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2010/08/29

連続ツイートについて。

インターネット上の新しいメディアは、その使い方を模索しているうちにどんどん次の展開が見えてくる。

ツイッターもそうであった。140文字制限が、簡約表現を旨とする日本語に適していたこともあって、まだまだツイッターの「のびしろ」の限界は見えない。

このところやっているのが「連続ツイート」(「連ツイ」)である。毎日、テーマを決めて、だいたい10項目くらいの内容をツイートする。その際、(1)、(2)、(3)、・・・・と番号を振っていく。

連続ツイートを書くのは、目覚めて、「おはよう」のツイートをして、それからヤクルトやミルミルからコーヒーへの「リレー」を終えた後である。

マックブックの前に座り、いきなり書き始める。よく、書きためてから流し込んでいるのではないかと思っている方がいるが、そうではなく、テーマだけ決めて、リアルタイムで(1)、(2)、(3)・・・と書いていく。各項目の内容も、項目数も決めていない。その場で、即興で書いていく。

即興と言っても、実際には、熟成した何かがその日の「連ツイ」のテーマとして無意識の中から浮かび上がってくるのだろう。

まとめてブログにしないのか、と言われる方がいる。各項目をそれぞれ独立してリツィートしたり、コメントできたりする利便性と、それから広がるチェーン・リアクションを考えると、ツイッターのかたちで表現するメリットが多いと思う。

連続ツイートを始めたきっかけは、よく覚えていない。確か、一ヶ月くらいまえのある朝、ふと思いついて番号をふって書いてみて、それがいつの間にか定着してしまったのだと思う。

連続ツイートは、一つの実験と考えている。当分続けていきたい。

http://twitter.com/kenichiromogi 

8月 29, 2010 at 08:04 午前 |

2010/08/23

神々の黄昏 

シンガポールで、「革命」のことを考えていたら、久しぶりに『神々の黄昏』のラストが見たくなった。

1976年に始まったパトリス・シェローとピエール・ブーレーズによるプロダクションは、最初は猛烈な拒絶反応を呼んだが、今となっては真の古典である。

ジークフリートが自分を裏切ったのは、ハーゲンの計略によるものと悟ったブリュンヒルデは、すべての災厄のもととなった「ラインの黄金」から作られた指環をラインの乙女たちに返すことを決意。ジークフリートの亡きがらを燃やす炎の中に自ら飛び込む。

燃えさかる炎。そうやって、古い世界はすべて消えていくのだ。群衆が騒ぎ立てる。どよめき、やがて、静かな覚醒が訪れる。

一人、また一人と人々が立ち上がる。歴史の中で、無名な存在だった人たちが、自分たちこそが主役だと気付き始める。

最後に、まるで記念写真のように立ち並ぶ群衆たち。「愛による救済」のモティーフが響く。パトリス・シェローによる『神々の黄昏』のこの最後の10分間ほど、美しい舞台処理を私は知らない。

http://bit.ly/dwJ5ak
リヒャルト・ワグナー『神々の黄昏』
バイロイト音楽祭 パトリス・シェロー演出
ピエール・ブーレズ指揮

8月 23, 2010 at 12:18 午後 |

2010/08/22

プラグマティズム

 シンガポール国立大学とのプロジェクトに関する会議のため、この地を訪れている。

 一人あたりのGDPで、すでに日本を抜いたというシンガポール。ITの使い方や、合理的な移民政策、意思決定の速さ、英語の浸透ぶりなど、もはや視点によっては日本よりも「先進国」であり、何かを教えてもらいたいという気分になる。

 夜、プロジェクトにかかわるエイドリアン(Adrian Cheok)、稲蔭正彦さん、それに新しいラボを立ち上げつつあるイリヤ・ファーバーと飲んだ。日本から、佐々木厚さんと関根崇泰くんも参加。ぼくのツイッターを見て、稲富寛明さんと藤井大子さんも飛び入りで加わった。

