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2011/09/30

私は、いかにして石田純一になったか。

 高校の頃、畏友とちょっとした論争をしたことがあった。歴史にはいろいろな側面があるけれども、どんな点に一番関心があるか。

 畏友は、「私はやはり政治史だ」と言った。「ぼくは文化史だなあ。」と答えた。それからしばらくやりとりがあったけれども、ぼくが一番言いたかったことは、今から思うと「小さな歴史」のことだったらしい。

 大河ドラマでもそうだけれども、武将の勇ましい活躍や、国と国との戦争といった、「大きな歴史」に目が行きがち。それはそれで大切だけれども、私たちの日常により近くて、身体に親しいのは、本当は「小さな歴史」の方だ。

(中略)

 ところで、靴下と言えば、最近の新しい流れがある。いつの間にか、ずっと親しんできた長い丈のものから、くるぶしが露出するような短い丈のものへと、流行がすっかり変わってしまった。

 スニーカーを履く時に生足みたいにするのがいいのだ、と誰かが解説していたように記憶する。それが、いつの間にかどんどん広がっていって、普通のおじさんまでもが、ちらほらと短い丈の靴下を履くようになってしまった。

(中略)

 たまたまお仕事でご一緒した、スーツを着た立派な紳士が、短い丈のソックスをはいていたりすると、「おっ」と思う。「この方は流行に敏いな」と感じる。同時に、胸の中にわりきれない思いが込み上げるのも事実である。

 あるファッションが主流の時は、そうすることに何の疑問も持たないのに、変化すると、今まで平気だったことが急に違和感を抱くようになる。くるぶしまで覆うような靴下を平気で履いていたのが、ある時から、なんだか自分が流行遅れで、どことなく「年寄り」にでもなったような居心地の悪さを感じるようになる。ファッションが私たちの自我に与える影響とは、何とも奇妙なものである。

 あれは日本がバブルの頃か、それが弾けた後か、シャツをズボンの外に出すか出さないかで悩んだ時期もあった。それまで、ズボンの中に入れるのが当たり前で、その上にベルトをして何の疑問もなかったのに、急にみんながシャツを出し始めた。ベルトがくっきりとお腹のあたりに見えるのが、何だかおじさんファッションのように見え始めたのである。

 シャツを出すか入れるか。葛藤があったのは日本だけではないようだ。当時のイギリスのコマーシャルで、こんなのがあった。ティーンエージャーが喜んでシャツを外に出していて、中に入れている父親をバカにしている。オヤジ、イケてないな、という感じで。ところが、父親もマネしてシャツを外に出し始めたら、息子はあわててシャツを中に入れる。オヤジと同じファッションじゃイヤだ、そんなCMだった。

 どんな服装が、社会的に受け入れられるのか。自分の身体の延長として、心地よく感じられるのか。ここには、武将の勇ましい闘いや、流血の革命といった「大きな歴史」とは異なる、ささやかで取るに足らない「小さな歴史」がある。そして、そんな肌合いの中にこそ、私たち人間にとって近しい、切なくも楽しい生きることの間合いがあるように思うのだ。

 丈の短い靴下については、私は今でも実は悩んでいる。テレビの収録の時など、衣裳さんに履かせてもらう。歩いているうちにヘタすると脱げてかかとがひんやりする。落ち着かない。

 それでも、丈の長い靴下を履くのが、流行遅れのおじさんのように感じられて居心地が悪い、という気持ちもある。それで、最近では、私はとうとう裸足になってしまった。数年前、俳優の石田純一さんにお目にかかったとき、噂通り本当に靴下なしで驚いた。私も、いつの間にか同じになった。

 靴下一つとってもこんなにも自我が揺れ動く。誰も気にも留めない、だけど身近な「小さな歴史」。やがていつか、人も街もすっかり入れ替わってしまうけれども、あなたとぼくは今、ここにいる。

(『文明の星時間』第181回 「小さな歴史」より一部抜粋。サンデー毎日2011年10月9日号) 

本号を持って、ご愛読いただきました『文明の星時間』の連載は終了しました。連載の立ち上げからずっと丹念に仕事をしてくださった大場葉子さん、毎号素敵なイラストを描いて下さった谷山彩子さん、そしてサンデー毎日編集部の方々に心からのお礼を申し上げます。

そして読者のみなさま、ありがとうございました!

9月 30, 2011 at 01:21 午後 |

白洲信哉は、クイズを3回当てられて、3回とも答えなかった。

到着寸前に、朝倉さんから、「ツイッター見ましたよ」というメールが来た。

二階に上がって、通り過ぎようとしたら、朝倉さんが、「ここですよ」というので、そうだな、と思って、ノックした。

中で、白洲信哉が座っていた。

「やあ、どうも。」「やあ、やあ。」

しばらくして、あとで行ったら、「あれ、ちゃんと着替えあるんだ」と言っている。「へへへ。」「どうせ、自分で選んだ服じゃなくて、用意された服でしょう。」

ふたりでトーテンポールの話をしていたら、時間になった。

前室にいると、信哉が感心したようにモニターを見ている。

「へえ、立派なセットだねえ。」

「あんたも、中田さんと一緒にやっていなかったっけ?」

「いや、あれはBSで、マンションみたいなところで撮っていたから。」

タモリさんがいらして、収録が始まった。私のとなりが白洲信哉、そのとなりがタモリさん。

当て字のスナックが多い、というコーナーで、「これはなんと読むでしょう、白洲さん」と陰アナが言った。

カメラが白洲信哉にズームする。信哉、黙して答えず。「3、2、1」ブー!。極楽とんぼの加藤さんが、「あれえ、白洲さん、何かいいましょうよ」と言っている。

「次の問題です。このスナックの名前、なんと読むでしょう。白洲さん」
カメラがまた信哉にズームする。「3、2、1」ブー! ぼくはとなりではらはらする。信哉、けろりとしている。「わかりませんね。」加藤さんが、「白洲さん、これクイズですからねえ。なんか言いましょうよ」とフォローしている。

「最後の問題です。このスナックの名前は、なんと読むでしょう。それでは、白洲さん。」信哉はそれでも考えている風ではある。「3、2、1」ブー! あいかわらず、首をひねっている。でも、全然あわてていない。

結局、信哉は三回振られて、三回とも何も答えなかった。

きっと、そのころ、副調では、こんな会話がされていたんだろう。

「おい、白洲さんの、あの超然とした感じ、いいな。次の問題も、白洲さんに当ててみろ。」「おお、やっぱり答えないね。何でもいいから、適当に答えるという素振りさえ見せないね。いいねいいね。おい、次の問題も、白洲さんに当ててみろ。」「おお、やっぱり答えないね。いいねいいね。これは、うまく編集すると、いい感じになるぞ。ふふふ。大成功だ。」

みたいな感じで。

収録が終わると、信哉が「ああ、疲れた」とかなんとか言っている。「みんな偉いね。あれは、頭使うね」なんて言っている。


小松純也さんが控え室に来て、「いやあ、白洲さん、良かったですねえ。」と言う。「あの、周囲とは全く関係なくいるたたずまいが、とても良かったですねえ。」

信哉はタモリさんにすっかり感心していて、「タモリさんは凄いねえ。横から見ていると、まるで能の役者のようだったねえ。」と感心しきりだった。

白洲信哉は、クイズを3回当てられて、3回とも答えなかった。昔々、そんな夜が、あったとさ。

「ニッポン小意見センター」は10月9日23時〜放送予定。

http://www.fujitv.co.jp/koiken-center/index.html

9月 30, 2011 at 09:17 午前 |

2011/09/29

授業が終わってすぐに、アントニオ猪木とモハメド・アリの闘いを見ようと、家まで吹っ飛んで帰ったあの日。

思い立って、アントニオ猪木対モハメド・アリ戦のビデオをyoutubeで見ていて、ああ、あの頃は日本が元気だったなあとなつかしく思った。

猪木も若い、アリも若い。そして、ああいう無茶苦茶な企画を立てるだけ、日本も若かった。ありがとう、康芳夫さん。

あれは、確かそう、ぼくは中学生。猪木とアリが闘う、という情報が流れてから、ぼくたちは興奮しっぱなしで、プロレス好きの島村くんと、どんな闘いになるだろう、と噂し合って。

いよいよその日。確か土曜日だった。午後の早い時間の放映だったから、授業が終わったらすぐに家にふっとんで帰ったのを覚えている。

ルールの縛りがいろいろあって、「世紀の凡戦」とかいう人もいたけれども、ぼくは面白かったな。何よりも、わくわくしたよ。

プロレスの雄と、ボクシングのヘビー級チャンピオンを闘わせるなんて、土台無理なあんな企画を考えるくらい、日本は若かった。そして、そのことが、ぼくたち日本人の誇りであり、特技なんじゃないかな。

よくわからないけど、レスリングとかボクシングとかをマジメにやっているちゃんとした人たちは、猪木とアリを闘わせようなんて思わないだろう。きっと、日本だからできた。そういう国なんだよ、日本は。

それが、最近は、なんだかそういうはちゃめちゃな元気を失っているね。学級委員が多すぎるんだろう。

無視すりゃいいんだよ、学級委員。くだらない校則なんて、どうせすぐに忘れてしまうよ。若さって、どれくらいバカなことができるか、ということだろう。

あの日、ぼくの生は輝いていた。授業が終わってすぐに、アントニオ猪木とモハメド・アリの闘いを見ようと、家まで吹っ飛んで帰ったあの日。

http://www.youtube.com/watch?v=-zElq0dT8M0

9月 29, 2011 at 07:33 午前 |

2011/09/28

きっとそうさ。身体が疲れていたせいさ。

小学校5年生のとき、ある日私は突然何を思ったのか「絵画教室に行く!」と言った。

家から歩いて2分くらいのところにある教室に通い始めた。最初に描いたのはアジの開きだった。

その教室のおんなの先生のだんなさんはおもしろい人で、時々家に呼んでくださったときに、ぼくたちに議論をふっかけてきた。

「平和運動をしている人たちが、どうして党派に分かれて対立しているんだと思う?」

「エジプトは、あんなに立派なピラミッドをつくったのに、どうしてその文明が消えてしまったんだと思う?」

波頭亮さんと話していて、そんなことを思いだした。

サミュエル・ハンティントンによれば、日本は「八大文明」の一つだったが、その文明の賞味期限が切れようとしている。

「ものづくり」ばかりでは日本は食っていけない。インターネット、グローバリズムという文明の文法の変化に、真正面から向き合わなければならぬ。

「こんなに長く経済がゼロ成長って、資本主義の国ではいまだかつて例がないんだよね。」と波頭さん。

ぼくも波頭さんも、一番心配しているのは、官僚や新聞、テレビ、大学といった、本来社会を導く「エリート」であるはずのひとたちが、変化に対抗して古い頭でいるということだ。

