2010/10/31
神津島、丸金の塩辛
先日、伊豆諸島のPTA総会で神津島を訪問したとき、懇親会で出た塩辛が美味くてうまくて、二皿も三皿も食べてしまった。
そうしたら、その塩辛を作っていたのは、懇親会の司会をしていた人だった。石野田富士雄さん! 一人二役!
翌朝、地図にあったので、ふらふらと丸金商店を訪ねた。神津島の街は気持ちいい。心惹かれる細い道があり、風がくるりと回って木々へと誘う。
あった! 丸金商店。しかも、ちょうど石野田さんがバイクに乗って帰ってきた。
「おやじさん! 見つけましたよ!」
店の中を見せていただいた。丸金の塩辛は赤イカを使っている。島のひとたちが丹念にさばく。何よりもピリ辛がうまい。おやじさんが手を広げる。なんと、島とうがらしを使っているのだという。
そうか、あのうまさの秘密は、赤イカと島唐辛子だったか。
戻ってきて、毎朝丸金の塩辛でご飯を食べている。まったく飽きない。今朝も、葱とお湯をかけて食べた。丸金のオヤジさん、ありがとう。神津島に行ったら、また散歩してふらふらとうかがいますね!

丸金商店の雄姿。神津島の街中にあります。

丸金の塩辛。うまい。

おいしさの秘密、島とうがらし。

島とうがらしを持った、丸金の石野田富士雄さん
丸金商店のホームページ
http://marukin-shouten.com/index.htm
10月 31, 2010 at 08:11 午前 | Permalink
2010/10/29
人生というものは、たとえ割れてしまっても、金接ぎできるものと
紀伊國屋ホールでの講演が終わって、仁藤輝夫さんたちと打ち上げて呑んでいたら、白洲信哉から電話があった。
「肉たべにこないんですか。」しらふしんやが、すっかり白洲信哉になっている。
会いたい気持ちがあった。黄瀬戸が金接ぎして戻ってきたと、10月25日の日記にある。
http://bit.ly/bYTkAt
「長らく事故で入院していた黄瀬戸盃が完治して戻ってきた。死にたいようなショックだったけど、いまこうして目の前にあるこいつをみていると以前より愛着が増している。接いでくれたかたの愛情も加わっているのであろうか、これから一緒に人生をともにしていきたい。」
金接ぎ、どうなっているんだろう。信哉、元気かな。
今日だけは行かねばなるまいと思った。
外に出たら、雨が降っているが、傘を差すほどのこともない。
見事な金接ぎ。そうして、信哉は口は悪いが肉はうまかった。
あの時も、信哉は肉を焼いていた。やはり伊賀だったかしら。眠ってしまって、はっと覚めたら部屋が真っ暗になっていて、ぼくと、白洲信哉と、池田雅延さんだけが眠っていた。ひどいな、みんな帰ってしまったんだ。
暗い夜道を歩いていると、信哉と池田さんが肩を組んでいる。思えば、あれは、幸せの原風景だったな。
人生というものは、たとえ割れてしまっても、金接ぎできるものと、白洲信哉は教えてくれたんじゃないか。そのことを、「家庭画報」の新年号の原稿に書いたのである。



10月 29, 2010 at 09:03 午前 | Permalink
2010/10/27
本当に、資本主義社会というのは面白いところで、ときどきはっと気付くことがある。
私たちは資本主義社会に生きており、人々の欲望が社会を作り出していく。
そのことを、ときどき、本当に不思議なことだと思う。
しばらく前、山陰の温泉に行ったとき、同行の人たちとカラオケをしたら、旅館の人たちがおじさんたちと踊っていた。
おじさんたちは、歌をうたうというよりも、女の人たちとチークダンスをすることを目的としていて、店もそのような体制になっていたのだ。
曲がスローでなくても、歌詞が合っていなくても、とにかく手を握って踊るのだというおじさんたちの意志は、強いもののようだった。
私自身の中には、「十五の夜」を歌うときにチークダンスをしたいという欲望はないけれども、旅館の中にそのような店があって、そのようなサービスがあって、つぶれないで存在しているということは、マーケットの中にはそんな欲望が存在するのだろう。
メジャーなものからマイナーなものまで。さまざまな欲望が、社会を形づくっていく。
雑誌コーナーに行くと、いろいろな雑誌がある。この前、釣りの雑誌を買ったら、いろいろな魚のことが載っていて、面白かった。
「週刊 意識の謎」というような雑誌が存在しないのは、資本主義のマーケットの中で、意識の謎を解きたいという欲望は、十分なマスを持っていないからだろう。
本当に、資本主義社会というのは面白いところで、ときどきはっと気付くことがある。
10月 27, 2010 at 06:53 午前 | Permalink
連続ツイート ブログ
連続ツイートをまとめる新しいブログを立ち上げました。
「茂木健一郎 連続ツイート」
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/tweets/
これからは、連続ツイートはこちら側にまとめます。
10月 27, 2010 at 06:28 午前 | Permalink
2010/10/26
連続ツイート もてる女
しゅりんくっ! ぷれいりーどっぐくん、朝のさわやかな空気の中でおはよう!
ホームレスの方が販売し、自活する雑誌The Big Issue日本版の最新号の表紙は、恥ずかしながら私です。街で見かけたら、ぜひぜひ買ってください! 販売者の方と、話してみてください! http://bit.ly/dls1cG
もて女(1)昨日、男性がもてるためにはどうすればいいかというテーマで連続ツイートしたので、今日は、女性がもてるための方法について考察したい。
もて女(2)化粧においては、自分の短所を見えにくくし、長所を強調する。同じように、心の性質についても、相手に見せるところ、見せないところを工夫する必要がある。うまく「隠す」ことが必要なのである。
もて女(3) もてる女は、美しい秘密を持っている。少なくとも、持っていると、相手に錯覚させるのである。
もて女(4)隠していることを意識すると、ぎこちなくなる。最高のマジシャンは、自分がマジックをしていることを忘れる。いい女とは、自分が隠していること自体を忘れる「無意識の偽善者」(夏目漱石)でなければならない。
もて女(5)自分の心に浮かぶことをすべて話すようになると、「おばさん」になる。無意識のたれ流し。フロイトが指摘したように人はさまざまなことを考えるが、そのうち何を話すべきか凛とした選択ができるのが「いい女」である。
もて女(6)『赤毛のアン』で、アンはひと目見て愛してしまったギルバートに赤毛をからかわれたため、5年間も沈黙を守る。ギルバートを愛しているという「秘密」を守り通したアンは、「いい女」である。
もて女(7)男性は、秘密を抱いていると印象付けるとともに、自分が埋めることのできる「空白」があると感じられる女性に惹きつけられる。「スキ」がなければならない。
もて女(8)スキがある女とは、服装がだらしがないとか、そういう意味ではない。相手に、この人の空白を埋めたいと思わせる、魂の吸引圏があるのだ。
もて女(9)自分の無意識を上手に隠し、相手を惹きつける空白をつくる。無意識という土壌を耕し、美しく整える人が、「もてる女」となる。
以上、「もてる女」についての連続ツイートでした。
(2010年10月16日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 26, 2010 at 11:54 午前 | Permalink
連続ツイート 「もてる」方法
しゅりんくっ! ぷれいりーどっぐくんおはよう!