 クラーク・キーを渡る夜風が気持ちいい。イリヤのいう「正真正銘のメキシコ料理」を味わいながら、科学のこと、世界のこと、人生のことをたっぷり話した。

 イリヤが、途中で、「プラグマティズム」の話をした。その時のことを記しておこうと思う。

ぼくは、その時、グーグルの会議に行った時の感触を話していた。

「もはや、一つの分野を掘り下げて新しい知見を見いだしてくるというだけでは、足りないのではないか。ドットとドットを結ぶということがないとダメなのではないか。
 グーグルの会議で、オープンな大学のあり方とか、メディア2.0の話などをしている中で、あるセッションで、認知科学の三人の代表的研究者が、それぞれがずっとやってきた研究の話をするのを聞いたとき、ああ、この人たちは古いんだ、と強く感じてしまった。
 学会の中ではボスだし、学術雑誌への掲載や、研究費の配分などはコントロールできるかもしれないけれども、もはやそれだけでは輝かない。やはり、ドットとドットを結ぶ人が必要なんじゃないかな。」

ぼくがそういうと、イリヤは肯いて、それからこういった。

「そうだね。ただ、このようにも思うんだ。ドットとドットを結ぶ人は、どの時代にも少数派だったし、これからも少数派でいいのではないかと。Society for Neuroscienceの会場に行くだろ。圧倒されるよね。何万人もの人たちが、それぞれの分野の研究をしている。一つのタンパク質の働きをずっと追いかける人もいる。
 そのような人たちが圧倒的多数でいて、それで、少数の人たちがドットとドットを結ぶ。そんな感じでいいのではないか。99%の人たちが、一斉にドットとドットを結ぶことに従事するという世界は考えられない。」

それからしばらくして、私たちは現代における「素養」の話をしていた。すべてが学際的になっていく中で、学生時代に何の勉強をしたら良いか。

「ぼくは、どんな分野をやるにせよ、論理的な思考能力と、数理的な能力は不可欠だと思うけれども。」

すると、イリアは言った。「君が、論理的な思考能力(logical thiking)と言うと、賛成しつつちょっとぎょっとする。」

「形式的論理(forma logic)のことかい?」

「そうそう、そのような世界に入って、沈んでいった人たちを沢山見ているからね。」

「わかるよ、ははは」

「ぼくは、むしろ、批判的思考(critical thiking)という言葉を使いたい。」

「形式的言語で何かを証明する、とうことが、実際のダイナミックなプロセスに比べると、静的であり過ぎるということもあるからね。」

「そう。たとえば、確実性を証明しようとしても、それが意味がないことがある。実際には、たたき台を用意して、それを少しずつ修正して行かなければならない。最初から確実性を得ようとすると、全てがとまってしまう。」

「それが、昨今の日本の姿だ!」

イリヤの隣りに座っていた稲蔭正彦さんが笑った。

イリヤが続ける。
「確実性の証明を最初から求めないということ、それこそが、プラグマティズムの哲学なんだよ。」

「それだ! デューイだね。」

「そう、パース、ジェームズ、そしてデューイと続く系列。ぼくは、パースを一番熱心に読んだけれども」

パース、ジェームズ、デューイから、インターネットの革新へと向かう道。何か大きな鉱脈に、かちりと当たったような気がした。


クラーク・キー


カフェ・イグアナ


Ilya Farber と稲蔭正彦


関根崇泰、稲富寛明、Adrian Cheok, Ilya Farberと。クラーク・キーのカフェ・イグアナにて。

8月 22, 2010 at 11:14 午前 |

2010/08/21

アリ・G ノーム・チョムスキー・インタビュー

アリ・G(Ali G, Alistair Leslie Graham)は、イギリスのコメディアン、サッチャ・バロン・コーエン(Sacha Baron Cohen)が演ずる架空の人物である。

サッチャ・バロン・コーエンはケンブリッジ大学卒業。自閉症の研究で有名なサイモン・バロン・コーエンはいとこである。

アリ・Gは、ヒップホップが好きな郊外に住む非アフリカ系のアメリカ人という設定。さまざまな人にインタビューをする。わざと偏見や誤解に満ちた荒唐無稽な質問をして、相手のペースを乱す。

インタビューを受けた人の中には、アリ・Gがサッチャ・バロン・コーエンが演じているキャラクターだと知らず、本当にそういう人がいるものと思い込んだり、怒り出す人もいる。

