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2011/09/07

言葉って、何を交わしているかではなく、交わしていること自体に意味があるのだろう。

講演会場で、登壇前に着替えるなどと言って、そのままどこかに行ってしまう。

階段を下りると、生け花展をやっていた。「見ていいのですか」とかなんとか言って、入っていく。

いろいろな流派の人がやっている。それぞれ、一生懸命活けたのだろう。結局、人と向き合っている、そんな気がする。

いよいよ観念して会場に戻った。シャツとジャケットに着替えたら、そろそろ時間だ。

「入場です!」と言われて並んだ椅子の間を、拍手を受けながら歩いていく、とまどって、いたたまれなくて、さっと早回しで済ませてしまいたくなる。

会場にいらした方の顔を拝見しながら、懸命にお話しする。笑っていただいたらいい、肯いていただけたらいい、時には、ほろりと泣いてくださってもいい。

あと15分で、「何かご質問はないでしょうか」と切り上げる。でも、本当はこの言葉以外の何かを発したいのだ。

音の一方通行のまま終わるのがイヤだ。音を発するだけでなく、受け止めたい。測り合いたい。でも、他に表現できないから、「何か質問はありませんか」という言葉になる。

今度は、もうちょっと違った表現をしてみようかな。「ここで、みなさんの声を聞かせてください」、みたいな。「みんなで一斉に声を上げませんか!」のような。

電車のデッキで呆然としていたら、小学校高学年くらいの男の子が来て、「茂木先生ですか」と聞かれた。「うん」と言ったら、「ぼく、ファンなんです」などとしっかりした声で言った。握手して、「どこから来たの?」「そうか、勉強がんばれよ」などと声をかけた。そしたら、その子の妹も、ぼくを見に来た。

あんな時も、本当は、「どこから来たの?」「勉強がんばれよ」以外の何かが言いたいのだけれども、その何かがわからないから、つい言ってしまう。でも、結果として相手の声が聞こえれば、それでいいのだろう。言葉って、何を交わしているかではなく、交わしていること自体に意味があるのだろう。

9月 7, 2011 at 06:02 午前 |