もて(1)男が、どんなにもともとのファンダメンタルズが悪くても、もてる方法がある。見かけがさえなくても、頭がダメでも、性格に問題があっても、この一つの方法さえ知っていればもてる。
もて(2)自分自身の欠点や短所を、ユーモアをもって笑いとともに語れる男は持てる。出発点がマイナスであればあるほど、それをプラスに変えることができる、黄金の魔法がそこにあるのだ。
もて(3)自分の欠点がばれないようにしている人がいると、周囲は気まずくなる。みんな気付いているのに、本人だけが頑として認めない。そうなると、話しにくいし、リラックスできない。
もて(4)笑われまいとするから硬くなる。笑われてもいい、いや、一歩進んで、笑ってもらおう。そのような積極的な姿勢が、魅力的な人柄をつくるのである。
もて(5)カツラの人が、ばれないように必死になって隠していると、周囲は気まずくなる。夏など、入ってくるなり、「いやあ、暑いね」と自らカツラを外して、扇ぎ、おしぼりで頭を拭いて、それからまた付け直すくらいの人がいれば、周囲は「この人は乗り越えている」と一目置く。
もて(6)自分の短所を「メタ認知」して笑いとともに表現できる人は、相手の短所もやさしく見守る包容力を持つ。自分の欠点を隠そうとする人は、相手の欠点に対しては案外攻撃的になるものである。
もて(7)女性が男性の話を聞いて笑っているときには、女性は男性に好意を持っている確率が高い。その逆は残念ながら真ではない。ここに女のお笑い芸人の苦しさがある。笑いをとるか、女をとるか。
もて(8)日本人の男子は、国際的になかなかもてないとされるが、諸外国から見た自分たちの欠点を、笑いで表現できるようになれば事態は変わるだろう。やたらとお辞儀してしまうとか、ついつい名刺を両手で出してしまうとか。
もて(9)結局、もてるために必要なことは、「メタ認知」であり、自分を捨てることである。よりよく生きるための処方箋と一致しているのは偶然ではない。女は、よりよく生きている男を選ぶものだからだ。
以上、「もてる」方法についての連続ツイートでした。
木村秋則さんに会った! どん底からの太陽の光を見た! 人間、覚悟を決めて引き受けると、根が深く広く張るね!
(2010年10月15日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 26, 2010 at 11:50 午前 | Permalink
連続ツイート 言語政策
しゅりんくっ! ぷれいりーどっぐくん、おはよう。
MacBookが壊れてさ、修理に夢中になっているうちは「お祭り」なんだけど、それが終わると、結局仕事、仕事、仕事の日常が戻って来るんだよねえ。
言政(1)言語政策(language policy)は一国にとっても大切だが、一人ひとりにとっても重要である。今朝は言語政策について考える。
言政(2)明治以降、西洋の概念を翻訳することで日本語の宇宙は豊かになった。中国でも、社会科学で使われる概念の7割はこの時期の「和製漢語」だという。
言政(3)翻訳文化は、一方で、リンガ・フランカである「英語」の世界との直接のやりとりを妨げた。この点が、現在に至るまでの日本の禍根となっている。
言政(4)「翻訳」はアルゴリズムではできない創造的な行為であり、日本語の耕作はこれからも続けなければならない。英語を公用語の一つとするのは良いが、第一言語とするのはナンセンス。多様性尊重の精神にも反する。
言政(5)日本語を大切にする一方で、リンガ・フランカたる英語での表現、活動にも全力を尽くす。このようなダブル・バインドな状況に身を投じるしか、日本人にとって「納得のいく」言語政策はないだろう。しんどいが、仕方がない。
言政(6)日本でも、研究室内で英語を使う政策があるが、適切とは思えない。日本人どうしが下手な英語で議論するのは、不自然だし、「文脈に適応する」という脳の一般法則にも反する。
言政(7)その場に一人でも外国人がいたら、英語で話す。排除の力学を働かせないためである。思いやりではない。少数派を含むコミュニケーションを立ち上げることが、普遍性への志向を鍛えるのに資する。
言政(8)日本人が英語で自由闊達な著述、論述を始めるのが言語政策における最重要の課題。思想における日本のプレゼンスの矮小化は、英語世界における超新星爆発によってしか突破できぬ。みな、キラキラしよう。
言政(9)日本の大学における言語政策の最適解も、日本語でも英語でもどちらも全力投球の講義、研究を続けることだろう。ダブルバインドは二倍のエネルギーがかかってしんどいが、懸命に働く人にはきっと明るい太陽が輝くよ。
以上、言語政策(language policy)に関する連続ツイートでした。
14時から京都全日空ホテルで私がYAMAHA音楽振興会主催の講演会をさせていただくようなのだけど、ネットに情報がないからわからない。不安なり。とりあえず京都に向かう!!!
(2010年10月14日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 26, 2010 at 11:45 午前 | Permalink
神津島旅行記(1)
神津島に来るのは、二度目である。前回は研究室の合宿で来た。天上山に登ったら、砂漠になった。高野さんが途中で断念して、下で休んでいると言った。上からおーいと手を振ったら、色の点が動くのが見えた。アベコベガエルの話をした。夕暮れ、散歩をしていてたどりついたお寺。お墓に沢山花が添えられていてきれいだった。
調布飛行場から飛び立つと、すぐそこに家々が見える。身近に感じられるのに、あっという間に距離は稼いでいく。三浦半島が見え始めたと思って、反対側を振り返ると、富士山の黒々としたシルエットが見えた。
ジェット機は野蛮である。窓の外が、よそよそしく感じられる。最近は、眺めもしない。プロペラ機は、人間の香りがする。飛ぶこと自体の喜び。ずっと忘れていた。
洋上に出てからは、雲が海につくる影に見とれていた。パイロットはよい仕事だ。神に近くなる。大島の三原山が見えて、新島がずいぶん長いなと思っていたら、もう神津島である。ずいぶんと高台にあるように感じられる滑走路へと、飛行機は降下して行った。
「ようこそ神津島へ。」
横断幕をもって、迎えて下さっている。伊豆七島のPTAの大会があって、呼んでくださった。神津島で開催されるのは、20年ぶりだという。前回は群発地震で、開くことができなかったのだ。
10月 26, 2010 at 10:27 午前 | Permalink
連続ツイート ツイッター
『プラネットアース』などの自然史番組を制作してきた伊藤弥寿彦さん、養老孟司さんと。新潮社の足立真穂さんがお誘いくださった食事会にて。 http://bit.ly/9HLBvk
ツイ(1)ツイッターは、140文字だが、その中でさまざまな文章表現を工夫することができる。ツイッターの表現方法について再び考えてみたい。
ツイ(2)ツイッターは、文化的遺伝子(ミーム)の自由市場である。言葉に力があれば、リツイートされたり、返事をもらったりして拡散していく。サンゴが卵を産むような、そんな気持ちで送り出すとよい。
ツイ(3)著名人のbotのアカウントがある。その人がいかにも言いそうなことを書く。たとえばリリー・フランキーさんなど。「自分自身のbot」的に書いてみるというのも、ツイッター表現の一つの趣向かもしれない。
ツイ(4)「自分自身のbot」のように書くとはどのような意味か? 場所や時間の限定を超えている。つい引用したくなるような普遍性、定型性がある。「自分自身のbot」ツイートを時にはためして欲しい。
ツイ(5)ツイッターは、140文字であるため、少々尖った、過激なことを書いてもそれほど「書きすぎ」にならない。このため、従来の日本語表現にありがちだったぬるま湯的予定調和を打ち破るチャンスがある。試してみたい。
ツイ(6)「ツイート」の原義は、鳥のさえずりのように、小さなかすかな声でうたうこと。140字の文字列は、押しつけがましくないかたちで、しかしもし力があれば世界を変える潜在性を持ち、ネットを飛び回る。
ツイ(7)「声の大きい人が勝つ」「しつこい人が目立つ」の対極にあるのが、ツイッターの表現世界である。かぼそい声で良い。もしそこに実質があるのならば、世界は必ず耳を傾けるだろう。