アリ・Gが言語学者ノーム・チョムスキーをインタビューした回は、その中でも傑作の一つである。

http://bit.ly/drDu6v
ali g interviews noam chomsky

8月 21, 2010 at 08:14 午前 |

2010/08/20

「江戸っ子だってねえ。」「神田の生まれよ。」

広沢虎造の『清水次郎長伝』は実にすばらしい。悲劇と喜劇がないまぜになって、聞く者の心を動かす。
「あっと驚く為五郎」
「馬鹿は死ななきゃなおらない」
などの数々の名台詞が、『清水次郎長伝』から生まれている。

中でも、「森の石松三十石船道中」は、名作。

大阪から京都に行く三十石船の中で、石松が出会った客。「街道一の親分は清水次郎長」というので、良い気分になって、「寿司を食いねえ、江戸っ子だってねえ」と言うと、客が「神田の生まれよ。」「そうだってねえ、食いねえ、食いねえ、寿司を食いねえ、もっとこっちに寄りねえ」と石松が言う場面は、全編で一番有名な下りだろう。

しかし、そのうち、調子がおかしくなってくる。次郎長の子分には強いのがたくさんいると、強い順番に名前を挙げていくが、なかなか石松の名前がでない。じりじりして、そのうちに「おい、寿司返せ!」となる。

やりとりしているうちに、客が思い出す。「あっ、しまった。次郎長の子分で、一番強いのを忘れていた!」

http://bit.ly/9fmUiw
広沢虎造 清水次郎長伝 森の石松三十石船道中

8月 20, 2010 at 07:34 午前 |

2010/08/18

研究費「流用」ヨミウリ・ウィークリー記事

ぼくは、今は残念ながら休刊となってしまったヨミウリ・ウィークリーで、連載を持っていました。

そのご縁のきっかけとなったのが、当時ヨミウリ・ウィークリー編集部にいらした二居隆司さんとの出会いでした。

二居さんは、ぼくが研究費の「流用」について当時のブログに書いたコメントを読んで下さって、連絡してくださいました。そして、丁寧に取材し、記事にしてくださったのです。

あの時の二居さんの勇気と熱意は、忘れることができません。

その後、二居さんとは深い魂の交流がありました。連載も、ずっと二居さんに担当していただきました。

ある時、ぼくは「大切なお話があります」と言われて、二居さんと東京駅で会いました。次の仕事場の銀座まで歩きながら、二居さんが「実はヨミウリ・ウィークリーが休刊することになりまして」と切り出されました。

別れ際になって、ふと気付くと、二居さんの両眼から、涙がぽろぽろとあふれているではないですか。

野球が好きで、スポーツマンらしい体格の二居さんが、男泣きしている。あの熱さは忘れられません。

二居さんは、今も読売新聞でご活躍中ですが、あの時、研究費「流用」の問題を記事にして下さった勇気に感謝して、当時のファイルからその記事の全文を下に掲載いたします。


二居隆司さんと。ヨミウリ・ウィークリーに連載させていただいた頃。

科研費に関するインタビュー記事
(2003年7月頃、ヨミウリ・ウィークリーに掲載)

(前文)
 大学研究者らによる、国からの研究費補助金流用が相次いで明らかになっている。本来定められた使い道以外に、税金を使うなど、もってのほかだが、そうした「流用」をせざるをおえない事情も。堅く口を閉ざした当事者の声を代弁する形で、新進気鋭の脳科学者、茂木健一郎氏が現行制度の不備を糾弾する。

(本文)
 現役の国立大学の先生方は、立場上、率直な意見を述べることはないでしょう。だが、誰がちゃんと実態を話しておく必要があると思うのです。
「科研費流用」と報じられると、一部の例外的な研究者が、あたかも研究費で私服を肥やしたかのような印象を与えますが、そうではありません。すべては研究のため。実際多くの事例は、研究室で日常的に行われていること、一種の伝統芸能のようなものなのです。
なぜかというと、そうでもしないと研究費を有効に使うことができないからです。

