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2011/01/09

塩谷賢の『トリスタンとイゾルデ』その1

今回の新国立劇場の『トリスタンとイゾルデ』の上演について、わが畏友、塩谷賢からメールが送られてきたので、ご披露いたします。一通目は、第一幕についてです。


塩谷賢氏 (2010年1月18日撮影)

to Mogi

28日に新国立の『トリスタンとイゾルデ』に行ってきました。
29日に会えそうにもないので、ちょっと感想を、、、

まずに、「愛」と「死」ってよく使う言葉だけど、じゃあなんなんだ?といわれて、
ハテ?となってしまう。「時間」と似たような言葉である。よく使う言葉であり、その言葉で描写する場面や事態も多々ある。だけど言葉が同じだからといって何か共通本質がある、などという哲学的幻想に依拠するわけにはいかないだろう。
では『トリスタンとイゾルデ』が「「愛」と「死」ってなあに?」という浮世根問いに応えようとしているか?
そんなことは全くない。そんな風に見えること(ワーグナー御得意の台本の書き方?)はあっても、それ自体が一つのパフォーマンス、作品だとみたほうがしっくりくる。
いろいろな解釈は可能だし、そのどれが正しいなどとは余計なことのような気がする。たとえワーグナー本人が自分で意図を語っていたとしても(事実そうかどうかは知らんが)。
そう思わさせるほど、「愛」と「死」はわからないと感じる。
とりあえず一つの感じ方を拾い出してみよう。
もちろん、原作や様々な資料からの制約は一切無視して、この上演からじかに感じ考えた限りのことです。

では第一幕から。
イゾルデがトリスタンを助けたのは、「愛」ゆえなのか?むしろ怪我をしたタヌキや腹をすかせた小犬が庭に迷い込んできたとき、いきなり追い出さずにやさしくしてしまう、そういう素朴な、単純な心の動きだったのではないか?
そして病床で一度は剣を振りかざしながら、それを止めてしまったのは、家で飼っているニワトリを絞めようとしたとき、その直前に猫に負わされた傷を治してやったならば、締めにくくなる。作るのは自分でも食べるのが自分でないとき、そして家族から「ご馳走様」といわれても、代金を貰うわけではないとき、どうしても今日のおかずは鶏鍋でなくてもいいと心のどこかで感じ、メニューを変更する、そんな日常的な感覚とそう遠くないのではないか?
モロルトの敵を討つ。でも賞賛するのは誰だろう?イゾルデは「代金」をもらうのだろうか?「ご馳走様」といわれることの満足感と対して違わないのではないか?それも主客であったはずのモロルト、「代金」を払う男は既にいない食卓の陪食者たちからの、、、。
更なる復讐の連鎖を生むこと以外に復讐の正当な「代金=交換価値」は、そもそもありうるのか?
これらを意識の中で吟味したのではなく、しごく当たり前に心のどこかで感じる素直さにしたがっただけ、そして結果として吟味をしたこと同等であっただけではないだろうか?

トリスタンは病床からイゾルデを値踏みしていたのだろうか?
それはコーンウォールが迫るという切羽詰った状況でのイゾルデの作った一貫性のための後知恵、思考と理解のための物語ではないのだろうか?

トリスタンは、甘える子犬のように、乳をせがむ嬰児のように、自らの弱さを、ただ相手が誰だかも知らずに、そして自分が誰かをしかとは知られていないと思うがゆえに、丸ごと晒したのではないか?
(彼にとって、傷を負ったものが敵の一員である可能性というだけで相手が剣を取り上げてもおかしくはないだろう。そして剣をおろしたのは、それが相手にとっても可能性であり、また自らの素朴な弱さの露呈が相手の素朴な優しさと呼応する気がする、というごく普通の常識で理解できることなのではなかったろうか?

