連続ツイート 判断
判断(1)日本の就職活動が、新卒一括採用に偏っている理由の一つは、人事担当者が自ら「判断」できないという点にある。つまりは、新卒か既卒か、年齢は何歳か、出身大学はどこかといった定型的、外形的な基準以外に、自らの判断基準を持たないのである。
判断(2)似たようなことは、銀行の融資における担保主義にも表れている。対象の経営能力、将来性を自ら「判断」するのではなく、土地などの担保の外形的基準に依頼する。そんなやり方だったら誰でもできるとよく揶揄されるが、つまりは自らの「判断」を行う能力も、意志も持たない。
判断(3)「判断不全症」は、日本の風土病の一つである。自分の直観で判断することをせず、外形的な基準に頼る。この風土病は、大学入試判定から、就活、銀行の融資、結婚相手選びまで、日本のありとあらゆる社会的局面において今や国を蝕んでいる。
判断(4)「判断」(judgment)は、明示的な基準に基づくアルゴリズムでは書くことができない。これが、人工知能における長年の研究の結論である。どんなにルールを積み重ねても、最後は直観による判断をするしかない。これが、人間の脳に与えられた課題であり、生きる方法である。
判断(5)サッカーなどのスポーツは判断力を鍛える。一つひとつの局面において、ボールをどこに出すか、パスするのか、自らドリブルするのか、シュートするのか、ルールに基づく正解はない。瞬時の直観によって、自らの行動を判断し、選択しなければならない。
判断(6)ぎりぎりの判断をする時に、ルールを参照したり、それに従う必要はない。ルールに拘泥することは、つまりは、できそこないの人工知能のようにふるまうということである。日本の企業の人事担当者や、銀行の融資担当者はつまりはできそこないの人工知能としてふるまっていることになる。
判断(7)求人において、一切の年齢制限、学歴制限を廃止してみる。さすれば、人事担当者は、目の前にいるひとりの人間のポテンシャルを、自らの直観で判断せねばならないことになる。その時になって初めて、脳の潜在能力がフル回転を始める。本来持っていた力が活かされる。
判断(8)自らの人生の行き先を決める時に、ルールに基づく「正解」などないと覚悟を決めるべきである。偶有性に向き合う時に助けになるのはルールではなく、判断。日々自らの直観に基づく判断を磨くことによって、一流のサッカー選手のよう瞬時の決断力を身につけることができる。
判断(9)与えられたルールに基づいて正解を探るのではなく、自らの判断力で選びとっていく。そのような能力を身につける努力は、何歳になって始めても遅くはない。日本の文部科学省の教育を受けたあとでも、はっと気付いて洗脳から脱すれば、何歳からでも本来の脳の潜在能力を活かすことはできる。
判断(10)とは言っても、日本人の判断不全症は一日にしては治らぬかもしれぬ。このような状況下で、新卒一括採用への拘泥から脱却するためには、非典型的なキャリアを含めて、求職者のポテンシャルを測る何らかの基準群を考案するのが有効だろう。
判断(11)すなわち、学校を卒業した後ボランティアをしながら世界を二年くらい放浪したというような求職者のポテンシャルを、日本の人事担当者が自分で判断できぬのであれば、「この人のギャップイヤーの使い方は何点です」というようなメジャーを用意すれば良い。
判断(12)本来は、一人ひとりが自分の判断で人生を切り開くのが望ましい。しかしそれが出来ぬというのであれば、マニュアル、外形的基準に頼り切った人生を、ピッチで疾走するサッカー選手の人生へと「ソフトランディング」させる移行措置を工夫する必要があろう。
判断(13)判断力醸成に有効な方法の一つが、「偶有性トレーニング」である。被験者を偶有性に満ちた状況に置き、そこでルールに頼ることのできない判断を練習させることによって、脳の直感力を高める。そのようなインタラクティヴなソフトウェアの開発も有効な手段となろう。
判断(14)今の日本人が偶有性への耐性に乏しく、自ら判断できないことは遺憾ながら事実である。しかし、人は変わることができる。どうしたら日本人は変われるのか、その議論を始めるべき時期が来ている。
以上、「判断」についての連続ツイートでした。
(2010年9月10日、http://twitter.com/kenichiromogiにてツイート)
9月 10, 2010 at 06:01 午後 | Permalink
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