上る。回り込んで、しばらく行ったところに、養老孟司先生がいらした。

 有吉さんが、養老先生に挨拶している。ぼくはトイレに行くといって、有吉さんをお見送りした。

 養老先生。大好きな、養老先生。いつも何かを教えてくださる。いつまでも長生きしてください、養老先生。

 福島第一原発の話をしていたら、養老先生が、「この問題についてはね、当事者になるしかないでしょう」とさらりと仰った。

 湯島のバー、ESTの渡辺さんから聞く、昔の養老先生の話が好きだ。飲んでいて、ふっといなくなったから、外に出て見ると、養老先生が前の道に大の字になって寝ている。そして言った。「マスター、ここに来てごらんよ。空の星がきれいだよ。」

あの星は、今日も一粒の当事者として、天空に輝いている。

10月 14, 2011 at 08:04 午前 |

2011/10/13

勉強法に悩んでいるみなさんへ (3)今の自分よりも、ほんの少し高いところに目標を設定する。

勉強が苦手だとか、成績が伸び悩んでいる人たちの中には、勉強法がわからずに苦しんでいる人たちもずいぶんといるのではないかと思います。

以下、小学高学年の子どもでもわかるように、できるわけわかりやすく「勉強法」を解説したいと思います。参考にしてください。

なお、ここで解説する勉強法は、大人になってももちろん活用できます。脳は、「完成型」のない「オープン・エンド」。意欲さえあれば、何歳になっても新たな学びを積み重ねることができるのです。

3、今の自分よりも、ほんの少し高いところに目標を設定する。

 プレッシャーは、他人からかけられると負担やストレスになるけれども、自分で自分にかけるようにすれば、その強度やタイミングをコントロールできるから、脳への栄養になる。

 みなさんが今取り組んでいる勉強だけの問題ではなく、一生使い続けることができる大切な考え方です。自分で自分へのプレッシャーをコントロールする方法を身につければ、ずっと学び続け、向上し続けることができます。

 それは、言い方を変えれば、一人のアスリートになるということです。陸上競技、サッカー、体操、水泳。どんな分野でも、アスリートの人たちは、今の自分のレベルを把握し、そこから少し上のレベルを目指すことで、自分にプレッシャーをかけようとします。

その際、コーチの助言や指導ももちろん大切な意味を持つのですが、いちばん肝心なのは、自分で自分の目標を設定すること。シアトル・マリナーズで活躍中のイチロー選手は、まさに自分で自分の目標を設定して努力を続けることで、偉大な選手になりました。

目標のレベル設定をする上で大切なことは、いきなり高すぎるレベルにしないことです。今の自分の実力をまずは把握する。そして、その実力よりも、ほんの少し上くらいのレベル設定が望ましい。周囲は関係がありません。あくまでも、自分にとっての進歩であれば、それでいいのです。

勉強が遅れてしまった人は、ついつい劣等感に苛まれます。みんながあんなに進んでいるのに、自分は分数ができない。そう考えると、自分が何だか価値のない存在にさえ思えてしまって、ますます勉強をするのがいやになってしまうのです。

いきなり高いレベルを目指そうとするのは、質の悪いプレッシャーになります。そんなことはできるはずがないのですから。私はダメだ、努力しても無駄なのだと、自分であることがイヤになったり、逆に何もしないことの言い訳になったりしてしまいます。

しかし、思いだしてください。あなたは、自分の成長を目指すアスリートなのです。他人との比較は、意味がありません。たとえ、「偏差値」が低くても、その低いところでの「進歩」にこそ意味がある。他人と比較して、いきなり背伸びして目標を設定するのではなく、とにかく、「今の自分」にとって成長できる目標であれば、それでいいのです。

ここに、自分自身と対話するということの大切さがあります。極端なことを言えば、勉強とは、自分との対話である。自分のレベルを把握し、他人との比較という「雑音」に耳を貸さず、ひたすら、ただ、今の自分よりももう少し高い自分を目指す。そのような自分との対話ができる人は、必ず伸びます。

「うさぎと亀」の話がありますよね。うさぎが先にぴょんぴょん行ってしまう。一方、亀はマイペースです。うさぎが油断して眠っている間に、亀は抜かしてしまう。似たようなことは、世の中に実際にあります。「うさぎに比べて、ぼくはこんなに遅れている」と落胆するのではなく、自分の足元の一歩を見つめるようにしてください。

勉強の最大の敵は、他人との比較です。その結果としての劣等感、無力感です。他人なんか気にしなくていい。ただ、自分の足元さえ見つめればいい。あせってはいけません。一歩を着実に前に進めることが、積み上げられて、大きな成果につながるのです。

自分で自分にプレッシャーをかけることが大切な理由は、自分との対話にあります。自分を見つめ、どの程度の実力なのかわかっていれば、おごり高ぶることもないし、逆に無力感にとらわれることもない。その上で、そんな自分を少しでものばそうとする。他人との比較の結果に過ぎない「偏差値」よりも、そんな謙虚でひたむきな態度の方が、生きる上ではよほど価値があります。

自分へのプレッシャーは、自分でかけよ。そのとき、今の自分よりも、ほんの少し高いところに目標を設定する。このことさえ忘れなければ、みなさんの成績は確実に伸びていくことになりますし、また、一生学び続け、いつかは素晴らしい人になることができるのです。

10月 13, 2011 at 10:23 午前 |

ぼくは生きるニコニコ動画になって、都築響一さんを見ていた。地上には、太陽が充ちあふれていたよ。

都築響一さんと話したら、ものすごく面白かった。

だって、いつもぼくが話しているようなことを、だーっと機関銃のように言うんだもん。都築さんはラッパーだ。ヒップホップだ、革命家だってばさ!

「大学なんていらね、大学なんて意味がねえ、大学いってもしょうがねえ、自分で勝手にやったらええ、あんな入試受けても仕方がねえ。」

「新卒一括採用なんて、あんなの、憲法違反じゃないかい、就職活動なんて、しなけりゃいいんだよ、みんなでボイコット、やめちまえばいいんだよ、そしたら、世の中変わるよ。」

都築さん。。。。。都築さんの言うとおりなんだけれど、全く言うとおりなんだけど、ぼくもいつもそう言っているんだけど、都築さんがそうやって爆発すると、ぼくはなぜか「どうどうどう」となだめる側に回ってしまうのはなぜなのだろう。

それでわかったんだけど、ぼくがいつも爆発するのは、周囲の沈黙が耐えられないからじゃないかな。みんな黙っていて、同調していて、うんうんと肯いていて、まるでこの世には何も問題がないかのようにふるまっていて、そういう穏やかさを装っている感じがイヤで、だからぼくは爆発しちゃうんじゃないかな。

でも、都築さんのように、本音で生きている人をみると、ぼくはただうれしくて、太陽を眺めているように、ニコニコしてしまうのです。

ぼくは生きるニコニコ動画になって、都築響一さんを見ていた。地上には、太陽が充ちあふれていたよ。

10月 13, 2011 at 07:43 午前 |

2011/10/12

勉強法に悩んでいるみなさんへ (2) プレッシャーは、自分でかけよう。

勉強が苦手だとか、成績が伸び悩んでいる人たちの中には、勉強法がわからずに苦しんでいる人たちもずいぶんといるのではないかと思います。

以下、小学高学年の子どもでもわかるように、できるわけわかりやすく「勉強法」を解説したいと思います。参考にしてください。

なお、ここで解説する勉強法は、大人になってももちろん活用できます。脳は、「完成型」のない「オープン・エンド」。意欲さえあれば、何歳になっても新たな学びを積み重ねることができるのです。

2、プレッシャーは、自分で自分にかけよう。

 勉強が嫌いだ、と言っている子どもの中には、お母さんやお父さん、先生に「勉強しろ、勉強しろ」と言われて、それがイヤで勉強のことを考えるのが嫌いになった、という人もいるかもしれません。

もちろん、お母さんだって、お父さんだって、先生だって、みんなのことを思って「勉強しろ!」と言っているのです。大人になって、社会に出ると、勉強しておかないと困るぞ、後になって、ああ、あの時もっと勉強しておけばよかったと思っても遅いぞ、そんな気持ちから、「勉強しろ」と言っているのです。

