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2011/01/31

おじさん温泉。 承前。

ここまで書いたある冬の日、私は東京駅のホームに立っていた。新幹線「とき」に乗車して、越後湯沢に出かけるのである。

とは言っても、スキーのストックを持っているわけではない。リュックを背負って、きわめて怠惰に、うだうだと歩く。すると、向こうからもうだうだと歩いてくる人がいる。うだうだとうだうだの視線が合うと、さっと目を逸らし、申し合わせたように二号車に乗り込んでいく。

椅子に座って、ふうとため息をつくやつがいる。列車が出る直前に飛び込んでくるやつがいる。ちょっとくたびれたおじさんたちが三々五々。最初は伏し目がちだが、やがて目を合わせてニカッと笑った。

さあ、今年もその時がやって来ました「おじさん温泉」。おじさんというのは、別にそう思っているわけではなくて、他人に言われる前に自分で言ってしまおうというのである。
今年も、自らおじさんと名乗る潔い男たち6名が、上越新幹線「とき」の車内に乗り込んだ。

本来、年末に行うのが吉例となっているのであるが、年末がみな忙しくて年初に流れた。しかし、一月も下旬になると、もう「新年会」という気分ではない。

そもそもおじさん温泉の起源は、科学作家の竹内薫、イラストレーターの井上智陽、そして「おしらさま哲学者」の塩谷賢で、岩手県の花巻にでかけたのが最初だった。竹内は、そのころ、宮澤賢治についての本の準備をしていて、その取材を兼ねていたのである。

以来、その時々にメンバーを変えつつも、「おじさん温泉」は二十年近く続いてきた。一貫したポリシーは、「女人禁制、女の話もするな」。「飲んでもくずれるな、くずれたら寝ちまえ」「他人の布団に入り込むな」「酔い覚めの水は、腰に手を当てて飲め」と、清く正しいおじさんたちの酒宴としての矜恃を保ってきたのである。

軟弱になっていく世の中で、これまで頑なにまで守られてきた「女人禁制」のポリシー。唯一の例外は、竹内薫の妹の、さなみさんが参加した時かもしれない。細面の美人であるさなみさんが参加することで、殺伐たる荒野に一輪の梅がぽっと灯ったような気分になったものである。そして、心なしか、竹内薫の表情も、いつもより柔和になったような気がした。

時代の波に翻弄されつつも、しぶとく続いてきた「おじさん温泉」。近年になってのコアメンバーは、筑摩書房の増田健史、NHK出版の大場旦という「最凶編集者コンビ」。道行く人に「関取ですか!」と声をかけられ、お腹をポンポンと叩かれるという塩谷賢。三年前からは、電通の「乗り物なら何でも」部長、佐々木厚。そしてNHKの「炎のプロデューサー」、有吉伸人が加わった。
この5人に、私を加えた計6名が、「とき」の車内に乗り込んだのである。

いったい、おじさんばかり集まって、何をするというのか。何もしないのである。ただ、温泉に入り、酒を呑み、議論をして、あとは卓球をしたり再び温泉に入ったり、もう一度しつこく酒を呑んでいたりするのである。そして、午前二時くらいになってくると、目がらんらんと輝いて、いよいよ激論が佳境に入るということになる。
 
議論の内容も、「ネグリの帝国概念はウェブの時代にどのように展開されるのか」「日本の後進性は、一周遅れての先進性たり得るか」「意識の問題は、どのように解決され得るのだろうか?」といった真剣なものばかりとは限らない。きわめて下らない、世間の人にとってはどうでも良い話題が盛り上がってこその、おじさん温泉なのである。

あれは数年前、確か修善寺だったか。冬季オリンピックを前にして、「女子フィギュア選手では誰が好きか」という議論になった。私は安藤美姫。大場旦は浅田真央、そして増田健史は中野友加里だと言ってそれぞれ譲らなかった。

「ミキッティが一番かわいいに決まっているだろ。」
「お前には、真央ちゃんの良さがわからないんだ。」
「ゆかりちゃんの、あの笑顔がいいんだよ!」

大場旦も、増田健史も、私も、誰も自分の「イイ!」を主張して、譲らない。かくして、「おじさん温泉」の夜は、むなしい議論のうちに更けていく。

大場旦のあだ名は、「オオバタン」。そのままのようだが、カナカナで書くところに意義がある。また、「旦」という名前については、実は深い悲喜劇の物語があるのであるが、それについては、別の機会に書くこととする。とにかく、オオバタンは、興奮すると、「そんなことはないでしょう」とどんどんテーブルを叩く。その様子が、まるで妖怪のようなので、いつしか「怪奇オオバタン」と呼ばれるようになった。
一方、増田健史のあだ名は、「タケちゃん」、ないしは「タケちゃんマンセブン」。ふだんはタケちゃんだが、煙草を吸ったりしてカッコつけると「タケちゃんマンセブン」となる。かっこつけた時のタケちゃんは、まるでぐれて粋がっている中学生のようである。
信じられないことに、オオバタンもタケちゃんマンセブンも、思想系の硬い本を根城としつつも、さまざまな分野の編集をこなし、いつの間にか、それぞれの会社で、「新書」という時代の最先端を行くセクションの「編集長」を勤めるまで出世してしまった。いったい、世間というものは、どういう場所なのであろうか。

ふだん、つき合う中で、ついつい二人の出世のことを忘れてしまうのであるが、時々、オオバタンもタケちゃんマンセブンも、これではシメシがつかないと思うのであろう。「いつまでもそんな名前で呼ぶな」「オレは編集長なんだ」と思い出したように念を押す。それから、「責任が重いんだ」「エクセルに数字打ち込むの大変なんだ」と額に皺を寄せて、それからため息をつくのだった。

さて、女子フィギュアスケート三選手のうち、どの人が一番良いかという議論は、信じられないことに、ビールから始まり、日本酒、焼酎と次第に深まって、延々と深夜まで続いた。何しろ、当時は、オオバタンもタケちゃんマンセブンもまだ編集長にはなっていない、ヒラの編集者だったから、なかなかに暇だったのである。

「なんと言っても真央ちゃんである!」と叫ぶオオバタンの主張には、迫力があった。もともと、オオバタンには、女の好みの問題になると、必死になるところがある。
 以前、私とオオバタンは、小津安二郎監督の映画に出てくる原節子と杉村春子のどちらがいいか、という問題で激論を交わしたことがある。私が、「何てったって、原節子がいい!」と言うと、「ふふふ。茂木さんは普通だなあ」とオオバタンがあからさまにバカにした。
「そんなことはない! 原節子は永遠である。『麦秋』で、お見合いの話を聞いて帰ってきて、とってもいい人だって、専務さん、おっしゃるのよと言いながらお土産のケーキの包みを縛っていた紐をぽんと投げるところが、何といってもかわいい!」と私が言うと、オオバタンは、
「そんなことはない! 『東京物語』で、笠智衆が夜遅く酒を飲んで帰ってきて、杉村春子が、いやんなっちゃうなあ、いやんなっちゃうなあと言うところがかわいい!」
と言って譲らない。

オオバタンは、「杉村春子がかわいい!」と頑なに主張しながら、ドンドンドンとテーブルを叩いた。そうして、「いやんなっちゃうなあ、いやんなっちゃうなあ」と杉村春子のマネをするのである。
いやんなっちゃうのは、私の方なのである。


おじさん温泉よ永遠に! 一番背景にいるのが私、タオルを巻いている増田健史(タケちゃんマンセブン)、大場旦(オオバタン)。2004年12月。

1月 31, 2011 at 10:57 午前 |

2011/01/21

塩谷賢の『トリスタンとイゾルデ』その3

先日の新国立劇場の『トリスタンとイゾルデ』の上演について、わが畏友、塩谷賢からメールが送られてきたので、ご披露いたします。三通目は、第三幕についてです。


竹富島の海岸で物思いにふける塩谷賢氏。後方に見えるのは池上高志氏。

第三幕は第一幕の双対:ねじれた鏡像とみなすことができる。
第一幕での
ブランゲーネ+イゾルデ=心をコントロールする智慧(魔術)+(意識化された/測られた)心の力
トリスタン+クルヴェナール=心をコントロールする知恵(規範・意味)+(意識化されない/身体の)心の力
という二つのペアの間にある「切れ目」を、イゾルデ→トリスタンという形で横断することで効果が生じたが、
第三幕は、トリスタン→イゾルデという形で「横断」するように進む。だが、両者の対比的な役割・機能によって「横断」の構造も変わってくる。

ところで、「切れ目」(の観念の)構造的な議論は、中村恭子さんの日本画と12月行った国立新美術館のゴッホ展をアナロジーとして展開したもので、まだ発展途上のものなのだが、メルロ−ポンティの「肉」とか画面や記号の「質料」といったことに関連できそうな気がしている。まあ、それはまた別の話だが、、、

