« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011/08/31

日本にはあるんだ!

マイクをつけて出ていこうとしたら、SHELLYが「もぎさん」と、そでに触れた。

「スティームかけておきましょうか。」

しまった。またばれてしまった。「衣裳」(といっても自前だけれども)のジャケットを、リュックの中にくしゃくしゃ丸めて入れていたのが見つかってしまった。

「この人は、ジャケットでもなんでも、ぐるぐる入れてしわだらけにしてしまうのです。」

SHELLYがジェームズ・ダイソンさんにそう説明している。というか、チクっている。

なんてこった。

スタジオ。ダイソンさんは素晴らしかった。例の「サイクロン」の掃除機は、5500のプロトタイプを作ったそうだ。「羽根のない扇風機」、エアマルティプライヤーは、別の目的のために開発していて、たまたまその原理が見つかったのだそうである。

「ほら、内部のこれが回転して、するとここで早い気流が生じる。すると陰圧になるから、後ろから空気を吸い込むでしょう。吸い込んだ空気が全面に押し出されると、viscous shearを通して、また周囲の空気が巻き込まれる。つまり、三段階にわたって、空気がマルティプライ(増倍)されるのです!」

そうか、三段階にわたって、空気がマルティプライされるのか!

ダイソンさんは、表面的に広告や宣伝を工夫しても、仕方がないという考え方だった。本当に良いものをつくっていないと、意味がない。企業の「ブランド」にも懐疑的だった。

「ブランドには、意味がないと思う。結局、最後に出した商品が好きかどうか、ということだけでしょう。」

SHELLYが深く肯いている。そうだなあ。作家でも、ブランドがあるから読むのではない。小説は、一作ごとに勝負。Appleだって、iPod, iPhone, iPadと出してきた商品ひとつ一つで、消費者は尊敬と愛着を新たにするわけだから。

ダイソンさんのお話で心を動かされたのが、日本の製造業のこと。「ものづくり」がほとんど壊滅状態のイギリスにおいて、ダイソンはほとんど例外と言っていいほどのエッジの立った存在。それに比べて、日本は部品メーカーなどのサプライ・チェーンが充実している。つまり、インフラがある。

必要なのは、エンジニアリングとデザインが一体となったイノベーションの文法。単に「みかけ」の「かっこよさ」や「美しさ」ではなく、背後にある科学や技術がそのまま斬新さにつながる、つまりはダイソンの「サイクロン」掃除機や「エアマルティプライヤー」扇風機のようなものをつくれば、日本のサプライチェーンが生きてくる。みんながうるおう。

ダイソンさんの目を通して見た日本の未来は、明るく輝いているように感じられた。必要なのは、インスパイアされた努力の継続だ。

あるんだよ。必要なものは、日本にあるんだ! たくさんの、町工場たち。おじさんの、輝く瞳。額に光る汗。あるんだ、日本にはあるんだ!

ダイソンさん、ありがとう。

(ダイソンさんとのお話は、日曜深夜のテレビ東京系列の番組 Tokyo Awardで放送される予定です)

http://www.tdwa.com/tv/

8月 31, 2011 at 07:46 午前 |

2011/08/30

カダフィは、湯河原にいた。

集英社の助川夏子さん、サコカメラと取材で湯河原へ。

お世話になった「結唯(ゆい)」は素晴らしい旅館で、床など至るところに木がつかってあって、だんだん裸足で歩くのが快楽になってくる。

ぼくは遅刻して到着。ぺたりぺたり歩いていると、向こうからサコカメラがやってきた。

サコカメラは、カメラマンである。そして、サコカメラは、カダフィである。

私と夏目漱石の唯一の共通点はあだ名をつけるところで、私は出会ってすぐの頃にもうサコカメラはカダフィだと決めていた。ちなみに、助川さんはどことなくロシア人ぽいので、「ナターシャ」である。

もっとも、カダフィといっても、よく見るとそんなに似ているわけではない。ただ、なんとはなしに、どこかの国に独裁者がいたら、こんな感じになるのではないか、と思えるだけである。雰囲気の問題。

カダフィはよく食べる。「うまい、うまい」と食べるので、本当においしく思えてくる。いつも、足りないでナターシャのをがめているのだが、昨日は幸せだった。撮影用に、もう一人分用意されて、それが撮影後はカダフィのものになったからである。

