天使が笑って通り過ぎた。
イリヤに、「どこで会おう」とメールをしたら、すぐに返事が来た。
「最近、とにかく信じられないほど印象的なワインバーを見つけたんだ。実際にそこに行かないと、わからないと思うよ。」
続いてイリヤは書いた。
「もっとも、ちょっとしたドレス・コードがあるんだ。アインシュタインのTシャツだと、難しいかもしれない。無地の黒のTシャツならば、何とかなるかもしれないけれどもね。」
私はコンピュータの前で、なぜイリヤは私がアインシュタインのTシャツを着ていると知っているのだろう、と不思議に思った。
夕刻。街で買ったポロシャツを着て向かった。シンガポールとはいえども、少しは涼しくなっている。「パークビュー・スクエアの一階全部がそれだ」とイリアは言っていた。巨大な空間が目に入った。ドアを開けると、イリヤが、テーブルに座ってスマートフォンをいじっているのが見えた。
「やあ!」
見上げると、さまざまな装飾が見えてくる。
「どれも本物のように見えるだろう。ところが、できたのは2002年なんだ。信じられないだろう。どうみても、1920年代の様式だよね。」
ワインを注文すると、天使が飛んだ。天使のかっこうをした女の子が、ワイヤーで上昇していく。目当てのワイン・ボトルが入っている場所まで飛んでいって、それを持って降りてくる。
上昇する時に、足をト音記号のように組むのが、天使の印らしい。
ヴィトゲンシュタインの話をした。語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。イリヤが言う。
「ヴィトゲンシュタインの仕事があれほど意味を持ったのは、ちょうど分析哲学が隆盛していった頃だったからだと思うよ。」
「つまり、言語的アプローチの限界を示したという意味において?」
「そう。」
「それじゃあ、ヴィトゲンシュタインと分析哲学との関係は、ゲーデルと形式主義の関係と同じということ?」
「そうとも言えるね。」
自由意志の話をした。
「自由意志はないよね。」
「第一近似においては、そうと言える。」
そこで、イリヤは象の話を持ち出した。
「メタファーとして、象が適切なのではないかと思う。一人ひとりが象を内部に飼っている。象は、自律的に動いていて、乗っている人は、時々その動きを修正できるに過ぎない。このメタファーが有効なのは、何ができて、何ができないかということについて、余計な幻想を抱かせないという点にある。」
「そうすると、さっき出てきた、すべてをコントロールできる仏教の高僧の場合、自分自身が象になっているということ?」
「そうかもしれない。あるいは、象から降りている。」
ふと、空間を見渡した。また、天使が飛んでいる。フラッシュで撮影している人たちがいる。
突然、思いついて、イリヤに聞いた。
「もし、ソクラテスが今生きていたら、何をしていたと思う?」
「コメディアンになっていたと思う。」
「コメディアン?」
「そう、コメディアン。」
天使が笑って通り過ぎた。
ワイングラスが光っている。
8月 24, 2011 at 08:41 午前 | Permalink
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