どじょうは泥を知らない。
九州から京都への移動中、眠っていたら、どんどん沈んでいくのがわかった。
ふだんは「しゃきっ」としているのが、「休んでいいんだよ」となった瞬間に、ずぶずぶと泥のようにどこまでも沈んでいく。ぼくはどじょうにでもなったのかな。
泥にはあこがれと恐れの両方がある。自分が自分ではなくなっていく感覚。理性でコントロールしたり、自他を区別したり、そんな抵抗ができない。温かくて、包まれて、そしてもう無明の境地にいる。
だから、ふだんから泥の中で暮らしているどじょうは、よっぽど偉い生きものに違いないと思う。魚は水を知らず、鳥は空気を知らず、どじょうは泥を知らない。
意識はきっと意識を知らないんだね。
レッジオ・エミリアの展覧会が元・立誠小学校で開かれていて、昭和に廃校になった建物らしいんけれども、子どもたちが読んでいた本が、そのままあった。
図書カードをめくる。名前がいくつも。そういえば、ぼくもこうやって本を借りて読んでいたっけ。
その頃の記憶は、もう泥の中に埋もれていて、懐かしく温かい気持ちが込み上げる。
9月 20, 2011 at 06:35 午前 | Permalink
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