日本の大学入試、英語問題の改革を
京都大学の英語入試が、英文和訳、和文英訳から構成されていることにも象徴されるように、日本の大学入試における英語の問題は、「翻訳」文化を前提にしたものとなっている。
背景には、明治において、大学が西洋文明に追いつけ、追い越せを実践するための「文明の配電盤」として設計され、大学教員の重要な役割の一つが、学問を「翻訳」して「輸入」することにあったということがある。
その結果、「科学」「哲学」「自然」などの多くの「和製漢語」がつくられ、日本語で学問ができるようになった。今日に至るまで、英語を日本語に高精度で訳すプログラムが存在しないことを見てもわかるように、「翻訳」自体は、非常に高度な、創造的な営みである。大学が輸入学問の場であり、大学入試が日本語を介した英語の理解力を要求したことには、一定の意味があったといえよう。
ところが、時代がかわって、インターネット、グローバル化の時代になった。このような時代には、英語をいったん日本語に直して理解、処理していたのでは、スピードが間に合わない。英語で読み、英語で話し、英語で書くという「直接性の原理」の中に自らを投げ込まなければならない。このような時代に、日本の大学の英語の入試は、すっかり時代遅れとなった。
結果として、日本人の英語による発信能力は、国際的に見てきわめて見劣りするものになっている。インターネットの発達により経済が情報化、システム化する中で、従来のように黙ってものづくりをしていれば良い時代ではなくなった。言挙げをしなければ、売れるものも売れない。日本は、その内、売るものが何もないという事態に追い込まれるかもしれない。これは国難である。
大学の入試は、新しい時代に対応して変わらなければならない。もちろん、入試の改革には時間がかかるかもしれない。現状の英語の入試は続けるにせよ、少なくとも、受験生がセンター試験、二次試験の英語問題の代わりにTOEFLなどの標準的な英語能力テストを選択できるようにすべきだと考える。このような改革には、次のような利点がある。
(1)日本の若者の英語能力の構成を、日本語を介した英語理解から、英語でやりとりする直接的なものに変える。
(2)日本の大学が、特に学部レベルにおいてほとんど日本語を母語とする学生しか入らないという意味で「ガラパゴス化」しているのと同様、日本の高校生も、日本の大学にしか行けない「ガラパゴス化」の状態にある。TOEFLなどの標準テストを選択する道を開くことで、英語圏の大学に進むしきい値を下げることができる。その上で、日本の大学に進むことを選ぶならば、そうすれば良い。
(3)国語の試験は、従来通り課してよい。英語力を重視することは、国語力の軽視にはつながらない。むしろ真のバイリンガルを多く育てることが、日本の国益に資する。
(4)英語力のテストとしてTOEFLを採用することで、諸外国からの日本の大学への学部レベルでの留学生を増やすことにつながる。他の入試改革と一体にならなければならないが、少なくとも最初の一歩にはなる。
TOEFLの試験のオペレーションはすでに確立しているので、大学の対応としては、従来型の英語試験とのスコアの対比の数式を決めれば良い。「若干名」を採用する試行期間を経て、本格実施すれば良い。また、入学者の追跡調査をすることで、従来型の英語の入試と、TOEFLで入ってきた学生のその後のパフォーマンスを比較することもできるだろう。
6月 23, 2011 at 09:38 午前 | Permalink
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