ツイ(8)そこにあるのは、究極の離自性でなければならない。心を動かし、何某かの感慨を与える文字列を、自分から離れて「設計」できるか。
ツイ(9)ツイッターは、高い倫理性を持つ人にとっては強靱な学習の場であり、なれ合いや自己満足に陥らない道を開いたという点で何か新しい事態をもたらしている。
以上、ツイッター上の表現についての連続ツイートでした。
(2010年10月13日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 26, 2010 at 07:10 午前 | Permalink
2010/10/25
連続ツイート 適応
適応(1)一見、愚かに見える行為も、実は何かに対する適応であることが多い。それでは、愚かさとは何か、賢さとは何か。この世界の「適応」の多様性に目を向けなければ、見きわめることはできぬ。
適応(2)日本人は、空気を読むという。それは自由と創造性の面から見れば愚かだが、日本の社会の中では、見事な適応である。逆に、日本の社会に不適応な人が、より広い文脈で見れば自由と創造性を発揮する。
適応(3)受験は過酷な適応の文脈である。とにかく合格しなければ仕方がないのならば、割り切って適応すればよい。そして、受験が終われば、きれいさっぱりその文脈から離れてしまえば良い。いつまでも入試の成績がどうのこうのと言っているのは愚の骨頂である。
適応(4)談話している時は、その相手に適応するのが人間としての礼儀、真心である。そのことで新しい自分が生まれることもあるし、発見もある。そして、その人にサヨウナラをしたら、広い世界の中に戻っていけば良い。
適応(5)「中心」の論理に合わせ、そこに仲間入りしたいと過剰適応する「周辺」の人がいる。自分はメンバー入りしたとばかりに、まだの人を見下し、差別する。学者コミュニティに多く見られるから気をつけると良い。「中心」の人は大らかで、心が広い。
適応(6)最高の適応は、文脈に依存しない。どんな状況でも、柔軟に対応できる。あるいは文脈を創り出すことができる。それが最高の知性であるはずである。科学の隆盛は、ここに起源がある。
適応(7)適応が文脈依存であることを忘れると、安易に人を序列化しようとする。最高の適応は、点数をつけられない。文脈が固定化できないのだから、順番のつけようがないのである。
適応(8)一つの文脈における不適応が、別の文脈では適応となることがある。だからこそ、失敗や迫害を恐れてはいけない。不適応と適応の汽水域の中にこそ、香ばしい生の脈動がある。
適応(9)諸君、時には敢えて不適応になろうじゃないか。それが文脈からの自由というものだよ。
以上、「適応」についての連続ツイートでした。
私は、誰でもあり得たのだ! しかしながら、何故かわからないが、私は今ここにこうしているのだ! 『生命と偶有性』(新潮社)
何かをしようとして、思いもかけぬトラブルが続くと誰でもいらいらする。しかし、見方を変えれば偶有性の恵みが訪れているのである。
曇ってきて、おっ、崩れるぞ、雨が降るぞと思わせてそれでも晴れている。こういう天気が、いちばんありがたい、と思わせるね。
(2010年10月12日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 25, 2010 at 08:43 午前 | Permalink
連続ツイート 戦略
しゅりんくっ! ぷれいりーどっぐくん、おはよう!
戦略(1)デレク・シヴァーズのTEDにおける講演『社会運動はどうやって起こすか』(http://bit.ly/92xtNs)には、4種類の人々がいる。裸踊りをするリーダー、彼に追随する最初のフォロワー、小規模集団に参加する者、もう大丈夫とわかってから加わる日和見主義者。
戦略(2)リーダー、最初のフォロワー、小規模集団、日和見主義者は、それぞれ、「リスクをとること」についての、異なる戦略を表している。リーダーが最大のリスクを負い、日和見主義者は最小のリスクしか負わない。そうして、生物としては、どんな戦略も、あり得る。
戦略(3)誰もがリーダーにならなければならないという生物学的法則はない。むしろ、異なるリスク戦略をとる個体が混ざっているという「多様性」こそが、集団としての適応力を強靱なものとするのである。
戦略(4)リスクに対する戦略は、とりわけ、男性の淘汰に強くかかわる。女性は、一般に男性がどのように生きるかということを真剣に査定してパートナーを選ぶ傾向がある。その際、リスク戦略が重要な判断基準となるのである。
戦略(5)大学の教室などでアンケートをとると、やはり、リスクの高い戦略をとる男性は少ない。100人に2人、3人程度が、自分が裸踊りを始めるリーダーになると答える。最初のフォロワー、小規模集団、日和見主義者となるに従って、該当する男性は増えていく。
戦略(6)興味深いのは、裸踊りを始めるリーダーを恋人としたいという女性も、比較的少ないということである。「最初のフォロワー」、ないしは「小規模集団」くらいの男性が、自分の恋人としては適当であると考える女性が多い。「日和見主義者」でいい、という人もいる。
戦略(7)どんなに沈滞して、つまらぬ生き方も、生物学的には何ものかに対する適応である。日本のガラパゴス化も、環境に対する一つの適応戦略である。ガラパゴスな生き方が好ましい、と考える男性と、そういう男性を選択したい、という女性がいても全くかまわない。
戦略(8)日本の不幸は、適応戦略の多様性が失われている点にある。裸踊りを始めるリーダー、最初のフォロワーたちがあまりにも少ない。そのため、tipping pointを迎えることができない。多数の日和見主義者自体が悪いのではなく、多様性の欠如こそが問題なのである。
戦略(9)陳腐や平凡も一つの適応戦略だと認識することは、決して現状を追認、固定することにはつながらず、むしろその他の可能性へと目を向けさせてくれる。適応戦略は、変更可能である。よりリスクをとる側へと、自分の戦略を「アップグレード」しませんか。
以上、リスクに対する適応戦略をめぐる、連続ツイートでした。
朝食会場満席で並んでいる。列を見ると即座にどこか他の場所にエスケープしたくなるオレの性格、なんとかならないものか。
洗ったTシャツを乾き切らないままに着るとさ、あっ、プール入った後と同じ感じだと思うんだよね。
(2010年10月11日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 25, 2010 at 08:37 午前 | Permalink
連続ツイート 「踊り」
しゅりんくっ! ぷれいりーどっぐくん、おはよう。起きてすぐに、錦江湾の向こうに桜島を見た。
踊(1)生きている中で、どうしても「倦む」ことはある。自分の努力が無駄に思えたり、世間というものが動かしがたく感じられたり、そもそも、全てが虚しく感じられることがあるのだ。
踊(2)そんな時は踊る。意味など問わず、とにかく身体を動かす。実際に踊ることもある。メタファーとして踊ることもある。踊ることで、自分を地上に縛り付けようとする「重力の魔」に抵抗するのだ。
踊(3)「意味」は、ふと振り返った時に不意打ちのようにふわっと浮かび上がってくるものである。そんな「意味」はふっくらしている。「意味」を、行動を導くものとしてとらえてはいけない。そんな「意味」は鎖となり、踊る手足を縛ってしまう。
踊(4)頭を空っぽにして、とにかく踊り続けること。リズムと、響き合いと、流れにだけ着目せよ。周囲の万物との交歓に没入せよ。そうすれば、すべてが一段絡する頃に、美しい夕陽を見ることができよう。
踊(5)子どもの頃、夢中になって遊んでいて、日が暮れていくのに気付く。あの瞬間が、踊りの後に訪れる至福である。黒澤明の『まあだだよ』のラストシーンには、その機微が美しくとらえられていた。
踊(6)ギリシャ悲劇における『機械仕掛けの神』は、物語が煮詰まり、どうしょうもなくなった時に登場する。それは一種の踊りである。それで良い。論理的な整合性など関係ない。踊ってぜんぶ蹴散らしてしまえばいいのだ。
踊(7)生きることに疲れたとき、物事が行き詰まったとき、現実が動かしがたく感じられたとき、まさにその瞬間に、踊ってしまおう。スイッチを入れ、何も問わず、何も求めず、ただリズムに身を任せ、集中しよう。さすれば、魂は次第に白熱し、浮上しよう。