それでも、人間というものは、勉強が苦手だと自分でも思っている時に、他人から「勉強しろ」とプレッシャーをかけられると、イヤなものですよね。だから、ついつい勉強のことを考えたくなくなってしまう。お母さんやお父さん、先生が見ている時だけ、かたちだけの勉強をして、姿が消えたらサボってしまう。そんな子どもは、実際のところ多いようです。

そこで、「勉強をしろ!」というプレッシャーに負けず、勉強がイヤにならない、画期的な方法をお教えしましょう。それは、とても簡単なことです。お母さんやお父さん、先生から「勉強しろ!」というプレッシャーをかけられるから、イヤになるのです。かけられるくらいだったら、自分でかけてしまえ。自分で自分に「勉強しろ!」というプレッシャーをかけることさえ学べば、問題は解決するのです。

何を言っているの、おかしいじゃないか、と思う人がいるかもしれません。「勉強しろ!」というプレッシャーがイヤだと言っているのに、自分で自分にプレッシャーをかけろ、なんて。むしろ、勉強に関するプレッシャーを、ゼロにしたいのに。そう思う気持ちはわかります。でも、まずは話を聞いてください。

何よりも知っておくべきことは、人間の脳は、場合によってはプレッシャーが大好きだと言うことです。
うまくいくかどうかわからない。そのような状況で、一生懸命やって、その結果うまくいく。その時に、脳はもっとも喜びを感じるのです。


たとえば、RPGのゲームで、最後のダンジョンにたどり着き、ラスボスと闘っているところを想像してください。これで負けると、また最初からやり直しになってしまう。ライフが、あと少ししかない。制限時間を超えると、爆弾が破裂してしまう。そんな「プレッシャー」の中でゲームをすることは、実は楽しくないですか?

うまく工夫をすれば、プレッシャーを自分の味方にすることができます。プレッシャーの中で努力することが、脳を一番成長させてくれるのです。

脳はプレッシャーが大好物ですが、プレッシャーを自分の味方にするには、それを、自分でかけるようにすることが大切です。なぜでしょうか? そのことによって、プレッシャーのタイミングや、その強さを、自分でコントロールできるからです。プレッシャーを調整できるかどうか。この点に、お母さんやお父さん、先生からかけられるプレッシャーと、自分で自分にかけるプレッシャーの最大の違いがあります。

プレッシャーは、弱すぎると退屈してしまうし、強すぎると疲れてしまう。弱すぎもなく強すぎもない、調度いいレベルがあります。そして、そのレベルは、人によって違います。テレビの音を、ダイヤルをひねって調整することを想像してください。そんな風に、自分でプレッシャーレベルを調整して、ちょうどいレベルにすればいいのです。

自分の脳が、今感じているプレッシャーを調度良いと感じているのか、それとも強すぎるのか、弱すぎるのか。それがわかるためには、自分自身の内面をみつめる、「メタ認知」とよばれる脳の働きが大切になります。脳の前頭葉を中心として、自分自身の脳の中で起こっていることを「モニター」する働きなのです。「メタ認知」は、勉強法全般においてとても大切なキーワードになるので、ぜひおぼえていておいてください。

私自身は、子どもの頃から、勉強の内容や量は、自分で決めていました。そして、プレッシャーのレベルを、自分で調整していました。そのことで、自分の脳にいちばん良いプレッシャーを、自らコントロールしてつくり出していたように思います。ですので、勉強がイヤだと、逃げ出したいと思ったことは、一度もありませんでした。

そうは言っても、どうやってプレッシャーをコントロールしたらいいのか、と疑問に思う人がいるかもしれませんね。そこで、次回は、プレッシャーのコントロールの仕方をお話しましょう。

つづく。

10月 12, 2011 at 12:25 午後 |

「ぼく、ガソリン屋さんになる!」

走っていたら、見事なクロアゲハが、すーっと飛んでいった。

木立ちの間を、確信をもってまっすぐに飛んでいったので、ぼくは立ち止まって思わず見とれてしまった。

いいねえ。こういう典型的な個体は。羽根もきれいだし、精気に満ちているし。

その後、走る歩数にも、少し力がみなぎったような、そんな感じがする。

外に出た。川の横を、太陽に照らされながら走っている時、ひらひらと飛ぶ個体があった。

あっ、ホタルガだ。

こいつは、黒い羽に白い帯が入っていて、それがチラチラするし、アタマが赤くて、きれいなんだけど、何となく、夜の感じがする。人生の真っ直ぐがやがて挫折して、いろいろ発酵したり、鬱屈したり、れがまた内に籠もったりして、チーズのような匂いがするような、そんな気がする。

子どもの頃、蝶を追いかけていて、ホタルガが飛んでくるとうわーっと逃げたくなったのは、そんな大人の雰囲気に感染していたからだろう。

いやあ、まいったね。たっぷり走って、汗かいちゃったよ。

仕事へ向かうその道筋、5歳くらいの男の子と、お母さんが歩いていた。

お母さんが、「将来何の仕事をするの」みたいなことを言っている。そしたら、男の子が、「ぼく、ガソリン屋さんになる!」と即答した。お母さんが、「まあ、いいわね。素敵ね」みたいなことを言っている。

「ガソリン屋さんになる!」

男の子の心の中に、何か輝いているものがあるのだろう。

男の子が、精気に満ちたクロアゲハになって林の中を飛んでいる。

人生には、ホタルガのような時間もあって、それはそれで味わいに満ちていいのだけれども、誰でも、自分の「ガソリン屋さん」に出会うと、クロアゲハの飛翔をやがてたどるんだろう。

電車に乗って、ぼくはiPadを開き、熱心に仕事を始めた。「今、ここ」にしか、信じられるものはないから。

10月 12, 2011 at 06:51 午前 |

2011/10/11

勉強法に悩んでいるみなさんへ (1)

いよいよ受験シーズンも本格化してきました。今年受験する人たちは、そろそろ追い込みかもしれません。来年以降受験する人たちも、少しずつ緊張感が高まってきているかもしれません。

勉強が苦手だとか、成績が伸び悩んでいる人たちの中には、勉強法がわからずに苦しんでいる人たちもずいぶんといるのではないかと思います。

以下、小学高学年の子どもでもわかるように、できるわけわかりやすく「勉強法」を解説したいと思います。参考にしてください。

1、根拠のない自信をもって挑戦しよう。

勉強は、いやだな、苦手だなと思っている人がいるかもしれません。でも、そのような考え方は、本当は間違っています。勉強することは、脳にとって、一番うれしいことの一つなのです。

なぜならば、「学習」することで、世界について新しいことを知ったり、今まで気付いていなかったことに気付いたりすることは、とても深い脳の喜びにつながるからです。

最も深い脳の喜びは、「今まで自分できなかったこと」に挑戦して、成功した時に得られます。「こんな問題はぼくには無理だ」「どうせ、やったってわからない」と思っているあなた、その時が、脳がよろこぶチャンスです。その課題にこそ挑戦して、乗りこえることで、脳はぐんと成長するのです。

初めて鉄棒でさかあがりをした時のことを思いだしてください。鉄棒を前にして、考えてしまう。身体があんな風にくるんとなるなんて、いったいどういうことなのだろうと、途方にくれませんでしたか? 自分にそんなことができるのかな、と思いませんでしたか?


さかあがりに挑戦する。 (イラスト:植田工)

さかあがりに挑戦して、身体がくるんと回った瞬間。世界も回っています。あなたは、新しいあなたになっている。なんだ、そんなことだったのか! と思う。気付けば、夢中になってくるくる回っている。

あるいは、初めて自転車の補助輪をとった時のこと。そんなことできないよ、絶対に倒れてしまうよ、と思っていたのが、ペダルをすいすい漕いで、前に進む。このまま世界の果てまで行ってしまいたい、そんな気持ちになる。


自転車に乗れると、うれしい。(イラスト:植田工)

勉強も、同じことなのです。できないと思っていたことが、できるようになる。その時、脳はよろこびを感じ、あなたは成長しているのです。

しかし、「さかあがりができる」喜びを味わうためには、まずは挑戦しなければ話になりません。「さかあがりなんかできないよ」と鉄棒の横にいるだけでは、いつまで経ってもできるようにはならないのです。

挑戦することのじゃまをするのは、「自分にはできない」という思い込みや、「他人と比べて自分は頭が悪い」というような劣等感です。実際、勉強の邪魔をしているものは、大抵は自分の中にあります。

思いだしてください。赤ちゃんのとき、新しいことにチャレンジするのは当然のことではなかったですか? 「今日はハイハイがうまくできるかな?」とか、「今日は調子が悪いから、伝い歩きをするのは、明日に延期しよう」なんて思いましたか?