うまい、うまい。

しかし、そのうちに、ぜんぶ二人前食べていたから、さすがにカダフィの勢いも止まった。

「カダフィ、よく逃げてこれたね。」

例によって、軽口をたたく。

「いやあ、大変だったんですよ。」

「それにしても、トリポリから湯河原まで、トンネルが続いていたとは。地球の中を掘ってね。」

「ふふふ。秘密ですよ、茂木さん。」

ナターシャがロシアに思いを馳せるような、遠い目をした。

「茂木さんがそれをブログに書いたら、明日、湯河原にヘリコプターがたくさん飛んできて、大変なんじゃないのですか。」

朝になった。ぼくは、ブログに書いた。カダフィは、湯河原にいた。

ただし、このカダフィは、「うまい、うまい、もう一杯」となぜか日本語を流暢に話す。リビアの人が何語を話しているのか、知らないらしい。

みなさん、こんなカダフィでもいいのでしょうか。

8月 30, 2011 at 05:38 午前 |

2011/08/29

私の秋が始まる。

渋谷方面に抜けようと思って、代々木側から明治神宮の鳥居をくぐった。

静かな参道。愛する静寂。木漏れ日が、「光の道」をつくることもある。しかし今は、両側から繁った葉が、くまなく黒く続いている。

玉砂利を踏みしめながら、考えている実験の条件について考えた。「典型的な歴史」を用意する。その主観的視点を交換すれば、私たちは知らないうちに。。。

気付くと、明るいその方向から、太鼓が聞こえる。近づくと、人影が弾けるように動いている。振りしぼる巨大な旗が見える。

歌声が聞こえてきた。

じんばも ばんばも よう踊る よう踊る
  鳴子両手に よう踊る よう踊る

明るく照らされて、そこだけがまるで天の岩戸の内側から見る太陽のように光っている。

よう踊る。よう踊る。

人は、あまりも予想を超えたものを見ると、呆然としてしまうものだな。

『スーパーよさこい2011』との看板が見えた。

外国人観光客が、口をあんぐりと開けてカメラを向けることさえしない。

踊っている人たちの熱気、その完成度の高さ、そして思いに感染して、すべてを忘れてしまった。

あちらからこちらから、思い思い、そろいの衣裳をつけた人たちが集まってくる。まだまだ、宴は終わらない。

日本は、祭り。ここに、私の秋が始まる。

8月 29, 2011 at 07:56 午前 |

2011/08/28

記憶の迷宮の中から糸をたぐり寄せる

日本テレビ。
高校生クイズ大会の決勝。

予選、準々決勝、準決勝と駒を進めてきた高校生クイズも、いよいよ大詰め。

早押しクイズや、記述式の回答など、さまざまなクイズを解いてきた後の決勝は、「現役東大生正解率1%以下」の超難問に、一分間で回答する。

決勝のクイズを私も彼らといっしょに考えていて、とても面白い体験をした。

通常、クイズは知っているか知らないか。前頭葉で「知っている」(Feeling Of Knowing)の感覚が生じ、側頭連合野に貯えられている情報が引き出されてくる。

Feeling Of Knowingが成立しても、思い出せないことがある。いわゆる「ど忘れ」。知人の名前や、歴代首相の名前が思い出せないケースである。

つまり、クイズに対する脳反応は、三つに分かれる。(1)Feeling of Knowingが成立し、回答できる。(2)Feeling of Knowingが成立するが、ど忘れして回答できない。(3)Feeling of Knowingが成立せず、回答できないと諦める。

「ど忘れ」している場合、それを一分間で思いだそうとするのは脳にとってかなりの負荷であり、いわば、100メートルを全力疾走しているような状態になる。

ところが、「超難問」を一分間で解こうとしている彼らは、さらに高度なことをやっていた。つまり、かすかに「Feeling of Knowing」にもならないような曖昧な感覚を頼りにして、何とか記憶を引きだそうとしていたのである。

知っているか知らないかさえも、わからない問題。しかし、かつてどこかで接したことのある情報かもしれない。そのような時に、はっきりと「これは知っている」というようなかたちでFeeling of Knowingが成立しなくても、切れそうで切れない「記憶の糸」をたどり、一分間で記憶の迷宮の中から何とか「回答」もしくは「回答らしきもの」を引き出してくる。その能力は素晴らしかった。

私も、彼らと「超難問」を一緒に考えているうちに、記憶の迷宮の中から糸をたぐり寄せるその内的感覚の一部を味わうことができた。高校生たちは、いつもそのようなトレーニングを積んでいるのだろう。

榮倉奈々さんは、「知のアスリート」たちの大活躍に目を丸くしてびっくりしていた。

その反応のやわらかさ、素直さが、榮倉さんの人気の秘密なのだと感じた。

8月 28, 2011 at 07:14 午前 |

2011/08/27

稲妻

学生スペースに行くと、イガグリ頭が見える。思わず「プリズン・ブレイク!」と叫びたくなる。

「おい、箆伊、そろそろやるか?」

トークスルー。箆伊の論文が佳境にさしかかってきたので、一度ひととおり話してもらう。そしたら、石川が、「ぼくが聞いてはいけない話ですか・・・」という。

この間合いは、とてもよくわかる。ぼくもそんなことがあったな。今から二十年前のこと。

石川といっしょに箆伊の話を聞いた。反応は、いつ自律になるか。

結局、流動性の最たるものがインスピレーションであり、その瞬間、私たちは最高に確信している。

ケイスケがきた。

そもそも、リベットの実験を考慮すれば、自由意志というのはメタ認知としての意識主体にとっても、いつも突発的な事態として感知されるのであり。だから、外部空間に置かれた自己イメージもまた、そこに突発的なエージェンシーが感じられなければ、ドッペルゲンガーとしては実在性を持たないのであり。

ピカッ!

稲妻が光って、すぐあとにドーンと来た。夏の終わり。いつか聞いたかみなり。

あの時、ぼくは王選手に夢中になっていて、一本足が打席に立つたびに胸をどきどきさせた。

場外ホームランは、突然の稲光。

いつもいつも、ぼくたちは、雷鳴を待っている。ぼくたちは、突発の波の上に乗っている。そして、まどろみは、破られるためにあるのだ。

関根や星野から、野澤の話をきいた。あいつも大変だな。でもきっと、いつかすぐに雷鳴が爽やかな空気を運んできてくれるさ。

そもそも、リベットの実験を考慮すれば、自由意志というのはメタ認知としての意識主体にとっても、いつも突発的な事態として感知されるのであり。

8月 27, 2011 at 08:44 午前 |

2011/08/26

スカイ・ハイ

午後2時30分過ぎ。シンガポール、チャンギ空港。そろそろ、ゲートの方に行かなくちゃ、と歩いていたら、ディスプレイ画面に釘付けになった。

「バタフライ・ガーデン ターミナル3」と書いてある。

搭乗開始予定時刻まで、あと10分。どうしようと、しばらく迷ったが、やっぱり走った。

でも、どこだか分からない。インフォメーションがあったから、そのお姉さんに、「あの〜その〜つまり〜表示板で見たのですが、このターミナルにバタフライ・ガーデンがあるということで。。。。」

大の大人が、バタフライ・ガーデンに興味を持つ、というのがどう思われるかわからなくて、おずおずと切り出したのだが、お姉さんはあっさり教えてくれた。

「そこのコスメティックスを右に曲がるとあります。」


何の表示もないから、不安だったけれども、暗い廊下を歩いていると、向こうの明るいところにちらちらと動く点があった。

間違いなく、バタフライ・ガーデンだ!