踊(8)踊りは「祝祭」でもある。モーツァルトの『後宮からの逃走』の最後、人質たちは解放され、皆踊り出す。そうそう。対立など忘れて、踊ってしまえばいいのだ。ええじゃないか。ええじゃないか。新時代を招くのは、踊りである。
踊(9)うまく踊れれば、それだけで良い。人生に必要なものは、それ以外に何もない。
以上、「踊り」についての連続ツイートでした。
温泉入って、出るとき、みすぼらしい靴があるなと思ったら自分のだった。
(2010年10月10日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 25, 2010 at 08:29 午前 | Permalink
連続ツイート 「カッケー」(かっこよさ)
カッケー(1)子どもの頃、女の子のほめ言葉として「かわいい」とか「きれい」があった。一方、男の子のほめ言葉としては「かっこいい」があった。「かっこいい」とは何か? ノーベル平和賞のニュースで、久しぶりに考えた。
かっけー(2)高杉晋作はかっこいい。チェ・ゲバラはかっこいい。ノーベなぜ、革命家はかっこいいのか? それは、彼らが、自らの身を危険にさらしてでも、社会を未来へと導こうとしているからだ。
カッケー(3)ある種の鳥のオスは、梢にとまってタカなどの捕食者を見張る。仲間にいち早く危険を知らせられると同時に、自らが食べられるリスクがある。そのようなオスが、メスにもてるのだという。
カッケー(4)仲間、共同体のために、身体を張ってリスクをとる。そのような個体を「かっこいい」と認識し、認知的に後押しすることで、そのような生き方を支援し、進化させてきたのだろう。
カッケー(5)ノーベル平和賞に決まった劉暁波さんはカッコいい。とりわけ、天安門事件当時の、若い時の写真はしびれるほどカッコいい。自由と民主主義の実現のために、自らの身体を危険にさらす、その様子を私たちはカッコいいと感じる。
カッケー(6)一方、「劉暁波氏は中国の法律に反した犯罪者である・・・」うんぬんとニュースで伝えていた中国のテレビのキャスターは、かっこ悪い。自らをリスクにさらしていない。ただ、集団に埋没して、マインドコントロールされているやつはかっこ悪い。
カッケー(7)中国への配慮ありありで、「普遍的価値が・・・」などと控え目にコメントしていたわが国の首相は、かっこ悪かった。「釈放しろ」となぜはっきり言えないかね。オバマ氏と菅氏の違いは、理想に対して身体を張れるかということ。オバマ氏はかっこよかった。
かっけー(8)社会のさまざまな場所で、共同体のため、理想に身体を張っている人たちがいる。その人たちは、「かっこいい」という周囲の認識を通して、報われることになるのだから、ぜひがんばっていただきたい!
かっけー(9)中国からの事前の「恫喝」にも関わらず、劉暁波氏への授賞を決定したノーベル賞委員会は、かっこよかった。ノーベル賞のcoolさも保たれた。一方、集団でかさにかかって個人を圧迫するもっともかっこ悪い存在も、明らかにされてしまった。
以上、「カッケー」(かっこよさ)についての、連続ツイートでした。
(2010年10月9日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 25, 2010 at 08:24 午前 | Permalink
連続ツイート ケンブリッジ
ケン(1)はじめてケンブリッジに行ったときは、おどろいた。カレッジのすぐ横に緑があって、牛が歩いている。実はここは牧場でもあるのだと聞いて、そんなものかと思った。
ケン(2)ケンブリッジから隣り村のグランチェスターには、30分くらいで歩ける緑が広がっている。そのすぐ近くのフランス人の家に下宿した。朝、牧場を走る。チューリングも散策したというその緑の中を、風を受けて走った。
ケン(3)トリニティ・カレッジの緑も、また美しい。聞くと、専門の庭師が30人もいるのだという。学問を行うところは美しくなければならない。藤原正彦さんの言われることが、真実だと感じた。
ケン(4)ケム川を最初に眺めたとき、その流れがゆったりとして、穏やかなのに驚いた。川岸の緑へのつながり方が、緩慢として優美である。ケム川のほとりを歩く時間が、至上のよろこびとなった。
ケン(5)ケンブリッジの中心街からすぐのところに、ジーザス・グリーンやパーカーズ・ピースなどの広大な緑地がある。大きな樹木が林立しているその道を歩くのが好きで、よく散策した。散策するにつれて、かえって狂気のようなものがこみあげてきた。
ケン(6)思考とはつまり内面の波乱である。ケンブリッジのおだやかで美しい緑が、平和的作用とともに内面の狂気を促す。あのようなかたちで自然を活かすその技法が、800年の歴史の中で育まれてきたのだろう。
ケン(7)チューリングがヴィトゲンシュタインの内面の疾走が、外部の「緑の平和」と共存する。ケンブリッジで過ごした日々において、そんな間合いをはっきりとつかんだように思った。その感触が忘れがたい。
ケン(8)人は、ある内的契機を掴みさえすれば、どんな場所にいてもその脈絡を失うことはない。田舎が何もなくて退屈だという人は、その契機をつかんでいない。ケンブリッジには学問以外には緑しかないが、ずっと頭の中にジャズが流れている、そんな生命のリズムがある。
ケン(9)ニュートンが、緑の中でぼうっとしているうちにインスピレーションを得たというのは本当だろう。りんごは、一つの点に過ぎない。ニュートンの狂気を育んだのは、平和で穏やかな緑の奔流だった。
以上、ケンブリッジについての連続ツイートでした。
(2010年10月8日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 25, 2010 at 08:19 午前 | Permalink
連続ツイート 可塑性
可塑(1)人間の脳のもっとも素晴らしい性質は、「変わる」ことができるということである。創造性の最良の顕れの一つは、自分自身が変わることができるということ。脳の「可塑性」(plasticity)がその変化を支える。
可塑(2)一つの神経細胞が、一万の神経細胞と「シナプス」を通して結びつく。この結合パターンが思考をつくり、感情を支え、人格を形成する。シナプスの結びつきの組み合わせは無限にあり、その無限の可能性の空間を、「可塑性」を通して探求する。それが私たちの人生である。
可塑(3)一千億の神経細胞の間に進行しつつあるすべての可塑性を把握することなど、とてもできない。今この瞬間も、あなたの脳は「ざわざわ」と変化し続けている。自分がどのような行動をとり、何を感じ、何を考えるかに依存して、脳はどんな方向にも変わることができるのだ。
可塑性(4)英語ができるようになるといった能力の向上も可塑性の現れである。一方、ブッダが菩提樹の下で「悟り」を開くのも、可塑性の現れである。誰かが好きだと気付くのも、可塑性の現れである。
可塑(5)脳の中には、数個のシナプス結合を通してどのニューロンからニューロンにも到達できる「スモールワールドネットワーク」がある。局所的な計算においても可塑性が存在し、長距離の結合においても可塑性が存在する。この組み合わせが「奇跡」をもたらす。
可塑(6)脳の神経細胞がスモールワールドネットワークの中でいっせいに活動し、その瞬間に可塑性が生じて今までとは異なるように世界が見える。このプロセスが「ひらめき」である。「ひらめき」は、脳が可塑性という「オーケストラ」を強奏して、美しい響きを立てる瞬間なのだ。
可塑(7)シナプス結合を変化させる法則としては、へブ則が提案されている。シナプスの両側でニューロンが同時に活動した際に、シナプス結合が強まる。可塑性の法則は、「局所」しか見ていない。それにも関わらず、全体としての見事なコーディネーションが成立し、認識が有機的に進化するのだ。
可塑(8)天才とは努力の仕方を知っている人である。天才に生まれるのではない。天才になるのである。脳の「可塑性」というポテンシャルを、ぎりぎりの限界まで駆使して、自分を形成する。そんな意志を持ち、実践ができる人が、天才となる。
可塑(9)根拠のない自信を持て。なぜならば、あなたはどのようにも変わることができるのだから。それを裏付ける努力をせよ。実践を通してしか、脳の可塑性は発現しない。そうして、可塑性の一つひとつのステップは、あなたが把握できない「マルチチュード」として、あなたに生じる「事態」となる。
