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2010/12/31

白洲家のマグマは熱い。

白洲信哉は朝一番で帰ってしまった。小林秀雄さんのお墓参りにいらした白洲明子さん、白洲千代子さんと合流して、鎌倉駅前の「ひろみ」でてんぷらを食べた。

小学館の平田久典さん、それに論文の相談に来た関根崇泰も。

「信哉は、さいなら、って帰っちゃったんですよ。」といない人の話ばかりしている。

「山の上の家にはね、一時期、大岡昇平さんの一家が住んでいらしたんですよ。」

「そんなご縁がありましたか。」

「おじいちゃん(小林秀雄さん)が、トーストを食べるとき、表、裏、それに耳のところまでバターを塗るから、大岡さんのお坊ちゃんがそれをじーっと見ていてね、家に帰ってマネをするから、困ってしまって。」

「変な文学少年がよく来てね。モオツアルトなんていうのは、オレの方がうまく書ける、なんて気炎を上げて。朝見ると、よく庭のところで寝ていたりしました。気付くと、石垣のところに絵を並べていることもあって。学校にいけなくて、仕方がないから巡査の方を呼んだら、何時間も絵の説明をしていました。」

文士が文士らしかった頃の話はいくら聞いても興趣が尽きない。

さて、何を食べようと思ってメニューを見ると、「小林丼」というのがある。小林秀雄さんがお好きだったものばかり。白身魚、穴子、かき揚げ。

「私は健康な小津丼の方にするわ。」

小津安二郎さんの好物は、白身魚、海老、野菜天。

私と平田さんは、小林丼に即決した。

信哉は怒りっぽい、という話になって、しばらく盛り上がっていたら、「私たちも怒るわよ」と明子さんと千代子さん。

「そうですか、まだ怒ったところを見ていないですが。」

白洲家のマグマは熱い。

「そんなことがないから。信哉には、いつも怒っているわよ。」

そんな信哉が、木村秋則さんのリンゴは美味しかったという。「果物嫌いが言うのですから確かです。」と信哉が言うのだから、確かです。

12月 31, 2010 at 01:34 午後 |

2010/12/28

ポンペイ・レッドの残光が、喜雨の飛び跳ねるカエルたちに重なる。

忘年会だというので白洲信哉の家に行き、床に座って呑み始めてしばらく経ち、はっと気付くと、いつもは熊谷守一の「喜雨」がかけてある場所に、何やら赤い妙なものがある。

「これは何だ?」
釘付けになった。となりにいたMIHOミュージアムの金子直樹さんが焚きつける。「茂木さん、これ何だと思います? 難しいですよね〜」

何かはわからないが、見ればみるほどほれぼれとする。全体として深い赤であり、左上の方に、太陽のような薄い模様がある。右下の方には薄暗くて深い森があり、その一部分が剥落して地が出ている。
そうして、森の中を泳ぐように、魚が描かれている。うまい線だ。ひっかいたように、薄く、しかしくっきりと。

「うーむ」

わからない。ロスコに似ている部分もあるし、クレーやミロを思い起こさせる点もある。サイズがこんなに大きくなければ、ターナーの「シーモンスター」に似たような印象の部分がある。

唸っていると、となりの金子さんがにやにや笑い、信哉が、台所との間を行ったりきたりしながら何やらいろいろ言っている。

「降参!」

ぼくはついにサジを投げた。信哉が嬉しそうに宣告する。「ポンペイ・レッドですよ。写真。」

「えっ? ポンペイ行ったよ。こんな壁なかったけれどなあ。じゃあ、この魚は誰かのいたずら描きかい。」

金子さんも笑いだす。ぼくはずっと首をひねっていたので、知恵熱が出た。

「ははは、楽しかった、もういいでしょう」
というので、信哉がいつもの守一の喜雨をかけてくれた。

ポンペイ・レッドの残光が、喜雨の飛び跳ねるカエルたちに重なる。

そのうち金子さんが眠り始めたので、仕返しにほっぺたにナルトの渦を描いた。おでこは失敗して「の」の字になった。

えへへ。金子さんは気付かずに笑っている。信哉の目が妖しく輝き始める。

12月 28, 2010 at 08:29 午前 |

2010/12/27

胸騒ぎは続いていた。私は、帰国する遣唐使のような気持ちになっていたのかもしれない。

スイス航空機で、チューリッヒから戻ってくる時のこと。ふと目が覚めて窓の外を見ると暗くて、地上に灯りが見えた。しかし、その様子がどこか違っていて、はっとして窓に張り付いた。

四角い!

オレンジ色のその燈火が、きれいに格子状に並んでいるのである。その瞬間、見当識を失った。

一体、どこを飛んでいるのだろう?

ロシアかしら? 沿岸州? モニタで、「エアショウ」を選んで、表示させる。その間も、眼下の四角い燈火は、美しく燃えながらも少しずつ移動し続けている。

中国!

私が飛んでいるのは、中国上空だった。北京の近くから、渤海方面に向って移動していた。サイズからして、北京そのものではないだろう。どこか、近郊の小都市の街並みが、きれいにそろった四角い燈火として見えていたのだ。

突発的に、とてつもなく詩的なイメージの嵐が吹き荒れたような気がした。甘い胸騒ぎがした。
ヨーロッパからの航路が、こんな場所を通ることがあるのかしら。いつもは、ロシアの方から下りてくるような気がするけれども。

飛行機は、そのまま朝鮮半島のソウル上空を通過していった。胸騒ぎは続いていた。私は、帰国する遣唐使のような気持ちになっていたのかもしれない。

12月 27, 2010 at 08:45 午前 |

2010/12/26

国家というものを、当たり前のものとして受け止めないこと。ここからいろいろなものが始まっていく。

アクシデント続きの旅で、シャルル・ドゴールに着いたのは深夜だった。明日も朝一番のTGVだから、一刻も早くホテルへ、と思ったら、入国審査が長蛇の列。しかも、全く動かない。

クリスマス・イブ。きっと、係官がもともと少なかったところに、大雪で飛行機が遅れたから、対応しきれていないのだろう。

列に並んでいるフランス人から、歓声と口笛が上がった。よく見えないが、警官が歩いているらしい。抗議なのか、それとも彼らがやってきたことを歓迎しているのか。やがて、警官が入国審査のブースに入って、パスポートをチェックし始めた。さっきよりもさらに大きい歓声が上がる。

『汚れた血』のカラックス監督が東京に来たとき、彼は東京の通りの従順さが気持ちが悪いと言っていた。警官がいないのに、人々が大人しくしている。血の気の多いフランス人気質からすれば、不気味に見えたのだろう。