既得権益も何も、そのパイ自体が消滅しようとしているのに。

「09年の民主党の総選挙の勝利が、唯一のチャンスだったんだけどね。」と波頭さん。

それが、狙い澄ましたように、あっという間に鳩山さん、小沢さんに対する「疑惑」のリークとキャンペーンで、つぶされてしまった。

そして、昨日の石川議員に対する、司法のプリンシプルに反したわけのわからない判決。新卒一括採用も大学入試も、一向に変わらない。

話しているうちに、ぼくはどんどん気分が落ち込んでいってしまって、まあ、おそらく日本はダメなんだろうな、感じた。これは論理的な結論である。

「どう思います、波頭さん? 未来のシナリオ? ソフトランディング? ハードランディング? クラッシュ?」

波頭さんがどう答えたかは、そのうちに発売されるであろうPHP研究所の書籍を参照してください。

PHPを出て、はっと思った。オレ、今まで走っていなかったのが、調子こいて二日連続で一時間走ったから、かなり身体が疲労している。

ということは、気分が落ち込んだのは、身体が疲れていたからかもしれない。

きっとそうさ。身体が疲れていたせいさ。日本という文明に、未来がないからではきっと決してないさ。

9月 28, 2011 at 08:44 午前 |

2011/09/27

今、躓いたり転んだりしていることが、そのうち水になればいいな。

前の日に、60分間たっぷり走ったことが、よほど気持ち良かったのだろう。水泳をしている夢を見た。

ぼくは、最初は平泳ぎをしていて、でも、そのうち、なぜか持っていたiPadを水に濡れないようにプールサイドに置いて、それから飛び込んで、でもロープの前で浮上して(どうして、コースに垂直にロープが張ってあるのかな)。

それで、一生懸命泳いだ。疲れることもなく、息継ぎも完璧で、クロールの息継ぎも、まるで普通に呼吸しているかのように。

目が覚めてから、あの自然でゆるやかな時間の流れが、フローなんだろうな、と思った。

例えば、英語を学び始めた頃は三単現のSにも躓いて、へえ、studyのyがiになってesなのか、なんて思って、それがそのうちに気にならなくなって。英語の習得の究極では、きっと英語はさっきの夢の中の水のようになる。

魚は水を知らない。今、躓いたり転んだりしていることが、そのうち水になればいいな。

9月 27, 2011 at 05:51 午前 |

2011/09/26

私の見た天才 和仁陽

先日の週刊現代に掲載された記事のうち、私へのインタビューに基づく部分。書かれたのは、平井康章さんです。


 和仁氏は当時の共通一次試験では1000点満点中981点をとって、当然ながら全国トップ。東大時代には教授から、「世の中には3種類の人間がいる。天才、バカ、そして和仁君だ」と言わしめたというエピソードもある。
和仁氏に圧倒されたのは岩倉氏だけではない。和仁氏と出会ったせいで人生が変わった、と語る人がいる。脳科学者の茂木健一郎氏だ。実は茂木氏と和仁氏は、毎年50人以上の東大合格者を生み出す名門校の一つ、東京学芸大学附属高校の同級生。茂木氏によれば、和仁氏は高校時代からドイツ語やラテン語を学び、ドイツ語を日本の古文で訳してみせるような知性の持ち主だったという。
「音楽にも造詣が深かった。高校の学園祭でウェーバーのオペラ『魔弾の射手』を上演したんですが、演出と演技指導、さらにはドイツ語の歌詞を訳したのも和仁でした。しかもその歌詞は、ドイツ語では脚韻を踏んでいるので、日本語にするにあたっては頭韻を踏み、なおかつちゃんと歌えるように構成もしてあった。そんな芸当を和仁は、高校生でやってのけたんです」
現在、和仁氏は東京大学大学院法学政治学研究科准教授として日本近代法史を研究し、大秀才ぞろいの東大法学部の中でも、最高の知性と評されている。茂木氏が続ける。
「私はこれまで、ノーベル賞受賞者に何人も会ってきましたが、和仁ほど頭のいい人間にはまだお目にかかったことがない。彼に比べると、どんな学者も知性が物足りなく思える。本当に、どうして自分は和仁と出会ってしまったんだろうと思うくらい、彼と知りあってしまったことは私にとって一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)ですよ」

(中略)

(以下記事まとめのコメントとして)
秀才と天才の違いとは何だろうか。もう一度、前出の茂木健一郎氏にご登場いただこう。茂木氏は脳科学者の視点からこう語る。
「世間では『秀才は努力の人で、天才は努力しなくてもできる人』とみられがちですが、僕は違うと思う。『秀才は中途半端な努力しかしない人で、天才は超人的な努力をして、しかもそれを努力と思わない人』だと思います。
思うに、天才の脳はリミッターが外れているんですよ。誰でも潜在的には天才かもしれないけれど、脳機能を100%発揮しないで、70〜80%しか出せない。ところが天才と呼ばれる人たちは、リミッターが外れて脳回路が暴走してしまう。だから、天才にとって努力は苦にならないんです」

9月 26, 2011 at 12:38 午後 |

ぼくの手の中には、甘い香りのするメロンパン。

横須賀線の中で、機種変更したばかりの携帯電話のあまりの使い勝手の悪さに辟易して、いろいろ格闘していた。

そうしたら、目的地に着く少しまえ、となりに座っていたご婦人が、こちらを見る気配がした。

私は、「あっ!」と思った。

「あのう、失礼ですが、テレビでよく拝見するような・・・脳の先生でしょう。」

「あっ、はあ。」

「なんだかよく似ていらっしゃるなと思って。」

ぼくは直立不動な感じだった。きっと、ぶつぶつ言いながら携帯電話をいじっていたその様子を、ずっとご覧になっていたのだろう。

ご婦人は、何やらバッグの中を探っていらっしゃる。

「あのね、これ、もしよろしければ。」

中から出てきたのは、何やら紙袋に入ったもの。

「これ、メロンパンなんですけど、余計に買ってしまったものだから。もしよければ、食べてください。」

「いや、あの、その。」

「いいんです。余計に買ってしまったものですから。」

恐縮して受け取った。同時に、リュックの中には何が入っていたっけと、ぼくは懸命に思いだそうとしている。

「すみません。ぼくの方からは、何も差し上げるものがなくって。」

「いいんですよ。それじゃあ、さようなら。」

ご婦人が下りたのは、ぼくと同じ駅だった。ぼくは、ご婦人が降車する、そのタイミングから十分な時間をとるように、しかしドアが閉まってしまわないように、間合いを測って歩みを進めた。

ホームに立つと、もうご婦人は消えていた。ぼくの手の中には、甘い香りのするメロンパン。なんだか、秋の気配がした。

9月 26, 2011 at 07:32 午前 |

2011/09/25

その姿は、もうプロフェッショナル。

スタジオに近づくと、中から声が聞こえている。

「あっ、前説だ!」と思った。

始まるまで、みんな前室にいて話しているので、今まで前説を聞いたことがない。

へへえ。とスタジオの入り口に立っている志賀さんに笑いかけて、ちょっぴりいたずらっ子な気持ちで、中に入った。

「ぼくたち、吉本のなんとかかんとかです!」
と前説が始まった。一人は赤い服。一人は黒い服。黒の人が、「こいつ、どうですか? アホ面しているでしょ。」赤の人が、「どんな紹介しているんやねん!」

「ぼくたちのこと、前から知ってた人。」
「あ〜。二、三人ですかね。」
「今、手を挙げる前に、まわり見たでしょ。気をつかおうかな、どうしようかなって。もう一度聞きます。正直に。ぼくたちのこと、前から知ってた人。」
「あれえ、誰もおらんでえ。」
「さびしいわ〜。って、よう考えたら、お前、挙げんかい!」
「どうしたんや?」
「いや、あそこに、おれの兄貴が見に来ているんや。」
「おい、兄貴、手を挙げんかい!」

前室には、あつしさんや、ネジネジさんやYOUさんが来て、だんだん声が大きくなって来ている。そろそろ始まるんだろうけど、前説をやっている二人は、とにかく一生懸命ネタをやって、観客やスタッフたちが笑っている。

もう少し。もう少しなんだよ、きっと。収録のスタジオに来て、まだカメラは回っていないけれども、スポットライトが当たるその場所に、君たちはまだいっていないけれども、ここに来たということは、きっともう少し。だって、ここまで来ることもできずに、公園の片隅や、アパートの床の上で、ネタの練習をしている、そんなやつらだって数限りなくいるはずなんだから。

志賀さんはハッチポッチステーションの駅員さんのような格好をしている。そういえば、番組が始まった頃、子どもたちも出ていて、駅員さんのような格好で出ていて、そんな世界観の、そんなスタジオだったっけ。

「それでは、今日のゲストの方々をご紹介します!」

志賀さんが声を張り上げて、呼び込みが始まった。

前説をしていた二人は、そこでぴたっとネタを止めた。客席の前に、黙って立って佇んでいる。その姿は、もうプロフェッショナル。

9月 25, 2011 at 07:00 午前 |

2011/09/24

グローバライゼーション、二度付け禁止。

以前、沖浦和光さんに連れていってもらったのはどこだったかな、と思いながら、なんばの駅からふらふらと歩いていった。

へえっ。大阪の秋葉原、日本橋にも、メイドさんがいるんだねえ。

通天閣も暗くなっていて、節電の夏はまだ終わっていないようでもあり。なんだかこの串カツ屋さんには数十人は並んでいるんじゃないか、と思いながら、このあたりかな、と探していたら、大きな劇場はあった。

ここじゃない。こんな立派なところじゃない。沖浦さんはああいう人だから、その沖浦さんが愛して通っている劇場は、と、曲がっていくとあったあった。

チケット売り場はもうしまっている。中からは音楽が聞こえるぞ。お兄さんに、「もうだめですか」と聞いたら、「もう少しで終わりですけど、どうぞ。600円です」と言われた。

それで、入った。歌に合わせて、劇団のひとが踊る。次から次へと出てくる。「お送りいたしましたっ。お送りいたしますっ!」陰アナの兄ちゃんの声がよく聞き取れないのがまた味で。