入っていくと、「大の大人」がたくさんいた。ひげ面や、リュックを背負っているのや、カップルや。子どもは一人もいない。

充実している。二階もある。何と七十種類以上の蝶が飛んでいるのだという。

お約束のオオゴマダラや、シロチョウ類、タテハチョウ類など目移りしたが、何しろ搭乗時間が迫っている。走った。

飛行機の上。どこにも所属していない時間。私だけに、属しているその時間。目を閉じて、バタフライ・ガーデンのことを思いだしたら、突然音楽が鳴った。

You, You've Blown It All Sky High
Our Love Had Wings To Fly
We Could Have Touched The Sky
You've Blown It All Sky High

中学校最後の文化祭。ぼくは、島村俊和くんと二人で、「蝶の楽園」を作るのだといって、教室を一つ借りた。なにしろぼくは生徒会長だったから、いちばん日当たりの良い教室を手に入れることができた。

前の日、ぼくは島村くんと八幡神社に行って、網をふるい、たくさん蝶をとって虫かごにいれた。何しろ秋だったから、イチモンジセセリやキタテハが多かったかな。

当日。勢い込んで蝶たちを放した。どころが、みんな明るいガラス窓の方に行って、パタパタやり続けている。目論見では、ひらひらと飛び回るはずだったのが、肝心の教室がガランとしている。

ぼくと島村くんはしばらく呆然とその様子を見つめていて、やがて、どちらからともなく、「放そうか」と言い出した。

窓を開けた。蝶たちが、自由を得て外に飛んでいった。

教室には、島村君が当時凝っていた「スカイ・ハイ」がエンドレスで流れていた。
何もない教室。
大音量のスカイ・ハイ。
蝶たちは、てんでんばらばら。
ぼくと島村くんは、呆然と立ち尽くしている。

「お飲み物は何にいたしますか?」

はっとする。戻ってくる。

飛行機の上。どこにも所属していない時間。私だけに、属しているその時間。

空白の時間に、スカイ・ハイが流れる。人生の「スカイ・ハイ」に乾杯する。

8月 26, 2011 at 09:08 午前 |

2011/08/25

最高の贅沢

シンガポール国立大学。エイドリアンや稲蔭さんと楽しい時間を過ごした。

フェリックスが運転して、わいわい動いて、レストランで、みんなで食事。アーノが来た。分けようと思って、ラクサを頼んだら、ひとりで食べていいよとみんなが言う。

「君とぼくのが混ざっちゃうから」
フェリックスがよくわからないことを言って笑ったから、ぼくは仕方がないから「辛いよう」と言いながら全部食べた。

稲蔭さんに、じゃあ行きます、と声をかけて立った。アーノと移動する。アーノたちが作ったJapan Lifeは100万ダウンロードを達成したそうだ。凄いなあ。

イリヤに電話して、また、天使たちのところに行くことにした。稲富さんも来るらしい。

パークビュー・スクエア。バー「Divine」に入ると、アーノがあたりをくるくる見回している。

「まるで1930年代みたいだね。」

「すごい! イリヤも、1920年代だって言っていたよ。ぴったり。」

そもそも、イリヤと会ったのは4年くらい前。パトリシア・チャーチランドのところで神経哲学をやったイリヤ。プラグマティズムや、クオリアや、デネットや、政治や、経済や、いろいろなことについてのイリヤの見解を、ぼくはとても尊重している。

イリヤが来た。アーノが、「ぼくはフランス人だから」とワインを選んだ。

天使が飛ぶ。ワイヤーを自分で操作して、ワインセラーの高いところまで行って、降りてくる。「やっぱり、高級ワインは高いところにあるのかな。」とアーノ。「今日の天使は、かわいいね。」とイリヤ。

いろいろな話をした。アーノが来たおかげで、イリヤが「ゲーマー」だということを知った。オタクのこととか、マニアのこととかふたたび。何が人を幸せにするか、そんな話になった。ぼくは、「知性」が一番の贅沢だと思う、と言った。

「最近はね、いろいろな人に会うでしょ。でも、どんなにお金持ちでも、若くてキレイでも、権力を持っていても、肩書きがあっても、ぜんぜん心が動かない。ぼくはね、本当の意味で知性がある人、そこに心が動く。知性って学力ではないし、学歴でもないし、それはゲームに熱中したり、恋をしたり、失敗したり、でもチューリングの論文を読んで、ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考や後期のを読んだり、プルースト読んだり、とにかくわーっと走って、それで出来上がっていくもの。必ずしも市場で評価されたり、報われたりするわけじゃないから、でもそれが最高の贅沢。知性を自分の中に育てるのが、最高の贅沢。そしたら、時間がいくらあっても足りないよ。ぼくはね、フランスのポストモダニズムの哲学だって、自分で読みたいと思っているほど読めていない。もちろん、フランス語で(アーノが反応する)。こうしてイリヤと話している時間も、知性を養うという意味で、最高の贅沢。別に、明日から生活の何に役立つ、というわけではないけどさ。」

アーノがイリヤに聞いた。

「イリヤ、ケンが言ってたけど、ソクラテスがもし現代に生きていたら、コメディアンになっていたろう、というのはどういう意味だい?」

イリヤが、おでこをてかてかさせた。

「それはそうだと思うよ。見てみて。現代の世界で、タブーに挑戦し、前進的な見方を、それを必ずしも自らも求めようとしない人たちにも提供しているのは誰だと思う。それは、コメディアンだよ。人々と問答し、気づきを与え、タブーを破った、そんなソクラテスは、今ではコメディアン。」

ぼくは、『悦ばしき知識』の中の、「悲劇の時代が終わり、喜劇の時代が来る」というニーチェの予言について思い起こさざるを得なかった。

「それにしても、ニーチェのルサンチマンの概念が、倫理の起源についての現代的視点から見てどのように評価されるか、ゆっくりと考えてみたいなあ。」

Gay Scienceっていう、『悦ばしき知識』の英訳タイトルいいね。

8月 25, 2011 at 10:47 午前 |

2011/08/24

天使が笑って通り過ぎた。

イリヤに、「どこで会おう」とメールをしたら、すぐに返事が来た。

「最近、とにかく信じられないほど印象的なワインバーを見つけたんだ。実際にそこに行かないと、わからないと思うよ。」

続いてイリヤは書いた。

「もっとも、ちょっとしたドレス・コードがあるんだ。アインシュタインのTシャツだと、難しいかもしれない。無地の黒のTシャツならば、何とかなるかもしれないけれどもね。」