ハイハイをするときに、うまく行くかな、なんて思いましたか? (イラスト:植田工)

初めてハイハイをしたり、伝い歩きをしたり。二本足で立ったり。そのような、「人生で初めて」のことに、私たちはみな「根拠のない自信」をもって挑戦していきます。勉強も同じこと。こんな難しい問題は私にはできない、私がアタマが悪いんだ、と思い込んでしまってはもったいない。何も考えずに、問題の中に飛び込んでいってしまえばいいのです。

自分ができないと思っていたことができた時ほど、脳はよろこぶ。ぐんと成長する。やらないことの言い訳ばかり考えていないで、根拠のない自信を持っていろいろなことに挑戦していきましょう。

「こんな問題はぼくには無理だ」「どうせ、やったってわからない」と思った瞬間が、脳が成長する千載一遇のチャンスなのです。

さあ、面倒くさがらないで、やってみよう。えいやっ! って始めてみれば、案外簡単なことだよ。

10月 11, 2011 at 10:32 午前 |

Y字路のあたりの風景はね、とてもいいんだよ。

飯田橋のわきの道を、ぼんやりと歩いていたら、後ろからダダダダと足音がして、わっと思ったら、二人の男子学生だった。元気で、気合いの入ってそうなやつら。

「茂木さん、写真撮ってもいいですか?」

二人元気だから仕方がない。一人が取りだした。見たらiPhoneだ。もう一人もiPhoneだ。

ぼくはちょうどSteve JobsのTシャツを着ていたから、こいつら何かいうかな、と思ったけど、スルーだった。それぞれと収まったよ。一人目がピースしたから、オレもピースしたけど、二人目は、オレがピースしたのにしなくて、オレは何だか気まずかったけれども、指をそのままにしておいた。

日本人は、なぜピースするようになったんだっけ? ウィンストン・チャーチルのVサインから? 子どもたちもよくわからないでやっているよね。

カナル・カフェに行ったら満席で並んでいたから、困ったなあ、と思ってとぼとぼ戻った。また、さっきの元気なやつらに会うと気まずいな、茂木さんよっぽど暇なんだな、と思われるかな、と思って、反対側を歩いていたら、向こうから星野英一が来るのが見えた。

野澤真一もいる。てかてか笑っている。大久保も来てくれたなあ。関根までいる。

そうか、菊池は、フランス語で博士論文を書くのか、なんて話をしながら、結局学士会館まで行った。
神楽坂のあたり、最近、混みすぎだよ。

野澤真一のお父さんが急に亡くなられて、野澤は、お父さんのやっている会社をつがなくてはならなくなって、博士課程を休学した。

それで、仕事が忙しいから、なかなか出てこれなくて、こうしてたまに会うと、みんなとにかくうれしくて、ビールなんか飲んじまう。

人生はカオスで、何があるかわからないけれど、オレたちはつながっている。

植田が珍しく神妙だった。野澤といろいろな話をした。社長というのは決断をしなければならないのだ、と野澤がいった。ぼくは思った。お前は、会社の社長であると同時に、自分の人生の社長でもある。だから、そのあたり、総合的によく考えて、どうするか決めないといけないね。

ぼくたちは、みんな、自分の人生の社長だ。人生はカオスだけど、じっくりゆっくりゴールを目指したいよね。分かれ道か。そういえば、昼間歩いていて、横尾忠則さんのY字路みたいな街に出会ったのだった。

朝起きてツイッターを見たら、野澤真一がツイートしていた。

@melonsode
今日は奇跡的な一日でした。大切な人達から飛ばされた檄は、必ず形にするから。

野澤真一、がんばれ! Y字路のあたりの風景はね、とてもいいんだよ。

しばらく佇んでみるといいよ。

それでね、結果としてどっちの道を行くことになったとしてもね、人生はとってもいいんだよ。


http://www.nishimura-gallery.com/exhibition/2009/Yokoo-09Y-junctions.html

10月 11, 2011 at 06:46 午前 |

2011/10/10

地上の白磁は、かすかな光を映して、天上の月に対照している。

近づくと、もう崖のあたりから、ざわざわと大きな声が聞こえた。
回り込んでみたら、何のことはない、白洲信哉が座って、肉を焼いている。

「おお、来ましたか。」

顔を見ると、赤い。

「もう飲んでいるんでしょ。」

「違う違う。飲んでない!」

ビールをぼくも飲んだ。改めてみると、やっぱり顔が赤い。

「飲んだでしょ?」

「2、3杯だけですよ。はははははは。」

信哉は口は悪い。口は悪いけれども、肉を焼くのはうまい。

信哉が焼き上げた肉を、骨董仲間に持っていく、そのところを、指でつかんであちちちと食べるのが鳶で一番うまい。

でも、本当にあちちちになったぞ。箸、箸!

李朝の白磁に、信哉がすすきを活けた。ぼくは骨董なんてまったくわからないから、「へえ」と言っていたら、瀬津さんが、「触るといい」というので、なでなでしたら、本当に気持ち良かった。

「ね、白磁っていうのは、これなんですよ。」

お月様が出た。地上の白磁は、かすかな光を映して、天上の月に対照している。

信哉の肉がおいしくて、お酒も進んで、また寝ちゃったよ。起きたら、信哉が横でおい、みたいな感じで肩をゆさゆさしてた。

大雨になったね。とぼとぼ歩いていたら、すべての光の向こうに、さっきの白磁が見え隠れするような気がした。

10月 10, 2011 at 09:12 午前 |

2011/10/09

東京大学Liberal Arts Collegeに関する私案

以下の文章は、2010年12月13日にこの「クオリア日記」に掲載した「東京大学改革私案」の一部を変更し、付け加えたものです。

また、この文章は、みなさんからコメントをいただいて内容をさらに練り上げていくことを目指したRequest for Commentsであり、このブログのdefaultのポリシーである「コメントを受け付けない」の例外として、下部にコメントを受け付ける窓を設けます。みなさんのご意見をいただくことを、楽しみにしています。

2011年10月9日 茂木健一郎

最初に、私は東京大学の単なる卒業生に過ぎず、現在、非常勤講師として時折授業をさせていただく以外には、何のかかわりもないことをお断りいたします。

また、以下に述べることは、国内の大学一般に当てはまることであり、東京大学だけの問題ではもちろんありません。ですので、似たような課題、将来ヴィジョンは、大学一般において展開することが可能であると考えます。

そのような留保をつけた上で、日本の国のかたち、大学のあり方についての一つの問題提起として、下の文章を記します。

東京大学の関係者の話を聞くと、現在の学部の入試は「聖域」だという。ペーパーテストで測ることのできる「学力」に基づいて、公正に入学者を選抜することで、東京大学は歴史を刻んできた。

 しかし、そのために外国から学部生をあまりとれない「ガラパゴス化」が懸念される事態となっている。日本語を母語として、日本で教育を受けた人以外には、「本体」の学部入試に合格することは難しい。結果として、学部学生における国際化、多様性の確保は十分ではない。Times Higher Education Supplementが発表する大学ランキングでも、東京大学は学術面での評価は高いが、国際化指数において大きく見劣りする。THESを初めとするランキングが唯一の指標ではもちろんないが、国際化を学部学生のレベルから始めることは、東京大学のより一層の発展に不可欠だろう。

入試が「聖域」で、劇的な変更を加えるのが難しいというのであれば、現行の理一、理二、理三、文一、文二、文三の区分、定数、入試はそのままに、あらたに最初は定員100人程度でスタートする、英語で教育を行うLiberal Arts College(以下、略称東京大学LAC、University of Tokyo Liberal Arts College)をつくることを提案したい。

東京大学の教員ならば、英語で授業をする能力がある人は多いだろうから、東京大学LACで開講される授業は、現在東大にいる教員が分担すれば良い。もちろん、新たに国内外から教員を採用しても良い。HarvardやYaleで開講しているようなカリキュラムはもちろん、せっかく日本に来るのだから、日本文学、日本の歴史などの、Japan Studiesの科目、さらには、韓国や中国などの、Asian Studiesの科目も設置すれば、魅力が増すだろう。