しかし二人の持ったごく当たり前の人の善性、優しさ、素朴な感情は、社会、人間関係、生活、文化etc. そしてそれらを通して、同種のごく当たり前の素朴な感情、さらには自らによって 犠牲にされ、持ち主はその状況に貪り喰われる。イゾルデは、トリスタンを殺さなかったゆえに、自らが人身御供となることになった。ブランゲーネがいう「国中の民が平和に歓喜」していたのは同種の素朴な心の表れであり、それが満たされるためにイゾルデはノブレス・オブリージュとして生贄の地位を引き受けざるをえなかった。それが彼女の自己規定であり、王女としての主たる存在理由のひとつであったから。
トリスタンは当時のよき勝者の振舞い方として、勝者の王と敗者の姫の結婚を、全く素直に提案したのだろう。それは王の個人的な欲望への追従ではなく、和平と両国の輝かしい未来をもたらす、為政者の正しき振舞いを実現するという、道徳と忠誠心にあふれた行為であったろう。
そして使者として王女と対面したとき、トリスタンはなにを感じたか?かってとは逆転して人身御供として締められようとするニワトリに対する料理人のもつ感情だろうか?しかし今回は彼は十分な「代金」を貰う立場である。だとすれば、このような素朴さは発露されず、自分が演出しようとする輝かしい未来図の配役に、かってその素朴さを発揮させる土台となった自らの弱さを露呈してしまった演出者・プロデューサーのたじろぎと気まずさが、マズ去来したのではないか。そしてその気まずさの底に、自らの素朴さが自らを喰い荒らしていると思い至ったときに、初めてイゾルデの人身御供の地位に思いを馳せることが可能になるのではなかろうか。

船の上での両者に共通する根底のものは、ごく当たり前の人の感情・心が無垢のままに世界に存在できない、という不条理の感覚であったのではなかろうか。
これに対する対処、心を持って生きていくための方策は二組によって示される。
ブランゲーネ+イゾルデとトリスタン+クルヴェナール。
ブランゲーネ+イゾルデ=心をコントロールする智慧(魔術)+(意識化された/測られた)心の力
トリスタン+クルヴェナール=心をコントロールする知恵(規範・意味)+(意識化されない/身体の)心の力

やはりワーグナーでは、各キャラクターは全人的な俳優というよりも心の機能のある面・ファクターを特化した顕微鏡のような装置の部品として働いているように思える。

では対処の方策はなにか?
ブランゲーネは魔術によって心の諸力を統御する、それこそ人格・超越論的主観性そのものがそうあって欲しい理想像の片鱗である。それが魔術という形で、そしてこの世で必然的に失敗する、というところに厭世的にデフォルメされたカント的枠組みというショーペンハウエルの思想が対応するようにも思える。
イゾルデは心の力であり、力の泉、限りなく力を溢れ出させる創発の場である。しかし彼女はこのあふれる心の力を復讐に凝集させる。しかしそれは力として測られて世界のアイテムとなるためには意識化される。そして測られた力は、その意識の前提であるノブレス・オブリージュを無視した暴力ではいけない。復讐は単にトリスタンの命を奪うというモロルトの命との等価交換ではなく、イゾルデの存在理由をこの状況下で成立させ維持する、つまりコーンウォールとの和平を守り、そのために捧げられた犠牲である彼女自身の価値をも支払うというインフレーションを起こしている。そのためにトリスタンが不名誉に死なねばならない。しかし彼女も死のうとする。それは心の力であることの持つ素朴さ、彼女が犠牲であることをより大きな価値として成立させねばならないからである。それが「高貴」であること、敗者が勝者に対等であることを示すための手段であるとともに、溢れ続ける力を回収するのは消失の極である死しかこの世には用意されていないからだろう。

もう一方の組の機能対応がトリスタン:ブランゲーネ、クルヴェナール:イゾルデであることに注意しよう。
まずクルヴェナールは素朴な心の力を維持するために、トリスタンとイゾルデが共有する「ごく当たり前の人の感情・心が無垢のままに世界に存在できない、という不条理」が露呈する水準を切り捨てている。心の力の直接的な発露に局在化し、それが漂う流れについて支配しようとせずに流れを受け入れる。イゾルデのように溢れ続け、世界を押し流しかねない力の泉ではない。彼はその力の流れが流入する小さな入り江のように見える。
(このことは、舞台がいつも小さな入り江のようにしつらえられていることと相関しているのかもしれない。)
その入り江の水はトリスタンによって治水される。だからトリスタンは彼にとって主人。皇帝、神であり、彼は家来であり、臣民であり、ヘーゲル的には奴隷であろう。だが弁証法で考えれば、だからこそ彼がいなければトリスタンは英雄足りえず騎士足りえない。
トリスタンの対処の手法は、騎士道的規範、そして騎士道的貴婦人への愛という文学趣味の、言い換えればロマンチシズムのもとに文章化される政治的技法によるコントロールである。それはマルケ王や宮廷、民衆、世間へ向けた内容であり、クルヴェナールに象徴される自身の素朴な感情への支配の手法である。