みんな流し目の仕方がうまい。ひとり、良い味を出している中年の人がいて、鉄帽子かぶってツバに手をやる表情ったらなかった。

跳ねると、劇団の人たちがすーっと出てきて、お客さんを迎えている。「本当にありがとうございました」「また来てくださいね」なんて言っている。

あれは数年前だったか、沖浦さんに連れられてきたとき、大衆演劇のひとたちは、一ヶ月いるとすると、その昼の部と夜の部の演目が全部違うということを知って衝撃を受けた。毎日くるお客さんもいるわけだから、それでも飽きないように演目を組み立てる。もちろん、即興とか、使い回しというのもあるんだろうけど、やっぱりこの人たちは凄いなあ。


携帯がこのところ充電できない。この前、リュックの中に入っていた携帯用充電器を外したとき、チョコがついていたのが気になる。それに、そもそも端子が折れているようにも見える。

携帯が気になるなあ、そろそろ、買い換えかなあと思いながら、ずぼらやを通り過ぎて串揚げ屋に入った。二度付け禁止。今日はふぐの気分じゃないやね。

さっきの大衆演劇の役者さんたちは、今頃何を食べたり飲んだりしているんだろう、全国をああやって毎月違うところを回って、仲間内でどんな話をしているんだろう。

そんなことを考えていて、グローバライゼーションがなんだ、ふざけるな、という気持ちに次第になっていったのだった。

そりゃあね、英語は全力でやらんといかんし、ダボスもTEDもいいけど、そんなものとまったく関係のない、ディープで、伝わらず知られずばかにされ疎んじられ軽く見られしかしどっこい輝いている、そんなローカルな文化を忘れたら、人間だめさ。鍵は誇りだね。誇りがあれば、泥団子のようにぴかぴか光るさあ。CNNとか、気楽に取材に来るなよ。

グローバライゼーションもいいけど、それを他人にエラソーに押しつけるな。あくまでも自分の身の丈で闘え。虎の威を借る狐になるな。人生において、グローバライゼーションは、一度ちょっぴりつけるソースくらいでいいやな。

かーっ。今日は、酎ハイが身にしみるねえ。巨峰サワーって、こんなにうまくていいのかい。

グローバライゼーション、二度付け禁止。

9月 24, 2011 at 11:24 午前 |

2011/09/23

ヴェルファーレに行ったことのない人生だった

新宿から明治神宮の森を抜けて、原宿に出るのはまあいいとして、えいっ! とそのまま神宮外苑、青山一丁目と歩いていってしまった。

乃木大将の旧邸をお参りしていたら、ちょうど向こうから赤い帽子のやつがきた。

「おう、植田、わるいわるい!」

少し、やっかいな事態が起こって、植田にものをたのもうとしていた。

「おまえ、朝とかお昼たべたか?」

「自分まだです!」

「そうか!」

ほっかほっか亭はなくなっていた。ミッドタウンに入ると、お洒落なパン屋がある。「男の子はこういうのは喜ばないね」というと、植田が「へっへっへっ」と笑った。

うまいぐあいにすき焼き弁当みたいなのがあった。「植田、悪いが、これで行ってきてくれい!」「へいぃ!」

そこで気付いた。ニコファーレって、どこだか知らない。そもそも、ヴェルファーレに行ったことのない人生だったんだな、オレ。

植田がこっちです、と指す方向をみると、ぜんぜん知らないあたり。オレ、やっぱりヴェルファーレに行ったことのない人生だった。

植田を見送ると、なんだかお腹が空いてくる。

どうしようかなあ、と歩いていると、R Burger があった。イイネ。R Burger。店内の雰囲気が違う。いるひとたちの雰囲気が違う。そのいい様子は、ちょっと、直島に向かうフェリーに似ているかも。

やっとニコファーレについた。ぼくはヴェルファーレに行ったことのない人生だった。そして今。ニコファーレには、日本のいちばん元気な「今」がある。

ニコ生を見る人たちの、痛いコメントが壁を流れていく。うん、それが現代だよ。Mutually Assured Humiliationだ。恥の分だけ、人間は成長するね。それは、ちょっと、子犬がくんくんと嗅ぐおしっこの匂いに似ている。

夏野さんが爆弾を落とし、孫さんがミッションを語り、稲蔭さんが大胆な発言をした。中村さんは和服を30も持っていて、石倉さんはクールインテリジェンスだ。

猪子さんはやっぱり遅刻した。

こういうことのすべて。ニコファーレじゃないと、起きないこと。

そして、植田はうまくやってくれた。工、本当にありがとう!

9月 23, 2011 at 07:58 午前 |

2011/09/22

龍神様は瞬いている。

カダフィが寺田さんと来て、車に乗ったら案外道は混んでいて、でも中央道に入ったら順調に流れた。

それでも、さすがに風雨は強まって、途中で、カダフィが「うひゃあ」と声を上げた。路上に水が溜まっている。

「台風の進路は、富士山を通るルートになっています」と佐々木さんがつぶやいている。

とにかく駅前まで来た。目指すのはほうとう不動だったけれども、どうやらやっていない。

「ダメです。」

見に行った寺田さんのあとから、水の粒が吹き込んでくる。

とにもかくにも宿に着いて、ぼうぜんとしていると、ほうとう不動の、かまくらみたいなヘンな店はやっているのだという。

ふふぁふふぁふふぁ。がらんとした店で、ほうとうをいただく。うまい。うまいが熱い。熱いがうまい。これじゃ回転しないな。自家製のとうがらしもおいしい。

ごちそうさま。宿に帰る。しかし、あまりの雨に、何もすることがない。それでも、カダフィが写真を撮るというので、雨の中、富士山を見ている体で椅子に座った。

カダフィ、ひどいよう。でも、仕事だからね。

それじゃあ、後で。一人になって河口湖を見ると、まるで生きもののようになっている。

波が立ち、ものすごい勢いで渦巻いている。これじゃあ、龍神様がいて、中から天翔ると信じても仕方がない。いや、ぼくも信じたよ。龍神様、確かにお姿を拝見しました。

ソファでうとうとして、また湖面を見ると、今度は風向きが変わって鱗がないだようになっている。

龍神様、背伸びをしているかな。

夜になって、カダフィや寺田さんとすきやきをいただいていたら、あまりにも美味しいので、横になって、お腹をポンポン打ってしまった。

「こんな風にごろごろしていて、文章を書くとちゃんとしているんだから不思議です。」

カダフィがそう言っているのが聞こえた瞬間「ん?」と目覚めた。

朝になった。台風一過。びっくりしたけど、本当に富士山がある。湖の向こうに、大きくそびえていて、頭にちょこんと雲が載っている。

湖面は静かで、ただちょこまかと細かく動いているようでもあり。

嵐が過ぎ、富士山が雲を被り、龍神様は瞬いている。

9月 22, 2011 at 05:32 午前 |

2011/09/21

それは光の発生装置でした。

半蔵門から歩こうと思っていたけれども、あまりにも雨が強かったのでタクシーに乗った。

「北口はどちらですか?」

武道館のまわりには、たくさんの傘の列ができている。

歩いていくと、赤い顔をしたやつが向こうからきた。「おう、植田!」

あっちだろう。上っていくと、明るく光る入り口がある。

入っていくと、いきなりたくさんメンバーがいた。バックステージは、大混雑。

着くと、すぐにもう寺島アナウンサーとマイクをつけて。大音響の中、声をはりあげて。労働密度が高いのは、好きだ。大いに結構。打ち合わせも何もありはしない。

彼女たちが登場する。アイドルらしい、決めポーズで。ところが、センターステージに歩いていく途中で、どんどん素顔になる。じゃんけんぽん! ではまだ表情をつくっているけれども、あいこになったら少し油断して、素顔が出る。

じゃんけんが「確率」くらいは誰でもわかっている。必勝法などありはしない。だとすれば、勝ったり負けたり、プレッシャーを感じたり。そんなドラマのすべての谷や山で、彼女たちがどんな反応ができるか。そのしなやかな感性こそが、アイドル=アスリートとしての修羅場であり鍛錬のステージであるはずだ。

見ないとわからないことはあるね。いや、マイッタよ。オペレーションの見事さ。完成されたヴィジュアル。光と音のシンクロニゼーション。性能の良い楽器のように盛り上がり/盛り上げる観客たち。恐れ入り谷の鬼子母神。たかがじゃんけん、されどじゃんけん。そのイベントをこんなエンタティンメントに仕立てる技量とパッションは並大抵じゃない。

バックステージには、たくさんの人が働いていました。すべては、彼女たちの素顔の輝きのために。ふしぎなことに、勝ち上がっていくと、顔の中から太陽が照り光る人がいるんだよね。それは光の発生装置でした。

9月 21, 2011 at 07:19 午前 |

2011/09/20

どじょうは泥を知らない。

九州から京都への移動中、眠っていたら、どんどん沈んでいくのがわかった。

ふだんは「しゃきっ」としているのが、「休んでいいんだよ」となった瞬間に、ずぶずぶと泥のようにどこまでも沈んでいく。ぼくはどじょうにでもなったのかな。

泥にはあこがれと恐れの両方がある。自分が自分ではなくなっていく感覚。理性でコントロールしたり、自他を区別したり、そんな抵抗ができない。温かくて、包まれて、そしてもう無明の境地にいる。

だから、ふだんから泥の中で暮らしているどじょうは、よっぽど偉い生きものに違いないと思う。魚は水を知らず、鳥は空気を知らず、どじょうは泥を知らない。

意識はきっと意識を知らないんだね。

レッジオ・エミリアの展覧会が元・立誠小学校で開かれていて、昭和に廃校になった建物らしいんけれども、子どもたちが読んでいた本が、そのままあった。

図書カードをめくる。名前がいくつも。そういえば、ぼくもこうやって本を借りて読んでいたっけ。
その頃の記憶は、もう泥の中に埋もれていて、懐かしく温かい気持ちが込み上げる。

9月 20, 2011 at 06:35 午前 |

2011/09/19

ハンミョウ

会場について、お弁当をいただいて、すぐにぼくは逃走した。

裏のドアを開けた。そしたら、ごつん。外に人がいて煙草を吸っていらしたのだ。「あっ、ごめんなさい。」「いえ、すみませんだいじょうぶです。」

すぐ裏手に、遺跡の資料館があったことに目をつけていたのだ。瓶型の土器や、勾玉や、いろいろ展示してある。鹿屋のあたりは、太古から住みやすい場所だったのだろう。

資料館の横に気持ちよさそうな小径がある。ここから逃走を続けようと進む。足元からぱっと飛び立つ青い点。

ハンミョウだ!