まず舞台背後の円、白い月と赤い月もしくは白い月と赤い太陽については第一幕でイゾルデについて触れたが、三幕のトリスタンの独白ではずうっと白い月である。これは「コントロール」の成立する次元・水準にトリスタンがいることを示している。ではどのようなコントロールか?
それは既にクルヴェナールへのコントロールでもなければイゾルデへのコントロール/呪いの歌でもない。
ここでは、第二幕後半で出現した関係、記号的構造、負債構造に根ざした共鳴によるマルケ王~トリスタン~喪の作業をプログラムとしてトリスタンが行う。「プログラム」であるがゆえにコントロールの成立する水準にいるのである。そして一幕及び三幕後半での水面を囲む光の輪が、ここではなくなっている。
囲む光の輪は一幕で述べた「舞台がいつも小さな入り江のようにしつらえられていること」と相関している。
一幕ではクルヴェナールの役割についてこれを見た。またそれはブランゲーネの役割とも関わる。仕方や内容の水準は異なっても、どちらも「局所化」「限定」のイメージである。
しかしここでは輪がない。トリスタンによるプログラムの実行は局所性がない。この場は記号的構造、負債構造が構造・形式としての普遍性をそのまま発揮している場なのである。
そして純粋な力としての「愛」と「死」。これは負債の構造によっては到達不能であり、そこからの派生物、シミュラークルにおいて負債の構造・形式、それが伴う普遍性が際限なく増殖する。だが派生物においては「愛」と「死」の区別は付かない。フロイト(のラカン的読み)がエロスとタナトスが構造的に、無意識の言語と効果では区別できない、としていることは示唆的である。ここでのトリスタンにおいても「死」と「愛」の区別が付かないのである。
すると、ここでの「愛」と「死」は日常的なイメージで納得しているものに留まるべきではない。恋愛、性愛、人類愛、親子愛などといったジャンルのみならずあの人の愛、キリストの愛、サドの愛、諸星あたるの愛、浜崎あゆみの愛、あなたの夫の愛、君の妻への愛etc.といった個々の愛の区別のないのだ。まして愛と死の区別がない。ここで「局所化」「限定」(のイメージ表現)が消えていることは、一幕で述べた、すべての出来事の発生の契機である「ごく当たり前の人の感情・心」のすべてを、事例と概念という二元構造・区別を内包した見方でなく、記号的・負債の構造の普遍性という一元的で一枚岩のような連続したなにものかとして近似することを促していると考えたい。このことはトリスタンが英雄であること、そして愛の女神の生贄であることに繋がっている、それを考えていこう。

まず、牧笛の「嘆きの調べ」は巧妙な装置である。それは嘆きというよりも、あの野原、男の子が思春期に入るころに夢想し、ベルリオーズの幻想交響曲第三楽章で響いた笛の音が聞こえてくる、どこにもないあの野原、それを描き出しているように思う。
この野原は精神分析にアレゴリーをとれば、エディプスにおいて父を殺し、しかし母は禁止されているというダブルバインドのもとで夢想する母への愛、かなえられない、かなえてはいけない愛が埋葬されている野原である。この愛が表に出てしまえば、それは人倫を踏みにじる醜悪で巨大な怪物、カオティックな性の力の地獄の門番ケルベロスのようなものであろう。「埋葬」というと、野原のどこか片隅に埋められた「母への愛」という死体をイメージするだろう。しかしその死体は隠蔽する墓碑銘に過ぎない。美しい幻想の母である。隠されているのは、野原全域で蓋をされた巨大な力のタルタルスなのである。埋葬はまた「力としての死」を死後の状態にすり替えることによって隠蔽している。「愛」と「死」のどちらの力にも到達できない、普通の意味論での言い方での「指示」ができない記号における「愛」と「死」の区別の付かなさを「嘆きの調べ」は示している。
そのこと自体は欠点でもなんでもない。その混同によって生成される感情:ノスタルジーはまた一つのできごとなのだから。現に聴いている我々の心の底のほうまで牧笛の音はしみじみと浸み入ってくるではないか?その「心の底」とは自分の人生の来歴や過去とそれらの幻想などからなる感情の波のさんざめく場を開くことではないか?我々は自分の心の観客にされてしまうのである。

だが、トリスタンが「英雄」たる理由は、この感情、観客であることに留まろうとしないところにある。トリスタンは到達不能な力へ向けて、一枚岩のような連続した記号的・負債の構造の普遍性という形で迫ろうとして生きる。彼は「嘆きの調べ」ではない響きを期待するのだ。(自らそれを奏でたのは、肉体たるジークフリートだった。『指輪』でのブリュンヒルデ:ジークフリート~トリスタン:イゾルデ、むしろブランゲーネ×トリスタン:イゾルデ×クルヴェナールが対応するのだろう。『指輪』では「切れ目」の両極が、×で示したのだが、肥大していて、キャラクターという凝集形態へより接近しているといえる)。
トリスタンは記号的にしか語れない。そしてそれでは力の領域に到達することは構造的にありえない。にもかかわらず彼は、構造の先鋭化・構造への真摯な献身をもって一元的でなにものかとして、記号的構造そのものの上に力を降臨させるかのように語り続ける。その言葉の内容は、「語ること=語られること」「語る行為=語られる内容」「聞くこと=語ること」といった真理・神・イデアといった次元での、つまり真昼の光が照らす仕方でのことなのだが、、、。
この真昼のうちにこそ光の闇があること、それがツァラトゥストラの寓話、ニーチェが感じたことではなかろうか?
そしてトリスタンは自らがその光の闇を作り出さざるを得ない語りをしているのだ。
このように力にいたれない、ある意味で「愛=死」の力が生まれずして死に行く様、それは、あの野原にいる子供が、生まれず(受精せず・発生せず)して死んだ子供であることに、対応している。だが我々は自分がこの子供で「も」ある、と理解して「納得」してしまう。この理解は事例と概念という二元構造と同等である。しかし、トリスタンはその子供たろうとして生きているのである。発生せずして死んだものへと向かって生きてしまう。これが「英雄」の姿、「力」を、決して人間には所有できない力を自らの「本質規定」とする英雄の姿ではなかろうか?
だからこそクルヴェナールが「死に向かって最も雄雄しく生きた」といい、「愛(=死)の女神の生贄」とトリスタンについて述べるのではなかろうか?

ただトリスタンとジークフリードの違いが、トリスタンではこの不可能性は、人間=記号的機能存在という内面構造から生じており、ジークフリードでは人間=運命の中の存在という、外面的いわば偶然/宿命構造から生じるというところにあるのだが。

クルヴェナールによる表現=評言はトリスタンの生き方そのものの記号内表現(re-presentation)であり、言葉の中への囲い込みである。それはトリスタンの力への到達不可能性を、現在への近似に留まることを告げている。(間違っているかもしれないが、クルヴェナールのこの語りは、過去形になっていなかっただろうか?)

しかし、、ここからの独白の後半で、トリスタンはイゾルデへと→を架ける。ここには愛と死の違いへのトリスタンの「肉感」、思考と記憶でしか会えない父と母ではなく、肌を合わせ、膣の中に陰茎を突き立て、それによって彼女の子宮と全身の皮膚へと包み込まれた(であろう)イゾルデとの「愛」の形からやってくる、記号の外への共鳴、正確には共鳴を見まごう「吊橋効果」による相関があると思う。それはイゾルデの逸脱/性=生の具体的なエネルギー/力の効果によってトリスタンに起こった出来事である。

ここのところは僕自分も、まだハッキリつかめていないのだが、「愛」と「死」が「切れ目」によって繋がっている仕方、区別が付かないのではなく、しかし一体の力をなす、というモデル(記号!)が逸脱/エネルギー/効果という、「外部」or「それ以上」「超え出る」といった契機と相即的に出現する、という感じなのである。
そのモデルの一つのイメージとしては、「愛」と「死」が、一体となって、「それ以上」に「超え出る」という生/生成/創造へと関わる「働き」をなす、というものである。もし「働き」を→のイメージで(僕はそれは一つの場合に過ぎないとは思っているが)捉えるならば、「愛」は矢筈であり、矢の幅であり、共鳴の現在、力の発生のモードで、「死」は鏃であり、先端、方向であり、力の吸収、力が力の矢それ自身を超え出て働くモードで示されるようにおもう。
実は、両者を繋ぐ矢柄が問題で、これは普遍性の一枚岩とか、記号構造それ自身とか、いっており、また、矢=陰茎が包まれる膣によって形成される(膣によって陰茎が形作られる!)、男が女の全身で包まれて自分の肉体を得る、などの感じで何とか言おうと考えている。それは共鳴の「近傍」、現在・今かつ現勢態である共鳴における現在・今の潜在勢/逸脱の変分的方向の反映として、ある意味で「愛」と「死」の差異の「切れ目」を横断する、もしくは切れ目が接合であることをしめすなにごとか、としてイメージしている。まあ、それはそれとして、、、

イゾルデへの→を架けること、これは先の述べ方でも分かるように、記号次元での性交、とくにトリスタンからの陰茎の挿入の試みとも考えられる。トリスタンはここで→の鏃、それ自身は「死」の力の契機であったものを、その到達相手、イゾルデの子宮、発生せずして死んだ子供が「孕まれる」あの野原へと同一化むしろ移行させる。そしてそこに生のエネルギーの影、自らの記号的な死における生の幻想を溢れ出させる。ある単純化をすれば、トリスタンは観客の感じた「心の底」の素朴さの模型となる。ここで我々にとってトリスタンが「素直」に「生き生き」と「原初」に帰ったように感じられるようになるのではないか?生身の人間としての感じを強く持つのではなかろうか?トリスタンは歓喜をもって到達不可能な「力」へと、イゾルデへ→を突き入れ包み込まれるという幻想において到達する幻想へと高まっていく。
またこのイメージにはある種の高貴さ、神聖ささえ感じるかもしれない。それは鏃の移行が、またキリストの死と贖い、「一粒の麦、もし死なざれば」と同じ構造を示すからである。種=精子の(自己性の)死による受胎、山崎さんの解説で「「父は私を残して」の原語zeugenは生殖行為のイメージを伴った生々しい語」とあるが、それは、独白前半において「性愛と死の連鎖」なのだろうか?僕は、トリスタンの「心情」を考えての宿命論的な嘆きとして「連鎖」ではなく、構造的に区別が付かないこと、だが、イゾルデとヤッてしまったことが、トリスタンの「肉体や脳」に刻んだ記号の影響として見たい。そしてそれが、独白後半での様々な効果を(とくに観客に対して)生んでいることの方が印象的である。