国家というものを、当たり前のものとして受け止めないこと。ここからいろいろなものが始まっていく。日本は、きっと、スタートラインにも着いていない。だからこそ良い側面もある。日本は従順さを製品にして輸出している。

警官が審査ブースに入ったら、列が突然流れ始めた。ろくすっぽパスポートなど見てやしない。メリー・クリスマス。2010年、世界はウィキリークスを知った。遠い東洋の国にも、やがて、国家見直しの波は確実にやってくるだろう。

凍てつくパリの街。日付が変わって、それでもお腹が空いてみじめで、近くのバーに行き、なけなしのピザを食べた。サンタ帽の若者が騒いでいる。ほんの少しでも、血の気の多いパリの空気を吸って幸せになる。

12月 26, 2010 at 11:55 午前 |

2010/12/24

「私は画家なのだ」。そう、クレーは日記に書いた。筆先一つの自由。チュニジアで、画家は、この惑星にいきづくという時々刻々の奇跡を再発見したのだろう。

パウル・クレーはチュニジアへの旅で「色彩」に目覚めたと言われている。そのように日記に記している。

一体、どういうことなのだろう。それが今回の旅の一つのミステリーだった。

クレーが滞在したという、海辺の別荘。その横の道を歩きながら、そうかと思った。クレーが目覚めたのは、外の色彩ではない。なぜならば、結果として生まれたのは、写実ではないからだ。むしろ、自分の内なる色どりに目覚めた。しかし、そのためにチュニジアという刺激を必要としたのはなぜか。

人は文脈にとらわれているものではないか。かたちにしても、これはテーブルだととらえればそれ以上は考えずに自らを鎖で縛ってしまう。色もまた同じこと。同じ洪水が見えているのにもかかわらず、まるで生まれ落ちた時のように見るのは難しい。

「私は画家なのだ」。そう、クレーは日記に書いた。筆先一つの自由。チュニジアで、画家は、この惑星にいきづくという時々刻々の奇跡を再発見したのだろう。色彩という生きものが、自分という媒体を通して交情し、佇み、耐える。その時、新しい生態系が生み出される。私たちが生きるのは、実に、何かの媒体となる時にではないか。そこにあるのは無我の喜びである。自分を手放すことでしか、より大きな自分にたどり着くことはできない。

城壁都市の横の海辺を歩く。ボートが砂の上に横たわる。小さな男の子が、父親とベンチに佇んでこちらを見ている。文脈から解き放たれるということ。
 「私は、人間なのだ。」
 枯れていた泉がよみがえる。

 城壁都市の中の迷路のような小径を行く時も、私は迷ってなどいなかった。


12月 24, 2010 at 01:44 午後 |

2010/12/23

入ってすぐに、これは良い店だとわかった。良い店は、お客さんがつくる。とっても素敵な、パリの人たち。

ベルリンに行くはずが、雪で飛行機の運航中止が懸念される事態となり、一日早くパリに入った。

それで、昼間に何をしようということになった。「美味しいご飯と美術館!」私はすぐさま叫んだ。そうしたら、鈴木芳雄さんが、ブノワ(Benoit)を予約して下さった。
午前中はホテルで仕事、12時にチェックアウト、ブノワに着いたのが12時40分。予約は13時。鈴木芳雄さんが、「どうしましょう?」と言ったので、「歩く!」と叫んだ。

パリの街を歩くのは大好きだ。10分歩いて、戻ってくれば良い。ポンピドーセンターを超えて、裏路地まで行って戻った。13時に戻ると、もうみんないた。

入ってすぐに、これは良い店だとわかった。良い店は、お客さんがつくる。とっても素敵な、パリの人たち。鈴木さん、ありがとう。

イギリスでは、たとえどんなご馳走が出ても、そのことについていろいろと詮索しない。トリニティ・カレッジのハイ・テーブルでは、あたかもそこにご飯がないかのように形而上のことを喋り続ける。パリの人たちは、もちろん、そこにご飯があることはわかっている。でも、注意の向け方のダイナミクスがあたかもサッカーのリベロのようなもので、目まぐるしく動くところに特徴がある。そのリズムに囲まれて、次第に陶然となっていく。

パリの良いレストランでの食事は、人生をほんの少しだけ地上から浮遊させてくれる。

12月 23, 2010 at 03:32 午後 |

2010/12/20

中山エミリさん、飯沼誠司さんの結婚式にて

中山エミリさん、飯沼誠司さんの結婚式にて。

お二人を囲んで。後列左から、米山範彦さん、朝倉千代子さん、私、中尾彬さん、神原孝さん。


12月 20, 2010 at 06:43 午前 |

2010/12/19

「こころ」という主題であれば、私たち人間は、無限に旋律をつむぎ続けることができるだろう。

夏目漱石の『こころ』を久しぶりに読み返していた。iPhone上で、Skybookを使って、青空文庫のデータを読んだ。電車の乗り換えや、トイレに入ったとき、ちょっと時間が空いた時などに、iPhoneを取り出してさっと読んだ。

読む気になったのは、漱石についてさびしかったからだろう。「なんでも鑑定団」で、漱石自筆の絵がリーマン・ショックで最近は安いと言われて、評価額が低かった。この前の朝カルの後の飲み会で、講談社の西川浩史さんに、計画している「漱石本」を、「坂の上の雲本」にしましょうかと相談された。「漱石はやり尽くされていますからねえ。」そんなものかと思った。ぼくが心から尊敬して、「聖人」の域に達している日本人、夏目漱石、小林秀雄、小津安二郎。漱石の評価は、最近、世間ではどうなのだろう。

『こころ』を改めて読み返すと、あまりにも凄い。うますぎる。「こころ」というタイトルは、しみじみ深い。「先生」は、なぜ自殺してしまったのだろう。「こころ」というやっかいなもの。お嬢さんに恋慕し、Kを裏切り、そして自分の実の父親が死に瀕しているのにそれを捨ててむしろ「先生」のもとに走る。そのような行動のすべての背後にあるのが、「こころ」。漱石は、最初は、「こころ」というテーマで連作にする予定だったらしい。「こころ」という主題であれば、私たち人間は、無限に旋律をつむぎ続けることができるだろう。

漱石は、人間の「こころ」の根底に潜んでいる、利己主義、生きる衝動のようなものを見つめ続けた。痛々しい。しかし、そこにしか真実はない。世間では良きものとして肯定されて終わりがちな恋愛でさえ、漱石にとってはエゴイスティックな衝動と無関係ではなかった。そこに漱石の孤独があった。しかし、だからこそ、深く井戸を掘っていくことができた。

現代に生きる私たちもまた、「こころ」というやっかいなものを背負い続けて生きている。
講談社の西川浩史さん、やっぱり、本、夏目漱石で行っていいですか?