しかも、すごい数がいる。あちらにもこちらにもハンミョウ。

ハンミョウは子どもの頃あこがれの存在だった。図鑑には普通種として載っていたが、育ったところにはなぜかいなかった。初めて見たのは、京都の金閣寺である。白砂の上をぴょんぴょん飛んでいた。

講演を終え、また裏ドアから逃亡しようとしたら、子どもたちがたくさん来ていた。それで観念して、「ハンミョウ見に行こうぜ」と言ったら、目が輝いた。

「ハンミョウってどんなのですか。」「知らないのか! 今見せてやるよ!」

こっちだよ、ほら、ここ。

さっきと同じように、ぴょんぴょん跳ねている。一人の男の子が、物凄い勢いでキャップを脱いで、ぱっとかぶせた。

危機一髪逃げるハンミョウ。男の子はぱっ、ぱっと元気よくおいかける。

何発目かで、キャップの下に抑えた。男の子がそこからぐずぐずしていたら、近くにいた女の人がぱっと素早く抑えた。「ほらなんとかさんがいった!」と誰かが言っている。

連携プレーで、女の人の手の中にあるハンミョウ。そしたら、「噛みつこうとしている!」なんて言っている。

「ハンミョウは肉食なんだよ。」「そうなんですか。」「きれいない色をしていますね。」「逃がしてやろうか、ハンミョウ」。

車が動き出す。さっきの子どもたちが、手を千切れるくらい振っている。

ハンミョウをつかまえたのはさっきが生まれて初めてだって、彼らは知らないだろうな。ぼくは、ドキドキしていた。

9月 19, 2011 at 06:52 午前 |

2011/09/18

夕暮れの迷子

「新大久保と高田馬場の間の、グローブ座」と言ったら、運転手さんはやっぱり知らなかった。

一生懸命に文字を綴った。ドレス・コードの思い出。着くまでに終わらせなくてはならない。なぜか、気持ちはずっと夕暮れのままでいて。

チケットをいただくときに、ポストイットで「楽屋に来てください」と書いてあるのが見えた。

辻仁成さんが脚本、音楽、演出をした『醒めながら見る夢』。

劇中劇があって。東京の街の見慣れた光景の、あちらこちらをツタが覆って、緑の気配が増して。途中にサプライズがあって。

演劇は言葉で推し進められていくものだけれども、途中に挟まる音楽によって、物語が飛ぶ。跳躍する。

そのふわっと浮遊した、どこにも属さない持続と、ふたたび着地した時の温度差。目眩が心地よくて。

やっぱり、ずっと夕暮れだった。昼にも夜にも、どこにも属さない、ということの意味。Lost in translation。

こういう舞台って、いいな。ぼくたちを、夕暮れの迷子にしてくれるから。心細さの中に、甘美な戦慄がある。

9月 18, 2011 at 06:44 午前 |

2011/09/17

少年は大人になり、王冠は雲になった。

夏目房之介さんと連れだって外に出る。

建物の明かりも、届く範囲は限られていて、どこか薄明のようなぼんやりとした感覚があって。その中を、ぼくは房之介さんとゆったりと歩いていった。

見上げると、空の雲がぐんぐんと飛んでいる。

「台風が近づいてきているのでしょうか。」

「さあ、まだ今日は大丈夫でしょうけれど。明日かあさっては。」

そういえば、房之介さんは、どんどん変化していくようなそんな生き方を、「孫悟空のようだ」と言っていたのだっけ。

孫悟空たちが、金斗雲に乗って、新宿上空を疾走している。

「ぼくはね、茂木さん。」

「はあ。」

「昔、妙なことに凝ったことがあって。雲が低く垂れ込めることがあるでしょう。あんな時は、高層ビルが、雲に突き刺さっているのを見るのが好きで、よくこのあたりに来ていたのです。」

「そうなのですか。」

「レストランなんかに行くと、そのすぐ上に雲があったりして。いくら見ていても飽きなかったな。あの頃は仕事場が近かったから、来ようと思えばすぐ来られたのです。」

対談中、房之介さんは、子どもの頃、雨が落ちてできる王冠が大好きで、窓から首を出していつまでもそれを見ていた、と回想していたのだった。

少年は大人になり、王冠は雲になった。そして、沢山の孫悟空たちが、金斗雲に乗って新宿上空を疾走している。

9月 17, 2011 at 08:23 午前 |

2011/09/16

マエハラとエビハラ。

講演の前に、工場の様子を少しだけ窓から見た。

すごかった。SFみたいだった。

「ここは、柱がないんですよ。」

「どうしてですか?」

「いや、装置のレイアウトを、自由に変えられるように」

「あっ、なるほど。」

「あの上を行き来しているのは、リニアモーターなのですが、ああやってプロセスを行ったりきたりしているのです。すべてが自動化されている。これだけ大きな工場で、ある時点で中に入っている人間は二十人たらずなのです。」

宇宙服のようなものを着た人が、あちらこちらと歩き回っている。

「CCDがCMOSになって、消費電力も画質も改善されたのです! これは井深賞を受けました!」

最先端の半導体工場の科学と技術の集積に、ぼくはただ感動していた。

懇親会は、ユウベルというところでやるのだという。

「ユウベル?」

「温泉があるんです!」

温泉と聞いて、ぼくはもうTシャツでも脱いでしまいたい気分だった。

時満ちる。

乾杯!

テーブルをふらふらしていたら、前に、いかにも怪しいシャツを着た男が座っていた。

「うーむ、怪しいなあ。」

「えっ、そんなことないですよ。」

「趣味は何なのですか?」

「映画を観ることですね。血が出るやつ。スプラッター。」

「ほら、やっぱり怪しい! 彼女は?」

「いません。」

「やっぱりなあ。」

「でも、欲しいんです。」

「彼女とも、やっぱり、スプラッター見るの?」

「それは、そういうところでは、妥協できませんから!」

「だめだ、こりゃー!」

みんなが笑っている。その怪しい男も笑っている。それが、マエハラだった。

マエハラは、鹿児島方面から来たらしい。

宴が終わると、みんなが、「バスで光の森に行く」と言っている。

「茂木さんも行きましょう。光の森。」

「ん? 光の森? 光の国じゃなくって?」

「光の森ですよ。」

「そこは、いったい何なのですか?」

「いけばわかります!」

バスにのってふらふらいったら、光の森についた。

そして、なぜだか、カラオケにいった。

「トレーン、トレーン、走っていく、トレーン、トレーン、どこまでも」

と熱唱しているやつがいる。

見たら、そいつはエビハラだった。

そういえば、ぼくは、懇親会の時に、こらっ、と、そのひとの頭をなでなでしていたのだった。

「あのなあ!」

まだ、なでなでしたら、そいつは、なでなでしやすいように頭で迎えにいく。

「こら!」と手を上げると、そいつがあたまをぐんと斜めに突き出す。

いいなあ、このリズム! 手と頭の第一種接近遭遇!

こういう光景は、どこか他でも見たことがある。そうだ、オレの書生、植田工だ。

エビハラくん!

ぐるぐる見ると、マエハラの方はいない。

光の森と聞いて、マエハラは逃亡したのだという。まだ飲んだり食ったりすると思ったのだろう。ああ見えて、案外繊細なところがあるのである、マエハラは。

カラオケ、というのだったら、きっとマエハラは来ただろう、誰かが言った。

残念なことだった。もうちょっとあの怪しさを追究したかったのに!

仕方がないから、ぼくは歌った。

朝の光のまぶしさに 
驚き目覚めたひとたち!

明けて今日、ぼくは出発がはやいからさっきからとっくに起きているが、朝の光はまだどこにもないし、マエハラ、エビハラはどこかに行ってしまった。

もうあと少しで、熊本サヨウナラだなあ。みなさん、ありがとうございました。

9月 16, 2011 at 05:55 午前 |

2011/09/15

カワボウがコメントを読んでいる。

京田さんが西口に迎えに来てくださって、エスカレータを上って廊下に出るが、どこがどうなのかもうわからない。

「あれ、クロ現のスタジオって、こっちでしたっけ?」

「いや、今、反対の打ち合わせ室の方に向かっています。」

京田さんと座って、映画のVTRを見ていたらしばらくして、カワボウが来た。

「いやあ、茂木さん、どうも」とカワボウと一緒に番組のVTRを見ようとしたら、あれっ、とカワボウが言っている。

「これ、まだ音声入っていないのかな。今、確認するわ。」

カワボウが編集室に電話している。

「あのね、なんだか間に合わなかったみたいなんだよ。」

「じゃあ、河瀬さんがコメント読むしかないですね!」

ぼくは、しめた! と思った。

カワボウは、「うーん。緊張するなあ。読めるかなあ」とかなんとか言っている。

忘れもしない。あれは、『プロフェッショナル 仕事の流儀』の第一回の収録の打ち合わせの時。ゲストの星野佳路さんのVTRを見始めたら、なんだかおかしい。あれれ。ナレーションの声が、後ろから聞こえてくる。

後ろを見ると、当時ディレクターだったカワボウが、画面に合わせてコメントを読み上げているのだった。

VTRのナレーションが間に合わないときは、ディレクターがコメントをかわりに読む(NHKでは、画像に合わせて流れるコメントを、担当のディレクターが書くという習慣がある。社会情報番組部は、特にその傾向が強い)という「現場」を、初めて目撃した瞬間だった。

あのとき、「へえ、この世界ではそうなっているのか」、という感動があったっけな。

VTRがまわりはじめる。今は『クローズアップ現代』のチーフ・プロデューサーになったカワボウが、ナレーションを読む。台本に書かれた「Q」の文字に合わせて、コメントが読まれる。

なかなかうまいぜ、カワボウ!

流れる時間。過ぎ去った年月。そして、ふたたび、不思議な巡り合わせで、カワボウがコメントを読んでいる。

ぼくは、あんまり嬉しくなって、カワボウの声を思わずiPhoneで録音してしまったのである。

9月 15, 2011 at 08:11 午前 |

2011/09/14

ぼくにとっての幸せが、今日、ここで見つかったんだ!