以上、脳の「可塑性」についての、連続ツイートでした。
(2010年10月7日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 25, 2010 at 08:16 午前 | Permalink
連続ツイート 「私塾」
私塾(1)吉田松陰の松下村塾は、わずか3年しか存在しなかったが、高杉晋作など、多くの維新の志士を生み出した。これからの日本、世界に新時代をもたらすのは、「私塾」であろう。
私塾(2)「大学」は、規模が大きすぎるのが欠点である。何か変えるにも、時間がかかって仕方がない。規模が大きいからこそ、ブランドとなり、学歴信仰を呼ぶ。私塾は小さいから、実質において勝負するしかない。塾長の資質を慕う人が集まり、切磋琢磨する。
私塾(3)緒方洪庵の「適塾」で、福澤諭吉は猛勉強した。病気になり、寝ようと枕を探したが、枕がない。その時になり、はじめて適塾に来て以来勉強しては仮眠し、目覚めてはまた猛勉強というありさまで、枕を使って寝たことがないことに気付いた。
私塾(4)「私塾」を始めるのに、何も要らない。喫茶店でも、自分の4畳半の部屋でもよい。補助金も、認可も要らない。ただ、「始めるよ」と言って、同志が集まればいい。その上で、切磋琢磨する。必死になって猛勉強する。そんな私塾があちらこちらにできれば、日本は変わる。
私塾(5)大学や、小中高も、本当は「私塾」の集まりだと考えると良い。大学のゼミは、ある種の「私塾」である。小学校の担任が、生徒を感化する。「学校名」を単位にものを考えるから良くない。一人のすぐれた教師の下に、生徒たちが集っているのだと考えれば良い。
私塾(6)私塾で何を学ぶか? これが現代の考えどころだろう。やはり古典ではないか。論語や史記を徹底的に素読する。それから、外国語。英語のハードな文献を、皆で解読する。『解体新書』の偉業を見ればわかるように、わかっていないものどうしてワイワイやったって、いいんだよ。
私塾(6)大げさに考えるから、なかなか私塾が始められない。軽く考えて、とっととやれば良いのである。日本中にぼこぼこと私塾ができて、雨後のタケノコのようになる。そんな風にならないかしら。
私塾(7)夏目漱石の「木曜会」のように、ただ集まって雑談する、座談するというのでもよい。仲間たちの会話における丁々発止。ケンブリッジの「ハイテーブル」にも、日本的な展開や受容があっていいはずだ。
私塾(8)学ぶ側からすれば、「私塾」選びはブランドではなく、教師を見る直観に基づく。この先生は、何かを持っていそうだ。そんな直観が働いたら、黙って入門すればよい。それで、私塾どうしで大競争すればよい。少数の「有名大学」だけじゃ、寡占で真の競争にならぬ。
私塾(9)本居宣長は医者を生業とするかたわら、源氏物語について講義した。集まった松阪の商人たちは、「いままで様々な道楽をしましたが、学問ほどの道楽はありませんな!」と感嘆したという。日本人が学問を最高の道楽と感じるような、そんな私塾運動を起こそうではないか、諸君!
以上、「私塾」に関する連続ツイートでした。
(2010年10月6日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 25, 2010 at 08:09 午前 | Permalink
2010/10/16
連続ツイート 「僕が僕であるために」
僕(1)出張先のホテルで、流れで、youtubeで尾崎豊かの『僕が僕であるために』を見た。今までも好きな歌だったし、何回も聞いていたが、昨日の夜はなぜか心にしみ入って仕方がなかった。
僕(2)「心すれちがう悲しい生き様にため息もらしていた」。ためらいがちに、ゆっくりと始まる導入部から、ぐっと惹きつけられる。「人を傷つける事に目を伏せるけど優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく」他者は目に入っている。それでも、自分のあり方を探らずにはいられぬ
僕(3)「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」。ここに来て、本当にそうだ、と思った。「勝つ」というのは強い言葉のようだが、実際、僕たちは、「僕であるために」は、勝ち続けなきゃならないんじゃないか。
僕(4)世界についてどう感じるか、何を美しいと思うか、どのように生きたいか。そのような「僕」のあり方を、人はきっとどこかで曲げている。受験、就職、その他の人生の「試練」のさまざまにおいて、世間という大きなものに巻かれ、知らずしらずのうちに屈服している。
僕(5)「正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで」。自分勝手というわけではない。他者は目に入っている。自分と社会のあり方、人と人のあり方について、自分の腑に落ちる「解」があるか。それが見つかるまでは、風に身をさらすしかない。そして、「勝ち続けなきゃならない」。
僕(6)「勝つ」と言っても、点数を競うわけではない。風を受けたとき、それでも「僕」のやり方をつらぬくこと。ひそかに、ささやかに、生き続けることができること。無意識のうちに迎合してしまわないこと。そんな「勝ち」は、やさしさとして表れることもある。
僕(7)尾崎豊の楽曲は、日本語を母語とする人にとっての魂の叫びだが、どれくらい海外で知られているのか。英語の歌はずいぶんとゲタをはいている。広がっていないからといって、価値がないわけじゃない。
僕(8)「君が君であるために 勝ち続けなきゃならない」。日本人は、日本人であるために、「勝ち続けなきゃならない」のではないか。戦争をするわけではない。よーいドンで競争するわけでもない。ただ、僕たちの固有の感性を、グローバルな嵐にもまれながらも、ささやかに保っていたい。
僕(9)「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」。尾崎豊の楽曲はいいね。芥川賞、ノーベル賞、文化勲章、すべてに値する。自分の基準を持つこと。マスコミは、尻馬に乗るものだけれども、宝物が何であるかは、自分で決めたい。「「僕が僕であるために」。
僕(10)尾崎よ、ほんとうにありがとう。君には勇気があった。やさしさがあった。コンサートでの、ギターを持った君の歌い出し、間合い、全力疾走の表情、とても素敵です。迷いの中にある日本にとって、君がさらに大切な存在になる日が、きっと来るでしょう。
以上、尾崎豊の『僕が僕であるために』についての連続ツイートでした。
(2010年10月5日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 16, 2010 at 11:50 午前 | Permalink
2010/10/13
伊藤弥寿彦さん、養老孟司さんと。
養老孟司さん、『プラネットアース』などの自然史番組を制作してきた伊藤弥寿彦さんと。新潮社の足立真穂さんがお誘いくださった食事会にて。


10月 13, 2010 at 07:29 午前 | Permalink
伊藤弥寿彦さん、養老孟司さんと。
プラネットアース』などの自然史番組を制作してきた伊藤弥寿彦さん、養老孟司さんと。新潮社の足立真穂さんがお誘いくださった食事会にて。


10月 13, 2010 at 07:21 午前 | Permalink
2010/10/12
連続ツイート 「周辺視野」
周(1)人間は、ついつい自分が今注意を向けているものにばかり気が向かいがちだが、人生において本当に大切なものは、「周辺視野」の中に隠れていることが多い。
周(2)「出会い」がないと嘆く人がいる。そんな人は、周辺視野に目を向けてみよう。たとえば、仕事の打ち合わせの時に、となりのテーブルにいる人。美術館で、視野の中を横切った人。そこに、自分の人生を変える人がいるかもしれない。
周(3)人生を切り開いてくれる新しいアイデア、突破口となる何かも、「周辺視野」の中にあるかもしれない。今取り組んでいる何ものかから離れた場所にあるものに、自分に恵みをもたらすものがあるかもしれないのだ。
周(4)人間は、視野の中心にあるもの以外にも、内的な注意を向けることができる。たとえば、パーティーなどで、気になる人を視野の隅にとらえて注意を向けているような場合である。視野と注意のダイナミクスは豊饒であり、心の置き方をアスリートのように鍛えることができる。