 <皇太子妃雅子さまの主治医だった堤治・東京大学医学部教授による科研費流用が発覚したのが今年1月。さらに7月、同大の産学共同研究所センター教授が、同様の疑いで内部調査を受けていることが明らかになった。
いずれも、大学院生に払うべきアルバイト代を個人や研究室の口座にプールし、別用途に使うという手口だった。だが、その背景には、そうせざるをえない事情があるのだと茂木氏は指摘する。>

臨機応変に対応できない現制度

 研究者は、本来研究のことしか頭にありません。ただ、現状は科研費を有効に使える状況にはない。柔軟に対応して、なんとか有効に使えないかというのが、こうした「流用」の動機なのです。
 研究というものは水もので、1年間でどれだけ新しいアイデアが生まれるか、わかりません。ところが現在のシステムでは、いざ新しいアイデアが生まれ、それを具体化するうえでこういった装置、実験道具が欲しいといった時に、即現金で買えるような仕組みになっていないのです。
<追加>
 たとえば、1000-2000円程度の必要な電子パーツを買おうとすると、秋葉原の電気街に行けばすぐ買えるものが、出入りの業者に見積もりを出してもらい、発注して納品してもらうという正規の手続きをとって購入すると手に入るまで1か月以上かかることもあります。民間の研究所だと、その種の物品や書籍購入は領収書で落とせるのにそうではない。そのあたりの使い勝手の悪さが、研究をスムーズに進める際の大きな支障になっているのです。
」」
 では、どうするかというと名目上、大学院生に研究補助という形で仕事をさせ、その謝礼金をプールしておき、いざ現金が必要な時に使うのです。

ほとんどの研究室で「流用」が

 それがたびたび、「流用」という表現で問題視されているわけですが、私の知る限りでは、こうしたやり方は広く、一般的に行われている慣例であって、珍しくはありません。
厳密に数字を出すことは不可能ですが、研究室の9割ぐらいで、こういった慣例が行われているのではないでしょうか。
数年前から、ことあるごとに「流用疑惑」が報じられています。確かに形式的には違反はあったかもしれないが、その目的は決して悪意のあるものではない。むしろ、純粋に研究費を有効に使いたいという動機がほとんどだと思います。
ただ、現状が研究費を有効に使える制度になっていない。そこの不整合が、こうした「流用疑惑」になって、現れているだけなのです。
文部科学省などの役人の方は、国民の税金が不正に使われないように、その使い方に厳格な決まりを設けていると、好意的に考えることもできます。
しかし、現在の制度では、税金を国の科学技術振興のために有効に使うという、本来の精神そのものを損ないかねない。
そういう意味では、私が一時留学したイギリスでは、研究費の運用はかなり実際的で、柔軟性が高い。研究費をいかに有効に使うかという、本来の精神を生かすことが第一で、ほとんどの場合、領収書で経費を落とせます。日本の場合、形式さえ満たしていれば、中身は二の次といった感じがしてなりません。

増額研究費の有効な使い道は?

<独創的な研究に資金的援助を与える国の競争的研究資金は、科研費を筆頭に7省で、26制度あり、2003年度は総額3490億円にのぼる。科学技術振興という国策の下、緊縮財政にもかかわらず増額が計画されており、05年度には6000億円と、00年度の2倍に達する見込みだ。
だが、そうした増額も、有効な使い方がされてこそ意味がある。文部科学省では、これまで単年度での運用だったのを繰越可能にするなど、より有効な使い道を模索しているのだが、果たしてその効果は。>

日本の場合、物にはお金を出しても、人には投資しないのです。たとえば、大学院生を国際学会に送りたい、ある研究室に2、3週間でも滞在させて勉強させたいと思っても、いまのシステムでは、非常に実現はむずかしい。1000万円単位の計測器などにはお金を出すのに、人には出せない。
研究費の増額はもちろん歓迎ですし、その運用の方法もリーズナブルな方向に向かっているという実感はあります。ただ、次世代の研究者を育てるといった、人材育成の視点から見ると、どれだけ有効かというと疑問を感じざるをえません。
 国際的な学会に出席してみればわかることですが、次世代を担うべき日本の大学院生は、英語で自分を表現したり、議論を戦わせることで、他国の大学院生より、やや見劣りします。英語が母国語でないというハンディ以上に、国のバックアップ不足があると思います。
欧米の先進諸国では、院生に給料を出すのが当たり前なのに、わが国では自分で学費を払って、たとえば外国の学会に出席するにも自費で行かざるをえないといのが現状です。
科学技術の全体的な底上げには、研究者の資質を上げることが肝心。研究者に投資できるような制度改革を現場の研究者は強く願っています。