このところいろいろと大変なことがあった人を温め、励まそうと企画した食事会。

「幸せ」とは何か、という話になって、「みんなでそろってご飯をたべて・・・」というから、ぼくは、「ああっ」と思いだしたことがあった。

学生の時、しきりに「幸せになりたい」という人がいて、ぼくはその頃、「ぼくにとっては違う」と感じていた。

何となく、「幸せ」という「状態」は、むしろ警戒すべきものと思われ。

青春。生意気の塊だったぼくは、苦闘と、波乱の中にこそ、生きる実感がある、くらいに嘯いていたのだ。

それから、たくさんの水が橋の下を流れ、昨日の夜、幾つかのワインのグラスの後に、ぼくは突然、「そうだ、ぼくにも幸せがある」と気付いたのだ。

その「幸せ」の定義だったら、ぼくもありったけの力をもって肯定できる。そんな「幸せ」のかたちがある。

それは、できない、手に入らないとあきらめていたものが自分のものになること。

届かない、と思うと、人は「皮肉のスタンス」をとるようになる。きつねがブドウを見上げて「あれは酸っぱい」と合理化するように、あれこれとブツブツつぶやいて。

そうではなくて、無理だ、と心の中で諦めていたものが僥倖を通して自分のものになるとき、それはかたちがあるものかもしれないし、ないものかもしれないし、自分の努力を通して来たものかもしれないし、偶然の幸運(セレンディピティ)の結果かもしれないし、とにかく自分と縁がないと思っていたものと自分が触れあったとき、そこにぼくは「幸せ」を感じる。

それは、人生に訪れた一瞬の夕凪のようなものである。ずっと一カ所には留まらない。いつか、それが当たり前のものになってしまう。変化率は逓減する。だが、日々は、見知らぬ前提のもとに更新される。そう、階段を一歩上ったのだ。違う風景が見えている。そして、人生は続いていく。

「そうなんだよ。実にそうなんだ! ぼくにとっての幸せが、今日、ここで見つかったんだ!」

ぼくは感激して叫んだら、同席のひとは笑った。

だからこそ、這いつくばりたいんだよ。跪いて、見上げて、ああ、あの星には手が届かぬと、歯ぎしりして、また無謀なドンキホーテになりたいんだ。だって、それが、ぼくにとっての「幸せ」に至る唯一の道だから。

皮肉の苦いスパイスは、人生を黄昏れさせるのだから。

9月 14, 2011 at 07:00 午前 |

2011/09/13

「こんにちは。しゃぼん玉を飛ばしているのですか?」

逗子の駅からタクシーに乗って、はっと気付くときれいな緑の山の近くを走っていた。

あれっ、鎌倉みたいだな。でも、もっと、そうだ、たとえば印象派の気配を強くしたような。

iPhoneで位置を調べたら、どうやら阿部倉山あたりのようだった。

きっと、そのあたりから海風に吹かれていたらしい。

湘南国際村に近づいたら、運転手さんが「たくさんあるよ」と言う。困ったな、と思って北森さんに電話したら、お出にならない。「センター」じゃないかと思うと言って、腕組みをして、観念した。

「センター」に着いたけれども、玄関の石の冷たさがどうもそうではない気もして、「いろいろの企業のがあるから」と運転手さんが言われても、やっぱりそちらでもないように思う。「あのう、みんなが使うやつです。」

結局、「センター」がやはりそうだった。無事部屋にたどりつく。所さんの隣しか空いていなくて、みんなの後から来たのだからやはりそこに座る。ちょっと緊張するんだよね。

セッションの合間、外に出てぐるりと歩いたら、いい感じの緑地に出た。以前、そうだこんな秋の日に、トンボたちが群れ飛んでいて、その中をおじさんが一人歩いていた、あの時の印象に似ている。

そしたら、フランクがいた。「富士山を探している」という。「富士山? うーん。ぼくは知っているはずだよね。日本人だから。でも、見えない。雲が邪魔しているのかな。」

フランクと話しながらも、不思議な雰囲気の人がいた。海の方を見て、ぶらぶら歩きながら、しゃぼん玉を飛ばしている。次から次へと飛ばしている。

こんなところで、大人が、しゃぼん玉を飛ばしているというのは、あまり見たことがないな。

でも、海から緑の丘に吹いてくる風は、気持ちよくて。しゃぼん玉も、生きもののようにあちらこちらへと揺れて。

そういう時って。あっという間だよね。ブレイクの時間もそろそろ終わりだから、フランクと戻ろうとして、やっぱりあんまり不思議だから、声をかけた。

「こんにちは。しゃぼん玉を飛ばしているのですか?」

「はい、しゃぼん玉を飛ばしています。」

「しゃぼん玉を飛ばすのが好きなのですか?」

「はい、好きです。」

「いつも、そうやって、持ちあるいているのですか?」

「そうです。持ち歩いています。」

「下の、研修室に来たのですか?」

「そうです。ずっと部屋の中にいたから、こうやって、外に来て、しゃぼん玉を飛ばしているのです。」

「ふうむ! どうぞ、楽しんでください!」

「はい!」

緑の丘を、フランクといっしょに下りていく。

どうやって戻るんだろう、と入り口を探したら、「桂」閉店後はドアをロックしますとある。

心配になったけれども、押したら開いて、階段が見つかった。

部屋に戻る。所さんの隣りに座る。磯崎が話し始める。

なんと、マックスウェルのデモンの話題ではないか!

ぼくはすぐに夢中になって、虚空を見つめ始める。外の気配は急速に消えるけれども、しゃぼん玉は確かにまだふわふわと飛んでいる。

9月 13, 2011 at 04:57 午前 |

2011/09/11

学生時代、名画座で『ミツバチのささやき』を見て、美しさと痛みの区別がつかないような詩の世界があると悟ったのだった。

井原市民会館に、加藤さんが迎えにきてくれた。

ずっと、何だか心配だった。福山から新大阪に向かう新幹線の中で、眠って東京までいってしまわないかとくよくよしていた。

はっと目覚めて安心した。考えてみれば、加藤さんが隣りにいたのだ。

でも、吉野までどうやっていくのか、一向に見当がつかず。天王寺で近鉄に乗った時には、加藤さんが「これで半分仕事が終わった気がします」と言った。

ぼくはそれでも安心しないで柿の葉寿司を食べた。

不思議なもので、加藤さんが仕事モードになって、「茂木さんこのことについてはどう思います」などとあれこれ聞かれているうちに、だんだん周囲が暗くなって吉野川が流れて、山の気配がしてくると、なんだかようやく落ち着いてきた。

始めて来た吉野の駅。電車を降りると、虫の声がして、空気がひんやりと気持ちよくて、暗闇に包まれるままに無限の安心を感じた。

蔵王堂にシートがかかっている。上映は、子どもたちが心を込めた手作りのスクリーンで。客席を見渡せば、河瀬直美さん、田中利典さん。それに、あれは間違いなくビクトル・エリセさんだ。

映画は楽しいし、空気は涼しいし、ぼくは気もそぞろだし、なんだか、ここのところ忙しかった人生も、とてもいい感じになってきた。

『3.11 A sense of home』
世界中から21名の映画監督が、3分11秒の映像に今回の震災への思いを託す。

エリセさんの作品は、アナ・トレントが出演直前の楽屋で「三分前です」と言われてから、震災とそのあとの原発事故が意味することについて、ストレートなメッセージを話すもの。

映画が終わって、利典さんと奥駆けはどうのこうのと話していると、加藤さんと京田さんが来て、ぼくも記者会見に行ってくださいという。

屏風があって、その前に、利典さんと、河瀬さんと、エリセさんがいる。

最初は黙っていようと思っていたのだけれども、なにしろぼくはおっちょこちょいだ。

それで、讀賣と日経の方の合間に、ぼくはさっと立ち上がって質問をした。

「エリセ監督におうかがいします。ミツバチのささやき、エル・スール。マルメロの陽光と、監督の作品はシンボリズムと詩的なイメージに満ちていますが、今回拝見した作品は、ストレートなものでした。どのようなお考えに基づいて作られましたか?」

エリセ監督はスペイン語で話し、通訳の方が美しい日本語にしてくださる。

「今回の映画のメッセージは、地球上の隅々にまで届けたいと思いました。だからこそ、敢えて、私のこれまでの作品とは異なるストレートな表現にしたのです。」

『ミツバチのささやき』で、アナが本当にフランケンシュタインに会ってしまうところが好き。

『エル・スール』で、女の子とお父さんが昼下がりのレストランで食事をするシーンが好き。

そんな好きを考えながらぼんやり歩いていると、京田さんが「茂木さんこっちです。」という。
エリセさん、河瀬さん、それに利典さん。エリセさんに映画の感想を言ってください、というので、ぼくは「ありったけの」人になった。だって、心から尊敬する監督だから。

「私は、時間の経過ということを考えました。あんなに小さくてかわいかったアナが、成熟した大人の女性になっている。災害や病気も、時間が経ってしまうということと関係している。エリセ監督の映画は、こころの中で育ちます。心が傷ついて、それが癒える過程で育つのです。」

「すぐれた映画は、みな心に傷をつけるものだと思う。成長の過程で、人は、自分の中のさまざまなものに向き合わなくてはならないのだから」とエリセ監督。

空には、今でもきっと月があかあかと出ている。エリセさんとお話しているぼくがいる。

学生時代、名画座で『ミツバチのささやき』を見て、美しさと痛みの区別がつかないような詩の世界があると悟ったのだった。

9月 11, 2011 at 10:53 午後 |

サングラスの向こうに、繊細な表情がある。

ベルコモンズの前で、なんとかかんとかだというから、移動しながら探してみたら、それらしいのは一軒しかない。

サイトウマコトさんに電話しても、通じない。パーティーの主役だから、忘れているのだろう。

上がっていったら、やっぱりそうだった。

グラスのワインを受け取って、ぱーっと入っていくと、いろいろな人がいた。

さすが、マコトちゃん! 人望がすごいねえ。

ぼくは、前にマコトちゃんの時計をみてびっくりしたので、もう一度びっくりさせてもらおうと思ってみたら、やっぱりびっくりした。

「ごめんなさい。本当は、作品を見てから来たかったのですが。」

ぼくはそのころ熊本にいた。くまの人になっていた。

そんなことをマコトちゃんに言ってたら、ほんとうにクマさんがいた。

「クマさんが最初に出たのは・・・」

「笑っていいとも。」

「あっ、そうか、ぼくが高校生くらいか。」

「あれはね、横澤さんが、タコ八郎さんの後に、ってかんがえたの。オレはアーティストだから、テレビになんか出ない、って言ってたら、クマさん、それは違うんだ、これからはテレビに出て、逆に自分のメッセージを伝えていけばいいんだよ、って言ってくれたんだ。」

原研哉さんが、いつものようにスタイリッシュな出で立ちで立っている。東北復興についていっしょうけんめいに話していたら、Shellyがワインを持ってきてくれた。

Shelly、本当にありがとう!