周(5)周辺視野に注目すべきものが存在したら、即座に行動するのが良い。躊躇していると、「その一瞬」を逃す。自分と対象、世界の組み合わせにおいてただその時にだけ成立した香ばしい「組み合わせ」を解いてはいけない。
周(6)誰かに注目してもらおうと思ったら、その人の周辺視野に入るのが良い。できるだけ動線を一致して、その人が自発的に関心を持つのを待つ。強制すると、かえって逃げる。周辺視野の達人ならば、必ず注目してくれる時がくるはずだ。
周(7)子どもの頃、蝶を追いかけたことは周辺視野を鍛えるのに役立った。目当ての蝶が、視野に入ってきたら、瞬時に反応して走り出す。少しでも気付くのが遅れると、蝶はもう逃げてしまう。あのいきいきした感覚を、大人になり、文明の中で生き始めても忘れまいとしている。
周(8)仕事上のアイデアで行き詰まったとき、周辺視野の中で何か気になるものがないかと点検してみる。見つけたら、しばらくその気になるものに焦点を当ててみる。そのような作業から、突破口が開けることが多い。
周(9)何よりも、心の余裕を持つこと。Aという目標ばかり見ていては、BやCが来た時に見逃す。Aを追っていてBに出会うのが、セレンディピティ(偶然の幸運)である。セレンディピティに恵まれるためには、周辺視野を大いに活用すると良い。
以上、「周辺視野」についての連続ツイートでした。
(2010年10月4日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 12, 2010 at 08:29 午前 | Permalink
連続ツイート 「胸がざわざわすること」
ざわ(1)「私」が、「今、ここ」に、このようなかたちで存在するということには、何の必然性もなかった。そのような考え方が、「偶有性」の根幹にある。そのことに思いたるとき、胸の奥がざわざわしはじめる。
ざわ(2)大野くんのお兄さんにはいつも遊んでもらっていた。お兄さんが中学生になったころ、公園のベンチで遠くを見てぼっとしていた。どうしたの、と聞いたら、「けんちゃんにはわからないかもしれないけど、ぼくくらいになると、いろいろ考えることがあるんだよ」と言った。
ざわ(3)いつも遊んでいた大野くんのお兄さんの、そんな表情はみたことがなかった。中学生になると、自分が何なのか、どこにいくのかざわざわし始める。まだ小学生だったぼくには、そんなお兄さんの表情が眩しかったのだろう。
ざわ(4)夕暮れ、街を歩いているときに、何とも言えぬ不安に包まれることがある。自分を包んでいる社会的文脈がほぐれ、とけ、たった一人で世の中に放り出されているかのように感じるのだ。そのような時、胸の奥が、甘美にざわざわとし始めるのがはっきりとわかる。
ざわ(5)フィレンツェから間違って各駅停車の列車に乗ったとき、周囲がイタリア人ばかりで、そのうちとてつもない不安にかられた。このまま、ずっとこの国で、イタリア語で暮らし、恋をし、生活しなければならないとしたら。解らぬ言葉の響きに包まれながら、胸の奥がざわざわとした。
ざわ(6)子どもの頃、よく空想した。もし、UFOが突然迎えに来たら。君をこれから素晴らしい文明に連れていく。思いもしないさまざまなものに出会える。ただ、君の両親や、友だちにはもう会えないよ。さあ、どうする? そう言われたら、果たしてUFOに乗るか。想像すると、胸がざわざわした。
ざわ(7)希望と不安は、とても近いところにある。お不安が希望の母なのであり、その逆ではない。まずは自分を胸がざわざわする不安の中に置かなければ、希望も生まれようがないのだ。
ざわ(8)南の島に着く。ジャケットを脱ぎ、靴下を放り投げ、時計を外す。次第に裸になっていく。風や太陽と友だちになる。あの時のように、自分を包んでいる社会的文脈を一つひとつ脱いでいくことで、初めて私たちは「不安=希望」の夕暮れ時にたどり着ける。
ざわ(9)The stream flows, The wind blows, The cloud fleets, The heart beats, Nothing will die. / All things will change. (テニソンの詩より。)
以上、「胸がざわざわすること」に関する連続ツイートでした。
(2010年10月3日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 12, 2010 at 08:25 午前 | Permalink
連続ツイート ジェントルマン
ジェ(1)きのう、東京タワーの下のかくれ家レストランで、チャリティ・イベントがあった。そのとき、その話をしたので思い出した。ジェントルマンのことを書こうと思う。
ジェ(2)ジェントルマンとは、イギリス生まれの呼称だが、決して、金持ちだったり、社会的地位が高い人のことを指すのではない。むしろ、ジェントルマンとは、他人に対するある成熟した態度のことである。
ジェ(3)BBCのコメディ『リトル・ブリテン』の中の「ルーとアンディ」のスケッチ。車いすのアンディは、わがまま放題。何の文句も言わずアンディの世話をするルーは、みすぼらしい格好をしていても「ジェントルマン」である。 http://bit.ly/czN8PH
ジェ(4)ジェントルマンは、相手によって態度を変えない。映画『マイ・フェア・レディ』で、貧しい花売り娘のイライザをヒギンズ教授はバカにするが、ピッカリング大佐は、丁重に扱う。美しくて着飾っているからレディーなのではない。相手がレディーとして扱えば、誰でもレディーとなる。
ジェ(5)恋愛において、男性がよく失敗するポイントがある。女性が、何か言ったとき、それが論理的に矛盾すると考えてしまう。3日前に自分が言っていたことと違うじゃないか、支離滅裂だ、などと思ってしまうのである。
ジェ(6)しかし、女性が矛盾したことを言ったり、前言を翻したりするのは、その背後に淋しい気持ちや、不安な気持ち、愛が足りないという思いがあるからである。事実と違うとか、論理的に矛盾するなどは大した問題ではない。その背後にある思いこそ、受け止めなければならない。
ジェ(7)どんなに支離滅裂で、めちゃくちゃでも、その背後にある気持ちをやさしく受け止めて、黙々として従う。そして、揺るがない。そのような男性は、どんなに貧しく、ボロを着ていても立派なジェントルマンとなる。
ジェ(8)どんなことがあっても他人を受け止めるジェントルマンであるためには、自分が大地となること。強く、成熟していて、世間知に長けている。そのような人間を目指せば、あなたもジェントルマンになれる。
ジェ(9)ジェントルマンとは、つまり、愛のある「やせがまん」のことである。不安や哀しみで揺れ動いている他者をやさしく受け止める。そうして、自分は、一切弱音を吐かないのだ。もちろん、一種の理想に過ぎぬが、すべての美意識は、地上からほんの少し浮上している。
以上、ジェントルマンについての連続ツイートでした。
(2010年10月2日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 12, 2010 at 08:21 午前 | Permalink
2010/10/10
時折噴火する人は、ふだんの静かな佇まいこそが
ぼくには、トイレを「おしっこやさん」というくせがある。お店では買うのだから、本当は反対なのだけれども、ついそう言ってしまうのだ。
朝ご飯をたべて、露天にいった。「おしっこやさんあるかな」と言ったら、とみお君が「あるでしょう」と言った。入って出たら、今度はとみお君が入っていった。「おしこやさん?」って聞いたら、とみお君は「ううん、うんこやさん」と言った。
なんだ、言葉の使い方、わからないふりして、ちゃんとわかっているじゃないか。
着替えようとしたら、何だかぼくも行きたくなった。そうしたら、とみお君が洋式の方に入っている。くやしかったが、仕方がないから、水が通るパイプをつかんで座った。
出て、脱いで、風呂場に入ってくると、突然とみお君が「もぎさん、もぎさん!」と声を上げて騒ぐ。
ぼくがトイレに戻ったのは、とみお君は入っていたのから知らないはずだが、さては気付いたかな、と思ったら、「噴火した、噴火した」という。
急いで露天に出た。桜島から、もくもくと煙が上がっている。雲とは明らかに違う、くろずんだ色。
ついに噴火した!