だが、水を掛けるようなことを言えば、このトリスタンの心の動き/パフォーマンスは、先のほど述べたあの野原の隠蔽を剥ぐことまではしない。むしろ、野原で隠された「力」、さらに言えば、膣壁とすべすべした肌で隠されたイゾルデの心の「力」を隠蔽したままなのである。それは鏃をその対象に移行させてしまったからであり、矢柄の製作に鏃がどのように関わったかを、一枚岩のような連続した記号的・負債の構造の普遍性において追求することをしていないと考えられる。矢柄は心の身体におけるスペクトルにおける外部からの力と関わる形で作られる。膣は様々な襞よりなり、襞の各々に巻き込まれた潜在勢が隠れている、「膣壁」と纏めてしまうのは、統計操作の結果なのである。統計操作は結果において力と表示の記号を混同する効果を生む。(ここについては存在論の場面で応用があると考えている。)
この次元でのイゾルデは受動性の相で見られている。第二幕で述べたように、イゾルデがトリスタンの呪いに捉えられるのは、この受動性の相における力と記号の結果における混同であった。膣壁、肌、として捉えられたイゾルデは、まさに混同を生む。トリスタンはこの受動性のイゾルデ、受動を受け止める面、膣壁、肌に子犬のように甘えている。第一幕で論じたモロルトから受けた傷を治して貰うときの、捨てられた子犬のすがるような姿と同じ水準に立ち帰っている、ともいえる。
トリスタンは面、膣壁、肌、タルタルスに蓋をしているあの野原etc.に依存し、そこからの反響をもって自らの幻想を高揚させる。これはやはり鏡像による言語の構造によって、高揚・インフレーションを起こしているのではないだろうか?父、母、イゾルデ、マルケ王、メロート、、、その他の様々な「愛」が、まさに一枚岩のような連続した記号的・負債の構造の普遍性という生き方によって、鏡像での大他者(L'Autre)において重ね合わされる。
記号の限界を愛と死の違いへの「肉感」によって超えたように思うトリスタン。しかし「肉」が十分に展開されなかったのではないか?肌を破り、膣の襞を押し広げ、タルタルスのあぎとを開く、その牙に噛みしだかれることで自らの肉体でのスペクトルを曝け出す、そのような肉の、情感の身体を記号的心・文字で囲いこんでしまっているのではないか?ブランゲーネの告げ歌としてしか示されなった二人の情交。その描き方の反映、オペラの構成そのものの呪いがトリスタンに襲い掛かってきているのだろうか?
(これはワーグナーの台本構成そのものが演技に介入している、と考えることができる。それは第一幕で論じたように彼自身が「愛」は吊橋効果そのものであることを喝破していることの反映ではないか?)
トリスタンは「肉感」における吊橋効果の構造を突き詰めて記号的構造と対決させることはせずに、鏃の対象へ移行、自分の肉体から放出されるだろう精液への移行によって幻想の作成に向かった。イゾルデへ→を架けることが、彼女を取り込み、記号次元で「実現された」性交とならず、記号次元でのオナニーになってしまっている。
トリスタンは自ら「愛」の力を発揮しようとしない。イゾルデの力への共鳴によって生の残り火が掻き起されているに過ぎない。ちょうど、太陽の光を月が反射するように。白い月が赤く染まっていくのはこの反射のイメージでもある。しかしトリスタンは月であるにとどまる。
彼はイゾルデを再び、(マルケ王の喪の作業を見れば「またしても」=反復)、空の閨房に置き去りにしてしまう。イゾルデの到着を告げるファンファーレ、いよいよ彼女の股が開かれようとするとき、彼はチェリーボーイのようにその影像、反映、幻想だけで、イってしまった。愛と死を隠蔽して等価にしていたあの野原、不在のイゾルデの子宮、母と父の種付けの場、彼が発生せずに死した子として孕まれたところへとイってしまった。

イゾルデの到着。勝手にイカレてしまった女の恨み。到着したときイゾルデは、黒のマントを裏返し、真っ赤な姿になる、立ち戻る。そのとき、赤い月は赤い太陽となり、また光の輪、今度は具体的な接続により拡大をめざす力のフロントとして考えられる光の輪が出現する。イゾルデはその存在においてやはり力の泉であることを示している。(月と太陽の交代は、観客に仕掛けられた罠でもあるのだが。)
イゾルデはトリスタンが「裏切り続けた」と述べる。力の泉であるイゾルデに対し、トリスタンはそれに合するもう一つの泉たろうとは決してしなかった。また泉の奔流が流れ込み吸い取られるスポンジたろうともしなかった。そのどちらでもあろうとして決してどちらにもなれない記号の使用、泉の記号、深淵の記号たろうとはした。(先に述べた英雄的行為)。しかしそれを完遂せず、泉/深淵の記号が記号の泉/深淵となるメタモルフォーゼから逃れ、自らを守ってしまった。そのときイゾルデは受動性のイゾルデとしてトリスタンの死に臨まざるを得なくなってしまった。トリスタンの「裏切り続け」によってイゾルデが自らの本性を裏切り、トリスタンに依存して「愛の死」を迎えてしまう。

トリスタンは「肉感」/吊橋効果という切っ掛けによって、「愛」と「死」、エロスとタナトスの構造的むしろ非・超構造的な区別、外延的で現前へと繋がりうる区別、それは独白の前半において構造としての不可能性によって彼自身においてネガティヴに示唆されていたのだが、その可能性を「見て」しまい、それゆえ自らの「このもの性」(haeccaitas)、記号の足元を守るために、その鏃が自らへと向かわないように、そこから移行=逃げ出した。
その「逃げ出し」に依存しているイゾルデは、自らにおいて存在するこの区別を「見る」ことができない。彼女は記号的構造/負債の構造での到達不可能性ということへ達しない。力の泉たる彼女に負債の構造はないからだ。
イゾルデは負債の構造を二人社会としてのトリスタンとの関係の「愛」においてしか享受しない。しかし、本当に記号のシステム、コミュニケーションとしての二人社会においてイゾルデは自らの心を映しているのだろうか?
このとき、イゾルデにとってのトリスタンはトリスタンにとってのイゾルデなのだろうか?

力の泉としてのイゾルデの「発すること」つまり生における愛:矢筈:現在との同調・吊橋効果によってトリスタンは力への幻想への切っ掛けを得た。彼はイゾルデの面に依存して鏡像面を自らの記号的世界で形成し、力の幻想へと進む。イゾルデの受動性は、この面としての彼女において生ずる。その彼女にとってトリスタンは、心の襞、膣の襞、力の泉の内奥の秘蹟を共有し、力の溢出に立ち会いともに参加するパートナーではない。彼女を面にするような場所、面=限界面を形成する塊、体であるのだ。トリスタンの位置にトリスタンのbody(体/死体)があることが、独白後半のトリスタンに対応する彼女にとってのトリスタンなのだ。
イゾルデがトリスタンにたどり着いたとき、温もりがありながら、トリスタンは一語も発しない。単に瀕死という問題ではない。(そんなこと言っていたらほとんどのオペラは成立しない)。トリスタン「と」イゾルデという二人社会は、二人のために、二人に内在的にあったのではなく、マルケ王、メロート、記号構造へ関わるトリスタンのために内在的にありえただけなのだ。トリスタンにとっての「大他者=汝」の汝は誰なのか?イゾルデは彼が甘える面としてのイゾルデであるが、それは鏡面の一部であり、他者=汝ではない。
(二幕での、二人ではなく一人、を同等のものの融合と見なすのではなく、人称ではなく、社会構造の契機として吸収されている限りで「融合」し、汝=大他者=私(は鏡像)という形で「語るもの」の独白である、と見なすとよく繋がる)
一般社会と言語構造的にやりあうときの、つまりマルケ王の絶望と対峙するときの二人社会の汝はメロートなのだ。語るものとしてそこにいるイゾルデは実は機能的には裏返ったブランゲーネというべきだろう。(だから二人社会を内在的に突き詰めたとしたら、つまりトリスタンが自らの記号的・負債構造のもとで「愛」の力を発揮したのであれば、愛はブランゲーネに及び、記号的・遡及的にかもしれないが、また、フェティッシュやオタク的?行為においてかもしれないが、やはり「乱交」の愛となるはずだったのではなかろうか?
イゾルデは実はトリスタンの二人社会から阻害されていたのである。

一方、イゾルデにとっての二人社会は彼女の振舞いの記述であり、外形の関係、機能的共鳴や力の共有を状態に置き換えて成立する、換諭的な言語である。隠喩の働く負債構造は、面のこちら側、トリスタンからすれば鏡面の彼岸にいる彼女には使用できない。換諭においてトリスタンはトリスタンの物質的・位置的肉塊である。
彼女に突き入る陰茎であり、彼女はその輪郭によって膣壁としての自らに形成される。もし、この構造を彼女が「知って」いたならば、イゾルデは屍姦をしていたはずだ。自らの魔術が魔「力」であることを心底納得していたら、屍姦によってトリスタンを生き返らせる(orゾンビ化させる)ことができておかしくない。
彼の死を嘆くイゾルデは既にブランゲーネの分身・鏡像なのだ。一幕終わりでブランゲーネは力の制御に失敗した。「薬酒」はプラセボであった。力の泉であるイゾルデにとっては吊橋効果のプラセボだった。しかしその双対である第三幕では、鏡映されたブランゲーネであるイゾルデにとって吊橋効果は手の届かないソーマ、幻影の向こうにある神の薬となり、その彼岸への力の吸収、力の落ち込む深淵、つまり死が実際に行える魔「術」となるのである。
イゾルデはこの「術」/記号的操作へと自らを落とし込む。それはいわゆる「死」であるとともに、力の泉が力の深淵と一体である生、トリスタンに「肉感」の吊橋効果を与えた生が壊れ、イゾルデの本性が死する、「記号を超えたものの記号的死(記号に囚われるとともに、その記号が記号としての身分を失うという意味での)」である。イゾルデの「昇天」として、その死の場所を乗っ取るのは、言葉の使用を破壊する言葉の神聖さ、沈黙という最強の言説、キリスト教的構造の「愛」なのである。
ここでショーペンハウエルよりもキルケゴール的な「神のみ前に一人立つ」ということが入ってくるとすると、実はイゾルデとトリスタンは、イゾルデにおいてもすれ違ったままであった、イゾルデにとってトリスタンは自己の消失への切っ掛けであって、ともに死の国において愛を謳歌するパートナーなどではなかった、ということになるだろう。
第一幕でも触れたように、ワーグナーの「愛」は力の強度の吊橋効果そのものであるとの喝破は、「心」の構造/心の「力」の状態=いわゆる「心」による隠蔽構造の、様々な極めて深い水準まで達しているように感じられる。