私はコンピュータの前で、なぜイリヤは私がアインシュタインのTシャツを着ていると知っているのだろう、と不思議に思った。

夕刻。街で買ったポロシャツを着て向かった。シンガポールとはいえども、少しは涼しくなっている。「パークビュー・スクエアの一階全部がそれだ」とイリアは言っていた。巨大な空間が目に入った。ドアを開けると、イリヤが、テーブルに座ってスマートフォンをいじっているのが見えた。

「やあ!」

見上げると、さまざまな装飾が見えてくる。

「どれも本物のように見えるだろう。ところが、できたのは2002年なんだ。信じられないだろう。どうみても、1920年代の様式だよね。」

ワインを注文すると、天使が飛んだ。天使のかっこうをした女の子が、ワイヤーで上昇していく。目当てのワイン・ボトルが入っている場所まで飛んでいって、それを持って降りてくる。

 上昇する時に、足をト音記号のように組むのが、天使の印らしい。

 ヴィトゲンシュタインの話をした。語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。イリヤが言う。

「ヴィトゲンシュタインの仕事があれほど意味を持ったのは、ちょうど分析哲学が隆盛していった頃だったからだと思うよ。」

「つまり、言語的アプローチの限界を示したという意味において?」

「そう。」

「それじゃあ、ヴィトゲンシュタインと分析哲学との関係は、ゲーデルと形式主義の関係と同じということ?」

「そうとも言えるね。」

自由意志の話をした。

「自由意志はないよね。」

「第一近似においては、そうと言える。」

そこで、イリヤは象の話を持ち出した。

「メタファーとして、象が適切なのではないかと思う。一人ひとりが象を内部に飼っている。象は、自律的に動いていて、乗っている人は、時々その動きを修正できるに過ぎない。このメタファーが有効なのは、何ができて、何ができないかということについて、余計な幻想を抱かせないという点にある。」

「そうすると、さっき出てきた、すべてをコントロールできる仏教の高僧の場合、自分自身が象になっているということ?」

「そうかもしれない。あるいは、象から降りている。」

ふと、空間を見渡した。また、天使が飛んでいる。フラッシュで撮影している人たちがいる。

突然、思いついて、イリヤに聞いた。

「もし、ソクラテスが今生きていたら、何をしていたと思う?」

「コメディアンになっていたと思う。」

「コメディアン?」

「そう、コメディアン。」

天使が笑って通り過ぎた。

ワイングラスが光っている。

8月 24, 2011 at 08:41 午前 |

2011/08/23

至誠は必ず通じる

成田に着く直前まで、ずっと仕事をしていた。

空港についても、郵便局にいったり、プラグを買ったり、シンガポールドルに両替したりとターミナルの中をちょこまか走り回っていた。

落ち着きがない。ブタのわりには敏捷。

やっと飛行機に乗って、Financial TimesとかFortuneのstartupsのIPOに関する記事をぱらぱら読んでいて(yelpって面白いね!)、シートベルトのサインが消えたので、ビデオのリストを見始めたら、あった!

なんと、ワグナーの『神々の黄昏』全曲があった。ズビン・メータ指揮。ヴァレンシアとか、ラ・フラ・デルス・バウスとか、魅力的な名前が並んでいる。

見た。釘つけになった。人仕掛けのリフトやぶら下がりを多用した、舞踏な演出。ブリュンヒルデの人が、さいしょは太いな、と思ったけど、だんだん可愛く見えてきた。ジークフリートの人も良かった。そして、ハーゲンはマッティ・サルミネン。凄いなあ、この人。

結局、人生で信じられるのは、本当に良いものを一生懸命に作るということだけ。市場にも関係なく、同化圧力も意味なく。リブレットを書き、作曲したワグナーその人、スコアを見ずに暗譜で指揮するメータ。歌手の人たち(ここに立つまでに、どれだけの鍛錬をしたことだろう)。合唱の人たち(ソロの主役たちと一緒に並んで、いろいろな想いがあるだろう。それにしても素晴らしいアンサンブル)、そして、演出の人たち。いろいろとぶら下がっていたラ・フラ・デルス・バウスの人たち。

ジークフリートも、二幕の最後の方でブリュンヒルデに糾弾されていた時、「そんなことはないよ」とぶら下がって逆さまになって歌っていた。

そして、最後。ぶら下がった人たちが、飛翔するようなポーズをとる。あれは、もはや古典となったバイロイトにおけるパトリス・シェロー演出の、感動的な群衆処理の、一つの進化形だと思う。重力に抗して。

カーテンコールで、メータとオーケストラがサプライズで舞台に出るまで、ぼくはずっと一緒に拍手をしていた。飛行機の座席で。バカみたい。

ユニテルのプロダクションも編集を含め最高でした。突然予期することなく降ってきた奇跡のような時間。

至誠は必ず通じる。勇気をありがとう。

8月 23, 2011 at 10:24 午前 |

2011/08/22

ハウスをつくること。

帝国ホテルで打ち合わせをしていて、トイレに行こうとしたら、後ろから「茂木さん!」と声をかけられた。

振り返ったら、村治佳織さんがいる。

「あれっ?!」

「昨日スペインから戻ったんです。」

「ここで何をしているのですか?」

「ぼうっとしていたのです。」

今日のニュース。村治佳織さんは、スペインから戻ると、帝国ホテルのロビーでぼうっとしている。

トイレから戻ってくると、もう村治佳織さんはいなかった。

日比谷公園を抜けて、ANAホテルを通って、政策研究大学院大学まで歩いた。

隣りの国立新美術館の建物が、美しく輝いている。

ボクが近づくのを見ると、中にいた学生さんが自動ドアを踏んで開けてくれた。

「わるいわるい。」

ハーバード大学に留学中の小林亮介くんが主催した、日本の高校生のためのliberal artsコース。
http://www.laborders.org/

会場に行くと、たくさんの学生たちがいる。

「ハーバードからは、何人来ているの?」と亮介に聞く。

「20人の学部学生が来ています。」

「20人! よくそんなに来たなあ。お前、偉いよ!」

日本の高校生たちに囲まれた。みんな、好奇心で目をキラキラさせている。

物凄いスピードで、いろいろな話をした。
量子力学のこと、意識のこと、クオリアのこと、日本の未来。日本語と英語の言語政策のこと。カミオカンデのこと。益川敏英さんのこと。英語の勉強の仕方。ピッチの上を、走り続けること。量子計算のこと。計算主義のこと。ヴィトゲンシュタインのこと。ラッセルのこと。

