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2010/09/01

「偶有性」忌避という「風土病」

 生きる中で、将来がどうなるかわからないということ。自分たちが置かれている状況に、何らの必然性もないこと。このような「偶有性」という名の時代精神を象徴するモンスターから、日本人は目を逸らそうとしている。だからこそ、不安になるのである。

 「偶有性」は、近代以降の日本人にとって慣れ親しんだメタファーを使えば、まさに「外国」から来た「黒船」である。インターネットの登場によって、世界は「偶有性」のダイナミックスの中に投げ込まれようとしている。長い間固定されてきた秩序、システムが崩壊し、新しい、よりフレキシブルなものに取って代わられる。このような変化は、好むと好まざるとにかかわらず、一つの歴史的必然である。

 世界中の人が、「グローバリズム」という「偶有性の海」に飛び込み、大競争し、胆力を鍛える。そんな時代に、日本人は「偶有性」というモンスターに背を向け、惰眠をむさぼっている。本当は、不可避な変化がすぐそこまで迫ってきているとわかっているのに、恐くて、不安で仕方がない。だから、逃げ続け、安全な「小世界」の中で汲々としている。その「小世界」の持続可能性自体が危うくなっているというのに。

 小学校の時から、「受験勉強」に駆り立てる。それぞれの個性と関心に合わせた世界に没入し、ユニークな能力を伸ばすのではなく、驚くほど単調な「ペーパーテスト」という「モノカルチャー」の中で競い合う。最終的な目的は、「有名大学」というメンバー数が限られた「クラブ」への入会。一度入会してしまえば、学問の内容が真剣に問われ、深められていくこともない。大学三年から今度は「一流企業」という限られた「パイ」への就職競争が始まる。まるで、そこに所属しさえすれば、一生の幸せが保証されるとでも言うように。無反省なマスメディアが、そのようなステレオ・タイプ的認知をあおり立てる。

 受験、進学校、有名大学、一流企業。そのような敷かれたレールの上に人生の「幸せの方程式」があると思うこと。これが、現代日本の最大の宿痾である。「偶有性」の忌避こそが、現代日本にはびこる「風土病」であるとも言える。現代文明を特徴付けている「偶有性」に背を向け続ける。これこそが、日本の「失われた10年」、「失われた20年」を特徴付ける神経症状だった。

 最も悲劇的だったのは、国の行く末を指導し、ヴィジョンを示すはずの「エリート」と呼ばれる人たちが、最も「偶有性」から遠い存在だったということだろう。日本において、「エリート」とは、すなわち、「こうすれば社会から認められ、成功する」というローカル・ルールに黙々と従う人のことであり、決して、偶有性の海の中で泳ぎ続ける人たちのことではなかった。受験勉強を重ね、有名大学に入り、官僚になったり、一流企業の社員になる。そのプロセスには、「競争」はあったかもしれないが、そもそもの競争のルールや、どちらの方向に行くべきかというヴィジョンに関する揺れ動きは一切ない。

 グローバリズムの時代になったとはいえ、人々が一人残らずその自体の中で闘うべきだとまでは言い切れない。坂本龍馬の座右の銘とされる「世に生を得るは事をなすにあり」の気概で世界と渡り合う人たちは、私たちのうち、ごく少数でもいいのかもしれない。

 しかし、エリートと呼ばれる人たちが、国のために「偶有性の海」に飛び込まずに、一体他の誰が飛
び込もうというのだろうか。自分自身が「有名大学」に所属することばかりを考え、官僚になれば自分の省庁の既得権益を守ることばかりに熱心である。そのような「偶有性」から程遠い振るまい、考え方が、いわゆる「エリート」の間に蔓延している。それでいて、ちっぽけなプライドばかり高い。これでは、国が傾くのは当然のことである。

 何の保証もない「偶有性の海」に飛び込むこと。その勇気がなければ、この世で面白い展開などあるはずがない。日本人は、ずいぶんとつまらない生き方を自らに強いてきたのである。

9月 1, 2010 at 09:09 午前 |