「こころ」という主題であれば、私たち人間は、無限に旋律をつむぎ続けることができるだろう。
夏目漱石の『こころ』を久しぶりに読み返していた。iPhone上で、Skybookを使って、青空文庫のデータを読んだ。電車の乗り換えや、トイレに入ったとき、ちょっと時間が空いた時などに、iPhoneを取り出してさっと読んだ。
読む気になったのは、漱石についてさびしかったからだろう。「なんでも鑑定団」で、漱石自筆の絵がリーマン・ショックで最近は安いと言われて、評価額が低かった。この前の朝カルの後の飲み会で、講談社の西川浩史さんに、計画している「漱石本」を、「坂の上の雲本」にしましょうかと相談された。「漱石はやり尽くされていますからねえ。」そんなものかと思った。ぼくが心から尊敬して、「聖人」の域に達している日本人、夏目漱石、小林秀雄、小津安二郎。漱石の評価は、最近、世間ではどうなのだろう。
『こころ』を改めて読み返すと、あまりにも凄い。うますぎる。「こころ」というタイトルは、しみじみ深い。「先生」は、なぜ自殺してしまったのだろう。「こころ」というやっかいなもの。お嬢さんに恋慕し、Kを裏切り、そして自分の実の父親が死に瀕しているのにそれを捨ててむしろ「先生」のもとに走る。そのような行動のすべての背後にあるのが、「こころ」。漱石は、最初は、「こころ」というテーマで連作にする予定だったらしい。「こころ」という主題であれば、私たち人間は、無限に旋律をつむぎ続けることができるだろう。
漱石は、人間の「こころ」の根底に潜んでいる、利己主義、生きる衝動のようなものを見つめ続けた。痛々しい。しかし、そこにしか真実はない。世間では良きものとして肯定されて終わりがちな恋愛でさえ、漱石にとってはエゴイスティックな衝動と無関係ではなかった。そこに漱石の孤独があった。しかし、だからこそ、深く井戸を掘っていくことができた。
現代に生きる私たちもまた、「こころ」というやっかいなものを背負い続けて生きている。
講談社の西川浩史さん、やっぱり、本、夏目漱石で行っていいですか?
西川浩史氏
12月 19, 2010 at 08:30 午前 | Permalink
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