「プログレッシヴ」なマインド・セットに興味を持っているやつがいる。春休みにMITやイェールの授業にもぐりこんだやつらがいる。みんな、スーパー高校生だ。

近くに、ヴァージニア州からハーバードに行ったというジミーと、ニューヨークからハーバードに行ったというアレックスがいた。アレックスに、「なぜコロンビアに行かなかったんだい?」と聞いたら、アレックスは、「コロンビアはハーバードではないから」と言った。

アレックス、亮介、それにジミーといろいろな話をした。オバマ再選の見込み。中東革命。アメリカのティー・パーティーのこと。マーク・ザッカーバーグのこと。ビル・ゲイツのこと。

「いつも、こんなにいろいろな話をしているの?」

「そうです。」

「どこで?」

「ハウスで。ぼくたちのいるのは、キュリエ・ハウスだから。ぼくは神経生物学。彼は政治学専攻で、だけど同じハウスだから、いろいろ話す。」

「ハウスって、イギリスで言えばカレッジみたいなものか。」

「もともと、カレッジのシステムにならって設立されたのです。たいていは誰かの名前がついている。キュリエも同じ。ビル・ゲイツは、キュリエ・ハウスの出身。」

「ビル・ゲイツや、マーク・ザッカーバーグを考えると、ハーバードで最も成功するキャリア・パスは、中退することみたいだね。」

「そうですね。ははははは。」

ぽんぽんと後ろから肩を叩く人がいる。
振り返ると、黒川清先生だった。
黒川先生ほど、若々しくてエネルギッシュな人をなかなか知らない。

物凄いスピードで英語や日本語が飛び交う。愉しい時間はあっという間に過ぎる。

「あっ、もう行かなくちゃ。」

亮介たちが、見送りに来てくれた。

「もともと、去年の日米学生会議の教育分科会でずっとやっていた議論がもとに、開催したのです。」

「偉いな! お前、偉いよ!」

亮介と握手して別れた。

次の用件に向かって、六本木の暗がりを歩く。

人生で大事なのは、ハウスをつくること。

異なるバックグランドの人たちが、大切なこと、本質的なこと、未来につながることについて、語り合う場所をつくること。

ハウスをつくること。

8月 22, 2011 at 07:11 午前 |

2011/08/21

油断の文化

あるパーティーで、音楽を聴いた。
弦楽4重奏と、ハープ。

曲目の選択が、ミュジーカルやポップスなどのナンバー中心で、いつかは出るかと思った「本格的」な曲は、一つもなかった。

S先生が、サプライズでフルートを吹いた。二曲とも、入門編のクラシック曲だったが、たいへん面白かった。構造が複雑であり、豊かな響きがある。

やはり本物は凄いな、と思うと同時に、「油断の文化」というようなものがあるのだと思い至った。

パーティー終了後、S先生を交えて懇談した。
S先生が、「プロなんだから、曲目の解説も要らないね」とおっしゃった。私は、「そうですね。そういうマーケットがあるということなのでしょう」と応えた。

「油断の文化」がマーケットになっている。

本当は、一つひとつの前で立ち止まらなければならないのだけれども。

学生時代、塩谷賢と話していて、あやつは、「1+1=2」の左の「1」と右の「1」は、どうして同じ「1」なのか、と言った。

百マス計算をこなしている時の人間の脳は、同一律については油断せざるを得ない。

だから、聞き流してしまうようなポピュラー音楽も、本当は、立ち止まると、そこに無限の深淵があるに違いないのだが。

計算が苦手な子どもたちの中には、「1+1=2」の「1」と「1」がどうして同じ「1」なのか、悩んでいるやつもきっといるに違いない、と私は信じさえしている。

S先生ら、児童文学に文化として真剣に取り組んでいた時代の格闘者たちとお話するのは、本当に楽しかった。

今は、「油断の文化」の中、子どもたちがお金儲けの手段になってしまっているのだろう。

8月 21, 2011 at 06:33 午前 |

2011/08/20

しゅりんく・ぷりーず。

いつものように地下に降りていった。

打ち合わせが進み、そろそろだというので、リュックの中から白い長袖のシャツを取りだした。

以前に一回着て、洗濯機に放り込んで、そのま
ま出してあったものである。

トイレに行き、水色のTシャツと着替えて、マイクをつけていただき、出ていこうとしたら、SHELLYと目が合った。
その瞬間、SHELLYが、「あっ!」と言った。ぼくは、どきっとした。

「茂木さん、その服、しわしわになっていますよ〜」
確かに、袖のところに皺が出ている。

「もし良かったら、うちのスタイリストさんに、アイロンをかけてもらいましょうか。」

スタイリストさんも後ろからのぞいて、「あ〜」と言っている。

「いや、さっきマイクをつけると大変だったから。」

「面倒くさいですか。」

「うーん。」

「やっぱり、アイロンかけてもらいましょうよ。」

SHELLYの部屋に入ると、メイクの道具がたくさん置いてあった。スタイリストさんが、「スティーマー」を持ってきて、ぷしゅっとスイッチを入れた。

「そでだけ、外してもらえば・・・」

まず、左側が、遠山の金さんになった。「遊び人の金さんだなあ。」
今度は、右。外した袖にぷしゅ、ぷしゅとスティーマーを当てる。熱い蒸気が肩の方に上ってくる。

「ほら、だいぶ皺がなくなりましたよ。」

お礼を言って、スタジオに上がっていった。SHELLYが話し始める。

「今週のTOKYO AWARDは。。。茂木さん、今週は、ファッションがテーマですよ。ファッションと言えば。」

「ぼくの得意分野ですね。。。なわけないでしょ。」

「先ほども、茂木さん、リュックの中から服取りだして、しわしわのまま着ていこうとしていましたね。テレビに出る人なのに。。。」

「うーん。あれは、シュリンク・プリーズというのです。」

ぼくの唯一のファッション・ステートメントは、ジャケットでもシャツでもくるくるにしてリュックの中にしまってしまうということ。

その弱点を、SHELLYに見つかってしまった。

8月 20, 2011 at 07:36 午前 |

2011/08/19

英語の煌めき

 英語は中学から始めたから、さいしょは全てが眩しかった。

 今でこそ、Miss Green is an English teacher.などいう文を、くだらない、などとぶつぶつ言っているが、当時の私がそんなことを考えていたわけではない。

