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2011/04/07

桜の樹を見ると

夏目房之介さんと講談社で対談した後、フォーシーズンズホテルでお食事をご一緒した。文庫編集部の西川浩史さん、それにライターの三浦愛美さんも同席。

庭を通って行きましょう、という房之介さんの提案で、下っていった。ライトに照らし出されて、桜の樹が見える。

神田川に出ると、桜の樹がいっぱいになった。となりから西川さんがいろいろとちょっかいを出してくるのを「しっ、しっ!」と払いのけながら、しっかりと桜の木々を見ていた。

今年も、桜が満開になった。桜の樹を見ると、なぜか「時間が経ってしまうこと」の凄まじさに気付かされる。

この世で一番恐ろしいことは、時間が強制的に経過してしまうということ。すべての悲劇は、そこに起因する。ところが、そのような強制的な時間の経過や、因果的な法則の支配がなければ、私たち自身の生命が成り立たないのだ。

今年の桜は、どれくらいの人に見てもらえるのだろうか。神田川沿いを歩きながら、いつの間にか心はひとりになっていた。

ふと思い出す。讀賣新聞に初めて書かせていただいたエッセイが、桜に関するものだった。2002年のこと。『脳と仮想』はまだだった。読み返すと、あの頃のことがよみがえる。

「現実と仮想」
茂木健一郎
2002.3.23. 讀賣新聞夕刊 掲載


 毎年、この季節になると落ち着かなくなる。木の芽が吹き、花のつぼみが膨らみ、風が爽やかに薫る。やがて来るもの、まだ形になっていないものへの憧れの気持ちが強くなる。
 脳はもともと、現実に存在しないものをイメージする能力を持っている。
外界からの刺激を受動的に取り入れるだけでない。認識とは、現実(今ここにあるもの)と仮想(今ここにないもの)の出会いであるというのが、脳科学が切り開きつつある人間観である。内なる世界観に基づいて、様々な仮想を自ら作り出す。仮想を世界の上に重ね合わせる。そこに、創造性が立ち現れる。
 昨年の暮のこと。朝一番の飛行機で出張から帰ってきた私は、羽田空港のレストランでカレーライスを食べていた。クリスマスソングが流れていた。隣の席に、家族連れがいた。五歳くらいの女の子が、三歳くらいの女の子に向き直り、次のような質問を発した。
 「ねえ、サンタさんて本当にいると思う?」
 それから、大きい女の子は、サンタの実在性について、自分の考え方を独り言のように話し始めた。
 「私ねえ、サンタさんて、本当は・・・・・だと思うの・・・・・」
 春の気配が深まるにつれ、あの時のことを繰り返し思い出す。
 サンタの本質は仮想である。5歳の女の子にとってのサンタの切実さは、それが現実にはどこにもないということの中にある。あの時、あの女の子は、仮想というものの切実さについて語っていたのだ。
 花見の季節である。桜の花は、何とも言えない質感に満ちている。ほんのりとした色づき、優美な花びらの形。感覚の中にあふれる質感を、現代の脳科学は「クオリア」と呼ぶ。春の空気に触れて心の中に立ち上がるそこはかとない憧れもクオリアである。サンタがプレゼントを持ってくるという予感もクオリアである。五歳の女の子も、私たちも、様々なクオリアのかたまりとして世界を体験している。
 酒を持ってふらりと出かける。満開の桜の木の下に座る。手を叩き、空を見上げる。宴の後、どこか完全には満たされない気持ちが残る。酔いが覚めた後の幻滅だけではない。おそらく、私たちは、仮想を希求する心が現実に肩すかしされてしまったことを感じるのだ。
 それでも、私たちはまた桜の花を見に出かける。
 桜の木に近づく私たちは、サンタのことを思う五歳の女の子と同じように胸を弾ませている。数字にも言葉にもできない、たおやかで繊細で、そして切実なクオリアたちに導かれ、私たちはまた春を迎える。

4月 7, 2011 at 08:25 午前 |