スープストックの遠山さんが通りかかって、Shellyとパスザボタンについて話している。向こうには、浅葉克己さんがカメラをかまえてにこにこ笑っている。

「浅葉さんにはなんども写真を撮られたけれども、一度も見たことないなあ。」

パーティーの空間。小山登美夫さんとアベちゃんの話をしている。みたら、マコトちゃんがいない。

探しにいくと、偉大なる作家、サイトウマコトは入り口で座っていた。

「どうしたのですか。」

「いやあ、午後5時からずっとだから、疲れちゃってさあ。」

サングラスの向こうに、繊細な表情がある。ぼくはそのとき、人の肌というものを感じた思いがした。

サイトウマコト展は、小山登美夫ギャラリー清澄でやっています。

9月 11, 2011 at 06:43 午前 |

2011/09/10

見上げる熊本城は

熊本に来るのは何度目かだけれども、まだお城に上ったことはない。

でも、それは、いつも視野のどこかにあって、空のほうにふっと入ってくる。

立派な、奇麗なお城。往時は、どんな様子だったのだろう。

幕末から明治への維新を、「瓦解」と表現しているのを見たのは、確か夏目漱石の文章がさいしょだった。

源頼朝から徳川慶喜まで、600年以上にわたって続いた「征夷大将軍」という武家政治の法的権威化の擬制も、その時終わった。

成長において、何かを獲得することは、かならず別の何かを喪失することである。

きっと、日本の歴史も同じことなのだろう。

見上げる熊本城は、なんとも凛とした、かわいらしい誇りに満ちていた。それは、眼下でわたしを囲む現代の日本には、存在しない何ものかの気配であった。

9月 10, 2011 at 06:18 午前 |

2011/09/09

離れには次郎がいた。

なでしこが終わったら、ロビーに下りて集合と聞いていた。

中尾社長が、佐々木厚さんといっしょに立っていた。

「あれ、はっしーは?」

「ビデオをとりにいっています。もぎさんに、披露宴用のコメントをほしいって。」

ロビーを抜けた瞬間、「あれっ、ここ、知っているよ」と叫んだら、はっしーが笑った。「そうです。ここは熊本です。」

熊本市立美術館のある通り。マリーナ・アブラモヴィッチの作品が常設されているところ。

中尾社長は、先をすたすた歩いていく。「中尾さん、すごいなあ」と言ったら、はっしーが、「どこの街も知っていますからねえ。」とつぶやいた。

ビルの上の方の店に行くのは、ぼくだけではとても無理だ。見つからないし。

席に座って、ビールが来た。はっしーに、「ここで撮るの?」と言ったら、「はい」と言う。

でも、隣りの声も聞こえてくるし、ぼくの顔はすぐにでも真っ赤な太陽になりそうだ。

「明日の朝にしないか。朝ご飯の時とか、会場でとか。」

「そうですねえ。」

中尾社長も「それがいい」と賛成してくださったので、「無罪放免」となった。これで、安心して飲める。

「乾杯!」

アキオからメッセージ。アムステルダムで、悪天候で止まっているのだという。「一日遅れます。」

残念。アキオに敬意を表して、馬肉はほんのさわり程度にした。

「五郎八離れにいる」とつぶやいたら、アキオが、「アメリカ人のヘンな板前がいませんか?」と聞いてくる。

「さあなあ。ここは離れだからなあ。離れに、そんな人いるのかなあ。」

アキオも、酔っぱらって、離れだったかどうか、わからないのだという。

おいしく頂いて、さて、移動するかと立ち上がった。トイレに行って戻ってくると、佐々木さんが、「茂木さん、ほら」という。

いた! 外国の人が、白衣を着て、にこにこ笑って料理している。「イカの料理が得意でしょう?」と言うと、「寿司なら何でも」と答える。

胸には、大きく「次郎」という名札がついていた。

五郎八離れには、次郎がいる。

大きな手と握手した。名刺を下さったので、ポケットに入れた。それから、ふたたび夜の街の人となった。

翌朝。ポケットの中から紙を取り出す。次郎は、オーザー・ユージン・ウィリアム・ジュニアさんだった。

9月 9, 2011 at 07:29 午前 |

2011/09/08

純粋なるもの

駅を抜けると、コンコースには海側から来る人たちの群れがあふれていた。「定時に帰る」という生活は、実際には日々にあふれているのだな。ぼくには縁がないけれども。

エレベーターを上がり、田谷文彦とスツールに腰掛けて議論をつづけた。「車が遅れていまして」ともうしわけなさそうに言われると、こちらが恐縮する。「今下に着きました。」

「リップを塗っていますので。」
「あっ、ぼくは、どこでも着替えられますから。」

いつお会いしても素顔だから、お化粧をした有森裕子さんを見るのは始めてだった。

「高校のときには、平凡な記録だったのですよね。」

「カントクが入れてくれなかったので、一ヶ月ずっと、その視野の中に立ち続けて、ついには根負けさせてのです。」

六十何年ぶりの女子陸上競技でのメダルという偉業を達成した、その道筋は、根拠のない自信とそれを裏付ける努力。どんなに苦しい練習でも、あらかじめ「ダメ」だと、自分で自分のリミットを設けない。

メダルを取ったあとのいろいろは、有森さんをもってしても大変だったという。

「だからこそ、もう一度挑戦してみようと思って。」

世間というものは、どうして、純粋なるものをそのまま受け止めようとしないのだろう。

孫正義さんに対する反応を見ていてもそうだけれども。

一方で、マラソンの画面をずっと食い入るように見続ける私たちの中には、必ず純粋なるものに感応している何かがあるはずだ。

おそらくは、混乱の中で純粋なるものはいきいきとよみがえる。ありきたりの日常が、私たちの眼を曇らせてしまうのだろう。

だから、人生は、簡単に予想などしてはいけない。自分の中の純粋なるものをよみがえらせるためにも、日々、劇的なる不確実に身をさらす。

9月 8, 2011 at 06:43 午前 |

2011/09/07

言葉って、何を交わしているかではなく、交わしていること自体に意味があるのだろう。

講演会場で、登壇前に着替えるなどと言って、そのままどこかに行ってしまう。

階段を下りると、生け花展をやっていた。「見ていいのですか」とかなんとか言って、入っていく。

いろいろな流派の人がやっている。それぞれ、一生懸命活けたのだろう。結局、人と向き合っている、そんな気がする。

いよいよ観念して会場に戻った。シャツとジャケットに着替えたら、そろそろ時間だ。

「入場です!」と言われて並んだ椅子の間を、拍手を受けながら歩いていく、とまどって、いたたまれなくて、さっと早回しで済ませてしまいたくなる。

会場にいらした方の顔を拝見しながら、懸命にお話しする。笑っていただいたらいい、肯いていただけたらいい、時には、ほろりと泣いてくださってもいい。

あと15分で、「何かご質問はないでしょうか」と切り上げる。でも、本当はこの言葉以外の何かを発したいのだ。

音の一方通行のまま終わるのがイヤだ。音を発するだけでなく、受け止めたい。測り合いたい。でも、他に表現できないから、「何か質問はありませんか」という言葉になる。

今度は、もうちょっと違った表現をしてみようかな。「ここで、みなさんの声を聞かせてください」、みたいな。「みんなで一斉に声を上げませんか!」のような。

電車のデッキで呆然としていたら、小学校高学年くらいの男の子が来て、「茂木先生ですか」と聞かれた。「うん」と言ったら、「ぼく、ファンなんです」などとしっかりした声で言った。握手して、「どこから来たの?」「そうか、勉強がんばれよ」などと声をかけた。そしたら、その子の妹も、ぼくを見に来た。

あんな時も、本当は、「どこから来たの?」「勉強がんばれよ」以外の何かが言いたいのだけれども、その何かがわからないから、つい言ってしまう。でも、結果として相手の声が聞こえれば、それでいいのだろう。言葉って、何を交わしているかではなく、交わしていること自体に意味があるのだろう。

9月 7, 2011 at 06:02 午前 |

2011/09/06

くりくりのハチと白い身のアゲハチョウ

「なべちゃん」あるいは「くまんばち」こと、渡辺倫明が「あっ、三代目いるかな」と言ったのでついていった。

藤多さんや山本さんも楽しそうである。

実際には四代目だった。なべちゃんが、兄弟の4人目だと思った、などとぐずぐ言っている。

にこにこ笑って、「若冲のいいのが入りましたんですが、ご覧になりますか?」と言われる。

「えっ! ぜひ!」

間髪をいれずにお願いした。

「おい、二階あいているかな。」

「あいてます。」

階段を上る。四代目主人が、箱から取りだして、するすると巻物を開いてかける!

未知のものが開かれる瞬間の、なんとも言えない期待感。

「あっ!」

正式にはなんというかわからないけれども、「群虫図」だった。

一目みて素晴らしいと思い、じっくり見ているうちにほれぼれする。

右上に一匹の蜘蛛がいるけれども、その巣糸の処理が見事である。造形化されていて、抽象絵画のようでもあり、光の差し方が様式化されている。

虫食いの葉があって、ムカデやイモムシが隠れている。ムカデがいかにもかわいい。ムカデがかわいいというのは、尋常ではないようだが、若冲が描くと、なんとも可憐なのだ。

そして、一匹のハチが葉っぱの上でこっちを向いている。こやつもかわいい。若冲の絵では、描かれた生きもののうち、一つが正面に向いていることがよくあって、どうやら画家自身らしい、と思うけれども、このハチはどうやら若冲だった。

そして、右下には、クロアゲハ。羽根の模様は現実に近いけれども、なぜか身体が真っ白である。上に飛んでいる白蝶とくらべても、さらに抜けたように白い。

「アゲハのからだが白いね。」となべちゃんにささやく。

「この世のものではないからでしょう。」となべちゃん。ぼくは、はっとした。

七十七歳と署名がある。「たしかこの年あたりに、弟が亡くなったのではなかったでしたか。」

絵に、二つの中心ができた。こっちをクリクリ見ているハチと、真っ白なからだのアゲハと。

若冲は仏教に帰依して、その絵は、いきとしいけるものに対する祈りに満ち溢れている。

(四代目御主人によると、本作品は雑誌『國華』に掲載されるとともに、いくつか展覧会も決まっているのだそうです。)

夕食時、まだ若冲のことを思いだしていた。

「いやあ、あの、輪郭を、薄く残して、くっきりさせるという手法も、よかったねえ。」

くりくりのハチと白い身のアゲハチョウが私の心に住み着いて、虫食いの葉の上で動き回っている。

9月 6, 2011 at 07:46 午前 |

2011/09/05

水だよね?