西川浩史氏

12月 19, 2010 at 08:30 午前 |

2010/12/18

日本人は無宗教というけれども、クリスマスが好きなのは、その仮想の質に共鳴しているのだろう。

ここ数年、大人数で忘年会をしてきたけれども、今年は会場の手当がつかず、研究室メンバーでのXmas Partyとなった。

まずは、The Brain Club Xmas Special。いつもは論文紹介したり、研究のことを話し合っているが、年に一回、一人ひとりが演し物をして、投票をして優勝者を決める。

今年の優勝は、箆伊くんと戸嶋さんが同点。どちらも素晴らしい演し物でした。おめでとう。

レストランで、研究室メンバ−、OB、それからゆかりの人が集まって食事をした。個室と、それにつながる庭と。寒いかもしれない、というので、私はわざわざ品川駅でダウンジャケットを買った。冬でも、コートは着ないのだけれども。今朝は再びコートなしに戻っている。

ずっと研究とか苦楽をともにしてきた仲間。ファミリーという気がする。

寒い夜空の下、クリスマスツリーが輝いている。日本人は無宗教というけれども、クリスマスが好きなのは、その仮想の質に共鳴しているのだろう。

12月 18, 2010 at 09:45 午前 |

2010/12/15

「今年の人物」2010 ジュリアン・アサンジュ氏、上杉隆氏

私が個人的に選んだ、2010年「今年の人物」(Person of the Year 2010)は次のお二人です。

お二人の功績をたたえ、ますますのご活躍をお祈りします。

国際部門 ジュリアン アサンジュ氏

ウィキリークスの活動を通して、情報の自由、知る権利、人々と政府の関係について斬新な視点を提供し、長期的に民主主義をより強固なものにするための道筋を示した。


ジュリアン・アサンジュ氏
(Anorak Newsのwebpageから)

国内部門 上杉隆氏

「記者クラブ」問題を取り上げ、日本の報道を旧態依然のものとしている「癒着」の構造を明らかにした。その活動は、日本に真のジャーナリズムを根付かせるための、重要な一歩である。


上杉隆氏 
(文藝春秋のwebpageから)

12月 15, 2010 at 07:51 午前 |

2010/12/14

シングル・イッシュー・ポリティックスには、大局観が問われる。

シングル・イッシュー・ポリティックス(単一の課題を論点として挙げた政治)は、時に、現状の突破に寄与することがある。郵政民営化を掲げた小泉首相(当時)のケースなどである。

しかし、シングル・イッシューを選択する際には、「大局観」が問われる。小泉さんの場合には、賛否は別として、「官」から「民」へという「大局観」があった。

現在、民主党政権の執行部が進めている「シングル・イッシュー・ポリティックス」には、大局観がない。菅さんや岡田さんが、小沢さんの「政治とカネ」の問題を「クリーン」にすることで支持率を上げられると思っているのならば、愚の骨頂である。

菅さんの問題点は、御本人がこれからの日本についての大局観を持っていたとしても、それが一向に伝わってこないということである。真っ先にやるべきことは、「これから国をこのような方向に導いていきたい」というヴィジョンを示すことであろう。そのヴィジョンが一向に見えてこないから、支持率が下がるのである。

12月 14, 2010 at 08:07 午前 |

2010/12/13

東京大学改革私案

先日池上高志と話していて、東京大学のことを改めて考えた。

現在の「入試」は聖域だという。しかし、そのために外国から学部生をあまりとれない。「ガラパゴス化」が懸念される事態。そこで、現行の理一、理二、理三、文一、文二、文三の区分、定数、入試はそのままに、あらたに定員100人程度の英語で教育を行うLiberal Arts College(以下、略称東京大学LAC、University of Tokyo Liberal Arts College)をつくることを提案したい。

東京大学の教員ならば、英語で授業をする能力がある人は多いだろうから、東京大学LACで開講される授業は、現在東大にいる教員が分担すれば良い。もちろん、新たに国内外から教員を採用しても良い。HarvardやYaleで開講しているようなカリキュラムはもちろん、せっかく日本に来るのだから、日本文学、日本の歴史などの、Japan Studiesの科目、さらには、韓国や中国などの、Asian Studiesの科目も設置すれば、魅力が増すだろう。

最大のポイントは入試で、TOEFLなどの英語能力試験、及びSATなどの学力試験を採用しつつ、essayなどを含む応募書類、さらには面接も併用することが望まれる。

面接の実施に当たっては、ハーバードの入試で採用されているポリシー(http://bit.ly/iahWCT)、すなわち” Our interviewers abroad are normally graduates of the College who volunteer their assistance. If an interviewer is not available sufficiently close to you to make an interview a possibility, the absence of an interview will not adversely affect your candidacy.”が適切だと考える。

東京大学LACには、もちろん、国内からも学生が志願してくることが考えられる。国内、国外の割合がどれくらいが望ましいかは、当局の方で検討すれば良い。

東京大学LACの開講科目は、旧来の東大の学生も受講できるものとする。また、日本語を母国語としない学生で東京大学LACに入学する者の中でも、東京で暮らしているうちに急速に日本語能力が高まるケースも考えられる。そのような学生が、東京大学の日本語で行われている講義をとることも出てくるだろう。

従来の東京大学の伝統はそのままに、新たに英語ベースのliberal arts collegeを付け加える。財源や教室スペースなどの問題さえ解決できれば、このソリューションは、保守派にとっても改革派にとっても利点しかないと思う。関係者の方々にご提案する次第である。文部科学省の方々も、もしよろしければご検討ください。そして、よろしければ、ご協力ください。

日本と、日本の若者に残された時間は、あまりないのである。

12月 13, 2010 at 10:23 午前 |

東スポも夕刊フジも、記者クラブには一応加盟しているけれども、そこから流れてくる情報だけでは紙面は作れないという。

昨日のニッポン放送「サンデー ズバリ ラジオ」でも言ったが、ぼくの東スポ、夕刊フジデビューは中学1年生の時である。新井勝くんの親戚の新井先生に、英語を習いに週一回通った。新井くんと、遠藤くんと、ボクと三人で教わった。この三年間が、ぼくがこれまでの生涯で通った、唯一の「学習塾」である。

英語の先生は電車で二駅くらい行ったところに住んでいらして、帰りの夜9時過ぎの上り列車はガラガラだった。座席のあちらこちらに新聞が落ちていて、ぼくは遠藤くんや新井くんに「ちょっと散歩してくるわ」と言って探し回った。

