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2010/09/20

連続ツイート 無記

無記(1)ある男が釈迦に聞いた。この世界は、どうなっているのか? 霊魂は存在するのか? 死んだらどうなるのか? 釈迦は応じた。私は、そのような質問に対しては答えない。

無記(2)釈迦は言った。目の前に毒矢が刺さって苦しんでいる男がいる時に、その矢はどこから飛んできたのか、誰が放ったのか、毒は何なのかと詮索しても仕方がない。それよりも、男の苦しみを解いてあげることの方が大切だと。

無記(3)霊魂があるか、死後どうなるのか、どうして我々はここにいるのかという問いに対しては、「無記」を貫く。これが、仏教の根本思想である。

無記(4)その後、歴史的発展の中で、仏教の実践において「極楽」や「地獄」の概念が派生した。しかし、仏教の根本的な思想が、これらのことについて「無記」を貫いていることは変わらない。

無記(5)一方で、仏教には融通無碍ということもある。「無記」が根本思想だからと言って、教条的にそれを守ればいいというわけではない。

無記(6)禅僧の南直哉さんは、ある時、おばあさんに「お坊さん、私は死んだら極楽に行けますかね?」と尋ねられた。南さんは、おばあさんの手を握って、「それはそうだよ。おばあさんくらい苦労した人が極楽に行けなかったら、誰も行けないよ」と答えた。

無記(7)極楽に行けるか、と尋ねるおばあさんに対して、「そもそもね、仏教においては、無記ということがあって」と理屈を並べても仕方がない。根本思想としての「無記」を貫き、一方で融通無碍に接する。それが、私たちの生命のあり方というものだろう。

無記(8)仏教を離れて、私たちの人生一般においても、「無記」は一つの覚悟となる。もっとも大切なことは、語る必要がない。胸の中に収めておけばよい。決して人の目に触れることのない「絶対秘仏」のように、「無記」たる原理を抱いていればよい。

無記(9)小津安二郎の『東京物語』で、尾道から出てきた老父は、子どもたちにひどい仕打ちを受けても一切何もいわない。「ああ、そうかい」「いやあ、いそがしいのは結構だから」といつもニコニコ笑っている。

無記(10)ところが、旧友と会った時に、老父の口から思わぬ言葉が飛び出す。「わしもあんた、東京に出てくるまでは、もすこし息子がどうにかなっとると思っていました。それがあんた、場末のこまい町医者でさ。」

無記(11)諦念と慈愛を絵に描いたような老父の中に、冷たい刃のような気持ちが隠れている。人間というものは、複雑で、重層的である。見えるものが全てではない。しかし一方で、すべてを外に顕す必要もない。

無記(12)フロイトが明らかにしたように、どんな人の無意識の中にもどろどろとした感情がある。自分の気持ちのうち、何を外に出し、何を出さないか。ここに人間の聖なる選別があり、魂の尊厳がある。小津安二郎はそのことをわかっていた。

無記(13)大切な問い、思いを胸に秘めたまま、黙って日々を生きること。「無記」の思想は、私たちの生にとってのかけがえのない叡智となり得る。

以上、「無記」についての連続ツイートでした。

(2010年9月16日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)

9月 20, 2010 at 09:39 午前 |