住吉美紀さんの送別会にて
3月でNHKを退職し、4月よりフリーランスとなった住吉美紀さんを、『プロフェッショナル 仕事の流儀』の仲間たちが送別する会が開かれました。
最後に、番組のテーマソングであるProgressを歌い、それから、みんなで記念撮影。
すみきち、ありがとう! これからの活躍をお祈りしています!
住吉美紀さんを囲んで。
4月 27, 2011 at 10:05 午前 | Permalink
3月でNHKを退職し、4月よりフリーランスとなった住吉美紀さんを、『プロフェッショナル 仕事の流儀』の仲間たちが送別する会が開かれました。
最後に、番組のテーマソングであるProgressを歌い、それから、みんなで記念撮影。
すみきち、ありがとう! これからの活躍をお祈りしています!
住吉美紀さんを囲んで。
4月 27, 2011 at 10:05 午前 | Permalink
震災以降、何か気分が変わって、まだその中にいる。
震災前、ぼくは、日本の大学入試のあり方や、新卒一括採用のあり方、記者クラブ、それから、ルールやコンプライアンスを出来損ないの人工知能のように押しつける日本の社会のあり方について、大いに違和感を抱き、そのことを表明してきた。
震災が起こり、みながその対応にかかり切りになった。その時、ルールやコンプライアンスなどを杓子定規に当てはめることが無意味だとみなが気付いた。そのこと自体は良かったけれども、気付いてみると、依然として古い日本の制度は残り、システムは存在し、組織は続いている。
ぼくは二つの意味で無力感にとらわれた。一つは、いくら言葉を尽くしても変わらなかったのに、震災という外部要因であっけなく変わってしまったということ。それから、震災の後も、アンシャン・レジームは化石のように残り続けているということ。
ぼくは次第に、社会の中で意味のわからないシステムや組織が存続し続けている理由は、悪意よりもむしろ単純に「できない」のだと考えるようになった。記者クラブに頼る記者は、それ以外のやり方を知らないのである。ペーパーテストだけに頼る大学入試は、それ以外の手段を尽くす方法もリソースもないのである。新卒一括採用を続ける企業は、それ以外の採用の仕方を知らないし、できないのである。
みんなが目一杯に現場を生きているのだとしたら、その目一杯を超えるのは難しいだろうと思った。変化のためには、結局は、個々人がスキルを上げるしかない。そう思い至った時、ぼくは大乗から小乗になった。
自分にもできないことがある。できていないことがある。ひとりの人間として、できないことをできるように努力することが、結果として、日本の復興や、日本という国が世界において輝きを取り戻すことに貢献するのではないかと思うようになったのである。
4月 25, 2011 at 08:07 午前 | Permalink
先日、夏目房之介さんと対談したとき、興味深いやりとりがあった。周知のように、漱石は凄まじいまでの秀才。それが、留学先のロンドンで精神を病んで、日本に帰り、ふとしたきっかけで書いた『吾輩は猫である』で開放された。小説を書くというたのしみに目覚めた。
それからの漱石の人生は、いうなれば、いかにバカになっていくかということだった。そうじゃないと、人間の苦しみや、悩みや、存在することのやり切れなさなど書けない。学問の塔に籠もっていては、小説に魂を入れることができない。
ステキだな、バカになるということ。
そしたら、房之介さんがいたずらっぽく言った。ぼくは、マンガが好きで、マンガばかり書いていて、大秀才だった漱石とはまったく逆のスタート地点だけど、それを突きつめたら、マンガ学ということになって、いつの間にか大学の教授になって学問を教える立場になってしまったと。
房之介さんほど賢い人を、ぼくは余り知らない。単なる知識とか、計算が速いとか、そういうことではなくて、世界に対するものの見方が深いこと。遠くから響くものに、耳を傾けていること。自分の内側からこみ上げるものと、対話しているということ。
バカになればいい。賢くなればいい。バカになることと、賢くなることは、きっと同じなのだ。そこに生命の運動がある限り。人間である限り。