見つけて一番面白かったのが、「東京スポーツ」、「夕刊フジ」、そして「日刊ゲンダイ」だった。座席の上にあると、ほくほくした。そろそろ政治や社会のことに興味が出てきた頃だったから、大人たちの本音、みたいなものをのぞきこむのがわくわくした。

夕刊フジの中本裕己さん、東スポの平鍋幸治さんとスタジオでお話していて、あの頃から本質が変わらないという事に驚いた。東スポも夕刊フジも、記者クラブには一応加盟しているけれども、そこから流れてくる情報だけでは紙面は作れないという。確かに、どちらもキオスクでの「見出し」(前垂れ)が勝負。比較すると、大手紙には「既視感」がある。

夜、暗闇の中を走る電車。思い出すのはなぜか冬のこと。温かさが下から伝わってくる座席に座って、東スポや夕刊フジを読んでいた中学生の私と、少しでいいから会話してみたいな。

12月 13, 2010 at 09:43 午前 |

2010/12/12

リヴァイアサンの時代

「リヴァイアサンの時代」
茂木健一郎 (英文ブログ The Qualia Journal から、自訳)

私がこのブログを最後に更新してから、しばらく経った。過去2、3週間、私は個人的にあれこれと忙しかった。一方、世界はカオスへと向っているように見える。「リヴァイアサンの時代」が訪れたのだ。

かつて、秩序や正義の構図は簡単だった。受け入れられた権威が存在し、悪人はすぐにわかった。今や、既成の秩序を無視する勢力の台頭により、地球上をリヴァイアサンが闊歩している。

それは、おそらくは中国から始まった。ノーベル平和賞騒ぎに象徴される中国の独善性は、憂慮されると同時に示唆的である。「示唆的」とは、私たち人間がそもそもどんな「動物」かということを思い起こさせてくれるからだ。そして、ウィキリークスの現在進行中の物語がある。米国や英国、スウェーデン政府の反応が、国民国家の暗部をさらけだした。もはや、民主的に選ばれた政府でさえもが「疑わしい」のである。

今や、私たちは「リヴァイアサンの時代」にいる。法や秩序は、自動的に保証されるのではない。今日の世界において、最も考えさせる事実とは、今や、国家としても、個人としても、「輝く」ためには、リヴァイアサンの要素がなければならないということである。

Now you need an element of the Leviathan to shine.

Ken Mogi

The Qualia Journal 12th December 2010

http://bit.ly/gMJ5ih

It has been sometime since I last updated my blog. In the last few weeks, I have been privately occupied, with this and that. Meanwhile, the world seems to be moving into a chaos zone. I think an era of the Leviathan has come.

Used to be that order and justice were simple matters. There were several accepted authorities, and the rogues were easy to point out. Now, with the advent of forces that ignore the long respected institutions, the world has come to a state where the Leviathan roams.

Probably it started with China. Its defiance of the world order, as typified by the Nobel Peace Prize fiasco, is both worrying and inspiring. When I say inspiring, the point is that it reminds us of what kind of animals we remain to be. Then came the wikileaks saga, which is still going on. The reaction from governments of the United States, U.K., and Sweden revealed to us the sometimes murky nature of the nation state. Even the democratically elected governments are now “suspect”.

So it is an era of the Leviathan, in which laws and orders are not automatically guaranteed. The most intriguing fact of the day perhaps is that now you need an element of the Leviathan to shine, whether as a nation or as an individual.



12月 12, 2010 at 12:03 午後 |

「戦場カメラマン」渡部陽一さんの発言に、現場を踏んできた方ならではのリアリティを見た。

ぼくはテレビをほとんど見ない(見る時間がない)から、世間で大流行のことでも、知らないことがある。

しばらく前から、誰彼となく「戦場カメラマン」というので、そんな人がいるんだな、とは思っていた。どうやら、「戦場カメラマン」がテレビに出て、いろいろと面白いらしい。でも、その姿も、動くところも、声も見たことがなかった。どんな人なのかなあ、と思っていた。

先日、フジテレビの湾岸スタジオに行った。朝倉千代子さんと入り口で会って、出演者が書いてある紙を見たら、「戦場カメラマン 渡部陽一」とある。

「戦場カメラマン! 今日、いるんですか!」と思わず叫んだ。一気にスタジオが楽しみになった。この時点で、どんな姿の人なのか、まだ知らない。

そうしたら、控え室の廊下の向こうから、背が高くて、ほっそりしていて、ベレー帽をかぶった人が歩いてくる。見た瞬間、あの人が戦場カメラマンに違いない! と思った。

目が会うと、渡部さんは、深々とお辞儀をされて、「はじめまして、戦場カメラマンの渡部陽一です」と言われた。初めて声を聞いた。低い声で、ゆっくりと、とても丁寧にお話される。

スタジオで、渡部さんの、独特の話し方をたっぷり聞いた。びっくりした。みんな、笑っている。しかし、御本人は至って真面目である。

ふだんもあんな話し方をされるのかな? 休憩時間に、渡部さんとお話しした。

「今度は、いつ取材に行かれるのですか?」

「はい、来年の一月には、アフガニスタンに行こうと思っています。」

「従軍記者として行くときには、やはり、軍の指揮命令系統に入るのですか?」

「いいえ。カメラマンは、直接は上官から指示される、ということはありません。ただ、部隊に入っている以上、その行動に会わせて自分も動かなければなりません。」

「取材の途中で、軍にとって不利な情報を得てしまった場合には、どうされるのですか?」

「はい。そのことが、いつも問題になるのです。たとえば、アメリカ軍の兵士が攻撃される場面を撮影してしまった場合、そのデータが外に持ち出せるかどうか、そのことが、問題となります。」

敵を攻撃している際のことではなく、アメリカ軍の兵士の被害がより問題になる。なるほど、国内世論の動向を考えればそうなるのだろう。「戦場カメラマン」渡部陽一さんの発言に、現場を踏んできた方ならではのリアリティを見た。

それにしても、話している内容は迫真なのに、ゆったりと丁寧な、独特の口調は変わらない。そのギャップが人気の秘密なのだろう。渡部陽一さん、どうぞ、お身体にだけは気をつけてご活躍ください。

12月 12, 2010 at 09:42 午前 |

2010/12/11

小沢一郎さんの「ありのまま」

参議院議員の有田芳生さんのご紹介で、小沢一郎さんにお目にかかって対談した。有田さんとは、議員になられる前から、ずっと懇意にさせていただいている。

対談場所は、参議院議員会館の有田さんの部屋。詳細は週刊朝日に掲載されるので、それを読んでいただくとして、一点だけ。

メディアの中の小沢一郎さんのイメージは、「豪腕」であり、「ダーティー」だというものなのかもしれない。御本人にそう申し上げたら、笑っていらしたが。しかし、実際にお話すると、とてもストレートで、論理的、そして、仰ることに筋が通っているように感じられた。

