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2011/01/21

塩谷賢の『トリスタンとイゾルデ』その3

先日の新国立劇場の『トリスタンとイゾルデ』の上演について、わが畏友、塩谷賢からメールが送られてきたので、ご披露いたします。三通目は、第三幕についてです。


竹富島の海岸で物思いにふける塩谷賢氏。後方に見えるのは池上高志氏。

第三幕は第一幕の双対:ねじれた鏡像とみなすことができる。
第一幕での
ブランゲーネ+イゾルデ=心をコントロールする智慧(魔術)+(意識化された/測られた)心の力
トリスタン+クルヴェナール=心をコントロールする知恵(規範・意味)+(意識化されない/身体の)心の力
という二つのペアの間にある「切れ目」を、イゾルデ→トリスタンという形で横断することで効果が生じたが、
第三幕は、トリスタン→イゾルデという形で「横断」するように進む。だが、両者の対比的な役割・機能によって「横断」の構造も変わってくる。

ところで、「切れ目」(の観念の)構造的な議論は、中村恭子さんの日本画と12月行った国立新美術館のゴッホ展をアナロジーとして展開したもので、まだ発展途上のものなのだが、メルロ−ポンティの「肉」とか画面や記号の「質料」といったことに関連できそうな気がしている。まあ、それはまた別の話だが、、、

まず舞台背後の円、白い月と赤い月もしくは白い月と赤い太陽については第一幕でイゾルデについて触れたが、三幕のトリスタンの独白ではずうっと白い月である。これは「コントロール」の成立する次元・水準にトリスタンがいることを示している。ではどのようなコントロールか?
それは既にクルヴェナールへのコントロールでもなければイゾルデへのコントロール/呪いの歌でもない。
ここでは、第二幕後半で出現した関係、記号的構造、負債構造に根ざした共鳴によるマルケ王~トリスタン~喪の作業をプログラムとしてトリスタンが行う。「プログラム」であるがゆえにコントロールの成立する水準にいるのである。そして一幕及び三幕後半での水面を囲む光の輪が、ここではなくなっている。
囲む光の輪は一幕で述べた「舞台がいつも小さな入り江のようにしつらえられていること」と相関している。
一幕ではクルヴェナールの役割についてこれを見た。またそれはブランゲーネの役割とも関わる。仕方や内容の水準は異なっても、どちらも「局所化」「限定」のイメージである。
しかしここでは輪がない。トリスタンによるプログラムの実行は局所性がない。この場は記号的構造、負債構造が構造・形式としての普遍性をそのまま発揮している場なのである。
そして純粋な力としての「愛」と「死」。これは負債の構造によっては到達不能であり、そこからの派生物、シミュラークルにおいて負債の構造・形式、それが伴う普遍性が際限なく増殖する。だが派生物においては「愛」と「死」の区別は付かない。フロイト(のラカン的読み)がエロスとタナトスが構造的に、無意識の言語と効果では区別できない、としていることは示唆的である。ここでのトリスタンにおいても「死」と「愛」の区別が付かないのである。
すると、ここでの「愛」と「死」は日常的なイメージで納得しているものに留まるべきではない。恋愛、性愛、人類愛、親子愛などといったジャンルのみならずあの人の愛、キリストの愛、サドの愛、諸星あたるの愛、浜崎あゆみの愛、あなたの夫の愛、君の妻への愛etc.といった個々の愛の区別のないのだ。まして愛と死の区別がない。ここで「局所化」「限定」(のイメージ表現)が消えていることは、一幕で述べた、すべての出来事の発生の契機である「ごく当たり前の人の感情・心」のすべてを、事例と概念という二元構造・区別を内包した見方でなく、記号的・負債の構造の普遍性という一元的で一枚岩のような連続したなにものかとして近似することを促していると考えたい。このことはトリスタンが英雄であること、そして愛の女神の生贄であることに繋がっている、それを考えていこう。