(絵解き)
①茂木氏
②堤教授の科研費流用問題の記者会見で、頭を下げる似田貝香門・東大副学長(左から2人目)ら。ただ、こうした「流用」は研究室の慣例でもある(6月3日、東京大学で。松本剛 撮影)

8月 18, 2010 at 09:43 午前 |

いわゆる研究費「流用」の報道について

今朝の朝日新聞に、阪大の研究室が550万円の研究費を「流用」したという記事が出ている。

まるで「風物詩」のように、時々このような記事が出る。その度に、私は二つのことを考える。日本の「官」 の杓子定規の駄目さ加減と、日本の新聞の浅薄さである。特に後者はジャーナリズムの名に値しない。

中には、真に悪質なケースもあるかもしれない。しかし、大抵の場合、研究費の「流用」として報じられるのは、日本の文部科学省、JSTなどの研究費が余りにも使い勝手が悪いことの副産物に過ぎない。

たとえば、秋葉原に行って、実験に必要な器具を臨機応変に現金で購入するということができない。「費目」というのが決められていて、異なる費目に使えない。研究というものは、流動的なもので、当初のもくろみとは異なることにお金を使う必要があることもある。むしろ、そのような研究の方が、ドラマティックな進展が見られることが多い。しかし、予算申請時に決めた通りに使えという。研究は生きものであり、結果の決まったできそこないのアルゴリズムではない。

意味のない書類、書類の山。「見積もり書、納品書、請求書、各二部ずつ。日付なし。」暗記できるくらいだよ。役所の人たちは、研究者に、このような雑務を押しつけることの愚をわかっているのだろうか?

貴重な公金を、有益に使うべきだという趣旨はわかる。しかし、その方法が間違っている。霞ヶ関の人たちは、真に効率的な研究費の使い方は何かを真剣に考えて、即実行してほしい。意味のない書類はできるだけ減らすべきだし、使途も大幅に自由にすべきである。なにしろ、科学技術は日本にとって将来を築く礎。この国難ともいうべき状況において、意味のないペーパーワークに研究者たちの労力を費やさせる愚を悟ってほしい。

さらに罪が重いのはこのような記事を書いてそのままの記者である。大学の担当記者ならば、このような研究費の「流用」がどのような背景から起こるのか、当然知っているだろう。知らなければ勉強不足だし、知ってて書かないのであれば、そもそもそんなものは記事の名に値しない。

「研究室のメンバーが働いたことにして、そのお金を、研究室に還流させる」
「業者に仮発注して、その分の代金をプールしておく」

このような「不正」と呼ばれる行為が、どのような背景から生まれているのか、そこまで調べて書いて、始めて社会の木鐸としての使命を果たしたと言える。
ジャーナリストを志して新聞に入ったんだったら、そこまで調べて書いて下さいと切にお願いする。表面的になぞるだけの、小学校の学級委員みたいな記事を書いているから、人心は日本の新聞を離れつつある。オモシロイことに、記事の本気度というのは読者にちゃんと伝わるんだよね。

日本の新聞社のどこでもいいから、研究費の「流用」と呼ばれる事象がどのような背景から生まれるのか、きちんと調べて書いて下さったらと思う。諸外国の例と比較しても良い。科学研究という、文明の帰趨を決する分野について、皆で一生懸命環境整備をせずして国の未来はあろうか。