イゾルデの死において太陽は沈み、闇となる。これは異教的な魔術の世界、ドルイド的な女王の娘イゾルデが死に、その死にキリスト教的な神聖さが取って代わることと見ることもできる。そして心の底に達しようとするキリスト教の宗教的威力の凄まじさをまざまざと見せ付けられるように感じてしまった。

ここでマルケ王とブランゲーネ、クルヴェナールの位置が興味深い。3人ともトリスタンのイってしまうこと、イゾルデの昇天から取り残される。この悲劇は「誤解」によるものか?
なにが「誤解」なのか?正しいことの開示がないことか?実は「誤解」ということで示されているのは、記号構造の体系への具現化、力の社会化、力や行為の内容化といったことどもにおいて発生する、「維持」「持続」「同一性の保証」といったいわば時間的ななにごとかの自然な結果なのである。純粋な力においては、このような個別性、このもの性(haeccaitas)による区別が蹂躙されてしまう。それゆえ力は常に(?この言い方がもう「内容を言う」という形で矛盾を引き出しているが)現在・今なのである。しかし構造、社会、そしてそれらに支えられた多様性、個別的なものによる多は、純粋な力の統合の変化に追いつけない。それらは「維持」/「遅延」をその存在の中核に持っているからである。この間に合わなさを構造、記号の側から述べることが、「痕跡」とか「差延(differance:デリダの造語)」といわれていることだろう。
沈黙の言説は無であるがゆえにその持続はつねに零度でありうる。それゆえ決して遅れない差延、今ここで生成「する」遅れない・残らない痕跡であり、誤解の余地、隙間が入ることがない。これが昇天したキリストであり、既に贖罪がなされて世界が創造されるという(存在論化された)予定調和のなす構造である。「天国の門は狭い」。最後の審判(これは最初の審判/侵犯でもあるのだが)に遅れないものだけがその門をくぐることができる。マルケ王たちは最後の審判で地獄へ行くのではない。彼らは審判そのものから遅れ取り残されるのである。第2幕で述べたマルケ王の「絶望」、死に至れない病の持つ深い絶望、それは返済不可能な負債であり、そもそも負債の根源に至れない、「力」に至れない記号構造の宿命である。彼らは契約/ユダヤ・キリスト教的な構造を体現する諸「社会」の住人・構成要素である。しかしその本質ゆえに彼らは審判・救済の契機から取り残されてしまう。あれほど強力に、しかも隠微に心の底にまで浸入して来るキリスト教的宗教の威力、それにもかかわらずそれが救済につながらないということ、それこそが、そしてそのことに気付かない。

誰にとっての悲劇か?マルケ王の?ブランゲーネ?クルヴェナールの?、だが僕は、「観客」の悲劇でもあり、ワーグナーの悲劇でもある、といいたくなる。
我々はこの劇場時空において結局は取り残され、劇場外時空において「持続」に固執している、そのことを、『トリスタンとイゾルデ』を「理解」し「解釈」し、作品として、知的資源として維持・遅延させようとすること、それ自体が「愛」と「死」、力に対する「誤解」なのではなかろうか?
この見方はキリスト教的神聖さとメフィストフェレスの結びつき、『ファウスト』の事態を脇役においてなさしめる試みとも考えられる。
そして「取り残されること」、「負債の構造を持つこと」は言語の本質的構造である。ただ宗教において「沈黙の言語」、零度の遅延の言語がある。このことは、この構造に関する限り、宗教がニーチェが哲学者に対して言ったのと同じ意味で、より強度の大きなしかたで「詐欺師/道化師」であることを示している。
しかしこの場合の「詐欺師/道化師」は超越・超え出ること、力へ向かっての幻想的希望とともにある。
それがロマン主義の貌でもある。

しかし、この「悲劇」をもたらす、さらに深い絶望は、遅れが必ず存在してしまい、零度の遅れ、超出への幻想ができないような構造である。それは「詐欺/道化」をノーマルの一部に繰り込んでしまう、底の抜けた記号の深淵である。我々の前にはそのモデルとしての「資本・商品」と「デジタルな記号・すべての数値情報化」がすでに置かれている。近代世界の成立とともに既に(ワーグナーを含めた)我々に取り付き、我々を操り、宗教的な力さえも繰り込んでしまった深淵。そのなかに既に我々は棲んでいるのである。

このことは『トリスタンとイゾルデ』において、現在の我々の姿が主人公ではないこと、主人公への同調が実は現在の我々の幻想の作成、我々の「心」の隠蔽である可能性を示唆しているのではなかろうか?

幻想の作成も「心」の隠蔽もそれ自体としては何の問題もない。ただそれしかないならば、やや退屈なことだろう。そして悲劇から眼をそらせるプラセボとして、「心」の薬酒として振舞われるのだろう。

実はこのさらに深き絶望において『トリスタンとイゾルデ』を幻想の過度の作成によるロマン主義の「自己崩壊」において描いたのが『アラベッラ』ではないか、と感じている。R・シュトラウスよりもむしろホフマンスタールの仕掛けだろうと思うが、、、
そしてR・シュトラウスの「使われ方」と、『薔薇の騎士』から『アラベッラ』への移行が『トリスタンとイゾルデ』から『魔笛』への関心の移行などと通常いわれている。そのことが実はワーグナーとモーツァルトの比較を考えると面白いということを示唆している。
長くなったので、この件についてはまた書き直します。

Ken

1月 21, 2011 at 08:04 午前 |

2011/01/18

郡司ペギオ幸夫からのメール。

金曜日の大阪大学でのセッションについて、郡司ペギオ幸夫からメールが来た。

これは何なんだ! (笑)。

以前、郡司と4年間神戸大学で一緒だった池上高志が、郡司からの三行のメールでアタマを抱えていたことがあった。

塩谷賢も「乱入」するというし、金曜日が楽しみだ!

___________________

郡司です

読みました。いいですね。
茂木との似たとこと、違うとことか。

ドレツケ読んで、クオリアの自然化を過度に叫ぶと、
進化をつけたさねばらなくなる、というのがわかりやすいと思う。
オートポイエシスも大森さんもそうだった。

意識の問題を身体性の動的成立=生成として落とせる、というのが
最近やっていることで、群れが一個の身体をもっている
という強い主張の意味の身体性は、科学としていけると思う。
かに、やどかりでデータもとってます。

ただしそのために、現在=偶然=邂逅の内部観測=予期
を考える必要があり、そのために、偶然の一方の極限、可能性=未来
他方の極限、必然性=過去をとると、端的に矛盾する(可能性と必然性)ものが、
現在においては、潜在性と実現性として動的にイコールとなって、矛盾しない。
そのような偶然=現在を構想することが、群れの身体、身体性には
どうしても必要。

というわけで、九鬼が要点?檜垣さんの解説いれて



郡司ペギオ幸夫氏。

大阪大学でのセッション。
http://tokimeki.hus.osaka-u.ac.jp/

1月 18, 2011 at 11:27 午前 |

2011/01/12

Facebookの謎

このところ、Facebookに対する注目が集まっている。米国内ではアクセス時間でGoogleを超えたのだという。「検索」から、人と人の結びつきを通して情報が流通する時代、という変化は概念としては理解できる。どうしても理解できないのが、なぜ人々がそんなに長い時間をFacebook上で過ごすのか、ということである。

日本のSNSとしては、mixiが先行した。私もかなり初期に登録したが、「マイミク」が500人を超えたところで、わけがわからなくなってやめてしまった。「あしあと」とか、そういうことに対応している時間が、もったいなくなってしまったのである。

mixiに比べて、Facebookは実名が基本であるなど、いろいろ違う点があるという。日本でFacebookが伸びない理由を、日本のウェブの匿名文化と結びつけて論じる人もいる。しかし、私には、それが本質だとは思えない。

Facebookのインターフェイスが、まず私にはよくわからない。一時期のウィンドウズに対して抱いていた違和感と同じように、「ごみごみした」「整理されてない」印象を受ける。「Facebookは、SNSにおけるマイクロソフトである」というのが、私にはしっくりくる表現で、SNSにおける「Apple」や「Steve Jobs」は未だ登場していない感じがする。

写真を共有することで、プライバシーの概念が変わっているとも言う。確かに、かなりプライベートな写真を載せている人が多い。しかし、個人的に、他人の生活をのぞき見するようなことに、時間を費やそうというモチベーションが湧いてこない。

何度もFacebookを好きになろうと時間を費やしてみたが、どうしても「好きのしきい値」を超えられない。SNS上で、さまざまなアプリが立ち上がって、付加価値ができるという概念はわかる。しかし、今そこにあるFacebookは、ただの「混乱」にしか思えない。

一言で表現すれば、「それを使っている時の体験の質」、experienceが、Facebookは良質なものとは思えない。なぜこれだけ多くのアメリカ人がFacebookを愛用するのか、私には、感覚的にどうしても理解できないのである。

Googleやtwitterやyoutubeに関してならば、いくらでも熱く論じることができる。Facebookについては、それができない。私にとって、Facebookは、一時期はやしたてられながら、最後までその意味がわからなかった、Second Lifeと似ていると言っても良い。