最大のポイントは入試で、TOEFLなどの英語能力試験、及びSATなどの学力試験を採用しつつ、essayなどを含む応募書類、さらには面接も併用することが望まれる。

面接の実施に当たっては、ハーバードの入試で採用されているポリシー(http://bit.ly/iahWCT)、すなわち” Our interviewers abroad are normally graduates of the College who volunteer their assistance. If an interviewer is not available sufficiently close to you to make an interview a possibility, the absence of an interview will not adversely affect your candidacy.”と同じ精神援用されることが適切だと考える。

東京大学LACには、もちろん、国内からも学生が志願してくることが考えられる。国内、国外の割合がどれくらいが望ましいかは、当局の方で検討すれば良いが、現在の類似の制度と比較して、より国内の学生が受けられるようなかたちが望ましい。そして、国内学生の志願が増えれば、当初「100人程度」の定員を、増やしていく必要があるかもしれない。

東京大学LACの開講科目は、旧来の東大の学生も受講できるものとする。また、日本語を母国語としない学生で東京大学LACに入学する者の中でも、東京で暮らしているうちに急速に日本語能力が高まるケースも考えられる。そのような学生が、東京大学の日本語で行われている講義をとることも出てくるだろう。

従来の東京大学の伝統はそのままに、新たに英語ベースのliberal arts collegeを付け加える。財源や教室スペースなどの問題さえ解決できれば、このソリューションは、「保守派」にとっても「改革派」にとっても利点しかないと思う。関係者の方々にご提案する次第である。

また、最初に、学部の入試は「聖域」らしいと書いたが、このような新しい入学者選抜のあり方を、最初は限定的なかたちでも、徐々に「本体」の学部入試にも及ぼすことも、将来的には検討しても良いのではないか。例えば、従来行われている英語の試験に加えて、TOEFLのスコアで入試の判定を行うオプションを、受験生側に与えることを検討してもよい。その際、従来型の入試も受けて、その双方の総合的なスコアで合否を判定するかたちにすれば、受験生のモチベーションも上がるだろう。

以上の改革案は、明治の「移行期」において英語によって講義を行った時期を除いて、日本語で高等教育を行い、学問を究めることを可能にしてきた先人たちの努力をないがしろにするものではもちろんない。とりわけ、文科系の学問において、「和製漢語」を生み出し、日本語で高度な学問を行うことができるようにしたことは、先人たちの偉大な業績であった。今後も、日本語による研究、教育は重要であり続ける。将来的に大学の教育を全て英語でやるべきだ、というような愚かなことを主張しているわけではもちろんない。

一方で、日本の大学が将来も輝き続けるためには、思い切った国際化への道筋をつけることが不可欠だと考える。現在検討されている秋入学は一つの試金石だろう。日本に世界中から優秀な若者が来て、学び、文化を知り、「日本ファン」となって帰国し、ないしは国内に留まって活躍してくれることは、日本の将来にとって、きわめて有意義なことと信じる。

東京大学Liberal Arts Collegeは、国際化、より一層の発展への跳躍台となると考える。このような構想が、具体化することを心から望むものである。

2011年10月9日 茂木健一郎
kenmogi@qualia-manifesto.com

この文章は、Request For Commentsです。コメント、お待ちしております!

(スパム防止のため、コメント欄は、内容を確認して承認するまで表示されない設定になっています。
メールアドレスを書くと、ココログの仕様に基づき表示されてしまうので、それが困る、という方は、メールアドレスを空欄のままで投稿ください!)

10月 9, 2011 at 04:38 午後 | | コメント (56)

きっと、それは、誰でも、そこに戻りたいと思うような、人生の「真昼どき」なんだよ。

 ずっと、スタジオの前室にいる習慣だった。だから、中で、前説のひとたちがお客さんをわかせている、と気付いたのは、しばらく経ってからだった。

 気付いたあとも、前室で荒俣さんや、中尾さんや、YOUさんや、いろいろな人と話していることが多かったから、前説のひとたちの様子を見ることはできなかった。

 なぜ前回、のぞいてみようとおもったのか、よくわからない。下克上、というやつかな。
 
 スタジオの入り口から入って、端の方に立っている。そんなことをしているのは、ぼくぐらいなものだから、ちょっと悪いことをしているような気がするよね。

 お客さんの前で、二人組が話している。

 「じゃあ、声を出す練習をしましょう。私が質問したら、続いて大声で言ってくださいね。いいくにつくろう、はい!」
 
 「鎌倉幕府!」

 「おっ、いいですね。今日のお客さんは、賢いし声が大きいですね。」

 「じゃあ、今度は、ぼくがいきますね。なくようぐいす平安京!」

 「お前、自分でぜんぶ言っちまうんじゃないよ!」

 お客さんが湧いている。

 近くに立っていらしたディレクターの方に、「なんというコンビですか?」と聞いた。

 「ギンナナ」です。

 「ギンナナ?」

 「銀座七丁目劇場から来ているんですよ。」

 「へえ。そうなのか!」

 ギンナナの二人が、一生懸命前説をしている。そこにはカメラは回っていないけれども、彼らの姿は、
もう既に輝いている。

 きっと、それは、誰でも、そこに戻りたいと思うような、人生の「真昼どき」なんだよ。

10月 9, 2011 at 08:44 午前 |

2011/10/08

「椅子を三つ並べて寝る」空間がなくても、養老さんと意識についての議論ができて、本当によかった。

研究室の学生たちにはもうしわけないな、と思っていることが一つあって、それは、ぼくは大学が本務先ではないから、「椅子を三つ並べて寝る」空間がない。

「椅子を三つ並べて寝る」というのは、ぼくが昔大学院生の頃、疲れるとよくやっていた技で、居室の椅子を三つ並べて、寝ていたのだ。

ああいう、大学の研究室のゆるい雰囲気は、いいもんだよね。それがなくてごめん。

オレといっしょに研究している意味は何かな、と思って、それで昨日はそうだ、小林秀雄賞の授賞式に連れていってあげよう、と思った。

ゼミが終わって、みんなでホテル・オークラに行った。

18時に着いたので、まずは、ロビーでノーベル平和賞の発表を生中継で見た。女性の権利向上に献身した三人への受賞。いいセレクションだね。感動したね。

クロークにわーっと荷物を預けて、会場に入っていくと、ちょうど始まる頃で、選考委員を代表して養老孟司さんが挨拶をしていた。

養老さんのお話、よかったな。こういうのを学生たちに聞かせてあげてやりたかったんだよ。こういう式で、養老孟司さんが、どんなお話をするのか、そういうところを、学生たちに見せてやりたかった。

そのあと、石川とか関根とか星野とか、養老さんを囲んで、Libetの実験や、数日前にNatureに出たActive tactile exploration using a brain–machine–brain interfaceの論文について、議論をふっかけていたらしい。

そんな様子を見ていて、ぼくはうれしかったな。

「椅子を三つ並べて寝る」空間がなくても、養老さんと意識についての議論ができて、本当によかった。

10月 8, 2011 at 07:56 午前 |

2011/10/07

ジョブズは、醜い技術の世界を、美しくした

朝、ツイッターのタイムラインを見ていて、一報を知った。「えっ!」と、言葉にならなかった。

ある程度は、予期していたのかもしれない。それでも、こんなに急にそれが来るとは思っていなかった。時が経つに連れて、失われたものの大きさに、ぼくは心が重くなっていった。

ニューヨークタイムズに引用された言葉に、「ジョブズは、醜い技術の世界を、美しくした」(“R.I.P. Steve Jobs. You touched an ugly world of technology and made it beautiful.”)とあった。ぼくの気持ちもそうだ。コンピュータの世界は、醜い技術、正確に言えば、美的なセンスなどどうでもいい、という人たちがつくる技術に支配されていた。

それが、ジョブズが出てきて変わった。ユーザーの「エクスペリエンス」の質。これが、コンピュータを考える上で大切なものであること。真剣にこの命題を見つめたのは、ジョブズだけだった。本当に、アップルだけだった。だから、ぼくたちは、アップルの旗の下に集結した。

ずっと、アップルのシェアは少数派だった。それでいい、とぼくたちは思っていた。どうやら、この世界の主流は、「エクスペリエンス」の質などどうでもいい、という人たちによって占められているらしい。そんな中、アップルの浮沈とともに、技術を美しくするという人たちの思いも動いた。

どうやら、エクスペリエンスの質が大切である、ということは、未だにそんなに理解されていないらしい。ジョブズ亡き今、誰がその遺志をついでいくのだろう。放っておけば、醜い技術があふれ、支配していくこの世界で、誰が技術を美しくしてくれるのだろう。