 「三単現のS」などを習った時には、ヘエーと思った。studyなどは、yがiesになるという。何でだよ、と、いちいち反応していた。

 初学者というのはもちろんヘタクソなのだけれども、一方、逆説的に、「英語の煌めき」とでもいうべきものは、いちばん全身に浴びているのではないかと思う。

 15歳で初めてカナダに行ったときもまだまだもたもたしていて、I didn't went to the park。などと言っていた。間違っているとはわかっていても、つい口走りながら、すでにもう「あー」と思っているのである。

 ピアノの、ミスタッチのようなものだろうか。

 そうしたら、面白いことに、ホストファミリーのJim(もちろんネイティヴ・スピーカ−)に、移ってしまって、時折Ken didn't went to the parkなどと口走っていた。

 Jim、ゆったりと笑っていて、楽しそうだったなあ。

 だから、初学者のよたよたの英語は、かえって「英語の煌めき」があって、まぶしいものだと思う。
 まぶしい人たち、がんばれ。

8月 19, 2011 at 07:26 午前 |

2011/08/18

杜子春のまどろみ

 収録が終わったあと、横のインド料理屋で乾杯をした。
 
 ぼくは、まだ行かなくてはならないところがあって、中途半端な気持ちでのビール。植田がどんどん料理を注文するけれども、ぼくは見ているだけで手をつけない。

 みんなが食べている中でひとりだけ食べない。ぼくにしては珍しく、なんだかずいぶんお行儀よい感じがして。お行儀とは、つまり、何かをしない、ということなのだなと思う。

 ある尊敬する作家の言葉に、立食パーティーではものを食べるものではない、ということが書いてあって、ぼくは案外律儀にそれを守っている。もちろん、ごく身内の小さなパーティーは別だけれども、たくさんの人が来るようなパーティーでは、一切手をつけずに、いろいろな方とお話をすることを優先する。

 そんな時に、どなたかが気を利かせて料理をお皿に盛ってきてくださると、かえって面食らってしまうのだ。本当に、もうしわけないことなのだけれども。

 もっとも、これは都内のホテルでのパーティーでの典型であって、どこかに出かけて、その地方の名産をご用意いただいているような場合には、よろこんで食べる。つまり、原理原則は箇条書きできるようなものではなく、その場で判断することなのだろう。

 そんなことが、みんながタンドリーチキンをうまそうに食べているのを見ながら、ビールを飲んだその刹那に思い浮かんだ。

 杜子春のまどろみは人生の至るところにある。

8月 18, 2011 at 07:05 午前 |

2011/08/17

口あんぐりのブタくん

あれやこれやで何だか疲れてしまって、たまたま近くにあった、ブタの線香入れをぼんやりと眺めていた。

口を「あんぐり」と開けていて、両眼を見開いている。ずっとそのままの表情で、作られた時からずっとそのままで。

そして、この店に来てからも、ずっと口をあんぐりと開いたまま、世界を見つめている。いつか、誰かが足をつまづくか何かして、粉々に砕けてしまうまで。

へえ、こんなところに、こんなやつがいるんだな、と思った。オレがここに来る前から、ずっとこいつは口をあんぐり開けていたのだろう。

同じ、原子の配列の問題。世界のやり過ごし方としては、口あんぐりのブタくんは、そんなに悪くないぞ、と思った。

そして、オレは、ここにいる。まあ、あんぐりみたいなもんだよ。

8月 17, 2011 at 06:55 午前 |

2011/08/16

天丼の後悔。

昼下がりのへんな時間帯に、てんぷら屋さんに入った。

銀座のはずれ。休みなしでやっているありがたい店。場所柄、買い物に来たような人々も多い。
それに、常連客。

折しも、初老の男性が入ってきた。「あら、今日は少し遅いですね。」お店の人が声をかける。近くに住む、老舗のダンナかもしれない。

メニューを見る。海老天が二つ着いた普通の天丼と、かき揚げだけの天丼。しばらく迷ったが、かき揚げだけの天丼にした。

思い切りのよさを、褒めてやりたい。

「かき揚げ」こそが、天丼の華だという概念は、自分の中でいつできたのだろう。本郷からずっと白山上に下っていったところにあった「天安」あたりでか。おやじさんが黙って、最後にかき揚げを箸で動かした。天ぷらのフィナーレは、かき揚げ。海老がなくても、かき揚げがあればいい。通ならば、そういうんじゃないかな。

運ばれてきた瞬間に、しまったと思った。かき揚げはおいしい。しかし、それも、海老のぷりぷりという序章があってのこと。いきなりかき揚げが出てきたときに、舌がしんなりしてしまうような気がした。

天丼の後悔。

曖昧な気持ちで街に出た。激烈なる太陽が照らしつけている。中国から来た観光客だろうか、十人くらいが立って、銀座の街並みを熱心に撮影している。

8月 16, 2011 at 06:46 午前 |

2011/08/15

蝶を子どもの頃からやっている人だけに、わかる、アカボシゴマダラが飛んでいるのを見たとき、「これは奇妙だ」という感覚。

日本テレビの桝太一アナウンサーに初めておめにかかった。

立ち話をしていて、「スポーツはしないのですか?」と聞いたら、「ぼく、苦手なんですよ。山登りはするのですが。」との答え。

「どんな感じで?」「いや、昆虫をとったりしていたのですが。」

「昆虫」という言葉に、私の中のセンサーが反応した。

「えっ、どんな昆虫ですか?」

「蝶です。」

「蝶! ぼくと同じじゃないですか! ボク、小学校の時から、日本鱗翅学会に入っていましたっ!」
それからは、桝さんとの怒濤の蝶トーク。志賀昆虫普及社、日野春、ゼフィルス、わーっとしゃべって。桝さんは子どもの頃は蝶の研究をしようと思っていたけれど、東大ではアナゴとアサリの研究をしたらしい。