Facebookがもし未来ならば、私は何かを見落としているのだろう。あるいはまた、私にとっての未来は、まだここに来ていないのかもしれない。

どなたか、Facebookが未来である理由を教えてください。ぼくはいつでも改宗する準備はできています。

1月 12, 2011 at 07:57 午前 |

2011/01/10

塩谷賢の『トリスタンとイゾルデ』その2

今回の新国立劇場の『トリスタンとイゾルデ』の上演について、わが畏友、塩谷賢からメールが送られてきたので、引き続きご披露いたします。二通目は、第二幕についてです。


塩谷賢氏 2009年6月10日撮影

to Mogi

感想の続き、第二幕の分です。

この幕はブランゲーネの告げ歌を境に性格が180度変わる。
(前半部)
「愛」~「力としての状態(の共鳴:吊橋効果)」の確認と強化。過去の生涯に沿って、そこでの出来事を、純粋な力の発露へと解釈しなおす。それによって過去の生涯は愛の発露としての過去を遡及的に?獲得する。二人、とくにイゾルデにおいて過去の生涯全体に渡る「独自=個人」の力の今への重ね合わせがなされる。その結果、吊橋効果の結果としての共鳴はますますその強度を増す。この強度の増大が主としてイゾルデにおいてなされている。第一幕から引き続いてイゾルデは心の力の極であるからだろう。イゾルデによる今への「独自」の力の重ね合わせが見通すことのできない力の重層化、力の闇を主導している。
この力が背景にある水と関わる。水は生成の源であり、イゾルデが「泉」を賞賛する。湧き出す底に光が届かない深く豊かに湛えられた水(指輪のライン川に通じる感覚があるなあ)。
ここでの二人、主としてトリスタンが述べる夜、死、昼の関係、夜と死vs昼と生、は通常とは逆である。
例えば、キリストは夜に生まれ、昼に3時に死んだ。(暗闇が訪れるが、それはキリストにではなく、彼を十字架につけた世界:我々に訪れたのである。そして彼が死すること、暗闇は同時に彼の復活と我々のより深い生(契約の実行)の一部だったのだから)生成の不可思議をもつ夜、我々に得体の知れない、我々を超える生の生ずるところとしての夜、我々を「超える」という一点で、我々は夜を恐れるのではないだろうか?
愛が純粋な力の状態であるならば、死もまた力として純粋であり、生成の力としての夜もまたそうである。だがそれらの関係はなんだろうか?果たして純粋な力の間に固定的な関係がありうるのだろうか?関係の設定自体が一つの動的な幻想であり、ひとつの演技、パフォーマンスではなかろうか?「トリスタンとイゾルデ」の劇的機能のひとつはまさにそのことを第二幕、第三幕において身をもって示しているように思える。
では、第二幕ではどうなっているか。
夜を死と並べるトリスタンの言説は、死の力をみていない。死は一幕から引き続き、「この世ならぬ場所/余地」、原欲望のパートを書き込むための不在の場所として扱われている。
ただ、イゾルデにおいてはズレ、移動が生じている。一幕でのこの世を押し流す力の入れ物としての死を求めていたが、いまや彼女は、そのような圧倒的な力を自らの生涯にわたって「独自」に重ね合わせ、今の愛=純粋な力の状態の強化・生成の機能を喜びと陶酔のうちにある。これと共鳴しているのは、死よりもむしろ夜である。夜は彼女にとって入れ物、身を隠す陰の場所ではない。夜はまさに今の彼女の力の身体そのものといっていいのではないか。(魔術が夜に行われることも重ねていいだろう。彼女は偉大な魔力の人なのだから)
ブランゲーネ~智慧~光(かがり火)はその表面をなぞることしかできない。彼女の魔力によるコントロールは、とっくにイゾルデの力の量によって圧倒されてしまっていた。いまや状況、つまりバレるとヤバい、という世界の予測、筋書きに従ってしかイゾルデに触れられない。イゾルデの力と同化した生成の夜の深奥、つまりイゾルデの心に届かず、むしろそれを見えなくし妨げる。イゾルデはトリスタンの登場前にブランゲーネを掻き口説く、この力に和せと。
この線でいけば、性愛の力の表現として、「トリスタン「と」イゾルデ」ではなく、「トリスタン「、」イゾルデ「、そして、、、」」として乱交パーティーになっても全くおかしくない。吊橋効果が二人で留まる必要はない。また一幕で触れたように、事の起こりが誰にでもあるごく当たり前の人の善性、優しさ、素朴な感情であるなら、博愛衆に及ぼし、母性愛も人類愛も性愛もゴッタ煮にした障壁なき力の純粋さへと向かってもちっともおかしくない。
(ある意味で最近の日本のアニメやエロ漫画雑誌、ネット上の2次元的世界はこの方向に進んでいるのではないか?一昔前のような生々しい、だから背徳感をスパイスにした劇画調ではなく、エロかわいいとか無邪気さと近親相姦、乱交、おとぎ話etc.が位相的なズレがなく融合しているような感じがする。それは、目的や価値という夾雑物を気化させた、自動操作、情報処理、ゲーム、遊びといった、ある種の純化のもとにある機能的共鳴として生じているのではないだろうか?ただ、そこでは恐れや超越さえもが、手続き的にシグナル化されてしまっているような気がする。)

しかし、乱交はおこらなかった。トリスタンの登場と「夜の賛歌」は生成の力としての夜と入れ物・状態としての死を結びつける。魔術が力への移行だとすれば、これは逆方向の動き、記号、言葉、状態としての観念への移行を促す呪術、催眠術である。規則の機能であり、一幕でイゾルデの力に引き回されたトリスタンがここでは記号の、規則の呪いという形で逆襲している。力には志向対象が割り振られ、純粋な力の奔流は対象に向けられるという関係、欲望・記号の形式を被せられる。「二人」、トリスタン「と」イゾルデという「関係」が召還され、力のカオスに憑依する。この憑依されること、関係の形式を蒙ること、それがイゾルデにとって「愛される」という受動態を授けることとなる。彼女にとってこの憑依は、受動態をもたらすゆえに、「力」と見なされてしまうのではないだろうか?
(もしかすると恋愛での「男の力強さ」「マッチョ」「支配されたい」という女の憧れ?などといわれているものは、このような誤認の結果なのではなかろうか。(誰の?女の、それを再記号化する男の?)もちろんそうでない、力の確認の場合も多々ある。だがそれはむしろ、誰にでもあるごく当たり前の人の善性、優しさ、素朴な感情が素直に吐露され、それを保つことのほうにあるのではないか?支配/権力という規則、存在性格の異なる水準のものはこの誤認によって力となるのではなかろうか?)
イゾルデの力は催眠術に掛かり、ブランゲーネ~智慧~光(かがり火)は、記号化されることにより、催眠術師の杖となる。ブランゲーネの告げ歌は、トリスタン「と」イゾルデへの移行の決定的な記号化、シニフィアンによる「愛」の記号/負債/欲望の構造への移行結果を呈示している。二人の愛は「見えない」のだ。なぜならそれは記号によって示される不在なのだから。
「トリスタンとイゾルデ」の「と」は、一幕からのこれまでは、力の共鳴、吊橋効果による「愛」の成立、「偶然」の現勢態を示しており、純粋な力の持つ「開かれた逸脱性」の共範疇的(Synkategorematisch)な表れであった。しかしここに至り、「と」は2項関係へと変貌する。トリスタンの夜~死~不在へと同化することで、記号としての関係、「と」による二極構造が「愛」を象るのである。
さらにいえば、この記号は一人称の私的言語ならぬ二人のみの二人社会の言語であり、ラカンのいう大他者(L’Autre)は直ちに「汝」となる。この「汝」は「相手の深奥にある心」であるが、それは力の純粋さから見れば、いわば幻の「汝」であり、夜の帳に隠された火明かり、本来不可能な光である。汝は血肉や涙、笑い、糞尿、精液や愛液、皮下脂肪と骨、イオンチャンネルによる神経計算網などを含みこんだ「そこにいるオマエ」ではなく、それらの彼岸に、本質というモードで立てられたいわば観念的な、言語の(無意識的)計算の可能性の地平にある存在(不在の名)なのである。

しかしイゾルデは、力への直観からか、死(~力)~昼について語り、夜~死~愛とのズレに気付く。だがトリスタンは、二人社会という、日常社会から見れば夜である昼へと、普遍性である照らし出す昼から隠された地としての夜へと横滑りし、「二人の」愛、関係としての愛の「永遠」、L’Autreであり欲望における抹消された主体[Sを/で打ち消したもの。フォントがありませんでした]のもつ抽象的、記号的なイデアとしての永遠、状態としての永遠を讃えて歌い続ける。

