いわゆる研究費「流用」の報道について
今朝の朝日新聞に、阪大の研究室が550万円の研究費を「流用」したという記事が出ている。
まるで「風物詩」のように、時々このような記事が出る。その度に、私は二つのことを考える。日本の「官」 の杓子定規の駄目さ加減と、日本の新聞の浅薄さである。特に後者はジャーナリズムの名に値しない。
中には、真に悪質なケースもあるかもしれない。しかし、大抵の場合、研究費の「流用」として報じられるのは、日本の文部科学省、JSTなどの研究費が余りにも使い勝手が悪いことの副産物に過ぎない。
たとえば、秋葉原に行って、実験に必要な器具を臨機応変に現金で購入するということができない。「費目」というのが決められていて、異なる費目に使えない。研究というものは、流動的なもので、当初のもくろみとは異なることにお金を使う必要があることもある。むしろ、そのような研究の方が、ドラマティックな進展が見られることが多い。しかし、予算申請時に決めた通りに使えという。研究は生きものであり、結果の決まったできそこないのアルゴリズムではない。
意味のない書類、書類の山。「見積もり書、納品書、請求書、各二部ずつ。日付なし。」暗記できるくらいだよ。役所の人たちは、研究者に、このような雑務を押しつけることの愚をわかっているのだろうか?
貴重な公金を、有益に使うべきだという趣旨はわかる。しかし、その方法が間違っている。霞ヶ関の人たちは、真に効率的な研究費の使い方は何かを真剣に考えて、即実行してほしい。意味のない書類はできるだけ減らすべきだし、使途も大幅に自由にすべきである。なにしろ、科学技術は日本にとって将来を築く礎。この国難ともいうべき状況において、意味のないペーパーワークに研究者たちの労力を費やさせる愚を悟ってほしい。
さらに罪が重いのはこのような記事を書いてそのままの記者である。大学の担当記者ならば、このような研究費の「流用」がどのような背景から起こるのか、当然知っているだろう。知らなければ勉強不足だし、知ってて書かないのであれば、そもそもそんなものは記事の名に値しない。
「研究室のメンバーが働いたことにして、そのお金を、研究室に還流させる」
「業者に仮発注して、その分の代金をプールしておく」
このような「不正」と呼ばれる行為が、どのような背景から生まれているのか、そこまで調べて書いて、始めて社会の木鐸としての使命を果たしたと言える。
ジャーナリストを志して新聞に入ったんだったら、そこまで調べて書いて下さいと切にお願いする。表面的になぞるだけの、小学校の学級委員みたいな記事を書いているから、人心は日本の新聞を離れつつある。オモシロイことに、記事の本気度というのは読者にちゃんと伝わるんだよね。
日本の新聞社のどこでもいいから、研究費の「流用」と呼ばれる事象がどのような背景から生まれるのか、きちんと調べて書いて下さったらと思う。諸外国の例と比較しても良い。科学研究という、文明の帰趨を決する分野について、皆で一生懸命環境整備をせずして国の未来はあろうか。
最後に、日本の研究者は、我慢しすぎだと思う。科研費などがいかに使い勝手が悪いか、理を尽くして声を上げるべきではないか。既存のルールに、盲従している時代ではない。プリンシプルに照らして現行のルールに問題があれば、それを修正すれば良い。そうでなければ、本当に国が沈む。
http://bit.ly/ciE6rd
朝日新聞記事
8月 18, 2010 at 09:27 午前 | Permalink
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