人生の悲劇、あるいはベルトを買うこと。
ぼくは、一つのズボンを買うとずっとそれをはき続ける癖がある。床に脱いで、そのまま翌日身につける。一週間に一回くらい、洗濯機で洗う。また次の日もはく。そうやって、ズボンがこわれるまで付き合う。
このところ、ずっと黒ズボンをはいてきた。ズボン君も、寄る年波には勝てず、弱っていたのだろう。一週間くらい前から、チャックが途中で引っかかった。それでもだまして、なんとか上げていた。先日の桑原茂一さんのアートスクールで、本番前にトイレに入ったら、ついにチャックが壊れた。社会の窓が、開いたままになったのである。
さて、困った。アートスクールはごまかしたものの、次の日からどうしよう。しばらく前に買ってはかずにいたジーンズを取り出して、はきはじめた。
ところが、また困ったことがあった。ぼくは基本的にベルトをしない。ところが、このジーンズはベルトをしないと腰が落ちてくる。就活生の本音フェスは、ベルトなしで済ました。その後、東京の街を歩いていると、ずるずる落ちてくる。
意を決して、丸井に飛び込んだ。適当なものを選んで、「ベルト下さい」。レジににじり寄るように歩いて、「あのう、すぐ着けたいので、切ってくださいますか?」とお願いした。
親切な店員のおじさん。ポマードで髪の毛をテカテカにしている。「真ん中あたりの穴でいいですか?」棚からハサミを取り出す。ぼくの腰に、ベルトを当てる。
「ん?」
おじさんの手が止まった。ぼくは、いや〜な予感がした。
「あのう・・・切る必要ないですね。」
おじさんは宣告した。ガーンガーンガーン。巨人の星の飛雄馬のような衝撃を受ける。
切る必要は、ない。おじさんはさらに畳みかける。「うーん。そもそも、足りるかなあ」
やばい。ヒジョーにやばい。ぼくは事態を打開しようと、あわててぎゅっとベルトを締めた。
「あっ、だいじょうぶです。ほら、一番外の穴に入ります!」
「ほんとですね。よかった、よかった。」
おじさんが、ほっとしたように笑った。ぼくも、緊張から解放されて、うれしくなった。おじさんもぼくも、何かから逃げ切った。きわどい勝負だったけれども。
お金を払う。おじさんに、さようならを言う。子どもの頃、床屋に行った後のような解放感。ジーンズの腰も、落ちてこない。よかったよかった。丸井に入って良かった。
しかし、同時にぼくは思い出していた。
「あのう・・・切る必要ないですね。」
そう言った時、おじさんの目は確かに笑っていた。絶対に、ぷっと吹き出しそうにしていた。
人生の悲劇、あるいは、ベルトを買うこと。躓きの石は、いつも突然目の前に現れる。
そういえばお昼を食べていない、お腹が空いたなあ。ほっとしたからだろう。ぼくは今さらのように思い出した。
9月 16, 2010 at 07:07 午前 | Permalink
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