最後に、日本の研究者は、我慢しすぎだと思う。科研費などがいかに使い勝手が悪いか、理を尽くして声を上げるべきではないか。既存のルールに、盲従している時代ではない。プリンシプルに照らして現行のルールに問題があれば、それを修正すれば良い。そうでなければ、本当に国が沈む。


http://bit.ly/ciE6rd 
朝日新聞記事

8月 18, 2010 at 09:27 午前 |

風にうたえば

尾崎豊ほど、「情熱」を歌うことにすぐれていた歌手はいない。

ぼくがカラオケで尾崎の歌をうたうことが多いのは、その「情熱」の表現に対する共鳴、感謝の気持ちからだろう。

『十五の夜』、『卒業』、『Oh my little girl』、『I love you』などと並んで、歌う回数がもっとも多いのが『風にうたえば』。

この名曲を、本人が歌っている映像を見たことはないけれども(もしあるんだったら、誰か教えてください!)、本当に素晴らしい曲だと思う。この季節にふさわしい。

http://bit.ly/9b1Aak 
尾崎豊 『風にうたえば』

8月 18, 2010 at 07:43 午前 |

2010/08/17

とにかくぼくははっと気付いた。

いつもは夏の間ぼんやりして、秋になるとはっと気付いて、これではいけないと思うんだけれども、今年はそれが終戦記念日に来た。

きっと、グーグルから帰ってきて、時差の中海老蔵と午前2時まで飲んで、そのまま灼熱の太陽の下ロケで走って、熱中症気味になって、夏風邪になって、さすがにしばらくぼんやりして、ソファの上に寝転がって水木しげるの漫画を読んだりしたから、それで身体が「おっ、夏休みだ!」と勘違いしてしまったのだろう。

とにかくぼくははっと気付いた。それで、少し勤勉になった。

8月 17, 2010 at 07:50 午前 |

白い色は恋人の色

私が小学校の時、ある日、北山修作詞、加藤和彦作曲の『白い色は恋人の色』がテレビから流れてきた。
衝撃だった。
どこから見ても外人の女の人ふたりが、日本語でやさしい恋の歌をうたっている。

一瞬にして、心に刻まれた。

その後、「クレヨンしんちゃん」の映画の主題歌に使われたり、カバーされたりして今の若い世代も知っている人が多いらしいが、このような名曲はずっと歌い継がれていってほしいと思う。

この曲にしかない、独特のクオリアがあるのである。

加藤和彦さんとラジオでご一緒したことが一度だけあった。その時、加藤さんに『白い色は恋人の色』が大好きですとお伝えできたのは、人生での嬉しかったことの一つである。亡くなる一年ほど前のことだった。

ぼく自身も、カラオケでこの曲を時々歌う。当然のことながら、声が裏返る。女の子のようにマイクを両手で挟むように持つのは、自分でも止めた方がいいのではないかと思う。

http://bit.ly/cIUjpU 
白い色は恋人の色 (ベッツィ&クリス)

8月 17, 2010 at 07:45 午前 |

2010/08/16

取り逃がしてしまったモンキアゲハの黄色い斑紋のダンス。

 終戦記念日。暑くて、忙しかったけれども、よい一日だった。

 モンキアゲハと、アカボシゴマダラを見ることができた。

 最近関東地方に定着したアカボシゴマダラ。なにしろ、子どもの頃かた培った蝶の飛行パターンのデータベースに入っていない。だから、その視野の中への登場は、未だに新鮮な衝撃として受け止められる。アサギマダラのようでいて、もっと力強い。自分の存在について、揺るぎない自負のようなものが感じられる飛翔。
 そして、後ろ羽の赤い星を確認すると、歓喜が込み上げてくる。

 そして、モンキアゲハ。黄色い斑紋が点滅し、揺れる。あっという間に、木々の間に消えていく。

 子どもの頃、一度だけ、迷蝶としてのモンキアゲハを見たことがあった。あの時は、もう心臓がバクバクと興奮して、手が震えて、どこまでもどこまでも林の中を追いかけていって、やがて姿を見失って、それでも諦めきれずに、今すぐまた飛んでくるんじゃないかと、蚊に刺されながら林の暗がりの中に立っていたっけ。

 蝶好きという者は、そういう体験は決して忘れないものである。取り逃がしてしまったモンキアゲハの黄色い斑紋のダンス。そんなものたちから、私の子ども時代の記憶はできている。