だが、二組の水準がずれてしまっている。
トリスタン+クルヴェナールはこの世の社会的なありきたりの心の振舞い方、力の抑圧を権威という記号法によっている。この記号法は負債、約束手形の形式、フロイト・ラカンの用語を使えば欲望の言語的構造である。
一方、ブランゲーネ+イゾルデは少なくとも一段高い水準(を目指す位置)にあり、記号法のレベルそのものをイゾルデの(意識化された/測られた)心の力のレベルで相対化してしまっている。
だからコントロールと力がトリスタン+イゾルデという組み合わせでなされるとき、トリスタンの騎士道的規範とその底に沈んでいる心の諸力はイゾルデに見透かされてしまう。彼女の視線を恐れる。そしてその恐れはトリスタンの心の底から力を引き出す。3幕でトリスタンが「彼女は手当てをして/いったんふさいだ傷口を/ふたたびた太刀を使って切り裂いた」というのはここを指しているように思う。
(そして「しかし彼女はいったん振りかざした太刀を・・・」以下は、薬酒を飲んだ後の2幕以降のことを指しているように思える。)
この傷口からトリスタンは、己の心の血を、かって見せてしまった弱さに連なる、彼の規範を根底から覆す弱さの力を溢れ出させる。それをなんとか記号化し、回収するために騎士道の抽象性、ある意味で神学の神の究極性を高めていくのと同じ構造をとる。際限のない不可能性への高揚である。それに伴いイゾルデの高尚さも至高なものへとどんどんとインフレートしていく。イゾルデの視線によって引き起こされるこの際限のない高揚、その形式だけに着目すれば、つまりシニフィアンにのみ定位すれば、そしてそれがトリスタンの意識のありかたなのだが、そうしたときこの高揚は、死の持つ高揚、フロイトがいう第一次過程、Φシステムの絶対のカタルシスと同じものに見えるのである。
そしてその弱さを弱さとして提示することは、またイゾルデの方策、復讐への凝集にも疑義を投げかける。復讐の正当な「代金=交換価値」は、そもそもありうるのか?という問題を突きつけ、彼女のインフレーションを台無しにしてしまうからである。だからトリスタンは「姫が言わなかったことを私も言わない」というのである。彼はそれを知っており、それをいってしまえば、不条理が、いわゆる死、また後で述べる{死の形式」などとは全く次元の異なる不条理に直面してしまうからである。(この不条理は裏ファウストなのか?「時計よ止まれ。世界よ、お前は美しい。」の裏側なのだろうか?)
この台詞が二人の隠されていた「愛」の示唆などとは思えない。ただ後で述べるように、後知恵としてそれは「愛」に見えることになる。

一方、ブランゲーネはコントロールという同種性でトリスタンと会話できる。しかし水準のズレのために、局在化された力であるクルヴェナールをコントロールできない。むしろ局在性の、現実存在によって魔力の権威が貶められている。魔術が力を制御するには、力にそれなりの形式を与えなければならないのだ。