(後半)
マルケ王の登場。ここで第一幕のトリスタンの構造が記号、言語の次元で回帰する。トリスタンとイゾルデのなす二人社会は、第一幕のごく当たり前の人の感情の役割を演ずる。ここでは素朴な感情同士のコンフリクションが、社会の複数性、社会が人々の上に掛けられた網、あるアスペクトとして同時に存在し、社会の役割をなさしめることにおいて人々の行為という資源を奪い合う、という形に変換される。マルケ王はかつてのトリスタンと同じく社会をコントロールする知恵(規範・意味)であり、社会~心に対する対応策は王者の名誉である。
ここで殺されたのは素朴な心そのものである。役割、関係としての社会において既にそれは視界の外に出てしまっているのだから。トリスタンとイゾルデの二人社会的愛は、いわばモロルトを殺した剣の破片、素朴な感情の記号的痕跡としてマルケ王を告発する。
マルケ王はトリスタンと同じ弱さを発露する。彼は王者の名誉のため、素朴な感情を抹殺し、その代わりに錬金した「高貴な感情」を「昇華」という術での変形だと思い込んでいる。そのことの嘘を自らさらけ出してしまうのである。イゾルデを最も高貴な女性、いるだけで幸せにしてくれる神々しい存在、「私は彼女と一度も臥所をともにしなかった。」、、、これらが錬金術と嘘の告白である。素朴な感情の抹殺はそのようなことでは償うことはできない。女ざかりのイゾルデを毎夜孤独なベッドに一人残し、性の衝動に悶々とさせ、「高貴な女性」という名の下にそのような事実、可能性をも全て消去してしまう。
たとえば、夫が2次元萌えしていて妻にそのキャラを重ね、崇拝し「絶対領域」だからと手も触れず延々とセックスレス、しかもよき婦人像を親戚・近所からも期待され、自分がヨン様に惚れていることなど間違っても口に出せない、そんな女性にとって自分の境遇はどう感じられるか?といったような話だと考えることもできてしまうのだ。「淋しくも一人眠らん」のフェリペⅡ世のほうがどれほど素朴な感情に対して面と向かっている設定になっていることだろうか。
もし、嘘を嘘として分かっていたならば、マルケ王が統治の方便として自分の位置をわかっていたならば、なぜマルケ王は二人の逢引を見て「フフッ」と笑ってこっそりと帰らなかったのだろうか。押し殺し隠されしまっている幾多の素朴な感情たち、そのリストに「トリスタンとイゾルデ」という名を加えるだけのことではないか?
「底なしに深い謎に包まれた」人間の心が問題なのか?
それは自分が信頼するトリスタンと崇拝するイゾルデの心なのか?その方向はもちろんあるが、むしろ「深い謎」は、実相を謎としてしまう自身の心、謎を謎として受け入れられない、声高に正当性や真理を歌い上げ、世界を照らす光と自分の言動を重ね、その結果に驚き嘆き悲しんでいるマルケ王の心に深く根ざすのではないか?

彼は前へ進み出て自らが信じ込んだ嘘に裏切られる。自分の役割、対応策に頼り切ることで、実相を見ないということへの弱さをさらけ出す。
そしてかってのトリスタンとイゾルデが死へ向かったように、マルケ王は自らを絶望へと突き落とし続ける。彼の弱さはトリスタンの場合と違い、自らの方策に対する自らの不始末ではない。まさに王であることのもつ社会的・記号的な構成要件として実相を見てはならないのである。またイゾルデのようにあからさまに犠牲の位置にいるのではない。彼の位置はまさに支配者であることなのだから。マルケ王の見せる弱さは一幕のトリスタンとイゾルデよりもはるかに不条理である。それは自然に逆らうことでしか成立しないシステムなのだから。死という他所へ逃げ出すこともできない。そもそも逃げ出そうとするもののアイデンティティに対する脅威なのだから。それゆえマルケ王は死ぬわけにもいかず、ただただ絶望を深くするしかない。この絶望は「死に至る病」ではなく「死に至れない病」もしくは「死を超える病」であろう。キルケゴールなら完全に「死に至る」ことでキリストに出会える。しかしマルケ王にとってはその出会いの地点にいたることはなく、死んでも神はそこにいないのである。まさにマルケ王において「神は死ん」でいるのである。
この絶望、考えれば考えるほどその場に立ち竦んで深くなる絶望において心の強度は高まる。そこにマルケ王からの強烈な力の共鳴~「愛」がトリスタンとイゾルデに向けて迸る。死児に寄せる愛にも似た嘆きとしての愛が見出される。この愛への吊橋効果が二人に、特にトリスタンにおいて共鳴する。マルケ王は絶望において、死児への愛において「喪の作業」を遂行することができない。そのことがマルケ王の心の「底なしに深い謎」の一端である。だからトリスタンが「喪の作業」遂行しなくてはならない。だから彼はメロートの剣に自らを投げ出す。
なぜイゾルデがそれを引き受けないのか?それはマルケ王~トリスタン~喪の作業が全て記号的構造、負債構造に根ざした共鳴だからであろう。イゾルデはトリスタンの「夜の讃歌」の呪いにおいて、つまり受動性において、混同によって二人社会としての愛へと横滑りしている。しかしそれは彼女の積極的・内的なジェネリックな行為ではない。トリスタンという受動性(の記号)を書き込むペンがあって初めて彼女は二人社会の愛にいる子tができるのである。それゆえ喪の作業は愛を失うことなのである。
このことはイゾルデが死(~抹消の力)~昼について恐れをしめすことにも現れていると考えられる。彼女にとってマルケ王の告白は力の純粋さをめざしはするが、その純粋さが異質のものであると感じられたのではないだろうか。具体的な段階や力の発動では、この異質さは、純粋さという極限方向への引力によって覆い隠されてしまう。それゆえ彼女はマルケ王に対しても、またメロートに対しても、さらには幕切れで倒れ伏すトリスタンに対しても無言のままなのではなかろうか?

ここで、メロートの性格付けが問題になってくる。
彼はトリスタンをねたみイゾルデに懸想する佞人なのだろうか?
むしろメロートこそ挫折を知らないトリスタン、挫折を知らないマルケ王の臣としてのカウンターパートとして描いた方が面白いように思える。メロートは本当にトリスタンを尊敬し、その騎士道的名誉を保とうとして、自分の首が飛ぶことをむしろ喜んで待ち伏せの計に出た。そして二人の密会が顕わになるや、それを最も嘆き悲しんで、しかし<トリスタン>の名誉のために、輝かしきトリスタンという観念のために、ここに出来した出来事トリスタンを断罪せざるを得なくなる。ちょうど熱烈な信者が聖者や教祖を偶像化し、生身のその人の過ちを抹消するために生身に責任を負わせて偶像を維持しようとして、聖者や教祖を「愛」ゆえに殺すように。
それゆえメロートは常に構造的にトリスタンの分身であり、トリスタンが「最も信頼する親友」であるのだ。
イゾルデが二人社会にいられるのはあくまでも出来事トリスタン、生身のトリスタンとの関わりによるのであり、マルケ王の絶望の「愛」への応答には参加しない。そのイゾルデの替わりに二人社会の形で混同されて、絶望の「愛」へと共鳴する二人社会はトリスタンとメロート=事例と一般観念のなす、トリスタンの役割を記述する言語である心なのである。
それゆえメロートはもっと善人、騎士道の崇拝者として描かれるべきである。
するとメロート:トリスタンとトリスタン:クルヴェナールという、トリスタンの二面性もよく出てくる。
トリスタンに対してクルヴェナールはコントロールされる素直で素朴な感情であり、
メロートは目指されるべきコントロールのイデアを指し示す素朴な悟性であろう。

なぜマルケ王の絶望が起こるか?
この問題は「時間における持続・維持」においてコンフリクションが起こることによる。それゆえ「永遠」を持続・維持の極限として考えること、その方法として死の国を語るというトリスタンの呪いはマルケ王そして自らの二人社会の愛に対する悲劇を召還する声でもあるのだ。もし力の純粋さとそこでの共鳴としての愛・吊橋効果を真面目にとるならば、愛の永遠は永遠の今=一瞬の永遠であり、いわゆる持続は永久革命でなければならない。
ニーチェの永遠回帰をクロソウスキ的に考えるとき、そこにニ幕では見られなかった愛の表現が出てくるだろう。それは、生きている貨幣としての女体=イゾルデの性のもっと激しい機能性であろう。そうすればブランゲーネの告げ歌ではなく、1世紀早く『ムツェンスク郡のマクベス婦人』の音楽がワーグナーの悪魔的なアジテーションの力を持って実現したかもしれないのに、と残念に思う。


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疲れたので2幕はこの辺にしておきます。結構考えたことを忘れちゃってるね。

Ken

1月 10, 2011 at 08:35 午前 |

一人残らず、シーシュポスなのだ。

アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』で、男は神から罰を受けて、永遠に岩を運び上げる運命にある。しかし、その境遇以外に自分は置かれ得ない、そのような状況にあるからこそ「自分」なのだと認識した時に、男は無限の喜びを感じるのである。

シーシュポスが置かれた状況は極端なものだが、それは一つの比喩に過ぎない。苦しくて、不条理な状況だから、それを受け入れることが跳躍になるのではない。どんなに恵まれて、幸せな立場でも、他のあらゆる可能性が封じられている点において、すべての人はシーシュポスと変わることがない。「あらゆる時間、すべての場所」という全称記号から「今、ここ」という存在記号への命がけの跳躍こそが、私たちの存在の本質である。

一人残らず、シーシュポスなのだ。

1月 10, 2011 at 08:26 午前 |

2011/01/09

塩谷賢の『トリスタンとイゾルデ』その1

今回の新国立劇場の『トリスタンとイゾルデ』の上演について、わが畏友、塩谷賢からメールが送られてきたので、ご披露いたします。一通目は、第一幕についてです。


塩谷賢氏 (2010年1月18日撮影)

to Mogi

28日に新国立の『トリスタンとイゾルデ』に行ってきました。
29日に会えそうにもないので、ちょっと感想を、、、

まずに、「愛」と「死」ってよく使う言葉だけど、じゃあなんなんだ?といわれて、
ハテ?となってしまう。「時間」と似たような言葉である。よく使う言葉であり、その言葉で描写する場面や事態も多々ある。だけど言葉が同じだからといって何か共通本質がある、などという哲学的幻想に依拠するわけにはいかないだろう。
では『トリスタンとイゾルデ』が「「愛」と「死」ってなあに?」という浮世根問いに応えようとしているか?
そんなことは全くない。そんな風に見えること(ワーグナー御得意の台本の書き方?)はあっても、それ自体が一つのパフォーマンス、作品だとみたほうがしっくりくる。
いろいろな解釈は可能だし、そのどれが正しいなどとは余計なことのような気がする。たとえワーグナー本人が自分で意図を語っていたとしても(事実そうかどうかは知らんが)。
そう思わさせるほど、「愛」と「死」はわからないと感じる。
とりあえず一つの感じ方を拾い出してみよう。
もちろん、原作や様々な資料からの制約は一切無視して、この上演からじかに感じ考えた限りのことです。