今まで鹿児島には十回くらい来ているけれども、桜島は穏やかだった。それが、目の前で噴煙を上げている。ついに、その様子を見ることができたのだ。
「瞬間をみたの?」とたずねると、とみお君は、「風呂にはいって、わきを見ていて、はっと振り向いたら、もう噴いていた」と言う。
脱衣場に戻ってiPhoneをとってこようかとも思ったが、刻一刻変わるので、そのまま湯につかって観察した。だから、生まれて初めて見た噴火の写真はない。
始まればずっとやっているのかと思ったが、こっちに来て調べたがそうではない。何時何分にぱっと噴いて、短く終わる。だから、その瞬間を逃してはいけないのだ。
それにしても、トイレに戻らなければ、噴火の瞬間を見ることができたかもしれない。自分のうかつさを呪い、恥じる。おなか、がまんすれば良かったな。
噴煙は風に流れされて、どんどん大きく高くなり、やがて尻尾が現れた。そうなると、桜島からは切り離される。生きもののようにかたちを変えながら、やがて、桜島とは独立した存在へと変わっていく。
後に残る桜島の偉容。何も変わらず、動かず。それでいて堂々としている。
そうか、時折噴火する人は、ふだんの静かな佇まいこそが大事なのだと、気付く。自分自身の人生を振り返ってみる。
10月 10, 2010 at 10:41 午前 | Permalink
2010/10/03
連続ツイート 「中国八策」
中国八策(1)発展を続け、GDPで日本を抜いて世界第二位の経済大国になった中国。いろいろと問題があるにせよ、中国が今後とも日本の隣人であり続けることには変わりがない。「互恵」を関係性の基調にするしかない。
中国八策(2)世界帝国だった「唐」の時代のように、隣りに強大な中国が存在する状況を、私たちの祖先は経験してきた。その頃の対処、つき合い方の「DNA」を思い起こせば、未来のあり方が見えてくるはずだ。
中国八策(3)「漢字」など、多くの恩恵を中国から受けてきた日本だが、科挙制度、宦官、中国式の「発音」など、日本人の感性、美意識に合わないものは輸入して来なかった。これからも、そのような選択的感受を続けていけばよい。
中国八策(4)中国の政体は、常に問題を抱えていた。現実が理想から遠いからこそ、孔子をはじめとする知識人は国のあり方に悩み、理想を説いてきた。彼らから生まれた思想に対して、私たちは共感、連帯できるはずだ。
中国八策(5)「易姓革命」を何度も経験し、「元」や「清」など、異民族による征服、王朝樹立が起こってきた中国における歴史観は、継続性を重視する日本のそれとは異なる。現在の中国共産党による支配も、そのような「王朝交代」の一時期として相対化すること。
中国八策(6)中国人の世界観は、徹頭徹尾「人間」を中心としている。人格神が「理神論」となり、普遍的な自然法則の概念に至った西洋の枠組みとは異なる。法治主義が徹底せず、人と人の関係、面子が過剰なまでの意味を持つ中国人の行動様式を理解すべきだ。
中国八策(7)中国の経済発展はめざましいが、どこかで「頭打ち」になる可能性がある。一人あたりGDPが5000ドルあたりに「踊り場」があるという説もある。経済がソフト化した時、思想、表現の自由がない社会はさらなる発展の阻害要因になろう。
中国八策(8)中国の隣りにあるということの利益を享受しつつ、自由な民主主義の国であるという日本の価値を中国との対照において世界に向ってアピールすることが、中長期的に見て日本の国益に適うと考える。
以上、中国についての連続ツイートでした。
(2010年10月1日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 3, 2010 at 08:32 午前 | Permalink
連続ツイート 「書く」
書く(1)『脳をやる気にさせるたった1つの習慣』(ビジネス社)は、「書く」ことの効用を巡る本である。先日取材を受けて、書くことの意味について話していて、いろいろなことを思い出した。
書く(2)書くというと、すでに脳の中にある情報が出てくるだけだと思いがちだが、そうではない。「書く」という文脈を設定することで、その場で情報が生成される。出てきたものが、自分にとっても驚きということはしばしばある。
書く(3)何を書いてわからないから書かない、というのが一番もったいない。書いてみれば、自分が何を書きたかったかがわかるはず。とにかく、手を動かすことが大切なのである。
書く(4)私が生涯の研究テーマである「クオリア」に出会ったのも、「書く」ことと関係していた。理化学研究所からの帰り、ノートにものすごい勢いでアイデアを書いているうちに、突然、電車の「がたんごとん」という音が質感として聞こえた。その日は、30分くらいの間に10頁書いた。
書く(5)書くことで、脳からの生成が促され、脳へのフィードバックも完成する。書いた結果よりも、「書く」という運動が大切なのである。他人のために書くのではない。自分の脳がある高みに達するために、猛烈に書字運動をするのである。
書く(6)エッセイを書くとき、私は、テーマについてある内的感覚をつかむことをまずは心がける。そうして、机に座り、無意識からどのような文字列が出てくるか、その流れをできるだけ邪魔しないように指を動かす。『生きて死ぬ私』や『脳と仮想』、『生命と偶有性』はそのようにして書かれた。
書く(7)書いたあと、読み返してみて、どのような「読み味」がそこにあるかを探る。いわば、文章の「クオリア」を自分で確認する。論理的なつながりも、実は「クオリア」の中に含まれている。
書く(8)書くことは、リアルタイムで見れば一つの「音楽」でもある。自分の書字運動が、音楽としてどうか。書かれた文章の読み味が、音楽としてどう響くか。そのような見地から、自分の文章を検証し、向上を図る。
書く(9)日本語の書字における二大要素とは、すなわち、音楽的無意識の書字運動と、文章の読み味。英語で「書く」という行為も、上達するに従って、次第にこの二つの基準へと収束していうようだ。まだまだ先は長いが。
以上、「書く」ことについての連続ツイートでした。
(2010年9月30日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 3, 2010 at 08:28 午前 | Permalink
2010/10/01
空を飛ぶ夢
子どもの頃から、よく空を飛ぶ夢をみた。地面から、平泳ぎのようにすいすいと手足を動かすと、ふわっと浮かび上がるのだ。
そんなに必死になって動かさなくても浮いているけれども、油断すると、少しずつ下に落ちてきてしまう。地面がだいぶ近くなると、何となくお腹のあたりがひんやりして、あっ、これはダメだ、と一層力を入れて動かすのだ。