どうしてジョブズの死がこんなに悲しいのか。落胆しているのか。一緒に闘ってきたから。ぼくは、一ユーザーに過ぎなかったけれども。それでも、技術は、灰色のままだったから。ジョブズがいない今、どうやって、「エクスペリエンス」が大切であるという、その灯火を運んでいけるのだろう。

美しさとか、なめらかさとか、配置とか、曲線とか、そういうものもコンピュータの「計算」の一部分だということが、どうして理解されないのだろう。ジョブズは、それを理解していた。そして、おずおずと我慢をしてしまう私たちの多くとは違って、ジョブズは我慢をしなかった。妥協せずに、Insanely Greatなものを作り続けてくれた。だから、ぼくたちはジョブズを愛した。

彼は、代替のきかない人だった。昨日、ジョブズが亡くなって、こんなにも喪失感があったのは、育んで来たもののかけがえのなさと、通じないことの悔しさと、このクソッタレな世界の深さが一緒になって、もう、どうにもこうにも溜まらなくなってしまったからだろう。

スティーヴ・ジョブズ、たくさんの美しいものを、ありがとう。あなたが突然死んでしまって、ぼくたちはただ呆然としていますが、あなたが教えてくれて、闘ってくれて、実現してくれた「コンピューティングはアルゴリズムのことばかりじゃない」、という真実を、ぼくたちは決して忘れはしません。


10月 7, 2011 at 08:18 午前 |

2011/10/06

今度から、新幹線に乗るときには、隣りの席に小泉英明さんがいらっしゃらないか、楽しみに待つことにする。

新幹線に乗ったら、すでに通路側にはどなたかが座っていらして、「ごめんなさい」と言って窓側に行った。リュックは、足元に置いた。

品川を出る頃に、その方が、「お荷物、上にあげなくていいですか?」と聞いて下さった。

「だいじょうぶです。」とその顔を見た瞬間、お互いに「あれ!」と思わず言葉が。

小泉英明さん。びっくりしたなあ。こんなところで小泉さんに会うとは。

日本橋口の券売機でぼくが買って、小泉さんは、予定していた新幹線より一本先に乗ったのだという。そんな偶然が重なって、たまたま隣りの席になった。

「どちらにいらっしゃるのですか?」

「いや、生理研で、これからの研究の方向についての議論をしてくれと呼ばれたので。」

「それでは、名古屋から豊橋にこだまで戻るのですね?」

「そうなのです。秘書の方がそのように手配してくださったものですから。」

温厚で、真摯。私の中の小泉英明さんの印象は、そのようなものだ。

「あっ、そうだ。先日、本を出されていましたよね。ちょっと辛口のタイトルのやつ。確か、脳科学の真贋、みたいなやつ。」

「いやあ、あれはね、日刊工業新聞の記者がやってきて、インタビューしたら、先生、これは記事にはとてもおさまりません、本にしましょうというので作ってくれたんです。それで、そういう場合、普通は記者の名前は出さずに私の名前だけで出すのだそうですが、私はそういうことはあまり好きではないから、記者の方の名前も出してください、と言ったら喜んで、写真もどうぞ載せてくださいと申し上げて、そうなったはずです。」

「やはり辛口なのですか?」

「いえいえ、タイトルはそうなっていますけれども、あれは科学というものは、そもそも真贋が簡単にはわからないという科学論なのです。何かが科学的か、科学的ではないかということを簡単に決めつけると宗教になる。そう簡単には決めつけない、ということをお話ししたつもりなのです。」

Angry Birdのシールがペタペタ貼られたMacBookを私はいつの間にか閉じている。

「光トポグラフィーの前は・・・」

「fMRIをやっていましてね。東大の宮下さんと、酒井さんが、一番最初に私たちのところに来てくださいまして、それで、私と宮下さんと酒井さんと三人で被験者をやっていたんです。」

小泉さんが駆け抜けてきた、光トポグラフィー、fMRIの黎明期のお話をうかがっているうちに、新幹線は名古屋駅に近づく。

結局、小泉さんと名古屋まで100分間、ずっとお話してしまった。社会性の脳科学のこと、発達のこと、典型、非典型の問題、科学における計測技術の役割など、話題はつきない。

面白かったなあ。

あんまり面白かったので、折りたたみの傘を、座席の下に忘れてきちゃったよ。そこに置いたときに、あっ、これは忘れる、という予感がしたんだけど、その通りになったなあ。

今度から、新幹線に乗るときには、隣りの席に小泉英明さんがいらっしゃらないか、楽しみに待つことにする。

10月 6, 2011 at 06:36 午前 |

2011/10/05

何よりも大切なのは、自分の書いたテクストが命を持って生き続けることで

たけちゃんまんセブンが、「次長」になったというので、そのお祝いをした。

それまで平野さんとニーチェがどうのこうのという話をしていたのに、一気に雰囲気が変わった。

だって、たけちゃんが、よこからつついたり、髪の毛を触ってきたりするから。

たけちゃんは、ツイッターをどうやってみたらいいのか、わからないらしい。だから、この日記も読むのかどうか怪しい。

それで、電子ブックの話になって、日本の出版社は遅い、みんなアマゾンとかグーグル、アップルに持っていかれてしまう、とふっとんだら、たけちゃんが、「筑摩書房だって電子書籍売っているよ」という。

そうなのか。ほんとだ、オレのも売ってる(笑)。でも、みんな聞いたことがないし、話題にもなっていないね。

たけちゃんが、「ぼくだって、十年後、二十年後のことを考えてはいるけれども、とりあえず今電子書籍は売り上げとしてはダメだから、紙の本の作業も続けているんだよ」と張りのある声で言って、確かに、日本の出版社の方々の実感はそうなのだろう。

ぼくは、ニーチェのことをずっと考えていた興奮もあって、突然だけど、「生きたテクスト」は何かな、と考え始めてしまったのだった。

どうも、「紙の上のテクスト」は、もはや、それだけでは生きていない気がする。内田樹さんが、新聞や雑誌に寄稿したテクストをブログに載せるのも、それでようやく「テクスト」としての生命を全うする、そんな気持ちからではないかと思う。

「紙のテクスト」って、それが十万部売れても、何か閉じているような気がして、いきいきした感じがしないんだよね、とたけちゃんにいって、しばらくうだうだ言ってたら、たけちゃんは、今ちくま文庫に入っている『生きて死ぬ私』だって、別に全文ウェブに載せたっていいんだよ、って言った。

うーん、昔は載せていたこともあったんだけどね。

ぼくは、ニーチェの興奮と、テクストの命についての考察から、そうか、と自分がやるべきことをはっきりとつかんだような気がした。

何よりも大切なのは、自分の書いたテクストが命を持って生き続けることで、それは、紙でも電子でも、「出版」という文脈にとらわれずに、自由に考え、しかも市場から自由になることだと思う。

その感触を、たけちゃんに小突かれながら、深夜の浅草橋で、ぼくはつかんだ。

10月 5, 2011 at 08:16 午前 |

2011/10/04

レストランを開店しても誰もこない、そういう夕方は誰にでも来るんだと思っていた方がいいと思う。

 用事があって入ったデパート。夕方から夜にかけての不思議な時間。いろいろなブランドの店が並んでいる。
 
 エスカレータでどんどん上っていく。でも、お客さんが少ない。

 いつもデパートに来ないから、普段と比べてどうなのかはわからないのだけれども、店の人たちもなんだか手持ち無沙汰のようで、見ていて、何だか切なくなってしまった。

 よく、夕方に通りを歩いていて、レストランの人が前に立っていると、「あっ」と思って、通り過ぎると、やっぱり店の中には誰もいなくて。ああやってレストランの前に立っていると、少しでもお客さんが入る確率が上がるのか、それとも、やっぱり誰もいない店の中にいるのが不安で、それでああやって出てきてしまうのか。