シンポジウムの最中から、外の様子が気になっていた。

声楽の連中が、声を上げているのが聞こえる。オペラや、流れていくのや。風のようすで伝わり方が変わる。一度は、はっきりと『大地讃頌』だとわかった。

一ノ瀬くんががんばったシンポジウムが終わって、ふらりと夕暮れの音楽キャンパス。根津方面にでも行こうか、と歩いていると、ふしぎな男二人がいた。

たらいに水を入れて、その水の中に何か入っている。

「何をしているの?」

「水です。」

「ん?」

「水です。でも、生きているのです。持ってみてください。」

なにか、ぶよぶよしたものが入っている。透明で、うすくて。水がぶよぶよしている。

「気持ちいいな。でも、このぽっちみたいのは、本当はない方がよかったんだろう?」

「違うんです。それは、ヘソなんです。」

「ん?」

「この生きものがうまれるときに、へそがあって、それをちぎったんです。」

たらいの水の中に、ビニルにつつまれた水がある。一カ所や二カ所に、ひねった場所がある。それは生きた水で、それはヘソなのだという。

純真なる子どもが来たから、ぼくは声をかけた。

「おい、きみ、こっちに来てごらん。この水、生きているんだって。」

「カルキが入った水の中でも、この水は生きています。」

「水だよね?」

「持ってかえって、飼っていると、この水は生きています。」

「水だよね?」

4歳くらいの男の子は、最初はおずおずと、やがて決然と水を触り始めた。お姉さんらしい6歳くらいの女の子は、目をきらきらさせながら水を触っている。

「こいつら、この思い出ずっと忘れないぜ。藝祭に来たらさ、こんな水のいきものがいて、お前らがいて。」

「おっぱいも出ているし。」

「そこじゃない!」

そいつらは、上半身裸で、その上に何かをまとっていた。

藝祭に行ったら、水の中にへんな生きものを泳がせている男二人がいた。先端だったか、デザインだったか、一年生だったか、二年生だったか、さわやかな雰囲気の男たちだった。

違った、一人は四年生で、来年電通に入るんだった。

ぼくは、根津へと植田工たちと歩きながら、思った。

水だよね?

うん、水だよ、と空の雲がかわりに答えてくれた。

9月 5, 2011 at 06:58 午前 |

2011/09/04

師匠からのメッセージ

番組が終わると、内田樹さんは、「じゃあぼくはこれから稽古があるから〜」と颯爽と出ていった。西靖アナウンサーも、次のトークショーへと向かう気配。

結局、放送中マックブックでツイッターをチェックしていたぼくが、一番出遅れるかたちになってしまった。

荷物をまとめて出たら、そこに西川きよし師匠がいた。

「あっ、師匠!」

人に出会った瞬間に、伝わってくるものがある。その魂の温度、皮膚のやわらかさ。

「師匠、先日、なんばグランド花月で拝見しました。すばらしかったです!」

とてもやさしく、まっすぐで、そして筋の通った、西川きよしさんという人の存在感。

感激のあまり、マックブックの電源コードを忘れてしまった。

名古屋駅前の家電店で電源コードを買っていたら、いつの間にか着信があった。

留守電を聞いてみると、師匠からのメッセージ。

いそいで折り返した。

ぼくのコードは、きっと今も毎日放送の打ち合わせ室のあのテーブルの上にある。ぼくの心の中で、そこだけがぼんやりと明るく照らされている。

9月 4, 2011 at 07:21 午前 |

2011/09/03

言葉がひとつのデザインならば

ふらふらと歩いていると、車が停まった。あっ、これだろうな、と思ったら、やっぱりそうだった。

中から現れた、パツパツ髪の男。すらりとした身体に、黒いジャケットをまとっている。

佐藤可士和さん。お会いするのは久しぶり。

「どうも!」

握手を交わす。

らせん階段を下りる。スタジオへ。

ジャケットは、Shellyに言われる前に植田工に目配せして、スチームをかけてもらった。

人には「持調子」があると書いたのは夏目漱石。可士和さんと話しているうちに、いろいろと思いだしてきた。

一番大切なメッセージ。デザインとは、何かに包み紙をかぶせることではなくて、むしろはぎって、その本質、一番よいところをまっすぐに伝えること。

そのように考えると、デザインとか、プランニングとか、いろいろなことの見え方が変わってくるよね。

Shellyがいいのは、自分が納得しない言葉は口から発しないこと。

言葉がひとつのデザインならば、それは包み紙ではなくて、その人のど真ん中をまっすぐに伝えるものなのだろう。

9月 3, 2011 at 05:26 午前 |

2011/09/02

プレス・リリース アハ体験(一発学習)の研究に適した新しい方法論を提案

プレスリリース
アハ体験(一発学習)の研究に適した新しい方法論を提案
石川哲朗、茂木健一郎

プレスリリース pdf file

論文(著者たちの作成したファイル。最終版については、Springerのサイト
http://www.springerlink.com/content/y675331464852516/
を参照ください)

Tetsuo Ishikawa and Ken Mogi (2011) Visual one-shot learning as an ‘anti-camouflage device’: a novel morphing paradigm. Cognitive Neurodynamics, published online
Url: http://dx.doi.org/10.1007/s11571-011-9171-z
Doi: 10.1007/s11571-011-9171-z

論文(author-created) pdf file

石川哲朗 
e-mail: tetsuoishikaha@gmail.com
twitter: @fronori

茂木健一郎
e-mail: kenmogi@qualia-manifesto.com
twitter: @kenichiromogi


以下、プレスリーリースのテクスト。図やグラフは、上のpdf fileをご参照ください。

プレスリリース 2011年9月2日 アハ体験(一発学習)の研究に適した新しい方法論を提案

<論文名>
Visual one-shot learning as an ‘anti-camouflage device’: a novel morphing paradigm

「カムフラージュを見破る装置」としての視覚的一発学習:モーフィングを用いた新しい手法

Tetsuo Ishikawa1, 2 and Ken Mogi 2 (1) 東京工業大学 大学院総合理工学研究科、(2) ソニーコンピュータサイエンス研究所

Cognitive Neurodynamics 誌オンライン電子版に掲載

<概要> 何かをひらめいた瞬間に「あっ、わかった!」と感じる体験をアハ体験と呼びます。そして、 一度気がつくとその瞬間に世界の見え方が変わり、一発で学習が成立することから、一発学習 とも呼ばれます。たとえば、白黒のアハピクチャー(隠し絵)が見えるようになることが例と して挙げられます。従来、経験と勘に頼った手作業によるしかなかったアハピクチャー作成を、 今回、モーフィング技術を用いて系統的に量産する新たな手法を開発しました。そして、曖昧 な白黒二値画像から元のグレイスケール画像へと徐々に復元しながら呈示することにより、20 秒程度という短時間に高い確率で気づくことができる枠組みを考案しました。この手法を用い、 一発学習の持つ性質がいくつか明らかになりました。本研究では、これまで認知実験の俎上に 載りにくかった一発学習という「一回性」の体験を科学的に研究する方法論を提案し、創造性 の理解を進展させる可能性をより広げるものと期待されます。

<背景と詳細> 「あっ、わかった!」というアハ体験のような現象は創造性の顕れだと考えられますが、その 性質を実験的に調べようとするといくつかの困難が伴います。同じ絵は同じ人に対して一度し か使えないため、たくさんの絵を用意する必要があります。しかし、アハピクチャーとして有 名なダルメシアンや牛の写真などのような「良い」問題を経験と勘に頼らず作る方法は知られ ておらず、実験に使える統制された問題が足りませんでした。また、往々にして「良い」問題 は絶妙な難しさの問題でもあるため、解けるまでの時間が長すぎて限られた時間内の正答率が 低すぎるという問題もありました。数は限られますがこのような「良い」問題を回答があるま でずっと呈示し続ける方法を、静止画呈示法と呼ぶことにします。

別の手法として、脳画像法(PET や fMRI など)の実験では実験時間の制約から、分かるまで 待つわけにはいかないので、手っ取り早く、問題を見せた後にすぐに答えを見せてしまうという手法がよく使われます。その後にまた問題を見せると答えを強制的に学習したばかりなので、 何が隠されているか先程は気づかなかったものが今度は見えることになります。これを問題・ 解答交互呈示法と呼ぶことにします。当然ながら、限られた時間内にほぼ確実に答えに気づか せることができますが、自力で問題を解くという一番知りたい、創造性の関与すると思われる プロセスを省くことになり、重要な部分を調べることが出来ません。

つまり、実験中にアハ体験を観察して調べるためには、制限時間内に解けるような適度な難 易度を持ったアハピクチャーを言うなれば大量生産できる方法が必要です。静止画呈示法では、 認知努力によって自発的な気づき(自力で解く)を調べることができますが、時間がかかりす ぎるという問題がありました。また、問題・解答交互呈示法では、ほぼ確実に学習させること はできますが、強制的に誘発された気づきであり、自発的な気づきの要素を損なうという欠点 がありました。そこで静止画呈示法と問題・解答交互呈示法の良いところ取りをできるような 折衷案を考えました。まず、ある物体の写ったグレイスケール画像にガウシアンフィルターを かけて輪郭をぼかし(A)、それをさらに白黒二値化して曖昧にした画像(B)を用意します。A や B も広い意味で隠し絵ではありますが、A は簡単すぎて、B は難しすぎるのが一般的です。 ここで A と B の中間的な画像を用意すれば、適度な難易度のアハピクチャーになることが予想 されます。そこで、A と B をモーフィングして連続的に変形することを考案しました(図1: 右端が A、左端が B。その中間的な混合状態をそれらの間に示す)。これらを B から A へ 1%刻 みで 0.2 秒ごとに変化させ、長さ 20.2 秒の動画(0%から 100%まで全部で 101 フレーム)を 30 種類の物体の画像に対して作成しました。