まず、牧笛の「嘆きの調べ」は巧妙な装置である。それは嘆きというよりも、あの野原、男の子が思春期に入るころに夢想し、ベルリオーズの幻想交響曲第三楽章で響いた笛の音が聞こえてくる、どこにもないあの野原、それを描き出しているように思う。
この野原は精神分析にアレゴリーをとれば、エディプスにおいて父を殺し、しかし母は禁止されているというダブルバインドのもとで夢想する母への愛、かなえられない、かなえてはいけない愛が埋葬されている野原である。この愛が表に出てしまえば、それは人倫を踏みにじる醜悪で巨大な怪物、カオティックな性の力の地獄の門番ケルベロスのようなものであろう。「埋葬」というと、野原のどこか片隅に埋められた「母への愛」という死体をイメージするだろう。しかしその死体は隠蔽する墓碑銘に過ぎない。美しい幻想の母である。隠されているのは、野原全域で蓋をされた巨大な力のタルタルスなのである。埋葬はまた「力としての死」を死後の状態にすり替えることによって隠蔽している。「愛」と「死」のどちらの力にも到達できない、普通の意味論での言い方での「指示」ができない記号における「愛」と「死」の区別の付かなさを「嘆きの調べ」は示している。
そのこと自体は欠点でもなんでもない。その混同によって生成される感情:ノスタルジーはまた一つのできごとなのだから。現に聴いている我々の心の底のほうまで牧笛の音はしみじみと浸み入ってくるではないか?その「心の底」とは自分の人生の来歴や過去とそれらの幻想などからなる感情の波のさんざめく場を開くことではないか?我々は自分の心の観客にされてしまうのである。

だが、トリスタンが「英雄」たる理由は、この感情、観客であることに留まろうとしないところにある。トリスタンは到達不能な力へ向けて、一枚岩のような連続した記号的・負債の構造の普遍性という形で迫ろうとして生きる。彼は「嘆きの調べ」ではない響きを期待するのだ。(自らそれを奏でたのは、肉体たるジークフリートだった。『指輪』でのブリュンヒルデ:ジークフリート~トリスタン:イゾルデ、むしろブランゲーネ×トリスタン:イゾルデ×クルヴェナールが対応するのだろう。『指輪』では「切れ目」の両極が、×で示したのだが、肥大していて、キャラクターという凝集形態へより接近しているといえる)。
トリスタンは記号的にしか語れない。そしてそれでは力の領域に到達することは構造的にありえない。にもかかわらず彼は、構造の先鋭化・構造への真摯な献身をもって一元的でなにものかとして、記号的構造そのものの上に力を降臨させるかのように語り続ける。その言葉の内容は、「語ること=語られること」「語る行為=語られる内容」「聞くこと=語ること」といった真理・神・イデアといった次元での、つまり真昼の光が照らす仕方でのことなのだが、、、。
この真昼のうちにこそ光の闇があること、それがツァラトゥストラの寓話、ニーチェが感じたことではなかろうか?
そしてトリスタンは自らがその光の闇を作り出さざるを得ない語りをしているのだ。
このように力にいたれない、ある意味で「愛=死」の力が生まれずして死に行く様、それは、あの野原にいる子供が、生まれず(受精せず・発生せず)して死んだ子供であることに、対応している。だが我々は自分がこの子供で「も」ある、と理解して「納得」してしまう。この理解は事例と概念という二元構造と同等である。しかし、トリスタンはその子供たろうとして生きているのである。発生せずして死んだものへと向かって生きてしまう。これが「英雄」の姿、「力」を、決して人間には所有できない力を自らの「本質規定」とする英雄の姿ではなかろうか?
だからこそクルヴェナールが「死に向かって最も雄雄しく生きた」といい、「愛(=死)の女神の生贄」とトリスタンについて述べるのではなかろうか?

ただトリスタンとジークフリードの違いが、トリスタンではこの不可能性は、人間=記号的機能存在という内面構造から生じており、ジークフリードでは人間=運命の中の存在という、外面的いわば偶然/宿命構造から生じるというところにあるのだが。

クルヴェナールによる表現=評言はトリスタンの生き方そのものの記号内表現(re-presentation)であり、言葉の中への囲い込みである。それはトリスタンの力への到達不可能性を、現在への近似に留まることを告げている。(間違っているかもしれないが、クルヴェナールのこの語りは、過去形になっていなかっただろうか?)