また、この二組は力の動性において対照的である。女性たちの、被支配者、力における能動性・生産性、男性たち、支配者の、力における受動性・依存性。

1幕と3幕で背景にあがる月、白い月と赤い月もしくは白い月と赤い太陽。これはそれぞれコントロールと力の標識になっている。1幕でイゾルデの力が高揚するにつれて赤い円盤は彼女に近く降臨する。彼女の力が状況の切迫とともに高まり、復讐のために、トリスタンの騎士道的方策を打ち破り墜落させるために彼に視線を注ぎ込む。それによってトリスタンにおいて、かの不条理、死のシニフィアンという誘導された高揚する力の記号が強度を増す。その記号の支配、トリスタンの騎士道的回収を相対化するためにイゾルデの力の泉の溢出はますます加速し強化される。
二人の力と力の記号の強度は限界へと切迫し、死でしか対処できなくなる。この死は、トリスタンにとっての記号的な死、ラカンの言葉で言えば到達不可能な原欲望、それへと近づこうとするために生体システムが持たなくなるという全体の構図の破綻であり、イゾルデにとっては溢れ出る力を置くこの世ならぬ場所、入れ物である。
どちらも死そのものの力の話ではない。
そして二人は死のうとする。死においてもそこに至る仕方においても、同一の意味においてではなく、関連するが対蹠的な異なった構造、ある面では双対の構造のもとで。
ブランゲーネはこの力の高まりを、イゾルデの母に由来する偉大な魔術でこの世に留めようとする。それが媚薬であり魔術である。そのためには先に述べたように力にある形式を与えねばならない。それには「愛」という名前が付されていたのである。
(また「死の薬酒」はどのような形式を与えるのか?それは魔術としては明示されず、劇の中へと我々の言う「死」のひとつのイメージとして自然に導入されている。それは「この世ならぬ場所/余地」ではないか?そしてトリスタンにとっては記号の完全な記述、原欲望のパートを書き込むための場所であり、イゾルデにとっては、この世を押し流す圧倒的な力を置く入れ物としての場所である。はたしてこれは「死」そのものの力の水準なのだろうか?)
この「愛」はなにものか?トリスタンのシニフィアン構造での力と死の同一視とは異なる、正に魔術、神秘、言い換えれば偶然による同一視である。いってみれば力の高揚に基づく「吊橋効果」である。
吊橋効果の引き金、原因は「ごく当たり前の人の感情・心が無垢のままに世界に存在できない、という不条理」であり、その同一視のもととなる同一性は「ごく当たり前の人の感情・心」、子犬を哀れみ、ニワトリを絞めるのを躊躇する心の些細な動きである。
「愛」ということを男女間のものとしてとれば、それは、街で「あっ、いい女!」といって惹かれること、「彼の男らしさの中に垣間見られるちょっとした子供っぽいかわいさ」にキュンとなって故意に落ちること、見合い結婚してなんとなく生活をともにして、伴侶として受け入れること、行きずりの一夜でセックスのテクニックに酔い身体がうずいて忘れられないこと、それこそジェットコースターの恐怖感から愛が芽生えることetc.etc.、となんの違いがあるのだろう。
ワーグナーは「愛」はある面で、このような吊橋効果そのものであることを喝破しているのではないか?
それは彼自身が多くの恋に陥った状況でもあるのではないだろうか?
理由付け、正当化、自分への納得などは後知恵であり、愛の全てを明かすことなどない。愛という不可思議なものの一面、すくなくともそれが現実に、つまりこの世に現れるのは、この魔術、吊橋効果によるものなのではなかろうか?
この作品から僕が受けたメッセージ、それは実際のワーグナーの意図したこととは違うかも知れないが、そのひとつは、この大胆な発見である。
(これが「姫が言わなかったことを私も言わない」が「愛」の示唆に見える後知恵の仕組みであろう。)

だが我々はそれに抵抗を感じ、なんとか「愛」の本質、意味を取り出したい、と思ってしまうのではないだろうか?
それがブランゲーネのもつ心の力の制御という形で、我々の自己認識として提示されているのではないか?
だがブランゲーネは測り誤った。二人から噴出する力は、この世の具体的な形式をはるかに凌駕する強度だったのだ。「偶然」はこの世の中に収まる形式ではない。それは形式/記号で書かれうる限りでのこの世を、凌駕してしまうなにごとかを言葉の上だけで捉えたふりをしているに過ぎない。その意味で「愛」の薬酒はプラセボであり、ドニゼッティの『愛の妙薬』のドゥルカマーラの葡萄酒と全く同じ、「愛」の魔術は詐術なのだ。
だから1幕の最後でトリスタンは「愛」の真実の姿(の一面)を歌い上げる。「おお、この偽りの愛よ!」と。


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まだ1幕しか書けてないが時間がない。
とりあえず、ここまでで送信します。

第2幕、第3幕、また別の見方、それは『トリスタンとイゾルデ』、『魔笛』、『アラベッラ』を大雑把に関係付けるのだが、それらはまた後で。

Ken

1月 9, 2011 at 08:36 午前 |