「歯石で成長曲線がわかるのですよ。」

「最近都内でも、アカボシゴマダラが増えているでしょう。」

「そうなんですよ。徳光さんと、マラソンの練習をしている時に飛んでいて、ぼくが騒いで、徳光さん、アカボシゴマダラですよ、と言っても、ふうん、それ何なの、とわかってもらえなくって。」

蝶を子どもの頃からやっている人だけに、わかる、アカボシゴマダラが飛んでいるのを見たとき、「これは奇妙だ」という感覚。

桝さんと、それを共有できた。

同好の士は、思わぬところにいる。

ライトが当たる。後ろを振り返ると、高校生たちが腕組みをして座っていた。

8月 15, 2011 at 07:30 午前 |

2011/08/14

ラビの散歩

私にとっても、白洲信哉にとっても大切な編集者の奥様が亡くなられたという知らせを受けて、夜、急遽向かった。

白洲信哉といっしょにいた渡辺倫明によると、信哉の声が変わったから、おかしい、と思ったのだという。

信哉は、こんなときにはしゃんとして、頼もしい。駅の近くのセブンイレブンの横にいるから、というので行くと、駐車場の暗がりに、車の中から手を振った。

「近いけど、乗れよ」

座席に腰掛けると、小さな影が足元を動いた。ラビだった。信哉の愛犬。ミニチュア・ダックスフント。

ラビがちょこまか動いているうちに、車は着いた。

挨拶をする。やはり力を落とし、動転されている様子。私は、信哉とともに心をお伝えして、辞した。

川沿いの道。ラビは、ちょこちょこ歩いている。ラビは、何も知らないで、思わず訪れた夜風の散歩を楽しんでいるのだろう。

人生には、「ラビの散歩」みたいなことがときどきあるな。

「じゃあ、次はシンコの会で。それまで会わないでしょう。」と信哉。

「わからないぞ。でも、まあ、さようなら。」

しばらく経って、信哉からメールが来た。

おれはしっかりお前をおくるからな 葬儀委員長引き受けた!じゃあまた

ぼくは、返事をした。

ははは。ありがとう。まだまだいかないよ!

夜風の中を、どこまでも歩いていきたくなった。

8月 14, 2011 at 06:13 午前 |

2011/08/13

かぶく。

ある時、市川海老蔵さんと、「かぶく」について話した。

「自分がこうと決めたことを、まわりがなんと言おうとやり続ける。それが、かぶくということじゃないんですかね」
海老蔵さんはそう言った。

なるほど、と私は思った。

「かぶく」「かぶき者」というと、世間の常識にとらわれず、行動する、時には「悪の華」というような意味合いが感じられるが、大切なのは、貫くべき、一つのことがあるということ。

ならば、私はクオリアでかぶき続けよう。

海老蔵さんによると、「クオリア・ケン」というのは字画的にとてもいい名前なのだそうだ。「クオリア」と「ケン」の間に、「・」が入らなければならない。

8月 13, 2011 at 07:41 午前 |

2011/08/09

「パンツ一丁原人と、マチコ先生。」(不定期連載小説『東京芸大物語』その1)

 夏の松本は、空気の底がさわやかに突き抜けたような、それでいてやはりじりじりした暑さに包まれていた。
 昼下がり。私は、駅前の店で、ブチョー、それにP植田と一緒にラーメンを食べていた。赤味噌と白味噌の間のチョイスだった。幾つかのラーメンは、「休麺中」だった。
 おい、こんな日本語、初めて見たよなあ。
 本当はもうとっくに大町に向けて走っているはずだったのだけれども、一緒に行く予定だった学生たちの乗った高速バスが、大幅に遅れていたのだ。
 やがて、みんながそろった。
 「通過するのに二時間かかるっていうから。一度高速を下ろされたんですよ。」
 そうかそうかと、レンタカー屋さんを出発する。
 両側に緑が広がった、きもちの良い道。車が走るその前方に、カミナリが鳴っている。時折、空が光っている。
 「始まるころになったら、カミナリが鳴り始めるなんて、杉ちゃん、持ってるよなあ。」
 私たちは、杉原信幸がヤマガタさんとやるパフォーマンスを見に、向かっていたのだった。「原始感覚美術祭」の開幕である。
 雲はますます黒くなり、イナヅマは急を告げた。そして、木崎湖に着く頃には、フロントガラスの前が見えないくらいの土砂降りになってしまっていたのだ。
 雨で、声がよく聞こえない。
 「泊まるのは、ここだけど、パフォーマンスをやっているのはどこだろう。」
 もう、杉ちゃんのパフォーマンスは、始まっている時間だ。
 早く行ってあげたい。
 思わず、ドアを開けて飛び出した。
 烈しい雨の中を、集落をあちらこちらと走る。顔からしたたる水が耐えられなくなると、軒下に立ってやり過ごす。
 会場の「Y邸」には、蔵があるらしい。川が流れていて、その向こう側にY邸がある。地図には、そう書いてある。しかし、木崎湖畔の集落は、小さいとは言え、烈雨の中を走るには十分に大きい。途方に暮れた。
 雨にびしょ濡れになるのがいやなのではない。杉ちゃんのパフォーマンスを見てあげられないのが心残りなのだ。
 一体、「Y邸」というのはどこのことなのだろう。
 その時である。
 「うーうーうー。」
 うなるような声が聞こえてきた。
 獣のような、しかし明確な意志を持った、ふだん都会の中では全く聞くことがないような奇妙な叫び声が、雨を衝いて耳に届いてくる。
 「あっ、あっちだ!」
 それだけで確信する。考えてみると、うなり声で、パフォーマンスをどこでやっているかわかるというのは、ちょっとユーモラスではある。Tシャツが胸に張り付いた。泥が跳ね上がる。小さな橋が、水たまりで遮られている。一瞬ひるむ。かまわず走る。
 やがて、一軒の家が見えてきた。人だかりがしている。間口からあふれている。「うーうーうー」といううなり声が、だんだん大きくなっていく。
 「間違いない。ここだ!」
 飛び込むと、土間にへばりついて石をがんがん鳴らしているヤマガタさんが目に入ってきた。
 次第に暗闇に目が慣れてくる。ヤマガタさんが石を叩き続ける、そのシルエットが見える。しかし、杉原はいない。
 「おい、降りてくるぞ」
 誰かが叫んだ。二階から階段で下りてくる男がいる。杉ちゃんが、煤で黒ずんだような顔をして、ぬっと現れた。
 