小沢さん御自身、外国特派員協会での会見がお好きだと仰っていたけれども、その発言を英語に直して考えてみても、世界的に通じることを話されていると感じた。まっすぐな、プリンシプルの人。なぜ、メディアでのイメージが乖離するのか。それは、従来のメディアが「編集」をしてきたということに起因するのであろう。

もちろん、題材の取捨選択、意味づけなどにおいて、編集が加わることはある程度必要だし、仕方がない。しかし、一度できあがったイメージを、そのまま踏襲する「慣性」がメディアには強い。そのため、メディアの中のイメージが一人歩きし、勝手に拡散していくという傾向があるのだろう。つまりは、「マッチポンプ」である。

ツイッターや、ニコニコ生放送などの「ダダ漏れ」系のメディアの登場によって、さまざまなことのそのまま、人のありのままの姿が世間にさらされるようになってきた。編集という厚化粧を施したニュースに人々が飽きたらず、風通しを良くして、「素材」そのものに触れたいという気持ちが強まってきている。

先の民主党代表選挙の際、ツイッターやブログなどのメディアで、「小沢支持」の動きが急速に広まった。小沢一郎さんに、日本の煮詰まった現状を改革して欲しいという期待が高まったのである。今から考えれば、あの動きは、「厚化粧」の従来メディアの報道の呪縛から解かれ、直接、小沢一郎さんの「ありのまま」に触れることで起こったのだろう。

国会でゴタゴタしている場合ではない。菅直人首相は、内閣の立て直しのために、小沢一郎さんをたとえば副総理格で迎え入れてはどうか。対中関係など、大いに活躍してくださるはず。今の政治情勢からすれば真逆のようだが、苦境を逆転させる「ウルトラC」になるだろう。

状況が変わって「出番」が来た時には、たとえ強制起訴されていても、その状態で小沢一郎さんが民主党代表や、内閣総理大臣をしても、何の問題もないはず、と私は申し上げた。むしろ、強制起訴されている状態で敢えて内閣総理大臣として頑張るということが、いろいろな意味で固定観念にとらわれ、身動きがとれないでいるこの国現状を打破する上での、とてもわかりやすい政治的パフォーマンスになるのではないかと思う。

90分間、たくさんのことを学ばせていただきました。対談をアレンジ下さった有田芳生さん、本当にありがとうございました。

帰り際に、いろいろ大変でしょうから、身体に気をつけてください、と木村秋則さんのリンゴジュースを差し上げたら、小沢一郎さんはとてもよろこんで下さった。「お元気で」と声をかけると、小沢さんは、「この特別なジュースを飲めば、元気になるよ。」と言われて、秘書の方と帰っていかれた。

木村秋則さんのリンゴジュースは、本当に美味しい。小沢さん、味わってくださったかしら。

12月 11, 2010 at 11:30 午前 |

2010/12/09

一人ひとりの人間は、弱々しく、欠点だらけで、だからこそ愛すべき存在なのに、なぜ「国」になったとたんにモンスターになるのか。

国家というものは、その名において人も殺すし、有無も言わさぬ強制力も持つ。国際法というのはあってもなきがごとき。強大な国家が、その意思で何かをしようとすれば、もう誰も止められない。そのことはみんな判っているが、そういうものだと思って暮らしている。

国家を構成する一人ひとりの人間は、弱々しく、欠点だらけで、だからこそ愛すべき存在なのに、なぜ「国」になったとたんにモンスターになるのか。どうしても間尺が合わない。そんな思いを、ずっと抱いている。

だからこそ、ウィキリークスの一連の事件は大変興味深い。アメリカやイギリス、スウェーデンといった「民主主義」の国でさえ、暴力的強制力を恣意的に使うことができるのだ、というう事実に、改めて目が向かう。アサンジ氏への共感の広がりは、このインターネットの時代に、国家というものは果たして何なのか、根本的な疑問が呈され始めていることを意味するのだろう。

「愛国心はならず者の最後の砦」だという。国家が必要悪だとしても、その臭い息に対して私たちはどのような香水を使えばいいのか。さわやかな西風の精を探しています。

12月 9, 2010 at 08:17 午前 |

2010/12/08

魔法瓶のガラスのように、何かが割れることはある。しかし、身体が大丈夫だったら、きっと何とかなる。

小学校5年生の時に、父と北海道に蝶の採集に行った。いろいろと計画を立てたが、一番いいのが6月だということで、しかし、その頃は学校があるから、あきらめた。

ところが、裏で父が学校の先生に話をつけてくれていたらしい。担任の小林忠盛先生も、「茂木くんが蝶をとりにいくんだったらいいですよ」と許してくれたようだ。ある朝早く、父が枕元に立って、「おい行くぞ」と言った。びっくりした。そのまま電車に乗って、青森に行った。市場で、エイを干したものを売っていた。青函連絡船に乗って、函館に渡った。

静内で蝶をとっていた時、追いかけるのに夢中になって、転んでしまった。その拍子に、肩に斜めにかけていた魔法瓶が衝撃を受けて、中の鏡が割れてしまった。振ると、カラカラと音がする。

「怒られる」と思った。父は、少し離れたところでやはり網を持っている。すっかり悄然として、蝶の様子も目に入らなくなった。

夕暮れになり、帰る時になった。父と合流するしかない。いっしょになってしばらく歩いてから、少し大げさに魔法瓶を振って、カラカラと音をさせて、「割れちゃった」と言った。

「転んだのか?」

「うん。」

「怪我はしなかったか?」

「だいじょうぶ。」

「そうか、気をつけろよ。」

それだけだった。魔法瓶を割って、怒られるかと思ったら、怪我をしなかったかどうかだけを聞かれた。うれしかった。そんな父の反応が、とても意外だったのだ。

いろいろ性格的な欠点もある父親だったが、少なくともあの時だけは素敵だった。

何かがあった時に、真っ先に聞くべきことは怪我はしなかったか、身体はだいじょうぶか、ということ。あの少年の日に改めて学んだように思う。

魔法瓶のガラスのように、何かが割れることはある。しかし、身体が大丈夫だったら、きっと何とかなる。

家族や友人が心配すべきことは、その一点に尽きると思う。

12月 8, 2010 at 07:08 午前 |

2010/12/07

生きることは、頼りなく、心細いことなのだと感じる。

霧島アートの森を訪れたとき、思い出したことがあった。ちょうど一年ちょっと前、神社から、高千穂峰を見上げていた。三十年以上ぶりに訪れたので、懐かしくて、そしてうれしくて。

