油断の文化
あるパーティーで、音楽を聴いた。
弦楽4重奏と、ハープ。
曲目の選択が、ミュジーカルやポップスなどのナンバー中心で、いつかは出るかと思った「本格的」な曲は、一つもなかった。
S先生が、サプライズでフルートを吹いた。二曲とも、入門編のクラシック曲だったが、たいへん面白かった。構造が複雑であり、豊かな響きがある。
やはり本物は凄いな、と思うと同時に、「油断の文化」というようなものがあるのだと思い至った。
パーティー終了後、S先生を交えて懇談した。
S先生が、「プロなんだから、曲目の解説も要らないね」とおっしゃった。私は、「そうですね。そういうマーケットがあるということなのでしょう」と応えた。
「油断の文化」がマーケットになっている。
本当は、一つひとつの前で立ち止まらなければならないのだけれども。
学生時代、塩谷賢と話していて、あやつは、「1+1=2」の左の「1」と右の「1」は、どうして同じ「1」なのか、と言った。
百マス計算をこなしている時の人間の脳は、同一律については油断せざるを得ない。
だから、聞き流してしまうようなポピュラー音楽も、本当は、立ち止まると、そこに無限の深淵があるに違いないのだが。
計算が苦手な子どもたちの中には、「1+1=2」の「1」と「1」がどうして同じ「1」なのか、悩んでいるやつもきっといるに違いない、と私は信じさえしている。
S先生ら、児童文学に文化として真剣に取り組んでいた時代の格闘者たちとお話するのは、本当に楽しかった。
今は、「油断の文化」の中、子どもたちがお金儲けの手段になってしまっているのだろう。
8月 21, 2011 at 06:33 午前 | Permalink
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