ぼくにとっての幸せが、今日、ここで見つかったんだ!
このところいろいろと大変なことがあった人を温め、励まそうと企画した食事会。
「幸せ」とは何か、という話になって、「みんなでそろってご飯をたべて・・・」というから、ぼくは、「ああっ」と思いだしたことがあった。
学生の時、しきりに「幸せになりたい」という人がいて、ぼくはその頃、「ぼくにとっては違う」と感じていた。
何となく、「幸せ」という「状態」は、むしろ警戒すべきものと思われ。
青春。生意気の塊だったぼくは、苦闘と、波乱の中にこそ、生きる実感がある、くらいに嘯いていたのだ。
それから、たくさんの水が橋の下を流れ、昨日の夜、幾つかのワインのグラスの後に、ぼくは突然、「そうだ、ぼくにも幸せがある」と気付いたのだ。
その「幸せ」の定義だったら、ぼくもありったけの力をもって肯定できる。そんな「幸せ」のかたちがある。
それは、できない、手に入らないとあきらめていたものが自分のものになること。
届かない、と思うと、人は「皮肉のスタンス」をとるようになる。きつねがブドウを見上げて「あれは酸っぱい」と合理化するように、あれこれとブツブツつぶやいて。
そうではなくて、無理だ、と心の中で諦めていたものが僥倖を通して自分のものになるとき、それはかたちがあるものかもしれないし、ないものかもしれないし、自分の努力を通して来たものかもしれないし、偶然の幸運(セレンディピティ)の結果かもしれないし、とにかく自分と縁がないと思っていたものと自分が触れあったとき、そこにぼくは「幸せ」を感じる。
それは、人生に訪れた一瞬の夕凪のようなものである。ずっと一カ所には留まらない。いつか、それが当たり前のものになってしまう。変化率は逓減する。だが、日々は、見知らぬ前提のもとに更新される。そう、階段を一歩上ったのだ。違う風景が見えている。そして、人生は続いていく。
「そうなんだよ。実にそうなんだ! ぼくにとっての幸せが、今日、ここで見つかったんだ!」
ぼくは感激して叫んだら、同席のひとは笑った。
だからこそ、這いつくばりたいんだよ。跪いて、見上げて、ああ、あの星には手が届かぬと、歯ぎしりして、また無謀なドンキホーテになりたいんだ。だって、それが、ぼくにとっての「幸せ」に至る唯一の道だから。
皮肉の苦いスパイスは、人生を黄昏れさせるのだから。
9月 14, 2011 at 07:00 午前 | Permalink
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