子どもの頃、蝶が山頂に吹き上げられてくるという話に胸をわくわくさせて、夜汽車の中眠れずに着いた霧島。確かこのあたりで、と探したキャンプ場は、場所が移動してしまっていた。

昨年の晩秋。あの時、上空にはヘリコプターがたくさん飛んでいた。かわいそうに、小学校の男の子が行方不明になっていて、ニュースでも大々的に報じられていた。綺麗に澄みわたった青空の下、山々の木々は紅葉して。そんな中、ヘリコプターが何機も上空を飛び、拡声器で「○○君、これが聞こえたら、手を振ってください。みんなが君のことを心配しています」と呼びかけていた。

ぼくはその男の子の気持ちになって、あるいは親御さんの心を想像して、胸がつぶれる思いで歩いていた。ひょっとしたら、そのあたりの木立から男の子が出てこないかな、と思っていろいろ探したが、姿は見えなかった。

あの時の高千穂峰は、本当に綺麗だったな。そうして、次第に赤くなっていく空、冷たくなっていく空気が、どんなに美しく、また心細かったことか。

男の子は、結局、その日、見つからなかった。

パスカルは、人間というものは宇宙の中で孤独に打ち震えているのだと書いている。

生きることは、頼りなく、心細いことなのだと感じる。そして、そのことを忘れないでいる人は、他人に対しても優しくなれるのだと思う。優しさは、魂の感じる孤独に比例するのである。

12月 7, 2010 at 08:56 午前 |

2010/12/06

さんざん遊んでも、まだ日が高く昇っている。それがうれしくて、楽しくて。

子どもの頃、母の実家があった小倉に帰る度に思っていたこと。九州は日が長い。南にあるということもあるし、西だから、日本標準時だと太陽の進行が遅れ気味ということもある。

ナガサキアゲハや、モンキアゲハ、ムラサキシジミにムラサキツバメ。その頃、関東では見たこともなかった蝶を追いかけて夢中になって、夕暮れになって親戚の家に帰ると、もうびっくりするくらい遅い時間になって、みんながお膳でご飯を食べていた。

「けんちゃん、どこ行ってたと?」

「まだ明るかったけん」

覚えたての九州弁で、そんな風に言いわけしたっけ。

蝶をおいかけて、さんざん遊んでも、まだ日が高く昇っている。それがうれしくて、楽しくて。何かとてつもなく得をした気分になって。

あの頃に、たった一日でも戻れたら、どんなに幸せだろう。

霧島アートの森の清澄な空気の中を歩きながら、そんなことを思い出していた。それは、昨日。

そして、今日は、大阪の雑踏の中に道を探して。

12月 6, 2010 at 02:41 午後 |

2010/12/05

アスリートになれ。市川海老蔵さんの『伊達の十役』。

 1月のある夕方、東京の新橋演舞場に出かけていった。市川海老蔵さんの舞台『伊達の十役』を観に行くためである。

 海老蔵さんの舞台には、何とも言えない華がある。そのことは、以前からわかっていたが、その「華」の理由を、改めて納得したような気がした。自分の心身を鍛え、ある一つの表現をする。その当否について、自らは一切語らないこと。そのような強靱な精神に裏付けられているからこそ、海老蔵さんの舞台には華があるのだと納得したのである。

 舞台から離れて、ひとりの人間として会う海老蔵さんは、自由闊達で気さくな若者である。細やかな心遣いをする。気をそらさない。みずみずしく、元気な生きもの。そのような海老蔵さんが、広く人気があることは肯ける。

 一方、舞台の上では、海老蔵さんは鬼になる。龍になる。気迫はすさまじく、その体力、気力も並大抵ではない。そのような目を見張るような変化の根本的な原因は、海老蔵さんがひとりの「アスリート」であることに求められる。

 ここでは、「アスリート」といういう言葉を広い意味で使っている。そして、海老蔵さんのアスリートとしての生き方は、広く社会のさまざまな分野で活動している人にも大いに参考になると思う。現代に特有の「病理」に陥らずに心身を「健康」に保つためには、海老蔵さんの「アスリート精神」のエッセンスを服用すると良い。

 「アスリート」とは、言うまでもなく狭義ではスポーツをする人のことである。100メートルを走ったり、野球のボールを打ったり、槍を投げたりする。このような競技者に共通するのは、自分の努力や、パフォーマンスの結果について余り多くを語らないということである。

 「結果が全て」。自分が努力したことがそのまま出てしまうし、逆に努力したからといって報われるとは限らない。言い訳は無用。頼りになるのは自分の肉体だけ。誰も助けてくれない。アスリートが無口になり、あれこれと言挙げすることを避けるようになるのは当然のことだろう。

 新橋演舞場の舞台で、海老蔵さんはひとりのアスリートだった。誰も助けてくれない。言い訳はできない。そのような孤独な戦いに立ち向かう海老蔵さんの姿が、「華」となり、人々を惹きつける。

 『伊達の十役』は、もともとは七代目團十郎が初演したもの。その後、長い間演じられなかったのを市川猿之助さんが復活上演して評判になった。私が大学生だった頃である。

 今回海老蔵さんは猿之助さんの演出で演じた。四十回以上にも及ぶ「早替わり」。十の異なる役。その中には、派手な立ち回りをする役もあれば、じっくりとせりふを聞かせる役もある。男性役も、女性役も、若い役も年老いた役もある。悪人もいれば善人もいる。長時間にわたる舞台は体力的にも気力的にもつらい。

 私は、孤軍奮闘する海老蔵さんを心から素敵だと思った。そして、一体世間というものは、そんな海老蔵さんの姿をどれくらい知っているのだろうと思った。

 メディアの中の海老蔵さんの報じられ方は、「希代のモテ男」というもの。最近になって、海老蔵さんは素敵なパートナーに出会った。その出会いを巡る報道のされ方も、どこか浮ついている。

 誰もが、自分の「現場」を持っているはずである。仕事や、生活のこと。自分の身を持って何かをすることの難しさくらい、心に染みついているはずだ。そのような地に足がついた生活実感と、マスコミの風潮は別物であるように感じられる。

 時代精神というものがあるのだろう。インターネットの発達によって、誰でも簡単に不特定多数に対して意見を表明できるようになった。そのことによって、「一億総評論家」と言われる傾向が加速している。文化や経済、政治にかかわる同時代の現象はもちろん、歴史上のことや、人物評。気楽に、大抵は匿名で書き込まれたコメントが流通する。そのような時代の気分の中で、メディアの傾向も作られていく。