8月 16, 2010 at 07:08 午前 |

ユニヴァーシティ・チャレンジ

ユニヴァーシティ・チャレンジ(University challenge)は、イギリスのBBCで1962年から放送されている大学対抗のクイズ番組である。

司会者が、次々と問題を出し、それに答えていくというシンプルな形式。

問題の内容はストレートな教養問題。ブザーの押し間違えや、誤答に対しては、1994年から司会を続けているジェレミー・パックスマン(Jeremy Paxman)が容赦ない追求を行う。


日本でも、これと同じフォーマット、あるいは似たようなフォーマットで番組が出来ないかなと思う。

ユニヴァーシティ・チャレンジでは、オックスフォードやケンブリッジといった、「名門」と見なされている大学のチームが、それほど有名ではない大学のチームにしばしば負ける。この「下克上」効果が、日本にも必要だと思う。

統計的にみて限定的な根拠しかない「偏差値輪切り」に伴う意味のない大学のブランド信仰を、がちんこの実力勝負で打破できたら大いにオモシロイと思う。

たとえば、東大チームがコテンパンにやられたら、大学名だけで人を判断することの愚かさが何よりも雄弁にわかる。(もちろん、東大チームがものすごく強いということもあり得るけれども。)

どなたか、編成に企画書を出してみようという方はいらっしゃいませんか?

http://bit.ly/boybpQ 
University Challenge - Emmanuel College, Cambridge vs University of Manchester (P1)

8月 16, 2010 at 06:57 午前 |

2010/08/15

今日も暑いだろうけれども、仕事の前にきっと走ると思う。

今日も暑いだろうけれども、仕事の前にきっと走ると思う。

走るというのは、もうぼくにとっては本能のようなもので、そうでなければ自分の人生がうまく組み立てられないように感じる。

朝一番で、昨日の収録の時にいただいたシュークリームを食べた。その後味が残っている。それで、朝食はお茶漬けにしようと思う。それから走ろうと、もう算段している。

8月 15, 2010 at 07:21 午前 |

今日も暑いだろうけれども、仕事の前にきっと走ると思う。

今日も暑いだろうけれども、仕事の前にきっと走ると思う。

走るというのは、もうぼくにとっては本能のようなもので、そうでなければ自分の人生がうまく組み立てられないように感じる。

朝一番で、昨日の収録の時にいただいたシュークリームを食べた。その後味が残っている。それで、朝食はお茶漬けにしようと思う。それから走ろうと、もう算段している。

8月 15, 2010 at 07:19 午前 |

『秋刀魚の味』

私が、今までで一番多く、何回も見た映画と言えば、間違いなく小津安二郎監督の『秋刀魚の味』である。おそらく、今までに数十回は見ているだろう。

私と同じように、この映画を繰り返し見ている人を、私は少なくとも二人知っている。すなわち、保坂和志さんと、内田樹さんである。

私が一番好きな映画監督が、小津安二郎であるということはもう絶対に動かせない事実である。日本映画に、というよりも世界映画の中に、小津安二郎がいて本当に良かったと思う。

小津さんは、1963年12月12日、ちょうど満60歳の時に亡くなった。その前年、私が生まれた年に公開されたのが『秋刀魚の味』である。小津さんの遺作となってしまった。

『秋刀魚の味』の予告編と、最後のシーン。

 小津さんは、いくつかの作品で、完璧な紳士が最後に崩壊するその有り様を描いた。『秋刀魚の味』の笠智衆も、愛情に満ち、円熟した理想的な父であったが、娘を嫁がせたその夜に崩壊する。小津さんは、人間というものは孤独で、さびしいもので、それでも生きていくのだという真実を描きたかったのだろう。本当の芸術というのは、よく炊けたお豆のようにほっこりとしているものだなあ。

http://bit.ly/9Vi9Gv 
『秋刀魚の味』予告編

http://bit.ly/aA89L2 
『秋刀魚の味』ラストシーン

8月 15, 2010 at 07:11 午前 |

2010/08/14

スイカ食べて

スイカ食べて、種をぱーっと飛ばして、また塩かけてかじって、またぷっと飛ばして、それから寝転がって、虫の音聞いて、うとうとして、見上げたら花火やっていて、ビール飲んで、ナイター見て、やじとばして、風鈴に耳を傾けて、しんみりして、暗闇探って、またうとうとする。