しかし、、ここからの独白の後半で、トリスタンはイゾルデへと→を架ける。ここには愛と死の違いへのトリスタンの「肉感」、思考と記憶でしか会えない父と母ではなく、肌を合わせ、膣の中に陰茎を突き立て、それによって彼女の子宮と全身の皮膚へと包み込まれた(であろう)イゾルデとの「愛」の形からやってくる、記号の外への共鳴、正確には共鳴を見まごう「吊橋効果」による相関があると思う。それはイゾルデの逸脱/性=生の具体的なエネルギー/力の効果によってトリスタンに起こった出来事である。

ここのところは僕自分も、まだハッキリつかめていないのだが、「愛」と「死」が「切れ目」によって繋がっている仕方、区別が付かないのではなく、しかし一体の力をなす、というモデル(記号!)が逸脱/エネルギー/効果という、「外部」or「それ以上」「超え出る」といった契機と相即的に出現する、という感じなのである。
そのモデルの一つのイメージとしては、「愛」と「死」が、一体となって、「それ以上」に「超え出る」という生/生成/創造へと関わる「働き」をなす、というものである。もし「働き」を→のイメージで(僕はそれは一つの場合に過ぎないとは思っているが)捉えるならば、「愛」は矢筈であり、矢の幅であり、共鳴の現在、力の発生のモードで、「死」は鏃であり、先端、方向であり、力の吸収、力が力の矢それ自身を超え出て働くモードで示されるようにおもう。
実は、両者を繋ぐ矢柄が問題で、これは普遍性の一枚岩とか、記号構造それ自身とか、いっており、また、矢=陰茎が包まれる膣によって形成される(膣によって陰茎が形作られる!)、男が女の全身で包まれて自分の肉体を得る、などの感じで何とか言おうと考えている。それは共鳴の「近傍」、現在・今かつ現勢態である共鳴における現在・今の潜在勢/逸脱の変分的方向の反映として、ある意味で「愛」と「死」の差異の「切れ目」を横断する、もしくは切れ目が接合であることをしめすなにごとか、としてイメージしている。まあ、それはそれとして、、、

イゾルデへの→を架けること、これは先の述べ方でも分かるように、記号次元での性交、とくにトリスタンからの陰茎の挿入の試みとも考えられる。トリスタンはここで→の鏃、それ自身は「死」の力の契機であったものを、その到達相手、イゾルデの子宮、発生せずして死んだ子供が「孕まれる」あの野原へと同一化むしろ移行させる。そしてそこに生のエネルギーの影、自らの記号的な死における生の幻想を溢れ出させる。ある単純化をすれば、トリスタンは観客の感じた「心の底」の素朴さの模型となる。ここで我々にとってトリスタンが「素直」に「生き生き」と「原初」に帰ったように感じられるようになるのではないか?生身の人間としての感じを強く持つのではなかろうか?トリスタンは歓喜をもって到達不可能な「力」へと、イゾルデへ→を突き入れ包み込まれるという幻想において到達する幻想へと高まっていく。
またこのイメージにはある種の高貴さ、神聖ささえ感じるかもしれない。それは鏃の移行が、またキリストの死と贖い、「一粒の麦、もし死なざれば」と同じ構造を示すからである。種=精子の(自己性の)死による受胎、山崎さんの解説で「「父は私を残して」の原語zeugenは生殖行為のイメージを伴った生々しい語」とあるが、それは、独白前半において「性愛と死の連鎖」なのだろうか?僕は、トリスタンの「心情」を考えての宿命論的な嘆きとして「連鎖」ではなく、構造的に区別が付かないこと、だが、イゾルデとヤッてしまったことが、トリスタンの「肉体や脳」に刻んだ記号の影響として見たい。そしてそれが、独白後半での様々な効果を(とくに観客に対して)生んでいることの方が印象的である。