 何とはなしに、地震の後に、だいじょうぶかな、と外に出て見ている人の様子にも似ていて。

 人の流れって不思議で、来ないってどうすることもできなくて。

だから、レストランを開店しても誰もこない、そういう夕方は誰にでも来るんだと思っていた方がいいと思う。

寂しさのうちに、ぽっと灯る何かがあるとしたら、それがあなたの命の中心。

10月 4, 2011 at 07:12 午前 |

2011/10/03

『生きて死ぬ私』より <蝶の胸>

 私は、少年の時、昆虫採集をしていた。
 ヘッセ、北杜夫、養老猛司。様々な人が、少年の時の昆虫採集の思い出を、一つの究極の幸せのイメージとしてとらえている。
 なぜ、男は、少年時代に幸せのイメージを託すのだろうか。
 私にとって、夏の森の緑の中で、どこから現れるかわからない蝶を待ちつつあるあの気配は、最も濃密で幸せな生の記憶と結びついている。

 だが、ある時から、私は、突然、蝶を採るのをやめてしまった。蝶の胸を潰すのが、いやになってしまったのである。ちょうど、思春期を迎えるころだった。
 蝶の採集をし、標本をつくる時には、羽根をいためないように、すぐに胸を潰して殺してしまう。もっとも、潰すと言っても、正確には胸を圧迫して、窒息させてしまうのだ。

 小学生の時、北海道の網走の原生花園に行った時には、十数匹のカバイロシジミの胸を潰した。青くやさしいたおやかな蝶たちは、ローカル線の無人駅の周りに咲き乱れる花を訪れていたのに、私のネットにとらえられてしまった。彼らは、自分のそんな運命を予想だにしていなかったろう。
 そして、カバイロシジミは、私の指の間で死んでいった。

 蝶の中枢神経系など、たかが知れている。むねをつぶされた時、蝶は人間のような意味では、何も感じないのかもしれない。そうでなくても、初夏の草原は死に満ちあふれている。飛び回って傷ついていった、カバイロシジミの死体に満ちあふれている。

 だが、いつの日からか、私は、自分の指がこの節足動物たちに早すぎる死をもたらすことを、何となく気分の悪いことと感じるようになってしまった。

 荘子は、蝶が夢を見て人間になっているのか、人間が蝶の夢を見ているのかわからないと書いた。
 蝶は、私たちに、生命というもののはかなさ、時間の経過の不思議さについて語りかけているように思われる。
 
 私が、将来また蝶を採集する時があるかどうかわからない。ネットに収まった蝶の震える胸を指でつぶすことができるか、それはわからない。

 私の心の中には、私の指の間で死んでいった蝶たちの生の震えの感触が残っている。
 
茂木健一郎『生きて死ぬ私』ちくま文庫より

10月 3, 2011 at 01:37 午後 |

『生きて死ぬ私』より <蝶の胸>

 私は、少年の時、昆虫採集をしていた。
 ヘッセ、北杜夫、養老猛司。様々な人が、少年の時の昆虫採集の思い出
を、一つの究極の幸せのイメージとしてとらえている。
 なぜ、男は、少年時代に幸せのイメージを託すのだろうか。
 私にとって、夏の森の緑の中で、どこから現れるかわからない蝶を待ちつ
つあるあの気配は、最も濃密で幸せな生の記憶と結びついている。

 だが、ある時から、私は、突然、蝶を採るのをやめてしまった。蝶の胸を
潰すのが、いやになってしまったのである。ちょうど、思春期を迎えるころ
だった。
 蝶の採集をし、標本をつくる時には、羽根をいためないように、すぐに胸
を潰して殺してしまう。もっとも、潰すと言っても、正確には胸を圧迫し
て、窒息させてしまうのだ。
 小学生の時、北海道の網走の原生花園に行った時には、十数匹のカバイロ
シジミの胸を潰した。青くやさしいたおやかな蝶たちは、ローカル線の無人
駅の周りに咲き乱れる花を訪れていたのに、私のネットにとらえられてし
まった。彼らは、自分のそんな運命を予想だにしていなかったろう。
 そして、カバイロシジミは、私の指の間で死んでいった。
 蝶の中枢神経系など、たかが知れている。むねをつぶされた時、蝶は人間
のような意味では、何も感じないのかもしれない。そうでなくても、初夏の
草原は死に満ちあふれている。飛び回って傷ついていった、カバイロシジミ
の死体に満ちあふれている。
 だが、いつの日からか、私は、自分の指がこの節足動物たちに早すぎる死
をもたらすことを、何となく気分の悪いことと感じるようになってしまっ
た。

 荘子は、蝶が夢を見て人間になっているのか、人間が蝶の夢を見ているの
かわからないと書いた。
 蝶は、私たちに、生命というもののはかなさ、時間の経過の不思議さにつ
いて語りかけているように思われる。
 
 私が、将来また蝶を採集する時があるかどうかわからない。ネットに収
まった蝶の震える胸を指でつぶすことができるか、それはわからない。
 私の心の中には、私の指の間で死んでいった蝶たちの生の震えの感触が
残っている。
 
茂木健一郎『生きて死ぬ私』ちくま文庫より

10月 3, 2011 at 01:36 午後 |

「あ、もう茂木さんよりも体重軽くなりましたよ!」に、内心焦りを感じる私。

私も愛読している堀江貴文さんのメルマガ『堀江貴文のブログでは言えない話』の今日の配信号(【Vol.089-1/2】)に、先日面会に伺った時のことが書かれていました。

その部分を引用させていただきます。

んで、昼メシ前に面会。今日はなんとメルマガの担当編集Sだけでなく、茂木健一郎さんが来てくださった! いろいろとお土産も持ってきてもらったのだけど、本以外は差し入れられないんですよー。なんか、「修行僧のようだ」と言われてしまった。あ、もう茂木さんよりも体重軽くなりましたよ! ちなみに今後『NHKプロフェッショナル』は、スタジオコーナーはなくなってVTRオンリーになるらしいので、番組に出演する茂木さんを刑務所内で見られなくなるとか。うーん、残念だ……。でも、わざわざ来ていただいて本当に嬉しかった。

「あ、もう茂木さんよりも体重軽くなりましたよ!」に、内心焦りを感じる私。
くそー、もっと走るぞう!
あと、堀江さんが出て来たらいいろいろコラボできるように、こちらもいろいろ研鑽して、ヴァージョン・アップしておきます。
これから寒くなるだろうから、本当に身体に気をつけてください。いつも想っています。

10月 3, 2011 at 10:45 午前 |

池上高志を見ることができなかったので、植田は、チンポムに向かって駆けていった。

国分太一さんや、土田さん、枡田アナ、Lilyさんと、「学級崩壊」の外国の方々と話して、「おわった〜」とほっとして部屋に戻ってきた。

「そうだ、植田、ちょっと調べることがある」と植田工に言って、ぼくはgoogle mapに住所を入れた。

そうか、明治通りの竹下口か。

お疲れ様でした! 歩いてもいける場所だけど、植田と、ああだこうだと近況やアイデアを話している。

「郡司さんに、イラスト描いてもらったんですよ。」

「ああ、そうか。あいつ、イラスト、味があるだろう。」

「そうなんですよ。で、目玉オヤジが、鬼太郎に、あの外国の妖怪をやっつけろ、と命令するんですよ。それで、鬼太郎が髪の毛針でドヤーッって攻撃するんですけど、その外国の妖怪というのが、ムーミンなんですよ。それで、ムーミンが、うわあ、ぼくは、悪い妖怪じゃないようって言っているんですよ。」

「うわっはっはっは。いかにも、郡司らしいなあ。」

ここで言う「郡司」とは、神戸大学の郡司ペギオ幸夫のことである。

そうこうしているうちに、車が着いた。

わっせ、わっせ、わっせ、わっせ。

人混みは苦手だな。こっちの方かな、とiPhoneを見ながら歩いていると、植田が、突然、VACANTですか、という。

あれっ、お前、どうしてわかったんだ?

