« 言葉って、何を交わしているかではなく、交わしていること自体に意味があるのだろう。 | トップページ | 離れには次郎がいた。 »

2011/09/08

純粋なるもの

駅を抜けると、コンコースには海側から来る人たちの群れがあふれていた。「定時に帰る」という生活は、実際には日々にあふれているのだな。ぼくには縁がないけれども。

エレベーターを上がり、田谷文彦とスツールに腰掛けて議論をつづけた。「車が遅れていまして」ともうしわけなさそうに言われると、こちらが恐縮する。「今下に着きました。」

「リップを塗っていますので。」
「あっ、ぼくは、どこでも着替えられますから。」

いつお会いしても素顔だから、お化粧をした有森裕子さんを見るのは始めてだった。

「高校のときには、平凡な記録だったのですよね。」

「カントクが入れてくれなかったので、一ヶ月ずっと、その視野の中に立ち続けて、ついには根負けさせてのです。」

六十何年ぶりの女子陸上競技でのメダルという偉業を達成した、その道筋は、根拠のない自信とそれを裏付ける努力。どんなに苦しい練習でも、あらかじめ「ダメ」だと、自分で自分のリミットを設けない。

メダルを取ったあとのいろいろは、有森さんをもってしても大変だったという。

「だからこそ、もう一度挑戦してみようと思って。」

世間というものは、どうして、純粋なるものをそのまま受け止めようとしないのだろう。

孫正義さんに対する反応を見ていてもそうだけれども。

一方で、マラソンの画面をずっと食い入るように見続ける私たちの中には、必ず純粋なるものに感応している何かがあるはずだ。

おそらくは、混乱の中で純粋なるものはいきいきとよみがえる。ありきたりの日常が、私たちの眼を曇らせてしまうのだろう。

だから、人生は、簡単に予想などしてはいけない。自分の中の純粋なるものをよみがえらせるためにも、日々、劇的なる不確実に身をさらす。

9月 8, 2011 at 06:43 午前 |