4月 9, 2011 at 12:39 午後 | Permalink
地震が起こって以来、他のことを何も考えられずに、だから、自分にできることは何だろうと思って、あれは一週間後くらいのことだったか、思い立って、英語で、今回の体験を綴っておこうと思った。
できれば本にしたいと思っている。The Quake Days (仮称)。一部は、英語のブログQualia Journalに掲載している。
津波の甚大の被害。言葉もない。地震以降のことは、すべて、とても気の重いことで、原子力発電所のことなど、日本のシステム、統治機構そのものの見直しが必要で、要するに、日本人のこれまでのマインドセットを根本から自省し、場合によっては作り替えなければならない。
それは、簡単にはできないことだ。
私たちの困難は、しばらくは続く。日本全体が風評被害をも受ける。こんな時は、どうしても気が重くなる。そんな時に、助けになってくれたのは、「踊る」ということだった。
ニーチェのTanzenという概念。意味を問わない。ただ踊る。どうせ時間が経って、みんないつかは死んでしまうんだ。そんなことに悩んでいた思春期に、私を救ってくれたもの。それが、震災から一ヶ月が経とうとしている今、再び私の支えになってくれようとしている。
Tanzen。踊ること。ただ、目の前のことに没入し、全力を尽くすこと。
4月 8, 2011 at 09:13 午前 | Permalink
夏目房之介さんと講談社で対談した後、フォーシーズンズホテルでお食事をご一緒した。文庫編集部の西川浩史さん、それにライターの三浦愛美さんも同席。
庭を通って行きましょう、という房之介さんの提案で、下っていった。ライトに照らし出されて、桜の樹が見える。
神田川に出ると、桜の樹がいっぱいになった。となりから西川さんがいろいろとちょっかいを出してくるのを「しっ、しっ!」と払いのけながら、しっかりと桜の木々を見ていた。
今年も、桜が満開になった。桜の樹を見ると、なぜか「時間が経ってしまうこと」の凄まじさに気付かされる。
この世で一番恐ろしいことは、時間が強制的に経過してしまうということ。すべての悲劇は、そこに起因する。ところが、そのような強制的な時間の経過や、因果的な法則の支配がなければ、私たち自身の生命が成り立たないのだ。
今年の桜は、どれくらいの人に見てもらえるのだろうか。神田川沿いを歩きながら、いつの間にか心はひとりになっていた。
ふと思い出す。讀賣新聞に初めて書かせていただいたエッセイが、桜に関するものだった。2002年のこと。『脳と仮想』はまだだった。読み返すと、あの頃のことがよみがえる。
「現実と仮想」
茂木健一郎
2002.3.23. 讀賣新聞夕刊 掲載
毎年、この季節になると落ち着かなくなる。木の芽が吹き、花のつぼみが膨らみ、風が爽やかに薫る。やがて来るもの、まだ形になっていないものへの憧れの気持ちが強くなる。
脳はもともと、現実に存在しないものをイメージする能力を持っている。
外界からの刺激を受動的に取り入れるだけでない。認識とは、現実(今ここにあるもの)と仮想(今ここにないもの)の出会いであるというのが、脳科学が切り開きつつある人間観である。内なる世界観に基づいて、様々な仮想を自ら作り出す。仮想を世界の上に重ね合わせる。そこに、創造性が立ち現れる。
昨年の暮のこと。朝一番の飛行機で出張から帰ってきた私は、羽田空港のレストランでカレーライスを食べていた。クリスマスソングが流れていた。隣の席に、家族連れがいた。五歳くらいの女の子が、三歳くらいの女の子に向き直り、次のような質問を発した。
「ねえ、サンタさんて本当にいると思う?」
それから、大きい女の子は、サンタの実在性について、自分の考え方を独り言のように話し始めた。
「私ねえ、サンタさんて、本当は・・・・・だと思うの・・・・・」
春の気配が深まるにつれ、あの時のことを繰り返し思い出す。
サンタの本質は仮想である。5歳の女の子にとってのサンタの切実さは、それが現実にはどこにもないということの中にある。あの時、あの女の子は、仮想というものの切実さについて語っていたのだ。
