純粋なるもの
駅を抜けると、コンコースには海側から来る人たちの群れがあふれていた。「定時に帰る」という生活は、実際には日々にあふれているのだな。ぼくには縁がないけれども。
エレベーターを上がり、田谷文彦とスツールに腰掛けて議論をつづけた。「車が遅れていまして」ともうしわけなさそうに言われると、こちらが恐縮する。「今下に着きました。」
「リップを塗っていますので。」
「あっ、ぼくは、どこでも着替えられますから。」
いつお会いしても素顔だから、お化粧をした有森裕子さんを見るのは始めてだった。
「高校のときには、平凡な記録だったのですよね。」
「カントクが入れてくれなかったので、一ヶ月ずっと、その視野の中に立ち続けて、ついには根負けさせてのです。」
六十何年ぶりの女子陸上競技でのメダルという偉業を達成した、その道筋は、根拠のない自信とそれを裏付ける努力。どんなに苦しい練習でも、あらかじめ「ダメ」だと、自分で自分のリミットを設けない。
メダルを取ったあとのいろいろは、有森さんをもってしても大変だったという。
「だからこそ、もう一度挑戦してみようと思って。」
世間というものは、どうして、純粋なるものをそのまま受け止めようとしないのだろう。
孫正義さんに対する反応を見ていてもそうだけれども。
一方で、マラソンの画面をずっと食い入るように見続ける私たちの中には、必ず純粋なるものに感応している何かがあるはずだ。
おそらくは、混乱の中で純粋なるものはいきいきとよみがえる。ありきたりの日常が、私たちの眼を曇らせてしまうのだろう。
だから、人生は、簡単に予想などしてはいけない。自分の中の純粋なるものをよみがえらせるためにも、日々、劇的なる不確実に身をさらす。
9月 8, 2011 at 06:43 午前 | Permalink
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