 まるで自分が森羅万象についての評論家になったような気分を味わうのはそれなりに楽しいことなのだろう。一方で、自らの心身をもって何かをなすということの難しさは、どこかに置き去りにされてしまう。

 人間の脳は、自らの身体を使って行動しなければ、本当の意味では学習することができない。日本人が一億総評論家になってしまったかの感がある今日、日本の「国民総学習」のレベルもその実質において確実に低下している。

 海老蔵さんの舞台を見ながら、そのせりふの一つ、仕草の一つをもし自分がやらなければならないとしたら、どんなに難しいかと想像してみた。

 アスリートになれ。「自分だったら」と想像して見ることからしか、他者に対する尊敬も、深い自負も生まれない。

週刊ポスト 連載 「脳のトリセツ」 2010年1月掲載

12月 5, 2010 at 07:07 午前 |

歌舞伎の奇跡

 学生時代から、歌舞伎をたくさん見てきた。さまざまな演目が、私という存在の血となり、肉となってくれた。そのエネルギーがあまりにも強いため、未だに自分の人生でそれをどのように生かせばいいのか、見定めることができないでいる。

 現代の日本において、歌舞伎という舞台芸術が繁栄し続けていることは一つの奇跡だと言えよう。どれだけ売れるか、いかに人気を博すかということだけが問題にされがちな今日。市場の「自由競争」の隆盛の一方で、文化はどんどん薄味になっている。そんな中、歌舞伎は、簡単には言い尽くせないような濃密な体験を観客に提供し続けている。

 歌舞伎の奥深さは、例えば、その物語が単なる勧善懲悪ではないというところに表れる。もちろん、社会の規範意識が強かった江戸時代のこと。表立って悪を肯定することができるはずがない。それでも、単純に悪を懲らしめるという構図からは逸脱する生命の勢いのようなものが、歌舞伎の舞台から観客席へと流れ出てくるのである。

 歌舞伎においては、しばしば悪役が魅力的に描かれる。歌舞伎の代表的な演目の一つ、『夏祭浪花鑑』。七段目の「長屋裏」の場では、魚屋の団七が、舅の義平次を惨殺する。義平次は、もともとは、親がいなくて放浪していた幼い団七をひきとってくれた恩人。娘のお梶と結婚していることもあり、団七は義平次に頭が上がらない。 

 そんな団七が、強欲な義平次に苦しめられ、もみ合ううちにちょっとしたことがきっかけで持っていた刀で義平次を切ってしまう。舅といえば、親も同然。その親を切るのか、と執拗になじる義平次。流れる血に、もはやこれまでと団七も覚悟を決め、義平次にとどめを刺してしまう。

 団七は義平次の亡骸を捨て、返り血を洗い流してその場を立ち去る。折しも、だんじり祭りの日。団七は、あっという間に群衆に紛れる。初めてこの段を見た時、その祝祭的なカタルシスに衝撃を受けた。

 人殺しは、もちろん良いことであるはずがない。悪人であるとはいえ、一つの命が失われる。団七にしても、いかに阿漕な舅とはいえ、命までは奪いたくはなかっただろう。

 現代的な視点から言えば、たとえ偶然のきっかけから始まったとはいえ、糾弾されるべき団七の犯行。しかし、歌舞伎は、舅殺しという悪を肯定こそしないものの、いかにも魅力的に描く。団七の一挙手一投足に、観客の目が釘付けになる。

 「長屋裏」の場を人形浄瑠璃(文楽)で見た時も、芸術の奥深さに心を打たれた。団七が義平次を殺めた後の舞台に、だんじり祭りの神輿が入ってくる。すさまじい勢いで殺到する男たち。人形が、神輿にぶら下がり、振り切れんばかりの激しい勢いで揺れる。まるで、世界全体が、団七の悪事の噴出に呼応して鳴動しているかのようだった。

 カタルシスの象徴的表現としては、ひょっとしたら人形浄瑠璃の方が純粋かもしれない。しかし、歌舞伎は、団七のためらい、ひたすらの忍耐、それを乗り越えた時の決然たる実行といった心の機微を余すことなく表現する。悪の人間的機微を表現するという点において、歌舞伎は一つの頂点をなすのである。

 「悪」とは何なのか。これは、難しい問題である。社会のシステムを根底から作り替える「革命」は、時に人を殺めるという悪なしでは成就しない。私たちの生存自体が、他の動物を殺めるという行為の上に成り立っている。「悪」は、私たちの命の根本に関わっている。

 私たちの生命という営みの根幹には、どうやら悪の気配がある。それを、キリスト教徒は「原罪」と呼ぶのであろう。否定しようのない事実を直視している点において、歌舞伎は現代の公式的倫理観よりも生命の真実に近い。

 近松門左衛門の『女殺油地獄』。その品行から、同情の余地のない与兵衛という男が、何の罪もない女を惨殺する。観客の心がざわざわと動く。歌舞伎を見に来る人が、悪を肯定しているわけではもちろんない。しかし、悪のカタルシスに触れることで生命の泉からこんこんと水がわき出す思いがすることも、また事実なのである。

 現代においても生き続けている、歌舞伎という智恵。さまざまなものが管理され、本来は何があるかわからない人生さえもが予想可能とされる社会。あるべき状況から逸脱する「不祥事」があってはならないものとして封印されていく。そんな状況の中で、歌舞伎は、日本人にとって自らの存在の奔流を維持する上での生命線となっているのかもしれない。

 歌舞伎の創始者と伝えられる出雲阿国が京都の北野天満宮で「かぶき踊り」の興行をしたのは1603年とされる。折しも、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いた年である。

 1467年の「応仁の乱」以来続いた戦乱の世。親や子でさえ裏切り合った下克上の時代に迸った生命のエネルギー。天下が統一され、社会が安定化するに従って、人々の生きざまのダイナミック・レンジは、急速にしぼんでいった。

 社会規範という、私たちの生命を支えてくれるはずの安定性の中で、私たちの命はかえってやせ衰えていく。その逆説の間隙を、歌舞伎という芸術は突き崩す。

 社会の中に悪があってはならない。被害の不条理に泣く人が出てはならない。そう信じる善良なる市民が、歌舞伎を見に出かけ、舞台狭しと暴れ回る悪の美に酔いしれる。

 現代の社会にあってはならぬ悪の芸術的表現に触れることで、かえって生命が甦る。ここに、「歌舞伎の奇跡」がある。

「歌舞伎の奇跡」 サンデー毎日 連載『文明の星時間』第73回 2009年7月掲載

12月 5, 2010 at 07:02 午前 |

2010/12/03

市川海老蔵さんについて

11月26日にこのブログに書いた日記を、入院中の市川海老蔵さんが読んで下さったらしい。

連日の報道については、いろいろと思うことがある。考えは全く変わっていないので、改めて、当日に書いた日記を再掲する。

これまで、忙し過ぎたんだから、これを「休む」良い機会だと思って、ゆっくりと治していただきたい。一日も早いご快復を祈る。海老蔵さんの笑顔を見るのを、みんな待っています!