花見の季節である。桜の花は、何とも言えない質感に満ちている。ほんのりとした色づき、優美な花びらの形。感覚の中にあふれる質感を、現代の脳科学は「クオリア」と呼ぶ。春の空気に触れて心の中に立ち上がるそこはかとない憧れもクオリアである。サンタがプレゼントを持ってくるという予感もクオリアである。五歳の女の子も、私たちも、様々なクオリアのかたまりとして世界を体験している。
酒を持ってふらりと出かける。満開の桜の木の下に座る。手を叩き、空を見上げる。宴の後、どこか完全には満たされない気持ちが残る。酔いが覚めた後の幻滅だけではない。おそらく、私たちは、仮想を希求する心が現実に肩すかしされてしまったことを感じるのだ。
それでも、私たちはまた桜の花を見に出かける。
桜の木に近づく私たちは、サンタのことを思う五歳の女の子と同じように胸を弾ませている。数字にも言葉にもできない、たおやかで繊細で、そして切実なクオリアたちに導かれ、私たちはまた春を迎える。
4月 7, 2011 at 08:25 午前 | Permalink
金沢で、「風評被害」の実態を聞いた。ある老舗の温泉旅館は、外国人の予約がことごとくキャンセル。お寿司やさんも、外国からのお客の来店がぴたりと止まったという。
帰りの飛行機で、金沢の「銭屋」で活躍する高木慎一朗さんとご一緒になった。気仙沼に、炊き出しなどのシステムの構築に向かうという高木さん。2週間後にはシンガポールで日本料理を作るのだけれども、素材が一切入って来ないのだという。
「醤油だって、震災前にすでに輸入されていたものしか使えないのです。」
東京の街は、相変わらず暗い。ホテルでは、外国人観光客が皆無に等しいと聞く。
これまで、風評被害についてはいろいろなことを見聞きしてきたが、今は、日本全体がその対象になっている。
自分がその当事者になって見ると、風評被害というのは不当だし、何だか骨身にしみるような気がする。その一方で、上等じゃないか、と反発する気持ちもある。
風評を受けようが何だろうが、肩を寄せ合って団結して何とか切り抜けてみせる。そして、嵐が終わった後には、きっともっと素敵な存在になってよみがえってみせる。
風評の当事者になった時、かえっていろいろなこと、いろいろな人の本質が見えてくるものだと思う。
4月 6, 2011 at 07:20 午前 | Permalink
さが桜マラソンの後で、佐賀新聞の中尾清一郎社長が、唐津に連れていってくださった。
私は、母親を、ずっと小倉出身だと思っていた。先に佐賀を訪れたとき、中尾さんと市内を走っていて、旧姓が「牟田口」だと言ったら、それは佐賀の名字ですね、という。それで、その場で電話して確かめたら、唐津生まれで、小学校の時は佐賀市内にいたことがわかった。
唐津には想い出がある。親戚が、天理教の大きな教会をやっていて、最後に訪れたのは確か小学生の時ではなかったか。「橋を渡ってすぐのところ、丘の上にあったと思うのです。」
そんなことを言っていたら、中尾さんが親切に唐津に連れていってくださった。
大きな教会の建物の中で、子どもだから、走り回ったのを覚えている。木の温もりが感じられる、とても懐かしい空間だった。
唐津に向かう。うとうとしていて、はっと目が覚めると、あれだ、と思う長い橋があった。小学生の時の記憶がよみがえる。確かあのあたりに、と思っていってみると、やっぱりあった。
何かがわきあがってくる。ところが、表札の名字が違う。教会の場所も、道を挟んで逆のような気がする。しかし、小高い丘の頂上にある神社のようなものには見覚えがある。確か、あそこに唐津のおばあちゃんと上ったのではなかったか。
母に電話をかけて確かめてみると、やはりそこだという。母のおばが嫁いで、名字が変わったのだという。私が一緒に山を登った「唐津のおばあちゃん」は、母のおばらしい。
玄関を訪ねた。幸い、お会いすることができた。私のことも覚えていてくださって、その場で母にも電話できた。記憶は正しくて、教会は反対側に立っていたのが、30年前に移築されのだという。