二三日前、仕事から仕事の合間に、東京の街を疾走していて、ふと、人間なんて簡単に落ちちゃうものだなと思った。現実に負ける。理想を抱いていても、妥協の連続。そのうち、何が夢だったかも忘れちまう。
そんなことに思いをめぐらせながら暗がりを歩いていて、突然、空を飛ぶ夢のことを思い出した。
そうか、オレは「重力の魔」に抗していたんだ。どんどん落ちる。それを、一生懸命手足を動かして浮かぶ。滑空し続ける。そのことの難しさと大切さを、無意識が一生懸命叫んで教えてくれていたんだナ。
最近、お前の人生はドウダ。重力の魔に負けていないか。安易に妥協していないか。夢を曲げていないか。無理して合わせていないか。うまく飛べているか。カエルのようにぶざまに、手足を動かしながら。
一日に一回くらいは、「空を飛ぶ夢」のことを思い出していよう。そうだ、そのことを決して忘れまいと、仕事の移動の列車の中で、この日記に書いている。
10月 1, 2010 at 04:27 午後 | Permalink
連続ツイート ダブリン
ダブ(1)イギリスに留学しているとき、学会に参加するためにアイルランドの首都、ダブリンに向かった。私の親友、田森佳秀(@Poyo_F)といっしょに、ケンブリッジから南下して、スタンステッド空港から機上の人となった。
ダブ(2)エア・リンガスの機内に乗り込む。シートカバーに文字がびっしりとプリントしてある。見れば、アイルランド出身の作家、ジェームズ・ジョイスの「ダブリナーズ」(ダブリン市民)からの引用である。急に、文学の心がわいて、なんだか切なくなった。
ダブ(3)後年、『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』などの難解な小説を書くジョイスだが、『ダブリナーズ』は、いわば古典時代。完璧な短編小説集。以前に読んで、ダブリンという街にあこがれたことを思い出した。
ダブ(4)空港に着き、ダブリン市街に入る。サッカーの試合で地元チームが勝った直後らしく、街中にサポーターが繰り出していた。緑の奔流となっているパブのまえを、田森佳秀といっしょに人をかきわけて通り過ぎた。
ダブ(5)とりあえず飲もうと入ったパブ。昼間なのに店内は暗く、ろうそくの明かりが揺れている。頼んだギネスの美味しさに天がひっくりかえるほど驚いた。聴くに、ギネスはいわば生鮮食料品であり、地元ダブリンで飲むとひと味もふた味も違うのだという。
ダブ(6)翌日から、ダブリン市立大学での『創造性』に関する会議に出席した。主催していたのは、まだ若かったトニー・ヴィール。彼が挨拶に立ってびっくりした。放たれる言葉が、まるで音楽のよう。ジョイス、ワイルド、スィフト、ショー。数々の偉大な文学者を生み出してきたダブリンの真髄を見た。
ダブ(7)トニーとは打ち解けてなかよくなった。会議最終日、トニーと田森佳秀、それとアメリカ人の4人で飲んだ。すっかり酔っぱらって、ホテルを予約していないことに気付いた。トニーが、オレのアパートに来いよ、と言ってくれた。
ダブ(8)トニーが先導し、4人で夜のダブリンをさ迷っている時、田森佳秀がおしっこがしたいと言った。近くにトイレはない。トニーが、こっちに来いと横道に誘った。4人で、壁に並んで、立ち小便をした。オレは今ダブリンにいる。青春映画の一シーンのよう。クククッとアメリカ人が笑った。
ダブ(9)トニーの家で、朝まで話して、それからソファで眠った。目覚めると、トニーがトーストを作った。ダブリンの街に、太陽が昇った。なつかしい思い出よ。あれから、ダブリンには行っていない。
以上、アイルランドの首都、ダブリンについての連続ツイートでした。
(2010年9月29日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 1, 2010 at 08:31 午前 | Permalink
連続ツイート 「特殊」
特殊(1)先日来日したマイケル・サンデルさんとお話したとき、とても感動した瞬間があった。その瞬間は、サンデルさんが中国で講演したときのことをうかがった際に訪れた。
特殊(2)サンデルさんのJusticeは、カントやベンサム、ミルなどの思想家を参照しつつ、人間にとって「正義」とは何かということを普遍的な言語で語る。「効用」などの概念を通して「真理」に迫るその姿勢は、自然科学とも通底し、大いに共鳴、共感できる。
特殊(3)一方、世界には、「正義」というような普遍的概念と無関係に、いわばむき出しの欲動に支配されているかに見える国がある。昨今の中国がそうである。中国が経済事犯や麻薬所持者を死刑にする時、そこに「正義」についての深刻かつ真摯な検討は存在するのか? 中国特殊論が台頭する。
特殊(4)ぼくは、サンデルさんの普遍的アプローチに共感しつつ、それが、中国のような「特殊」な文化で通用するのかどうか、懸念した。そこで、サンデルさんに、「中国での反応はいかがでしたか?」とそれとなく聞いたのである。サンデルさんも、私の質問の含意は伝わっていたと思う。
特殊(5)サンデルさんの答えは、意外で、感動的なものだった。サンデルさんは、中国が特殊であるとか、そのようなことは一切言わなかった。「北京の学生たちと、熱く真摯な対話をしました」、それだけのことをサンデルさんは言った。まっすぐに伸ばした上半身は、揺るぎなかった。
特殊(6)相手が特殊だと思った瞬間に、もはやコミュニケーションは断念される。自らの信じるプリンシプルを伝えるよりは、折衝や妥協や根回しで懐柔しようとする。しかし、そこで失われるものは、一体何か?
特殊(7)相手がどのような人であれ、国であれ、「特殊」であるという認識を壁にせず、あくまでも自分が真理、正当と信じることを粘り強く伝え、説得し続ける。サンデルさんの態度に、私は、忘れかけていた何かを思い出させられた。
特殊(8)理想はこうだけど、社会の実際はああだから、仕方がないという人がいる。それで諦めてしまっては、自分の中の理想は消える。諦めてはいけない。「特殊」というラベルで、対象と自分の間に壁をつくってしまってはいけないのだ。
特殊(9)もちろん、理想は一つではないかもしれない。人の数だけ理想もあるかもしれぬ。自分の理性と良心に照らして、腑に落ちる理想は、いわば自分の身体と同じ。自分が引き受ける以外に、誰が引き受けるというのか。引き受けよう。
以上、「特殊」についての連続ツイートでした。
(2010年9月28日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
10月 1, 2010 at 08:22 午前 | Permalink
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