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2010/12/01

ぼくの大切な漱石の絵の、子どもが心細そうなその様子を相場が見てくれるわけではない。

 昨日放送された「なんでも鑑定団」に出た漱石の絵は、ぼくが惚れ込んで神田の古本屋で買ったもの。

 もう、十年くらい前かな。

 学生時代から通っている店の二階にあった。ひと目見て惹きつけられて、いいな、と思った。子どもが縁側で遊んでいる。何かが忍び寄ってくる気配がする。うまいとか、下手とかそういうことではなくて、漱石その人の「存在論的不安」が描かれていると思った。 

 何度も通って見ているうちに、ますますとりつかれたようになった。一年くらいふらふらしているうちに、これはもう、ぼくが手元に置いておくしかないのではないかと思った。

 逡巡したけれども、御主人にそういって、その場ですぐに銀行に行って振り込んだ。お金が一気になくなって、懐がすうすうした。以来、お守りのようにして、時々眺めては、漱石の偉大な事蹟を思い、ぼくもうかうかしてはいられないと励ましている。そのような意味では、大切な「生産財」である。

 スタジオで、鑑定士の先生に、リーマンショック以来この手のものは安くなりまして、と言われた。古本屋で買った時よりも、ずいぶん安くなっていた。なんだか、自分のことではなく、他人のことを聞いているような気がした。

 マーケットというのはつまりそういうことなのだろう。漱石のハガキの絵だったら、これくらい、という相場がある。相場はこだわりから生まれるのではない。ぼくの大切な漱石の絵の、子どもが心細そうなその様子を相場が見てくれるわけではない。ぼくは、そこが好きなのに。相場なんていうものは、つまりは所詮は紋切り型のもので、文句を言っても仕方がない。

 でも、市場というのは凄まじいな。

 結局、市場を超えたところに生命があるのだと思う。市川海老蔵だって、この事件でタレントとしての価値がどうのこうの、CMがああだこうだという人がいるけれども、海老蔵は海老蔵なんだから、何があってもこちらの気持ちが変わるわけがない。あくまでも大切に思うよ。

 市場は資本主義社会では大切だが、私たちの生命とは根本的にすれ違っている。市場のことばかりに気をもんでいる人は、きっと、自分の生命からさえ離れてしまっているのであろう。さびしいね。

 市場は歴然とあり、個人のこだわり、思い込みの間にすれ違いの悲喜劇がある。そこには人間のドラマがある。「なんでも鑑定団」が人気なのは、そこなんだろう。


12月 1, 2010 at 10:15 午前 |