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2011/08/24

天使が笑って通り過ぎた。

イリヤに、「どこで会おう」とメールをしたら、すぐに返事が来た。

「最近、とにかく信じられないほど印象的なワインバーを見つけたんだ。実際にそこに行かないと、わからないと思うよ。」

続いてイリヤは書いた。

「もっとも、ちょっとしたドレス・コードがあるんだ。アインシュタインのTシャツだと、難しいかもしれない。無地の黒のTシャツならば、何とかなるかもしれないけれどもね。」

私はコンピュータの前で、なぜイリヤは私がアインシュタインのTシャツを着ていると知っているのだろう、と不思議に思った。

夕刻。街で買ったポロシャツを着て向かった。シンガポールとはいえども、少しは涼しくなっている。「パークビュー・スクエアの一階全部がそれだ」とイリアは言っていた。巨大な空間が目に入った。ドアを開けると、イリヤが、テーブルに座ってスマートフォンをいじっているのが見えた。

「やあ!」

見上げると、さまざまな装飾が見えてくる。

「どれも本物のように見えるだろう。ところが、できたのは2002年なんだ。信じられないだろう。どうみても、1920年代の様式だよね。」

ワインを注文すると、天使が飛んだ。天使のかっこうをした女の子が、ワイヤーで上昇していく。目当てのワイン・ボトルが入っている場所まで飛んでいって、それを持って降りてくる。

 上昇する時に、足をト音記号のように組むのが、天使の印らしい。

 ヴィトゲンシュタインの話をした。語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。イリヤが言う。

「ヴィトゲンシュタインの仕事があれほど意味を持ったのは、ちょうど分析哲学が隆盛していった頃だったからだと思うよ。」

「つまり、言語的アプローチの限界を示したという意味において?」

「そう。」

「それじゃあ、ヴィトゲンシュタインと分析哲学との関係は、ゲーデルと形式主義の関係と同じということ?」

「そうとも言えるね。」

自由意志の話をした。

「自由意志はないよね。」

「第一近似においては、そうと言える。」

そこで、イリヤは象の話を持ち出した。

「メタファーとして、象が適切なのではないかと思う。一人ひとりが象を内部に飼っている。象は、自律的に動いていて、乗っている人は、時々その動きを修正できるに過ぎない。このメタファーが有効なのは、何ができて、何ができないかということについて、余計な幻想を抱かせないという点にある。」

「そうすると、さっき出てきた、すべてをコントロールできる仏教の高僧の場合、自分自身が象になっているということ?」

「そうかもしれない。あるいは、象から降りている。」

ふと、空間を見渡した。また、天使が飛んでいる。フラッシュで撮影している人たちがいる。

突然、思いついて、イリヤに聞いた。

「もし、ソクラテスが今生きていたら、何をしていたと思う?」

「コメディアンになっていたと思う。」

「コメディアン?」

「そう、コメディアン。」

天使が笑って通り過ぎた。

ワイングラスが光っている。

8月 24, 2011 at 08:41 午前 |