だが、水を掛けるようなことを言えば、このトリスタンの心の動き/パフォーマンスは、先のほど述べたあの野原の隠蔽を剥ぐことまではしない。むしろ、野原で隠された「力」、さらに言えば、膣壁とすべすべした肌で隠されたイゾルデの心の「力」を隠蔽したままなのである。それは鏃をその対象に移行させてしまったからであり、矢柄の製作に鏃がどのように関わったかを、一枚岩のような連続した記号的・負債の構造の普遍性において追求することをしていないと考えられる。矢柄は心の身体におけるスペクトルにおける外部からの力と関わる形で作られる。膣は様々な襞よりなり、襞の各々に巻き込まれた潜在勢が隠れている、「膣壁」と纏めてしまうのは、統計操作の結果なのである。統計操作は結果において力と表示の記号を混同する効果を生む。(ここについては存在論の場面で応用があると考えている。)
この次元でのイゾルデは受動性の相で見られている。第二幕で述べたように、イゾルデがトリスタンの呪いに捉えられるのは、この受動性の相における力と記号の結果における混同であった。膣壁、肌、として捉えられたイゾルデは、まさに混同を生む。トリスタンはこの受動性のイゾルデ、受動を受け止める面、膣壁、肌に子犬のように甘えている。第一幕で論じたモロルトから受けた傷を治して貰うときの、捨てられた子犬のすがるような姿と同じ水準に立ち帰っている、ともいえる。
トリスタンは面、膣壁、肌、タルタルスに蓋をしているあの野原etc.に依存し、そこからの反響をもって自らの幻想を高揚させる。これはやはり鏡像による言語の構造によって、高揚・インフレーションを起こしているのではないだろうか?父、母、イゾルデ、マルケ王、メロート、、、その他の様々な「愛」が、まさに一枚岩のような連続した記号的・負債の構造の普遍性という生き方によって、鏡像での大他者(L'Autre)において重ね合わされる。
記号の限界を愛と死の違いへの「肉感」によって超えたように思うトリスタン。しかし「肉」が十分に展開されなかったのではないか?肌を破り、膣の襞を押し広げ、タルタルスのあぎとを開く、その牙に噛みしだかれることで自らの肉体でのスペクトルを曝け出す、そのような肉の、情感の身体を記号的心・文字で囲いこんでしまっているのではないか?ブランゲーネの告げ歌としてしか示されなった二人の情交。その描き方の反映、オペラの構成そのものの呪いがトリスタンに襲い掛かってきているのだろうか?
(これはワーグナーの台本構成そのものが演技に介入している、と考えることができる。それは第一幕で論じたように彼自身が「愛」は吊橋効果そのものであることを喝破していることの反映ではないか?)
トリスタンは「肉感」における吊橋効果の構造を突き詰めて記号的構造と対決させることはせずに、鏃の対象へ移行、自分の肉体から放出されるだろう精液への移行によって幻想の作成に向かった。イゾルデへ→を架けることが、彼女を取り込み、記号次元で「実現された」性交とならず、記号次元でのオナニーになってしまっている。
トリスタンは自ら「愛」の力を発揮しようとしない。イゾルデの力への共鳴によって生の残り火が掻き起されているに過ぎない。ちょうど、太陽の光を月が反射するように。白い月が赤く染まっていくのはこの反射のイメージでもある。しかしトリスタンは月であるにとどまる。
彼はイゾルデを再び、(マルケ王の喪の作業を見れば「またしても」=反復)、空の閨房に置き去りにしてしまう。イゾルデの到着を告げるファンファーレ、いよいよ彼女の股が開かれようとするとき、彼はチェリーボーイのようにその影像、反映、幻想だけで、イってしまった。愛と死を隠蔽して等価にしていたあの野原、不在のイゾルデの子宮、母と父の種付けの場、彼が発生せずに死した子として孕まれたところへとイってしまった。