 「いやあ、杉ちゃんのパフォーマンスを見るのは、久しぶりだったなあ。」
 夕暮れ。雨は上がった。神社に向かう湖畔の道を、P植田と話しながら歩いている。
 杉原信幸は、東京芸大在学中から、凶暴なパフォーマンスをやることで注目されていた。ペインティングや立体の作品にも取り組むのだが、パフォーマンスではよりその個性が際立つのである。バンクアートでやったパフォーマンスでは、全身を迷彩で塗りたくり、最後はパンツ一丁になって夜の横浜を疾走して行った。大学の卒業制作展の最終日には、自分の作品を引きずって上から落として破壊しようとして、警備員さんに後ろから羽交い締めにされた。
 杉ちゃんのパフォーマンスは、途中でも、もちろんいろいろあるのだけれども、とにかく、印象的なのはラスト。最後にパンツ一丁になってどこかに疾走して行ったら、それで終わり、というのが暗黙の約束だった。事前に何も知らされていない観客たちは、いつまで経っても「パンツ一丁原人」が帰って来ないので、それで、「どうやら今ので終わったらしい」とざわざわし始め、やがて三々五々解散していくのである。
 トランス人格への「入り」と、そこからの「出」は、パフォーマンスのいちばん難しいポイントである。最後に、パンツ一丁で走っていくというのは、どんなかたちをとっても照れくさいパフォーマンスの「着地点」のあり方についての、杉ちゃんなりの一つの答えの出し方なのだろう。
 「あのさ、杉原さ、パフォーマンスの時、パンツ一丁で疾走していって、その後はどうなるんだ?」
 私はP植田に尋ねてみた。
 「杉原はですね、30分くらい経つと、照れくさそうに笑いながら戻ってくるのです。」
 P植田は、暑さに赤くなった顔にびっしりと出た汗をタオルで拭きながら答えた。
 まだ、杉ちゃんが真人間になって会場に戻ってくるところを見たことがない。
 
 杉原が、大学を出てしばらくふらふらしたあとで、長野方面に漂着したらしい、という噂はしばらく前に聞いていた。芸術を制作しつつ、「原始」というテーマをスルドク追求しているらしい、という話も伝わってきた。
 木崎湖のほとりで、パンツ一丁原人は、どうやら本気でいろいろとやっているらしかった。家の横に縦穴式住居を作って寝泊まりしたり(「雨が降ってくると参るんですよね」)、土をひっくり返して、縄文土器のかけらを発掘したりもしているらしかった。杉原の家を訪ねたある人は、「いやあ、よく来た、ご馳走するよ」と引き留められるしい。それから、杉原は「ちょっと待ってて」と言って、庭の雑草を抜いてきて、味噌汁や炒め物を作ってくれるのだという。「いやあ、いろいろ食べるとおいしい草があるんだよ。」というのが口癖のようだった。
 杉原は、どうやら地元の人と仲良くやっていて、「原始感覚美術祭」という催しをやっているらしい。しかし、なかなか行けなかった。今年は、杉原が芸術の話をしてくれと呼んでくれた。もちろんよろこんでいくと引き受けた。ついでだから、木崎湖畔の民宿にみんな泊まろう。脳科学の教え子たちと、東京芸大で教えていた頃の仲間たちの合同の合宿にしようと、話が盛り上がった。もともと、みんな仲が良い。杉原の原人ぶりを、ひさしぶりに見てみたい、という気持ち。それは、合宿に参加しているみんなも同じことだった。何しろいろいろなことを一緒に経験しているから、団結心のようなものがある。
  
 神社の境内には舞台があって、マイクがセットされていた。杉ちゃん、P植田、ハトヌマがうろうろしている。文平さんが、ヒッピーのような出で立ちで、ぐわっと座っていた。
 「それじゃあ、始めますか。」
 杉原は、マイクを握ると、急に紳士のような人格になる。
 「そもそも、原始感覚美術祭は・・・」
 杉原の趣旨説明が始まる。
 最初は大人しく聞いていたP植田や、ハトヌマがちょっかいを出し始める。あくまでも、とりまとめ役、アートディレクターとして冷静に話しを続けようとする杉ちゃんにちょっかいを出す。私も次第に熱くなって、ついに爆発した。
 そもそも、「原始感覚っていうのはさ!」
 舞台の上に座った地元のひとたちは、この人たちは何なのだろう、とびっくりしたような顔で見ている。東京芸大で授業をした後で、公園でみんなで飲んでいた、あの頃のことがよみがえる。若かった、あの日々。バカだった、あの頃。芸術とは何か、人生とは何か、あいつら、真剣に考えていたっけな。そして、時は流れ今ぼくたちは。

 その夜。
 民宿のいろりを囲んで、みんなが飲んだ。大役を果たしてほっとしたような表情の杉ちゃんがいる。近所でカルガモ農法をしているヤマモトさんが来ている。
 酔っぱらったP植田が、「まいっちんぐマチコ先生」のマネをし始めた。
 立ち上がり、足を踏みならし、手をぶんぶんと両側に振りながら歌う。「私はマチコ〜」。「私はマチコ〜」。「私はマチコ〜」。
 真っ赤なそら豆のような顔をしたP植田と、マチコ先生は、きっと似ていない。ただ、何とはなしにその迫力に押されてしまう。
 居合わせたみんなが爆笑する。P植田が、ますます調子に乗る。「私はマチコ〜」。「私はマチコ〜」。「私はマチコ〜」。
 夜は更ける。いつまでも、赤いそら豆顔のマチコ先生が踊っている。パンツ一丁原人の杉ちゃんは、いつの間にか消えていた。
(続く)

8月 9, 2011 at 02:17 午後 |