「あの寿司屋さんがある場所あたりに、教会と、家が建っていたのです。」
もう二度と戻らない時間と空間。かすかな手がかり。確か、あの時、山の上で大きなナガサキアゲハを見たっけ。
今、なつかしいその場所で、幼かった私が走り回った夏の残り香をかぐ。
中尾清一郎さんには感謝してもしきれない。やさしい人である。バーでワグナー論議をした。中尾さんほどの教養のある人はなかなかいない。どんなに細かい話でも、見事に剛速球が帰ってくる。
深夜、街を歩きながら、私がイゾルデの「愛の死」を、デタラメに歌っていると、中尾さんがiPadでフルトヴェングラーをかけた。
これはウィーンフィルでしょうか。うねるような、そしてしみ渡るような。
暗い道、明かりになるからと、中尾さんがiPadを下に向けながら歩いた。夜の静寂に聞こえる巨匠の「愛の死」。もう、こんな演奏をする人はいないでしょうね。流れゆく風景。この瞬間は、一生忘れないな、と思った。
4月 4, 2011 at 08:46 午前 | Permalink
大震災が起きて以来、夏目漱石の小説にしばしば出てくる表現を借りれば「頭が悪くなって」、何も考えられなくなった。とりわけ、1月から歩きながらずっと考えてきた意識の問題について、どうしても注意を向けられないでいた。
今、ここで生きるという課題に対して、アカデミックな探求全般が、限られた意義しか持たないように感じられていたのである。
佐賀空港に着陸した時、私は眠っていた。タラップを通ってターミナルに行くとき、ふと左を見ると、大きな赤い夕陽が沈むところだった。
今まで見たことがないほどに巨大に、そうして、生命そのものの色のように染まって。
その瞬間、小林秀雄が、講演の中で、太陽が美しいのはそれ自体が美しいからだと強調していたことを思い出した。「今、ここ」にある神秘。乾ききったひび割れに水がしみ込み、うるおっていくように、忘れていた何かがよみがえってきた。
もう一度、夕陽を見る。もう、変化は起きた。
私は再び、考え始めることができるかもしれない。
植田工が描いてくれた不死鳥の絵のTシャツを着て、佐賀マラソンを走る。10キロの部。全くといいほどトレーニングできていないから、練習のつもりで。
佐賀城址の周囲は桜が咲いている。今日は、薄曇りだ。
4月 3, 2011 at 08:25 午前 | Permalink
東京及びその近郊の電力需給は、今年の夏にかけて、予断を許しません。輪番停電の実施が、23区にも及ぶのではないかと予想されています。
そこで、私、茂木健一郎は、困難な時代に対応するために、今年の夏にかけて、脳回路の「輪番停電」に取り組むことにいたしました。(脳回路においても、電気的活動(「活動膜電位」)が重要なため、「停電」という表現を用いるものです。)
9月までの期間を通して、脳回路の活動レベルを、前年比25%減にまで低下させることを目標とします。
具体的に輪番停電の対象になる脳回路は、たとえば次の通りです。
飲み会での、「ビールもう一杯」回路。
腹の立つニュースに思わず噴火してしまう回路。
カラオケで、尾崎豊の歌を、立ち上がってシャウトしてしまう回路。
「きのこの山」と「たけのこの里」は、お腹の中に入ればほぼ同じなのに、好みがくっきりと分かれるのは何故かと、延々と議論する回路。
輪番停電の具体的なスケジュールについては、脳資源の使用状況を計測しながら、できるだけ速やかに決定する予定です。容量と比較しての、脳資源の使用状況をリアル・タイムで表示する「ブレイン・メーター」(「まだまだ余裕」、「テンパってる」、「いっぱいいっぱい」、「頭真っ白」の4段階を基本とする)も急遽開発中であります。
なお、脳回路の輪番停電を実施しても、生きるために必要なこと、人のためになること、困難なこと、創造的なこと、楽しい気持ちになることについては、引き続き全力で脳資源を投入する所存であります。ここに、みなさまのご理解と、ご協力を切にお願いするものです。
2011年4月1日 茂木健一郎
4月 1, 2011 at 09:30 午前 | Permalink
最近のコメント