イゾルデの到着。勝手にイカレてしまった女の恨み。到着したときイゾルデは、黒のマントを裏返し、真っ赤な姿になる、立ち戻る。そのとき、赤い月は赤い太陽となり、また光の輪、今度は具体的な接続により拡大をめざす力のフロントとして考えられる光の輪が出現する。イゾルデはその存在においてやはり力の泉であることを示している。(月と太陽の交代は、観客に仕掛けられた罠でもあるのだが。)
イゾルデはトリスタンが「裏切り続けた」と述べる。力の泉であるイゾルデに対し、トリスタンはそれに合するもう一つの泉たろうとは決してしなかった。また泉の奔流が流れ込み吸い取られるスポンジたろうともしなかった。そのどちらでもあろうとして決してどちらにもなれない記号の使用、泉の記号、深淵の記号たろうとはした。(先に述べた英雄的行為)。しかしそれを完遂せず、泉/深淵の記号が記号の泉/深淵となるメタモルフォーゼから逃れ、自らを守ってしまった。そのときイゾルデは受動性のイゾルデとしてトリスタンの死に臨まざるを得なくなってしまった。トリスタンの「裏切り続け」によってイゾルデが自らの本性を裏切り、トリスタンに依存して「愛の死」を迎えてしまう。

トリスタンは「肉感」/吊橋効果という切っ掛けによって、「愛」と「死」、エロスとタナトスの構造的むしろ非・超構造的な区別、外延的で現前へと繋がりうる区別、それは独白の前半において構造としての不可能性によって彼自身においてネガティヴに示唆されていたのだが、その可能性を「見て」しまい、それゆえ自らの「このもの性」(haeccaitas)、記号の足元を守るために、その鏃が自らへと向かわないように、そこから移行=逃げ出した。
その「逃げ出し」に依存しているイゾルデは、自らにおいて存在するこの区別を「見る」ことができない。彼女は記号的構造/負債の構造での到達不可能性ということへ達しない。力の泉たる彼女に負債の構造はないからだ。
イゾルデは負債の構造を二人社会としてのトリスタンとの関係の「愛」においてしか享受しない。しかし、本当に記号のシステム、コミュニケーションとしての二人社会においてイゾルデは自らの心を映しているのだろうか?
このとき、イゾルデにとってのトリスタンはトリスタンにとってのイゾルデなのだろうか?

力の泉としてのイゾルデの「発すること」つまり生における愛:矢筈:現在との同調・吊橋効果によってトリスタンは力への幻想への切っ掛けを得た。彼はイゾルデの面に依存して鏡像面を自らの記号的世界で形成し、力の幻想へと進む。イゾルデの受動性は、この面としての彼女において生ずる。その彼女にとってトリスタンは、心の襞、膣の襞、力の泉の内奥の秘蹟を共有し、力の溢出に立ち会いともに参加するパートナーではない。彼女を面にするような場所、面=限界面を形成する塊、体であるのだ。トリスタンの位置にトリスタンのbody(体/死体)があることが、独白後半のトリスタンに対応する彼女にとってのトリスタンなのだ。
イゾルデがトリスタンにたどり着いたとき、温もりがありながら、トリスタンは一語も発しない。単に瀕死という問題ではない。(そんなこと言っていたらほとんどのオペラは成立しない)。トリスタン「と」イゾルデという二人社会は、二人のために、二人に内在的にあったのではなく、マルケ王、メロート、記号構造へ関わるトリスタンのために内在的にありえただけなのだ。トリスタンにとっての「大他者=汝」の汝は誰なのか?イゾルデは彼が甘える面としてのイゾルデであるが、それは鏡面の一部であり、他者=汝ではない。
(二幕での、二人ではなく一人、を同等のものの融合と見なすのではなく、人称ではなく、社会構造の契機として吸収されている限りで「融合」し、汝=大他者=私(は鏡像)という形で「語るもの」の独白である、と見なすとよく繋がる)
一般社会と言語構造的にやりあうときの、つまりマルケ王の絶望と対峙するときの二人社会の汝はメロートなのだ。語るものとしてそこにいるイゾルデは実は機能的には裏返ったブランゲーネというべきだろう。(だから二人社会を内在的に突き詰めたとしたら、つまりトリスタンが自らの記号的・負債構造のもとで「愛」の力を発揮したのであれば、愛はブランゲーネに及び、記号的・遡及的にかもしれないが、また、フェティッシュやオタク的?行為においてかもしれないが、やはり「乱交」の愛となるはずだったのではなかろうか?
イゾルデは実はトリスタンの二人社会から阻害されていたのである。