では第一幕から。
イゾルデがトリスタンを助けたのは、「愛」ゆえなのか?むしろ怪我をしたタヌキや腹をすかせた小犬が庭に迷い込んできたとき、いきなり追い出さずにやさしくしてしまう、そういう素朴な、単純な心の動きだったのではないか?
そして病床で一度は剣を振りかざしながら、それを止めてしまったのは、家で飼っているニワトリを絞めようとしたとき、その直前に猫に負わされた傷を治してやったならば、締めにくくなる。作るのは自分でも食べるのが自分でないとき、そして家族から「ご馳走様」といわれても、代金を貰うわけではないとき、どうしても今日のおかずは鶏鍋でなくてもいいと心のどこかで感じ、メニューを変更する、そんな日常的な感覚とそう遠くないのではないか?
モロルトの敵を討つ。でも賞賛するのは誰だろう?イゾルデは「代金」をもらうのだろうか?「ご馳走様」といわれることの満足感と対して違わないのではないか?それも主客であったはずのモロルト、「代金」を払う男は既にいない食卓の陪食者たちからの、、、。
更なる復讐の連鎖を生むこと以外に復讐の正当な「代金=交換価値」は、そもそもありうるのか?
これらを意識の中で吟味したのではなく、しごく当たり前に心のどこかで感じる素直さにしたがっただけ、そして結果として吟味をしたこと同等であっただけではないだろうか?

トリスタンは病床からイゾルデを値踏みしていたのだろうか?
それはコーンウォールが迫るという切羽詰った状況でのイゾルデの作った一貫性のための後知恵、思考と理解のための物語ではないのだろうか?

トリスタンは、甘える子犬のように、乳をせがむ嬰児のように、自らの弱さを、ただ相手が誰だかも知らずに、そして自分が誰かをしかとは知られていないと思うがゆえに、丸ごと晒したのではないか?
(彼にとって、傷を負ったものが敵の一員である可能性というだけで相手が剣を取り上げてもおかしくはないだろう。そして剣をおろしたのは、それが相手にとっても可能性であり、また自らの素朴な弱さの露呈が相手の素朴な優しさと呼応する気がする、というごく普通の常識で理解できることなのではなかったろうか?

しかし二人の持ったごく当たり前の人の善性、優しさ、素朴な感情は、社会、人間関係、生活、文化etc. そしてそれらを通して、同種のごく当たり前の素朴な感情、さらには自らによって 犠牲にされ、持ち主はその状況に貪り喰われる。イゾルデは、トリスタンを殺さなかったゆえに、自らが人身御供となることになった。ブランゲーネがいう「国中の民が平和に歓喜」していたのは同種の素朴な心の表れであり、それが満たされるためにイゾルデはノブレス・オブリージュとして生贄の地位を引き受けざるをえなかった。それが彼女の自己規定であり、王女としての主たる存在理由のひとつであったから。
トリスタンは当時のよき勝者の振舞い方として、勝者の王と敗者の姫の結婚を、全く素直に提案したのだろう。それは王の個人的な欲望への追従ではなく、和平と両国の輝かしい未来をもたらす、為政者の正しき振舞いを実現するという、道徳と忠誠心にあふれた行為であったろう。
そして使者として王女と対面したとき、トリスタンはなにを感じたか?かってとは逆転して人身御供として締められようとするニワトリに対する料理人のもつ感情だろうか?しかし今回は彼は十分な「代金」を貰う立場である。だとすれば、このような素朴さは発露されず、自分が演出しようとする輝かしい未来図の配役に、かってその素朴さを発揮させる土台となった自らの弱さを露呈してしまった演出者・プロデューサーのたじろぎと気まずさが、マズ去来したのではないか。そしてその気まずさの底に、自らの素朴さが自らを喰い荒らしていると思い至ったときに、初めてイゾルデの人身御供の地位に思いを馳せることが可能になるのではなかろうか。

船の上での両者に共通する根底のものは、ごく当たり前の人の感情・心が無垢のままに世界に存在できない、という不条理の感覚であったのではなかろうか。
これに対する対処、心を持って生きていくための方策は二組によって示される。
ブランゲーネ+イゾルデとトリスタン+クルヴェナール。
ブランゲーネ+イゾルデ=心をコントロールする智慧(魔術)+(意識化された/測られた)心の力
トリスタン+クルヴェナール=心をコントロールする知恵(規範・意味)+(意識化されない/身体の)心の力

やはりワーグナーでは、各キャラクターは全人的な俳優というよりも心の機能のある面・ファクターを特化した顕微鏡のような装置の部品として働いているように思える。

では対処の方策はなにか?
ブランゲーネは魔術によって心の諸力を統御する、それこそ人格・超越論的主観性そのものがそうあって欲しい理想像の片鱗である。それが魔術という形で、そしてこの世で必然的に失敗する、というところに厭世的にデフォルメされたカント的枠組みというショーペンハウエルの思想が対応するようにも思える。
イゾルデは心の力であり、力の泉、限りなく力を溢れ出させる創発の場である。しかし彼女はこのあふれる心の力を復讐に凝集させる。しかしそれは力として測られて世界のアイテムとなるためには意識化される。そして測られた力は、その意識の前提であるノブレス・オブリージュを無視した暴力ではいけない。復讐は単にトリスタンの命を奪うというモロルトの命との等価交換ではなく、イゾルデの存在理由をこの状況下で成立させ維持する、つまりコーンウォールとの和平を守り、そのために捧げられた犠牲である彼女自身の価値をも支払うというインフレーションを起こしている。そのためにトリスタンが不名誉に死なねばならない。しかし彼女も死のうとする。それは心の力であることの持つ素朴さ、彼女が犠牲であることをより大きな価値として成立させねばならないからである。それが「高貴」であること、敗者が勝者に対等であることを示すための手段であるとともに、溢れ続ける力を回収するのは消失の極である死しかこの世には用意されていないからだろう。

もう一方の組の機能対応がトリスタン:ブランゲーネ、クルヴェナール:イゾルデであることに注意しよう。
まずクルヴェナールは素朴な心の力を維持するために、トリスタンとイゾルデが共有する「ごく当たり前の人の感情・心が無垢のままに世界に存在できない、という不条理」が露呈する水準を切り捨てている。心の力の直接的な発露に局在化し、それが漂う流れについて支配しようとせずに流れを受け入れる。イゾルデのように溢れ続け、世界を押し流しかねない力の泉ではない。彼はその力の流れが流入する小さな入り江のように見える。
(このことは、舞台がいつも小さな入り江のようにしつらえられていることと相関しているのかもしれない。)
その入り江の水はトリスタンによって治水される。だからトリスタンは彼にとって主人。皇帝、神であり、彼は家来であり、臣民であり、ヘーゲル的には奴隷であろう。だが弁証法で考えれば、だからこそ彼がいなければトリスタンは英雄足りえず騎士足りえない。
トリスタンの対処の手法は、騎士道的規範、そして騎士道的貴婦人への愛という文学趣味の、言い換えればロマンチシズムのもとに文章化される政治的技法によるコントロールである。それはマルケ王や宮廷、民衆、世間へ向けた内容であり、クルヴェナールに象徴される自身の素朴な感情への支配の手法である。

だが、二組の水準がずれてしまっている。
トリスタン+クルヴェナールはこの世の社会的なありきたりの心の振舞い方、力の抑圧を権威という記号法によっている。この記号法は負債、約束手形の形式、フロイト・ラカンの用語を使えば欲望の言語的構造である。
一方、ブランゲーネ+イゾルデは少なくとも一段高い水準(を目指す位置)にあり、記号法のレベルそのものをイゾルデの(意識化された/測られた)心の力のレベルで相対化してしまっている。
だからコントロールと力がトリスタン+イゾルデという組み合わせでなされるとき、トリスタンの騎士道的規範とその底に沈んでいる心の諸力はイゾルデに見透かされてしまう。彼女の視線を恐れる。そしてその恐れはトリスタンの心の底から力を引き出す。3幕でトリスタンが「彼女は手当てをして/いったんふさいだ傷口を/ふたたびた太刀を使って切り裂いた」というのはここを指しているように思う。
(そして「しかし彼女はいったん振りかざした太刀を・・・」以下は、薬酒を飲んだ後の2幕以降のことを指しているように思える。)
この傷口からトリスタンは、己の心の血を、かって見せてしまった弱さに連なる、彼の規範を根底から覆す弱さの力を溢れ出させる。それをなんとか記号化し、回収するために騎士道の抽象性、ある意味で神学の神の究極性を高めていくのと同じ構造をとる。際限のない不可能性への高揚である。それに伴いイゾルデの高尚さも至高なものへとどんどんとインフレートしていく。イゾルデの視線によって引き起こされるこの際限のない高揚、その形式だけに着目すれば、つまりシニフィアンにのみ定位すれば、そしてそれがトリスタンの意識のありかたなのだが、そうしたときこの高揚は、死の持つ高揚、フロイトがいう第一次過程、Φシステムの絶対のカタルシスと同じものに見えるのである。
そしてその弱さを弱さとして提示することは、またイゾルデの方策、復讐への凝集にも疑義を投げかける。復讐の正当な「代金=交換価値」は、そもそもありうるのか?という問題を突きつけ、彼女のインフレーションを台無しにしてしまうからである。だからトリスタンは「姫が言わなかったことを私も言わない」というのである。彼はそれを知っており、それをいってしまえば、不条理が、いわゆる死、また後で述べる{死の形式」などとは全く次元の異なる不条理に直面してしまうからである。(この不条理は裏ファウストなのか?「時計よ止まれ。世界よ、お前は美しい。」の裏側なのだろうか?)
この台詞が二人の隠されていた「愛」の示唆などとは思えない。ただ後で述べるように、後知恵としてそれは「愛」に見えることになる。

