連続ツイート 適応
適応(1)一見、愚かに見える行為も、実は何かに対する適応であることが多い。それでは、愚かさとは何か、賢さとは何か。この世界の「適応」の多様性に目を向けなければ、見きわめることはできぬ。
適応(2)日本人は、空気を読むという。それは自由と創造性の面から見れば愚かだが、日本の社会の中では、見事な適応である。逆に、日本の社会に不適応な人が、より広い文脈で見れば自由と創造性を発揮する。
適応(3)受験は過酷な適応の文脈である。とにかく合格しなければ仕方がないのならば、割り切って適応すればよい。そして、受験が終われば、きれいさっぱりその文脈から離れてしまえば良い。いつまでも入試の成績がどうのこうのと言っているのは愚の骨頂である。
適応(4)談話している時は、その相手に適応するのが人間としての礼儀、真心である。そのことで新しい自分が生まれることもあるし、発見もある。そして、その人にサヨウナラをしたら、広い世界の中に戻っていけば良い。
適応(5)「中心」の論理に合わせ、そこに仲間入りしたいと過剰適応する「周辺」の人がいる。自分はメンバー入りしたとばかりに、まだの人を見下し、差別する。学者コミュニティに多く見られるから気をつけると良い。「中心」の人は大らかで、心が広い。
適応(6)最高の適応は、文脈に依存しない。どんな状況でも、柔軟に対応できる。あるいは文脈を創り出すことができる。それが最高の知性であるはずである。科学の隆盛は、ここに起源がある。
適応(7)適応が文脈依存であることを忘れると、安易に人を序列化しようとする。最高の適応は、点数をつけられない。文脈が固定化できないのだから、順番のつけようがないのである。
適応(8)一つの文脈における不適応が、別の文脈では適応となることがある。だからこそ、失敗や迫害を恐れてはいけない。不適応と適応の汽水域の中にこそ、香ばしい生の脈動がある。
適応(9)諸君、時には敢えて不適応になろうじゃないか。それが文脈からの自由というものだよ。
以上、「適応」についての連続ツイートでした。
私は、誰でもあり得たのだ! しかしながら、何故かわからないが、私は今ここにこうしているのだ! 『生命と偶有性』(新潮社)
何かをしようとして、思いもかけぬトラブルが続くと誰でもいらいらする。しかし、見方を変えれば偶有性の恵みが訪れているのである。
曇ってきて、おっ、崩れるぞ、雨が降るぞと思わせてそれでも晴れている。こういう天気が、いちばんありがたい、と思わせるね。
(2010年10月12日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 25, 2010 at 08:43 午前 | Permalink
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