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2010/12/05

歌舞伎の奇跡

 学生時代から、歌舞伎をたくさん見てきた。さまざまな演目が、私という存在の血となり、肉となってくれた。そのエネルギーがあまりにも強いため、未だに自分の人生でそれをどのように生かせばいいのか、見定めることができないでいる。

 現代の日本において、歌舞伎という舞台芸術が繁栄し続けていることは一つの奇跡だと言えよう。どれだけ売れるか、いかに人気を博すかということだけが問題にされがちな今日。市場の「自由競争」の隆盛の一方で、文化はどんどん薄味になっている。そんな中、歌舞伎は、簡単には言い尽くせないような濃密な体験を観客に提供し続けている。

 歌舞伎の奥深さは、例えば、その物語が単なる勧善懲悪ではないというところに表れる。もちろん、社会の規範意識が強かった江戸時代のこと。表立って悪を肯定することができるはずがない。それでも、単純に悪を懲らしめるという構図からは逸脱する生命の勢いのようなものが、歌舞伎の舞台から観客席へと流れ出てくるのである。

 歌舞伎においては、しばしば悪役が魅力的に描かれる。歌舞伎の代表的な演目の一つ、『夏祭浪花鑑』。七段目の「長屋裏」の場では、魚屋の団七が、舅の義平次を惨殺する。義平次は、もともとは、親がいなくて放浪していた幼い団七をひきとってくれた恩人。娘のお梶と結婚していることもあり、団七は義平次に頭が上がらない。 

 そんな団七が、強欲な義平次に苦しめられ、もみ合ううちにちょっとしたことがきっかけで持っていた刀で義平次を切ってしまう。舅といえば、親も同然。その親を切るのか、と執拗になじる義平次。流れる血に、もはやこれまでと団七も覚悟を決め、義平次にとどめを刺してしまう。

 団七は義平次の亡骸を捨て、返り血を洗い流してその場を立ち去る。折しも、だんじり祭りの日。団七は、あっという間に群衆に紛れる。初めてこの段を見た時、その祝祭的なカタルシスに衝撃を受けた。

 人殺しは、もちろん良いことであるはずがない。悪人であるとはいえ、一つの命が失われる。団七にしても、いかに阿漕な舅とはいえ、命までは奪いたくはなかっただろう。

 現代的な視点から言えば、たとえ偶然のきっかけから始まったとはいえ、糾弾されるべき団七の犯行。しかし、歌舞伎は、舅殺しという悪を肯定こそしないものの、いかにも魅力的に描く。団七の一挙手一投足に、観客の目が釘付けになる。

 「長屋裏」の場を人形浄瑠璃(文楽)で見た時も、芸術の奥深さに心を打たれた。団七が義平次を殺めた後の舞台に、だんじり祭りの神輿が入ってくる。すさまじい勢いで殺到する男たち。人形が、神輿にぶら下がり、振り切れんばかりの激しい勢いで揺れる。まるで、世界全体が、団七の悪事の噴出に呼応して鳴動しているかのようだった。

 カタルシスの象徴的表現としては、ひょっとしたら人形浄瑠璃の方が純粋かもしれない。しかし、歌舞伎は、団七のためらい、ひたすらの忍耐、それを乗り越えた時の決然たる実行といった心の機微を余すことなく表現する。悪の人間的機微を表現するという点において、歌舞伎は一つの頂点をなすのである。

 「悪」とは何なのか。これは、難しい問題である。社会のシステムを根底から作り替える「革命」は、時に人を殺めるという悪なしでは成就しない。私たちの生存自体が、他の動物を殺めるという行為の上に成り立っている。「悪」は、私たちの命の根本に関わっている。

 私たちの生命という営みの根幹には、どうやら悪の気配がある。それを、キリスト教徒は「原罪」と呼ぶのであろう。否定しようのない事実を直視している点において、歌舞伎は現代の公式的倫理観よりも生命の真実に近い。

 近松門左衛門の『女殺油地獄』。その品行から、同情の余地のない与兵衛という男が、何の罪もない女を惨殺する。観客の心がざわざわと動く。歌舞伎を見に来る人が、悪を肯定しているわけではもちろんない。しかし、悪のカタルシスに触れることで生命の泉からこんこんと水がわき出す思いがすることも、また事実なのである。

 現代においても生き続けている、歌舞伎という智恵。さまざまなものが管理され、本来は何があるかわからない人生さえもが予想可能とされる社会。あるべき状況から逸脱する「不祥事」があってはならないものとして封印されていく。そんな状況の中で、歌舞伎は、日本人にとって自らの存在の奔流を維持する上での生命線となっているのかもしれない。

 歌舞伎の創始者と伝えられる出雲阿国が京都の北野天満宮で「かぶき踊り」の興行をしたのは1603年とされる。折しも、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いた年である。

 1467年の「応仁の乱」以来続いた戦乱の世。親や子でさえ裏切り合った下克上の時代に迸った生命のエネルギー。天下が統一され、社会が安定化するに従って、人々の生きざまのダイナミック・レンジは、急速にしぼんでいった。

 社会規範という、私たちの生命を支えてくれるはずの安定性の中で、私たちの命はかえってやせ衰えていく。その逆説の間隙を、歌舞伎という芸術は突き崩す。

 社会の中に悪があってはならない。被害の不条理に泣く人が出てはならない。そう信じる善良なる市民が、歌舞伎を見に出かけ、舞台狭しと暴れ回る悪の美に酔いしれる。

 現代の社会にあってはならぬ悪の芸術的表現に触れることで、かえって生命が甦る。ここに、「歌舞伎の奇跡」がある。

「歌舞伎の奇跡」 サンデー毎日 連載『文明の星時間』第73回 2009年7月掲載

12月 5, 2010 at 07:02 午前 |