「海で荒波にもまれている漁師が、数日間陸に上がる、そのような狭間」

歌舞伎役者というものが、いかに過酷な稼業であるか、なかなか想像できるものではない。

公演が始まれば、ほぼ一ヶ月、休みなしで演ずる。一番大変なのは、昼夜通し公演で、朝から晩まで、休みなしに台詞を吐き、舞台を飛び回り、見得を切らなくては行けない。

声を整え、体調を維持する。その努力は大変なものである。だから、本公演中は、市川海老蔵さんは文字通り劇場と家、あるいは宿舎を往復するだけで、お酒を呑んだりといったことは基本的にしない、そのように聞いている。

歌舞伎役者のオフは短い。公演が終わって、次の公演まで数日間。その間に稽古をつけ、台詞を覚え、初日はもう完璧にこなさなければならない。

それは、人間だから、気晴らしは必要だろう。その息抜きを、公演の狭間のわずか数日でやらなければならない。連日飲み歩いているのではない。海で荒波にもまれている漁師が、数日間陸に上がる、そのような狭間でのことなのである。

海老蔵さんが『伊達の十役』をやった時、当たり前のように見事に台詞を言い、立ち回りをして演じているのに感動した(http://bit.ly/el40iM )。舞台に立てば、もう言い訳はできぬ。海老蔵さんの演技を楽しみに、やってくるたくさんのお客さん。そこでの見事な役者ぶりを見たら、オフの日くらい少しは息抜きして欲しいとおもう。そうじゃないと、体力的にはもちろん、精神的に持たない。

もともと、「かぶく」ということはどういうことか、日本人はもう一度考えてみたらどうか。日常を超えた人間のスケールを自らの肉体描くために、役者がどれだけのことを耐えなければならぬか。そこには凄まじき修羅場がある。たまには朝まで呑んだって、いいと思う。

記者会見に身体的、精神的に耐えられなかったというのはおそらくは本当で、それだけ生真面目だということである。その前日に飲むということを、学級委員はけしからんというのだろうけれども、歌舞伎役者としての以上のような過酷な生理に寄り添って考えれば、よくわかる話である。

結局、悪いのは殴った方。ぼくは何があろうと市川海老蔵さんを支持する。一日も早い回復をお祈りしています。

(2010年11月26日 「茂木健一郎 クオリア日記」 掲載)

12月 3, 2010 at 11:18 午前 |

2010/12/02

ある存在がcontroversialである(議論を呼ぶ)ということは、それだけ新しい時代を切り開く重要な意味を持つということ

日本では、ウィキリークスを政治家が単なる「悪」と決めつたり、マスメディアがそのような言い方に同調する傾向があるが、そこにこの国の後進性が表れているのだろう。

政府が、その政策履行に伴う情報を、自らの都合によって開示したり、しなかったりする権利を持つということは断じてない。個人にはプライバシーがあるが、政府にはプライバシーはない。パブリックなプロセスは、できるだけ透明にしなければならない。

もちろん、安全保障上の問題や、政策履行の実際上の必要性からある時期秘密を維持する必要があることもある。その時期が過ぎれば、多くの国が外交機密を公開している。いつ、どの段階でオープンにするかは、いずれにせよ議論されるべき問題。政府が、一方的に「これは良い」「これは悪い」と決めつけてそれが通るのでは、中国や北朝鮮のような国になってしまう。

ウィキリークスのやり方が正しいかどうか、さまざまな議論があるだろう。しかし、ある存在がcontroversialである(議論を呼ぶ)ということは、それだけ新しい時代を切り開く重要な意味を持つということである。日本も、ウィキリークスのような存在をうまく受容できないと、いつまで経っても世界の文明の趨勢から取り残される。

12月 2, 2010 at 07:28 午前 |

2010/12/01

ぼくの大切な漱石の絵の、子どもが心細そうなその様子を相場が見てくれるわけではない。

 昨日放送された「なんでも鑑定団」に出た漱石の絵は、ぼくが惚れ込んで神田の古本屋で買ったもの。

 もう、十年くらい前かな。

 学生時代から通っている店の二階にあった。ひと目見て惹きつけられて、いいな、と思った。子どもが縁側で遊んでいる。何かが忍び寄ってくる気配がする。うまいとか、下手とかそういうことではなくて、漱石その人の「存在論的不安」が描かれていると思った。 

 何度も通って見ているうちに、ますますとりつかれたようになった。一年くらいふらふらしているうちに、これはもう、ぼくが手元に置いておくしかないのではないかと思った。

 逡巡したけれども、御主人にそういって、その場ですぐに銀行に行って振り込んだ。お金が一気になくなって、懐がすうすうした。以来、お守りのようにして、時々眺めては、漱石の偉大な事蹟を思い、ぼくもうかうかしてはいられないと励ましている。そのような意味では、大切な「生産財」である。

 スタジオで、鑑定士の先生に、リーマンショック以来この手のものは安くなりまして、と言われた。古本屋で買った時よりも、ずいぶん安くなっていた。なんだか、自分のことではなく、他人のことを聞いているような気がした。

 マーケットというのはつまりそういうことなのだろう。漱石のハガキの絵だったら、これくらい、という相場がある。相場はこだわりから生まれるのではない。ぼくの大切な漱石の絵の、子どもが心細そうなその様子を相場が見てくれるわけではない。ぼくは、そこが好きなのに。相場なんていうものは、つまりは所詮は紋切り型のもので、文句を言っても仕方がない。

 でも、市場というのは凄まじいな。

 結局、市場を超えたところに生命があるのだと思う。市川海老蔵だって、この事件でタレントとしての価値がどうのこうの、CMがああだこうだという人がいるけれども、海老蔵は海老蔵なんだから、何があってもこちらの気持ちが変わるわけがない。あくまでも大切に思うよ。

 市場は資本主義社会では大切だが、私たちの生命とは根本的にすれ違っている。市場のことばかりに気をもんでいる人は、きっと、自分の生命からさえ離れてしまっているのであろう。さびしいね。

 市場は歴然とあり、個人のこだわり、思い込みの間にすれ違いの悲喜劇がある。そこには人間のドラマがある。「なんでも鑑定団」が人気なのは、そこなんだろう。


12月 1, 2010 at 10:15 午前 |