白洲家秘伝、わんこシンコの流儀
最近は神楽坂はすっかり人が増えてしまって、新潮社のあたりから、赤城神社を通ってさらに裏通りへと、できるだけ行き交う人が少ない路地を選んで下りていった。
そうしたら、ぼんやりしていたから案外来てしまっていたのだろう。あれ、ここだ、と思った。曲がると、「寿司幸」という看板が夜目に光っているのが見える。
入ると、カウンターにすでに座っていた。白洲千代子さん、池田雅延さん、白洲明子さん、足立真穂さん。
「信哉は?」
と振り返ると、もう店の入り口で人の気配がする。
「あれ、珍しいね」
と人を遅刻の常習犯のように決めつける。まあ、そうだけど。
カウンター、どこがいいか、と聞いたら、ぼくはここが落ち着くからと、信哉は一番奥に座った。
ビールで乾杯し、あれこれとつまんでいると、信哉が「ではでは」と取りだした。お猪口を数だけそろえて来ている。
何も言わず、信哉がぼくの前に置く。ぼくが好きなやつ。みるとほれぼれする。
唐津は、ぼくの母親の生まれたところだ。
「この前、唐津のいいのがあったのだけれど、すぐ売れちゃった。茂木さん、残念だったね。もっとも、斑だったけれども。」
「斑?」
「斑は、唐津の王様。ほら。」
見ると、信哉の手元になんだか男性的なかたちのお猪口がある。
「ぼくのこっちのは?」
「それは、無地。」
「そうか。ぼくは、何だか、無地の方が、女性らしくて繊細でいいように思う。」
「でもね、斑が唐津の王様ですよ。ね、池田さん。」
「私も、斑の方が好きですね。」
「ぼくは二番手にいくタイプだから」と言うと、真穂さんがはははと笑った。
信哉は、無地にドンドン酒をつぐ。自分も斑に手酌していて、一向に寿司を食べる気配がない。
その間に、他の4人は次々と握ってもらっている。目当てのシンコ、シンイカ、それにいろいろ。ところが、ぼくの前には、寿司は置かれない。どうやら、信哉と同じ、「酒飲み」に分類されてしまったらしい。
「あのう、ぼくの寿司は・・」とおずおず切り出した。親方が、「召し上がりますか」と笑った。ぼくがうなづくと、ようやく置かれ始めた。
シンコ。ふくよかな、シンコ。そしてシンイカ。ミルクのようなシンイカ。生きていてよかった。しかし、信哉はまだ一向に寿司を食べようとしない。
ぼくはだんだんブキミになってきた。
「だいたい茂木さんはね、夜にシンコを食べようという日に、朝は餃子とご飯、昼にそば、という人だから。」
「・・・・」
「ぼくは、昼は納豆と豆腐だったからね。」
「ゆで太郎知らないの? ゆでたから、ゆで太郎。」
信哉が反撃して、なんだか知らないけどキッチンのメーカーの名前を言った。ぼくが、「トーテムポール?」と聞いたら、みんながわらった。
「トーテムポールじゃないよ。ドイツの、有名なキッチン。小林のじいさんも、山の上から下りたときに、使っていた。」
「ゆで太郎」を知っている人は「トーテムポール」を知らず、「トーテムポール」を知っている人は「ゆで太郎」を知らない。
未だに、「トーテムポール」が何なのか、よくわからない。真穂さんが、「卒業制作みたいなものでしょう」と言うから、ますますわからなくなった。
そのうち、いよいよおそろしいことに信哉が寿司を食べ始めた。ぐーんと溜めて、満を持したロケット・スタート。
親方が握る。信哉の前に置く。信哉は間髪を入れず、ぱくっと食べる。親方が握る。信哉の前に置く。信哉は間髪を入れず、ぱくっと食べる。親方が握れば、信哉がぱくつく。親方が握れば、信哉がぱくつく。
ゴンベさんが神楽坂に降臨した。
あれよあれよという間に、シンコがなくなってしまった。
「あれっ、もうないんですか?」
信哉が、涼しい顔をしている。白洲家秘伝、わんこシンコの流儀なり。
信哉は高校の時は荒れていて、鞄はぺちゃんこで学ランの裏には龍の刺繍がしてあったらしい。
「あれはね、米軍基地でやってくれるんですよ。そんなことは高校生ならみんな知っている。」
「まだとってある?」
「さあ。おふくろが捨てたんじゃないかな。」
「私は捨ててないわよ。」
明子さんがぽつりと言う。
その信哉を、小さな時に千代子さんはなぐったことがある、とうことをぼくは知ってしまった。
「なぐったんじゃないわよ、投げたのよ。」
なんだか知らないけども、「お千代」は偉い。
歩いていると、雨が降ってきた。
生きていることはありがたい。雨に濡れることもある。トーテムポールがわからなくなることもある。人生の卒業制作は、永遠に未完成。
9月 2, 2011 at 06:59 午前 | Permalink
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