一方、ブランゲーネはコントロールという同種性でトリスタンと会話できる。しかし水準のズレのために、局在化された力であるクルヴェナールをコントロールできない。むしろ局在性の、現実存在によって魔力の権威が貶められている。魔術が力を制御するには、力にそれなりの形式を与えなければならないのだ。

また、この二組は力の動性において対照的である。女性たちの、被支配者、力における能動性・生産性、男性たち、支配者の、力における受動性・依存性。

1幕と3幕で背景にあがる月、白い月と赤い月もしくは白い月と赤い太陽。これはそれぞれコントロールと力の標識になっている。1幕でイゾルデの力が高揚するにつれて赤い円盤は彼女に近く降臨する。彼女の力が状況の切迫とともに高まり、復讐のために、トリスタンの騎士道的方策を打ち破り墜落させるために彼に視線を注ぎ込む。それによってトリスタンにおいて、かの不条理、死のシニフィアンという誘導された高揚する力の記号が強度を増す。その記号の支配、トリスタンの騎士道的回収を相対化するためにイゾルデの力の泉の溢出はますます加速し強化される。
二人の力と力の記号の強度は限界へと切迫し、死でしか対処できなくなる。この死は、トリスタンにとっての記号的な死、ラカンの言葉で言えば到達不可能な原欲望、それへと近づこうとするために生体システムが持たなくなるという全体の構図の破綻であり、イゾルデにとっては溢れ出る力を置くこの世ならぬ場所、入れ物である。
どちらも死そのものの力の話ではない。
そして二人は死のうとする。死においてもそこに至る仕方においても、同一の意味においてではなく、関連するが対蹠的な異なった構造、ある面では双対の構造のもとで。
ブランゲーネはこの力の高まりを、イゾルデの母に由来する偉大な魔術でこの世に留めようとする。それが媚薬であり魔術である。そのためには先に述べたように力にある形式を与えねばならない。それには「愛」という名前が付されていたのである。
(また「死の薬酒」はどのような形式を与えるのか?それは魔術としては明示されず、劇の中へと我々の言う「死」のひとつのイメージとして自然に導入されている。それは「この世ならぬ場所/余地」ではないか?そしてトリスタンにとっては記号の完全な記述、原欲望のパートを書き込むための場所であり、イゾルデにとっては、この世を押し流す圧倒的な力を置く入れ物としての場所である。はたしてこれは「死」そのものの力の水準なのだろうか?)
この「愛」はなにものか?トリスタンのシニフィアン構造での力と死の同一視とは異なる、正に魔術、神秘、言い換えれば偶然による同一視である。いってみれば力の高揚に基づく「吊橋効果」である。
吊橋効果の引き金、原因は「ごく当たり前の人の感情・心が無垢のままに世界に存在できない、という不条理」であり、その同一視のもととなる同一性は「ごく当たり前の人の感情・心」、子犬を哀れみ、ニワトリを絞めるのを躊躇する心の些細な動きである。
「愛」ということを男女間のものとしてとれば、それは、街で「あっ、いい女!」といって惹かれること、「彼の男らしさの中に垣間見られるちょっとした子供っぽいかわいさ」にキュンとなって故意に落ちること、見合い結婚してなんとなく生活をともにして、伴侶として受け入れること、行きずりの一夜でセックスのテクニックに酔い身体がうずいて忘れられないこと、それこそジェットコースターの恐怖感から愛が芽生えることetc.etc.、となんの違いがあるのだろう。
ワーグナーは「愛」はある面で、このような吊橋効果そのものであることを喝破しているのではないか?
それは彼自身が多くの恋に陥った状況でもあるのではないだろうか?
理由付け、正当化、自分への納得などは後知恵であり、愛の全てを明かすことなどない。愛という不可思議なものの一面、すくなくともそれが現実に、つまりこの世に現れるのは、この魔術、吊橋効果によるものなのではなかろうか?
この作品から僕が受けたメッセージ、それは実際のワーグナーの意図したこととは違うかも知れないが、そのひとつは、この大胆な発見である。
(これが「姫が言わなかったことを私も言わない」が「愛」の示唆に見える後知恵の仕組みであろう。)

だが我々はそれに抵抗を感じ、なんとか「愛」の本質、意味を取り出したい、と思ってしまうのではないだろうか?
それがブランゲーネのもつ心の力の制御という形で、我々の自己認識として提示されているのではないか?
だがブランゲーネは測り誤った。二人から噴出する力は、この世の具体的な形式をはるかに凌駕する強度だったのだ。「偶然」はこの世の中に収まる形式ではない。それは形式/記号で書かれうる限りでのこの世を、凌駕してしまうなにごとかを言葉の上だけで捉えたふりをしているに過ぎない。その意味で「愛」の薬酒はプラセボであり、ドニゼッティの『愛の妙薬』のドゥルカマーラの葡萄酒と全く同じ、「愛」の魔術は詐術なのだ。
だから1幕の最後でトリスタンは「愛」の真実の姿(の一面)を歌い上げる。「おお、この偽りの愛よ!」と。


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まだ1幕しか書けてないが時間がない。
とりあえず、ここまでで送信します。

第2幕、第3幕、また別の見方、それは『トリスタンとイゾルデ』、『魔笛』、『アラベッラ』を大雑把に関係付けるのだが、それらはまた後で。

Ken

1月 9, 2011 at 08:36 午前 |

2011/01/05

プリンシプルの人

「プリンシプルの人」 茂木健一郎

 小さな頃から、日本の新聞を読み、テレビを見て育っているから、政治の報道のされ方については、「こんなものだろう」という「相場観」のようなものを持っていた。小沢一郎さんについての一連の報道も、途中まで、そんなものかと思っていた。
 「政治とカネ」とか、「豪腕」だとか、小沢一郎さんを巡って報道される時の決まり文句のようなものも、政治報道というものはそういうものだと思っている限りにおいては、違和感がなかったのだろう。
 それが、どうもおかしい、日本のメディアの報道を見ていても、政治の本当のあり方、政治家の素顔は見えないのではないかと思い出したのは、今年(※2010年)になってからである。小沢一郎という人の本質も、メディアの報道のされ方を見ていただけでは伝わって来ない。そんな風に思うようになってきたのである。
 メディアの力は大きい。どのような世界観に基づいて、どんなことに注目して報道するかということによって、同じことの見え方も変わってきてしまう。イギリス留学時代のこと。あの国で、政治過程がどのように報道されているかということを目の当たりにしてびっくりした。政治の実質的な内容についての議論が行われているのである。また、オバマ大統領の登場も新鮮だった。その演説は、アメリカという国が何を目指すのか、自身の生い立ちを含めて説き起こす。情熱とヴィジョン。そのようなことが当たり前に論点となり、人々に伝わっていく国もあるのだと思った。
 小沢一郎さんとの対談を終えて、その印象を一言で表現すれば、「プリンシプルの人」だということである。民主主義はどうあるべきか、という原理原則の問題。しばしば、「古い」と批判されてきた「ドブ板選挙」についても、有権者と直接話し合うことが民主主義の原点だと言われれば、まさにその通りである。イギリスでもアメリカでも、候補者たちは小さな集会を積み重ねて支持を訴えていく。
 決まり文句のように言われる「政治とカネ」の問題についても、小沢さんの現場からの言葉は重かった。政治には、お金がかかる。それを、誰がどのように負担していくのか。「ドブ板選挙」、「政治とカネ」という、日本では「古い政治」の象徴のように片付けられている問題にこそ、むしろ政治にかかわるプリンシプルが表れるのだと、小沢さんに教えていただいた。

 もはや、国内政治と同じように、あるいはそれ以上に国際政治が大切な時代。首相選びにおいても、外交の能力を重視すべきだろう。小沢一郎さんとの対談で印象的だったのは、その発言を英語に直して発信しても、違和感がないだろうということだった。日本のメディアの慣習の中では際立たないことが、視点を変えると輝きを増す。
 小沢一郎という人の真価は、日本の因習を離れ、国際的文脈の中にあって初めて明らかになるのではないかと思う。小沢さんが表舞台に登場することを、楽しみに待ちたい。

「週刊朝日」 2011年1月7・14日号 掲載

1月 5, 2011 at 09:38 午前 |

2011/01/04

普遍的人間

人間はみんな人間のはずである。ところが、人間は、ある種の人間の「型」のようなものを想定して、それ以外の存在を人間ではないとする間違いを繰り返してきた。

自分の国の人間は人間だが、他の国の人間は人間ではないというような。

グローバリズムの波に乗る人間は人間だが、取り残されている人間は人間ではないというような。

肌が白い人間は人間だが、黄色かったり、黒かったりする人間は人間ではないというような。

英語を喋る人間は人間だが、それ以外の人間は人間ではない、というような。

社会の中で、さまざまな人たちがさまざまな生き方をしている。能力も性格も外見もさまざま。それらのすべての人たちが、人間であると見なされるような人間概念でなければ、人間概念である意味がない。

グローバリズムの時代だからこそ、私たちは、独裁者も、怠け者も、働き者も、知的な人も、情緒的な人も、大国人も、小国人も、男も、女も、ストレートも、ゲイも、一般市民も、犯罪者も、権力者も、通りの者も、芸術家も、銀行家も、やせも、デブも、肉体派も、書斎派も、ウィキリークスに賛成する人も、ウィキリークスに反対する人も、クラシック好きも、マンガ好きも、オタクも、実直も、萌えも、リア充も、受験生も、すべての人間を人間として包括する普遍的な人間概念を必要としている。

 同じ普遍的人間が、普遍的原理に従って発展すると、これだけ異なる表現型を創発する。

 私たちは、普遍的人間観を見きわめ、普遍的人間に則り、普遍的人間として普遍的人間に働きかける必要があるのである。

1月 4, 2011 at 09:20 午前 |