「いや、だったら、こっちです。」

意外と都内のスポットはこまめに知っているんだよな、植田のやつは。

VACANTに着いたら、「あっ、ここ知っている」と思った。確かオレも一度何かやったんじゃないかな。何しろぼーうと生きているから、みんな忘れちまう。

ぱーっと入っていくと、女の人がいたので、「あのう、池上高志のは、どこでやっているんでしょう?」といきなり聞いた。

一瞬、はっ、しまった、店の人じゃなかったかな、と思ったが、やっぱり店の人だった。

「?」
と怪訝そうな顔をしているので、ぼくはもう一度聞いた。「あのう。池上高志の、サウンド・インスタレーションは、どこでやっているのでしょうか?」

女の人が「あっ」というような表情をした。「それ、昨日までで終了しました!」

えっ! ぼくは、記憶を懸命にたどり直した。

池上の「今日までです」というつぶやきを朝読んで、親友の展覧会を見よう、とかけつけたわけだけれども、そうか、あれって、ひょっとして前の日に書いたつぶやきを翌朝読んだっていうことなのかな。

ぼくはもうしょぼんとしてしまって、日付を間違えるということはよくあることだから、またか、ととぼとぼ植田と歩いた。

池上の終わっちまった。でも、なんだか悔しい。心の持っていき場所がない。でも、ぼくはすぐに移動しなければならないし。

「そうだ、植田、これから、チムポムの行ってこいよ!」

「ヘ?」

「なんかさ、あいつらのさ、ばーっとやらかしてしまっているんだけどさ、あれが今のお前に必要だ。日本に必要だ。お前、チンポム行ってこいよ!」

「へい!」

植田は、TBSでいただいたフルーツ・ゼリーを持って、チンポムに向かって駆けていった。

池上高志を見ることができなかったので、植田は、チンポムに向かって駆けていった。

あとで、植田からメールがきた。「みんなでゼリーたべました。チンポムやらかしていました。ぼくもイキナリ! やらかします。」

ま、人生はカオスってことよ。

10月 3, 2011 at 08:12 午前 |

2011/10/02

ぼくの命の中に、野ウサギにあたるもの

あっ、もう暗くなっちゃうかな、と思ったけれども、せっかくトリスタンとイゾルデの第一幕を入れたから、走ろうと思ってかけだした。

暗がりにこれほどふさわしい音楽はないだろう。でも、前奏曲が終わって、イゾルデが登場して、ブランゲーネとのやりとりがあり、クルヴェナールが歌う頃に、なんだかさびしくなって、走るのをやめてしまった。

あとはとぼとぼと歩くだけ。

心細くなったのは、通り過ぎた光景にも原因があったのかもしれない。

公園の中を抜けて走っていくと、なんだか前の道が明るい。あれ、と思ったら、何個か屋台が出ていた。

意外だと思ったのは、そこは、祭りなんて行われるとはとても思えないくらいの小さな神社だったということ。

走りながら、屋台の人たちの顔を見た。初老の人や、まだ若い兄ちゃんのような人。それぞれ、発電機の光でこうこうと照らし出された中、黙々と準備を続けている。

その顔は、社会の中で、自分たちが偉いと思っている人たちの顔よりも、よほど真実味があるように感じた。幸せになってほしいし、幸せでいてほしい。

そんなことを思ったのは、ここのところのニュース報道のせいかな。

まだ祭りには人が来ていない。神社の横のステージには、「大ビンゴ大会」という垂れ幕がかかっていた。

ああ、そうだ、今思いだしたけれども、このあたりでは、まだ、かろうじて走っていたんだ。

神社を抜けて、横の道に入ったとき、ぼくの横を女の子が駆けだした。

小学校4年生くらいの、ポニーテールの女の子。

一生懸命走っている。さいしょは、ぼくが走っているのを見て、いっしょに駆けだしたのかな、と思ったけれども、どうもそうではないらしい。

あっ、それでわかった。きっと、神社で祭りの準備が行われているのを見て、屋台が出ているのを目にして、それでもう興奮してしまって、家族に教えようと思って、走っているんだ。きっとそうに違いない。

薄暗がりの中を走る女の子。いつか見た、スコットランドの野ウサギのようでもあって。

今日は月が出ていない。クルヴェナールが、トリスタンについて歌っている。

ぼくはやがて駆けるのをやめて、とぼとぼと歩き出す。ぼくの命の中に、野ウサギにあたるものを探しながら。

10月 2, 2011 at 08:03 午前 |

2011/10/01

宮野勉と老荘思想

このところ、この文章のことを時々ふっと思い出すので、ここに掲示します。なお、書籍では「宮野勉」が「M」となっていて、それはぼくなりに気をつかったつもりだったのですが、宮野勉本人が「名前を出せ」と言うので、次に増刷することがあったとしたら、「M」から「宮野勉」にしたいと思います。

 ティーンエージャーの頃、私は孔子よりも老子の方が好きだった。高校のクラスメートで、「論語」を愛読している宮野勉という男がいて、老荘思想にかぶれていた私と何時も議論になった。私が、孔子は世俗を説くだけじゃないかと言うと、宮野は、老子は浮世離れしていて役に立たないと言い返す。「世間知」と「無為自然」の間はなかなか埋まらない。妥協の仕方が見つからないままに、時は流れ、宮野は弁護士に、私は科学者になった。やはり三つ子の魂百までか、というと、人間はそんなに単純でもない。

 私は、孔子が次第に好きになってきたのである。社会に出て人間(じんかん)に交わるようになって、「論語」の持つ思想的深みが味わえるようになってきた。しかも、単なる処世知として評価するというのではない。「私」という人間の存在の根幹に関わるような根本的なことをこの人は言っている、と孔子を見直すようになった。人間を離れて、世界の成り立ちについて考える上でも、孔子の言っていることを避けて通ることができないと思い定めるようになってきた。逆に宮野は、孔子の知は、時に余りにも実践的過ぎて鼻につくこともあると近頃漏らすようになった。人生というのは面白い。正反対から出発して、いつの間にか近づいて行く。やはり、中庸にこそ真実があるのだろう。

 そうは言っても、忙しさに取り紛れて「論語」を真面目に読み返すこともできないでいた。ただ、「論語」のことが、半ば無意識のうちにずっと気になっていた。ある時、私は地下鉄のホームに立って、ぼんやりと現代のことを考えていた。人間が自らの欲望を肯定し、解放することで発展してきたのが現代文明である。自らの欲望を否定し、押さえつけることほど、現代人にとって苦手なことはない。現代人の脳は、欲望する脳である。昨今の世界情勢の混乱も、現代人の野放図な欲望の解放と無縁ではあるまい。そんなことを考えながら電車を待っていた。

 突然、何の脈絡もなく、論語の「七十而従心所欲、不踰矩」という有名な言葉が心の中に浮かんだ。私は雷に打たれたような気がした。この「七十従心」と呼ばれる文の中で、孔子は、とてつもなく難しく、そして大切なことを言っていることがその瞬間に確信されたように感じたのである。

 人間の欲望は、いかに生きるべきかという倫理性と決して分離できない。倫理ほど、難しい問題はない。物体を投げれば、放物線を描いて飛んでいくといった単純な法則では、人間の欲望のあり方は記述できない。正解がないかもしれないからこそ、人間は悩む。今も悩み続けている。

 人間の行動は、どのようにして決定されているのか? 人間は自由な意志を持つのか? それとも、利己的な遺伝子に踊らされる哀れな存在でしかないのか? 資本主義が、人間社会の最終的な到着点なのか? 人間の知性は、所詮は自己の利益を計る企みの結果なのか? 愛の起源は何か? 脳内の報酬系は、どのような原理で動いているのか? 人間の幸せとは何か?

 今や、全てのイデオロギーは力を失い、大きな物語も消滅したかに見える。剥き出しの動物的欲望が情報技術の発達によって繊細にコントロールされる。そのような実存を私たち一人一人が受け入れつつあるように見える現代において、人間の欲望を巡る様々な問いほど、アクチュアルな問題はない。正義を求める心も、また、欲望の一つのあり方である。正義への欲求が、異質な他者同士が交わる国際社会で物理的な力として表現された時にどのような混乱が生じるか、私たちは日々目撃し続けている。

 脳科学、認知科学、経済学、哲学、進化心理学、国際政治学などの諸分野における、人間のあり方を巡る様々な問い。それらの問いが、人間の欲望という一つの「焦点」のまわりで交錯し、一つの像を結び始めている。そのぼやけた焦点に、孔子の言葉がストンとはまった。私には、あの時、そのように感じられた。明確な根拠のない不思議な確信が、時間が経つにつれて次第に強まってきている。

 周知の通り、「七十従心」は、孔子が自分の人生を振り返った論語「爲政篇」中の有名な文章の最後に位置する。

 子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。

 子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰えず。
 
 孔子が七十で到達したとする「自分の心の欲する所に従っても、倫理的規範に抵触しない」という境地は、人間の究極の理想像である。もし、孔子が本当にそのような境地に達していたとすれば、正真正銘の聖
人だと言えるかもしれない。