一方、イゾルデにとっての二人社会は彼女の振舞いの記述であり、外形の関係、機能的共鳴や力の共有を状態に置き換えて成立する、換諭的な言語である。隠喩の働く負債構造は、面のこちら側、トリスタンからすれば鏡面の彼岸にいる彼女には使用できない。換諭においてトリスタンはトリスタンの物質的・位置的肉塊である。
彼女に突き入る陰茎であり、彼女はその輪郭によって膣壁としての自らに形成される。もし、この構造を彼女が「知って」いたならば、イゾルデは屍姦をしていたはずだ。自らの魔術が魔「力」であることを心底納得していたら、屍姦によってトリスタンを生き返らせる(orゾンビ化させる)ことができておかしくない。
彼の死を嘆くイゾルデは既にブランゲーネの分身・鏡像なのだ。一幕終わりでブランゲーネは力の制御に失敗した。「薬酒」はプラセボであった。力の泉であるイゾルデにとっては吊橋効果のプラセボだった。しかしその双対である第三幕では、鏡映されたブランゲーネであるイゾルデにとって吊橋効果は手の届かないソーマ、幻影の向こうにある神の薬となり、その彼岸への力の吸収、力の落ち込む深淵、つまり死が実際に行える魔「術」となるのである。
イゾルデはこの「術」/記号的操作へと自らを落とし込む。それはいわゆる「死」であるとともに、力の泉が力の深淵と一体である生、トリスタンに「肉感」の吊橋効果を与えた生が壊れ、イゾルデの本性が死する、「記号を超えたものの記号的死(記号に囚われるとともに、その記号が記号としての身分を失うという意味での)」である。イゾルデの「昇天」として、その死の場所を乗っ取るのは、言葉の使用を破壊する言葉の神聖さ、沈黙という最強の言説、キリスト教的構造の「愛」なのである。
ここでショーペンハウエルよりもキルケゴール的な「神のみ前に一人立つ」ということが入ってくるとすると、実はイゾルデとトリスタンは、イゾルデにおいてもすれ違ったままであった、イゾルデにとってトリスタンは自己の消失への切っ掛けであって、ともに死の国において愛を謳歌するパートナーなどではなかった、ということになるだろう。
第一幕でも触れたように、ワーグナーの「愛」は力の強度の吊橋効果そのものであるとの喝破は、「心」の構造/心の「力」の状態=いわゆる「心」による隠蔽構造の、様々な極めて深い水準まで達しているように感じられる。

イゾルデの死において太陽は沈み、闇となる。これは異教的な魔術の世界、ドルイド的な女王の娘イゾルデが死に、その死にキリスト教的な神聖さが取って代わることと見ることもできる。そして心の底に達しようとするキリスト教の宗教的威力の凄まじさをまざまざと見せ付けられるように感じてしまった。