それぞれの動画に対して、何が隠されているか分かるまでの反応時間、またはモーフィング レベルを難易度の指標とすることができます。すると様々な難易度の問題が作れました(図2)。 次に、分かるまでの時間が短ければ短いほど、その答えが正しいと確信するという関係性が見 出されました(図3)。近年提唱されている洞察(ひらめき)の流暢性理論(ある認知処理が素 早くなされるほど、確信度が上がり、より真実だと感じるという理論)が、視覚的一発学習に おいても成立することを示唆します。反応時間の解析には、時間切れ(打ち切り)データが存 在し、平均値などが単純に計算できないことから、生存時間解析を用いました。また、答えが 合っていたときにだけ、二度目に同じ問題を見たときに答えるのが早くなり(図4)、かつ確信 度も上がりました。このことから、一発学習が正しく成立したかどうかは、同じ問題を二度目 に見たときの反応から確認できました。この応用として、何が見えたか答えを報告してもらわ なくても、反応時間の差などから正答だったか当てることができるようになるかもしれません。 さらに、答えの確信度と、客観的な正答率が正の相関を示しました(図5)。答えを聞く前に、 自分の答えが正しいか間違っているか分かっていることになります。すなわち、正確にメタ認 知(「自分が認知していること」を認知していること)できていたということを意味しています。

<まとめとポイント> 1,新しいアハピクチャーの作成手法および提示方法を開発。アハ体験研究の可能性を広げる 2,それを使って、流暢性理論が視覚的一発学習において成り立つことを示唆した 3,初見だけでなく、二回目に同じ絵を見たときの反応を調べることで、正しく一発学習できていたかどうか確認できた 4,答えを聞く前に、自分の答えの正誤が分かる=正確にメタ認知できていることがわかった 5,この手法を用いて様々な難易度のアハピクチャーを作成でき、今後の研究に応用できる

図1、モーフィングを用いて適度な難易度のアハピクチャーを作成する ※

図2、30 種類の刺激それぞれの難易度(モーフィングレベル/反応時間)の分布 (※ 図1の答え:上から、ワニ、サクランボ、自転車)

図3、流暢性理論の検証(横軸:左に行くほど流暢性高い、縦軸:上に行くほど確信度高い)

図4、横軸:モーフィングレベル/反応時間、縦軸:まだ気づいていない人の割合 1 回目と 2 回目それぞれの回答の正誤で試行を 4 通りに分類して分析: (a) 誤答・誤答、(b)誤答・正答、(c)正答・誤答、(d)正答・正答 (d)の 1 回目と 2 回目ともに正答の場合のみ、2 回目に 1 回目より正答時間が早くなっている = 正しく一発学習して覚えていた場合にだけ、2 回目以降答えに早く気づける

図5、横軸:確信度と縦軸:正答率の関係(1 回目も 2 回目も正の相関)

最後に、論文タイトルにある「カムフラージュを見破る装置」というのは、神経科学者の V.S. ラマチャンドランが、ヒトも含めた動物が、部分的に遮蔽された物体(たとえば天敵など)を 見つけるために主観的輪郭(例:カニッツァの三角形)などを知覚するような視覚系を発達さ せたという説を唱えるのに導入した概念です。視覚系がさらに進化して、その延長線上にアハ ピクチャー知覚があると考えれば、一般化した「カムフラージュを見破る装置」として視覚的 一発学習を捉えることも出来るのではないかという思いを込めました。

この成果は Springer 社の刊行する学術誌 Cognitive Neurodynamics に掲載される予
定です。それに 先駆け、オンライン電子版が 8 月 30 日付けで出版されました。

<問い合わせ先> 石川哲朗 tetsuoishikaha@gmail.com 東京工業大学 大学院博士後期課程 ソニーコンピュータサイエンス研究所 実習生

茂木健一郎 kenmogi@qualia-manifesto.com ソニーコンピュータサイエンス研究所 シニアリサーチャー

9月 2, 2011 at 08:16 午前 |

白洲家秘伝、わんこシンコの流儀

最近は神楽坂はすっかり人が増えてしまって、新潮社のあたりから、赤城神社を通ってさらに裏通りへと、できるだけ行き交う人が少ない路地を選んで下りていった。

そうしたら、ぼんやりしていたから案外来てしまっていたのだろう。あれ、ここだ、と思った。曲がると、「寿司幸」という看板が夜目に光っているのが見える。

入ると、カウンターにすでに座っていた。白洲千代子さん、池田雅延さん、白洲明子さん、足立真穂さん。

「信哉は?」
と振り返ると、もう店の入り口で人の気配がする。

「あれ、珍しいね」
と人を遅刻の常習犯のように決めつける。まあ、そうだけど。

カウンター、どこがいいか、と聞いたら、ぼくはここが落ち着くからと、信哉は一番奥に座った。

ビールで乾杯し、あれこれとつまんでいると、信哉が「ではでは」と取りだした。お猪口を数だけそろえて来ている。

何も言わず、信哉がぼくの前に置く。ぼくが好きなやつ。みるとほれぼれする。

唐津は、ぼくの母親の生まれたところだ。

「この前、唐津のいいのがあったのだけれど、すぐ売れちゃった。茂木さん、残念だったね。もっとも、斑だったけれども。」

「斑?」

「斑は、唐津の王様。ほら。」

見ると、信哉の手元になんだか男性的なかたちのお猪口がある。

「ぼくのこっちのは?」

「それは、無地。」

「そうか。ぼくは、何だか、無地の方が、女性らしくて繊細でいいように思う。」

「でもね、斑が唐津の王様ですよ。ね、池田さん。」

「私も、斑の方が好きですね。」

「ぼくは二番手にいくタイプだから」と言うと、真穂さんがはははと笑った。

信哉は、無地にドンドン酒をつぐ。自分も斑に手酌していて、一向に寿司を食べる気配がない。

その間に、他の4人は次々と握ってもらっている。目当てのシンコ、シンイカ、それにいろいろ。ところが、ぼくの前には、寿司は置かれない。どうやら、信哉と同じ、「酒飲み」に分類されてしまったらしい。

「あのう、ぼくの寿司は・・」とおずおず切り出した。親方が、「召し上がりますか」と笑った。ぼくがうなづくと、ようやく置かれ始めた。

シンコ。ふくよかな、シンコ。そしてシンイカ。ミルクのようなシンイカ。生きていてよかった。しかし、信哉はまだ一向に寿司を食べようとしない。

ぼくはだんだんブキミになってきた。

「だいたい茂木さんはね、夜にシンコを食べようという日に、朝は餃子とご飯、昼にそば、という人だから。」

「・・・・」

「ぼくは、昼は納豆と豆腐だったからね。」

「ゆで太郎知らないの? ゆでたから、ゆで太郎。」

信哉が反撃して、なんだか知らないけどキッチンのメーカーの名前を言った。ぼくが、「トーテムポール?」と聞いたら、みんながわらった。

「トーテムポールじゃないよ。ドイツの、有名なキッチン。小林のじいさんも、山の上から下りたときに、使っていた。」

「ゆで太郎」を知っている人は「トーテムポール」を知らず、「トーテムポール」を知っている人は「ゆで太郎」を知らない。

未だに、「トーテムポール」が何なのか、よくわからない。真穂さんが、「卒業制作みたいなものでしょう」と言うから、ますますわからなくなった。

そのうち、いよいよおそろしいことに信哉が寿司を食べ始めた。ぐーんと溜めて、満を持したロケット・スタート。

親方が握る。信哉の前に置く。信哉は間髪を入れず、ぱくっと食べる。親方が握る。信哉の前に置く。信哉は間髪を入れず、ぱくっと食べる。親方が握れば、信哉がぱくつく。親方が握れば、信哉がぱくつく。

ゴンベさんが神楽坂に降臨した。

あれよあれよという間に、シンコがなくなってしまった。

「あれっ、もうないんですか?」

信哉が、涼しい顔をしている。白洲家秘伝、わんこシンコの流儀なり。

信哉は高校の時は荒れていて、鞄はぺちゃんこで学ランの裏には龍の刺繍がしてあったらしい。

「あれはね、米軍基地でやってくれるんですよ。そんなことは高校生ならみんな知っている。」

「まだとってある?」

「さあ。おふくろが捨てたんじゃないかな。」

「私は捨ててないわよ。」

明子さんがぽつりと言う。

その信哉を、小さな時に千代子さんはなぐったことがある、とうことをぼくは知ってしまった。

「なぐったんじゃないわよ、投げたのよ。」

なんだか知らないけども、「お千代」は偉い。

歩いていると、雨が降ってきた。
生きていることはありがたい。雨に濡れることもある。トーテムポールがわからなくなることもある。人生の卒業制作は、永遠に未完成。

9月 2, 2011 at 06:59 午前 |

2011/09/01

陰謀史観、ビュリダンのロバ

カオルが、最初からぼくを待っていたかのように手を上げた。

「このあたりだったよな。」

いつも、ビルがわからなくなる。「ああ、ここだよ、ここ」

外国特派員クラブの廊下を歩いていくと、右側がぱっと明るくなる。

窓際のテーブルに、すでにヘミッシュが来ているのが見えた。

やがて、シンヤも、レーナも、パトリックも来た。

楽しいランチ。興味深い会話。

シンヤは、明日からベルリン。ネーション・ステートについて、それがいかに相対的な概念に過ぎないか、という点からアートのキュレーションをやり直そうとしている。

「そもそも、ナポレオン戦争以前には。。。。。」

レーナが聞いた。「あなたの、現在のプロジェクトは?」

「リヴァイアサンというのです。」ぼくは答えた。

「自由意志についてどう考えますか?」

ヘミッシュが笑った。「ぼくは、好きだなあ。自由意志についてどう考えますか、という会話が飛び交うテーブルは。」

カオルとパトリックは、教育について熱心に話し込んでいる。

ランチが終わったあと、バーに移って、ヘミッシュと赤ワインを一杯飲んだ。

「日本の電子出版はなかなか進まないけれども・・・」

「そのことについてだけどね、ケン、出版社のせいにするのは、ターキーのご馳走が並ばないのは七面鳥のせいだ、というようなものだよ。」

「どういうこと、ヘミッシュ?」

「アメリカの出版事情を見てごらん。電子出版が進んだのは、アマゾンのせいさ。彼らは、キンドルを買ってもらうために、利益がでなくても廉価版の電子ブックを出した。それで、電子出版が広がった。出版社が、自らの利益を削るようなことをやるはずがない。それは、経済の原則に反する。」

「ここにも、陰謀史観か。どうして、世界はそうなるのかな。ヘミッシュ、ぼくは最近思うけれども、ユダヤがどうしたとか、そういう典型的な陰謀史観以上に、日常的に潜んでいるね。至るところに。」

「原始状態においては、即座に白黒を判断させる必要があったから。細かい理屈付けを認識することは適応的ではなかった。」

人間は、非理性というエンジンなくしては、動くことも感じることもできないのかも知れぬ。

私たちは結局、陰謀史観の塊である。すべてを知った人は、ビュリダンのロバのように、動けなくなるのだろう。

9月 1, 2011 at 05:32 午前 |