 私たち人間の欲望と倫理的規範の間には、緊張関係がある。その緊張関係の中で、私たちは自分の欲望を抑えることで、矩=倫理的規範を侵害することを避けようとする。

 子供は、しばしば、自分の欲望をむき出しに主張する。しかし、「心の欲する所に従って」いる子供は、決して倫理的な存在ではない。自らの欲望に従うのではなく、それを必要に応じて抑制し、調節することを学ぶことこそが、人間にとっての倫理の始まりである。

 人間にとっての倫理は、この世界において「生き延びる」ためにこそ進化して来た。現世人類に至る長い進化の歴史においては、自分の欲望が満たされることよりも、むしろ満たされないことの方が多かった。マルサスの「人口論」を引くまでもない。「食べたい」という生物として最も基本的な欲望でさえ、満足できずに死に瀕することは普通だったのである。私たちの脳は、欲望が必ずしも満たされないという条件の下で進化して来た。欲望を周囲の環境に合わせて調整する脳の仕組みがあることはむしろ当然のことである。倫理は、何よりも生物学的な必要の下に進化してきたのである。

 科学技術の発達により、人間は次第に自分の望むものをほとんど手に入れられるようになってきた。とりわけ、衣食住といった生存のために必要な最低限の条件は、ほぼ満たされるようになってきた。生産力は常に需要を上回る危険をはらみ、経済システムを維持するためにも、欲望を解放し、消費を奨励することが求められた。その結果、欲望を我慢しないという点において、現代の成人は、むしろ子供に近づいて来ている。もっとも高度に発達した消費社会を実現したアメリカ人の振る舞いが、しばしば大きな子供に喩えられるのも当然の帰結である。

 もし、孔子の「心の欲する所に従って、矩を踰えず」という命題が、欲望が満たされるための物質的条件の整備によって実現するのであれば、事は簡単である。ポップコーンを頬張り、コーラを飲みながらハリウッドの娯楽大作を見る現代人は、皆、孔子が七十にして到達した境地に達しているということになりかねない。

 しかしもちろん、事態はそれほど単純ではない。どれほど社会の富が増し、物質的には贅沢が可能になったとしても、人間の欲望には、原理的に予定調和では行かない側面があるからである。それはすなわち、人間関係に関する欲望である。

 人間関係において、自分の欲望と他人のそれが必ずしも一致しないことは、恋愛を考えただけでも明らかであろう。世間には両思いよりも片思いの方がはるかに多い。心の欲する所に従えばそれで済むのであれば、恋愛の悩みなど存在しない。心の欲する所に従うことができないからこそ、文学が成立する。夏目漱石の『三四郎』で、三四郎がもし自らの欲望に従っていれば良かったのならば、美禰子に翻弄されることもなかったろう。三四郎のほろ苦い体験に誰でも思い当たるような普遍性があるのは、それだけ他人の心が自分の思う通りにはならないからである。

 元来、生きるということは不確実性に満ちている。どうなるかわからないという状況に対処するために、脳の感情のシステムは進化して来た。人間にとって最も切実な不確実性は、他人の心である。新生児にとっては、果たして母親が自分の面倒を見てくれるかどうか、不確実である。見知らぬ人との折衝は、その人が正直かどうか、不確実である。思春期を迎えれば、自分が思う人が自分を思ってくれるかどうか、思い続けてくれるかどうか、不確実である。そのような不確実な他人の心に頼らなければ自らの欲望が満たされないのだとすれば、「心の欲する所に従っても」などと悠長なことばかりも言っていられない。

 人間関係において、「心の欲する所に従って」いれば、人は簡単にストーカーになる。犯罪者になる。恋愛ばかりではない。社会の中で居心地の良い地位には限りがある。誰でも自分が望む職業に付き、夢見る名声を得られるわけではない。人の不幸を楽しむことを、ドイツ語で「シャーデンフロイデ」と言う。自分が幸せになることと、他人が幸せになることは残念ながら一致しないのが、この世界の実相である。

 人間の脳は複雑な文脈を引き受けて、欲望の調整をしようとする。大脳辺縁系のドーパミン細胞を中心とする情動系は、前頭葉の神経細胞のネットワークと協働して、簡単には解が見つからない人間の欲望の方程式を計算し続ける。そこには、野放図な欲望の解放はあり得ない。ただ、周囲の都合に合わせた、控えめな欲望の発露があるだけである。

 人間の欲望の間に予定調和がないことは、脳科学だけでなく、「ゲーム理論」のように、個人間の利害調整を扱う学問体系の常識である。自らの欲望だけに忠実な人は、社会的な評判を落とす。評判が落ちれば、罰こそ受けなくとも、結局不利益を得ることになる。だから、人間の脳は先回りして、短期的な欲望の実現をある程度犠牲にしても、長期的な利益を図ろうとする。功利主義を説いたイタリアの政治思想家、マキャベリにちなんで「マキャベリ的知性」と呼ばれるそのような配慮こそが、人間の社会的知性のあり方の本質である。それが、現代の諸学問の基本的了解である。

 ならば、孔子の「七十従心」とは、一体何なのか? 年をとったら欲望のレベルが落ちて、結果として矩を踰えなくなった、などという陳腐なことを言っているはずがない。マキャベリ的知性の下での先回りした節制を指しているとも思えない。「七十従心」は、もっとのびやかな印象を与える。現代の科学主義の知的射程を超えてしまった何かがそこにあるようにさえ感じる。一体、孔子は何を言おうとしたのだろう。

 今、私の前に、「七十而従心所欲、不踰矩」という言葉が、一つのエニグマとしてぶら下がっている。このエニグマを避けては、人間理解という学問的興味の上からも、一人称を生きる意味からも、先に行けそうもない。二千五百年前に一人の男が残した言葉を清玩しつつ、人間の欲望を巡る探究を始めようと思うのである。

集英社新書『欲望する脳』所収

10月 1, 2011 at 09:40 午前 |

その一連の流れと、リズムと同じ調子で、薫は最後の花束を受け取ったのだった。

「ぎょらん坂」といことばの響きが、とても好きで、そのあたりを通り過ぎるときは、なんだか地上5センチくらいに浮いている気がする。

麻布十番を通り過ぎ、TSUTAYAの横を抜けて、ヒルズの方に歩いていった。ああ、ここが、テレビ朝日の横の広場だ、ということはわかるのだけれども、それと、宮島達男さんの数字の作品が置かれている路面との角度の関係が、いつも腑に落ちない。

ラテは380円だよな、と用意していると、店員さんは340円と言っているような気がする。あれ、おかしいな、と思っていたら、ティーのところを見ていたのだった。

さて、テーブルに行くか、と思ったら、「あっ、J-Waveのものです。今日はお世話になります」と声かけしてきた。座ることができずに、少し残念な気がした。

J-Waveのスタジオまわりの雰囲気が好きで、やっぱりいい会社だなあ、と思っていたら、歩いていくと、ああ、ここだとわかる。

竹内薫の姿が見える。

20歳の時に薫と出会ったときは、将来、薫がラジオのナビゲーターとかやるとは思っていなかったな。あれから、たくさんの水が橋の下を流れた。Jam the world、薫の担当の最終回に呼んでくれて、ありがとう。

二人のトークはいつも爆発気味で、あんなにやっちゃってだいじょうぶだったのかな。とにかく楽しく終わった。

トークの後も、ぼくは調整室に座っていた。そしたら、小林まどかさんはそんなぼくの姿をみてうるっと来ていたらしい。

薫は、最後まで泣かなかった。

終わって出てきたら、スタッフの方々が薫に花束を渡している。その時の、薫の、「あっ、どうも」という様子を見ていて、走馬燈のようによみがえった。

いつも、スタイリッシュなやつなんだよな、竹内薫というやつは。薫がモントリオールに留学していた頃、遊びにいったら、薫が写真を街の現像屋さんに出していて、おじさんが、薫に、「いつものようにダブル・プリントにするかい?」と聞いた。

つまり、一つ二枚ずつプリントするか? ということで、映っている人にあげても、手元に残る。

その時、薫が、「あっ」というような感じで反応して、それから、肯きながら「ダブル・プリント」と言った感じ。ひとさし指も突き立てて、ふりふりと動かしていたかもしれない。その一連の流れと、リズムと同じ調子で、薫は最後の花束を受け取ったのだった。

ぼくの健康法は、打ち上げで眠ること。薫の送別会でも、植田工があとから来て、ばあばあしゃべっている途中で少しうとうとしてしまった。ごめんなさい。

10月 1, 2011 at 08:20 午前 |