ここでマルケ王とブランゲーネ、クルヴェナールの位置が興味深い。3人ともトリスタンのイってしまうこと、イゾルデの昇天から取り残される。この悲劇は「誤解」によるものか?
なにが「誤解」なのか?正しいことの開示がないことか?実は「誤解」ということで示されているのは、記号構造の体系への具現化、力の社会化、力や行為の内容化といったことどもにおいて発生する、「維持」「持続」「同一性の保証」といったいわば時間的ななにごとかの自然な結果なのである。純粋な力においては、このような個別性、このもの性(haeccaitas)による区別が蹂躙されてしまう。それゆえ力は常に(?この言い方がもう「内容を言う」という形で矛盾を引き出しているが)現在・今なのである。しかし構造、社会、そしてそれらに支えられた多様性、個別的なものによる多は、純粋な力の統合の変化に追いつけない。それらは「維持」/「遅延」をその存在の中核に持っているからである。この間に合わなさを構造、記号の側から述べることが、「痕跡」とか「差延(differance:デリダの造語)」といわれていることだろう。
沈黙の言説は無であるがゆえにその持続はつねに零度でありうる。それゆえ決して遅れない差延、今ここで生成「する」遅れない・残らない痕跡であり、誤解の余地、隙間が入ることがない。これが昇天したキリストであり、既に贖罪がなされて世界が創造されるという(存在論化された)予定調和のなす構造である。「天国の門は狭い」。最後の審判(これは最初の審判/侵犯でもあるのだが)に遅れないものだけがその門をくぐることができる。マルケ王たちは最後の審判で地獄へ行くのではない。彼らは審判そのものから遅れ取り残されるのである。第2幕で述べたマルケ王の「絶望」、死に至れない病の持つ深い絶望、それは返済不可能な負債であり、そもそも負債の根源に至れない、「力」に至れない記号構造の宿命である。彼らは契約/ユダヤ・キリスト教的な構造を体現する諸「社会」の住人・構成要素である。しかしその本質ゆえに彼らは審判・救済の契機から取り残されてしまう。あれほど強力に、しかも隠微に心の底にまで浸入して来るキリスト教的宗教の威力、それにもかかわらずそれが救済につながらないということ、それこそが、そしてそのことに気付かない。

誰にとっての悲劇か?マルケ王の?ブランゲーネ?クルヴェナールの?、だが僕は、「観客」の悲劇でもあり、ワーグナーの悲劇でもある、といいたくなる。
我々はこの劇場時空において結局は取り残され、劇場外時空において「持続」に固執している、そのことを、『トリスタンとイゾルデ』を「理解」し「解釈」し、作品として、知的資源として維持・遅延させようとすること、それ自体が「愛」と「死」、力に対する「誤解」なのではなかろうか?
この見方はキリスト教的神聖さとメフィストフェレスの結びつき、『ファウスト』の事態を脇役においてなさしめる試みとも考えられる。
そして「取り残されること」、「負債の構造を持つこと」は言語の本質的構造である。ただ宗教において「沈黙の言語」、零度の遅延の言語がある。このことは、この構造に関する限り、宗教がニーチェが哲学者に対して言ったのと同じ意味で、より強度の大きなしかたで「詐欺師/道化師」であることを示している。
しかしこの場合の「詐欺師/道化師」は超越・超え出ること、力へ向かっての幻想的希望とともにある。
それがロマン主義の貌でもある。

しかし、この「悲劇」をもたらす、さらに深い絶望は、遅れが必ず存在してしまい、零度の遅れ、超出への幻想ができないような構造である。それは「詐欺/道化」をノーマルの一部に繰り込んでしまう、底の抜けた記号の深淵である。我々の前にはそのモデルとしての「資本・商品」と「デジタルな記号・すべての数値情報化」がすでに置かれている。近代世界の成立とともに既に(ワーグナーを含めた)我々に取り付き、我々を操り、宗教的な力さえも繰り込んでしまった深淵。そのなかに既に我々は棲んでいるのである。

このことは『トリスタンとイゾルデ』において、現在の我々の姿が主人公ではないこと、主人公への同調が実は現在の我々の幻想の作成、我々の「心」の隠蔽である可能性を示唆しているのではなかろうか?

幻想の作成も「心」の隠蔽もそれ自体としては何の問題もない。ただそれしかないならば、やや退屈なことだろう。そして悲劇から眼をそらせるプラセボとして、「心」の薬酒として振舞われるのだろう。

実はこのさらに深き絶望において『トリスタンとイゾルデ』を幻想の過度の作成によるロマン主義の「自己崩壊」において描いたのが『アラベッラ』ではないか、と感じている。R・シュトラウスよりもむしろホフマンスタールの仕掛けだろうと思うが、、、
そしてR・シュトラウスの「使われ方」と、『薔薇の騎士』から『アラベッラ』への移行が『トリスタンとイゾルデ』から『魔笛』への関心の移行などと通常いわれている。そのことが実はワーグナーとモーツァルトの比較を考えると面白いということを示唆している。
長くなったので、この件についてはまた書き直します。

Ken

1月 21, 2011 at 08:04 午前 |