そんな夏の一日を過ごしたかったな。

今日も仕事。

8月 14, 2010 at 11:23 午前 |

オフィス。最後のハートブレイクな10分間。

The Office (BBC) - The Last Ten heartbreaking Minutes

イギリスのBBCで2001年から2003年にかけて放送されたThe Office(オフィス)は記念碑的作品となった。

自分には才能がある、自分の言っているジョークは面白いと自負しているボス(ディヴィド・ブレント)が、次第に自壊し、ついにはリストラされてしまう。

一方、受付の女の子ドーンと、知的でユーモアのセンスがあるティムの間には、恋愛感情のようなものがあるが、ドーンには肉体派の婚約者がいる。ティムは何度もドーンにアプローチしようとするが、どうしてもうまく行かない。

クリスマススペシャルとして放送された最後のエピソード。最後の10分間は、クリスマスにふさわしく「奇跡」が起こる。ずっとさえなかったディヴィッドには、素敵な恋人ができる。そして、婚約者との関係に縛られていたドーンは、ついに、本当に自分のことをわかってくれて、愛してくれているのは誰かということに気付く。

シリーズ1、シリーズ2と見てきた者たちにとって、クリスマス・スペシャルの最後の10分間は、まさに起こるとは思わなかった奇跡が降臨したような気分。歴史に残る傑作コメディの最後は、とても感動的なものとなった。

http://bit.ly/9x6o0e 
The Office (BBC) - The Last Ten heartbreaking Minutes

8月 14, 2010 at 08:25 午前 |

2010/08/13

当事者として

当事者として

真剣に仕事をしようとしていたら、内田樹さんのツイッター上のつぶやきがタイムライン上に出現し、手が止まってしまった。

http://twitter.com/levinassien

「アルテスの鈴木くんが「怖い」話を紹介してくれていたので、読んですっかり考え込んでしまいました。その結論は・・・http://blog.tatsuru.com/というわけで、アルテスの本もいつ出るかわからなくなりました。バブルがこわいよう。」

リンク先の内田樹さんのブログには、ブックファースト店長の遠藤さんのこのようなコメントを含む記事が引用されていた。

(「一個人」サイトより、「ブックファースト・遠藤店長の心に残った本」というコラム)

http://www.ikkojin.net/blog/blog6/post-2.html


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池上彰「伝える力」
[2010年8月12日]
いま書店界で一番話題なのが、
いつ「池上バブル」が弾けるかということです。
最近の書店バブルに「茂木バブル」「勝間バブル」があります。

書店の中の、新刊台やらランキング台やらフェア台やら
いたるところに露出を増やし、その露出がゆえに書店員にあきられ、
また出版点数が多いためにお客さんに選択ばかりを強い、
結果弾けて身の丈に戻っていくのが書店「バブル」です。

「茂木バブル」は出版点数が増えるにつれて1冊1冊のつくりが
スピード重視で雑になり、文字の大きさが大きくなり、
内容が薄くなってきて、でもそれに対して書店での露出は増え、
そして点数が多いことでお客さんが何を買っていいか分からなくなり、
バブルが弾けました。

「勝間バブル」ははじめの切れ味のいい論旨が、
出版点数を重ねるにつれて人生論や精神論のワールドに入り、
途中「結局、女はキレイが勝ち。」などどう売ったらいいか書店界が困る迷走の末、対談のような企画ものが増え、
結果飽和状態になり、弾けました。

書店「バブル」になった著者は、自分の持っている知識なり、
考え方が他の人の役に立てばとの思いで本を出すのだと思うのですが、そうであるならばなぜ出版点数を重ねる度に、
「なんで、こんなにまでして出版すんの?」
と悲しくなるような本を出すのでしょう。

すべて「バブル」という空気のせいだと思います。
このクラスの人にお金だけで動く人はいないと思います。
そうでなくてせっかく時代の流れがきて、要請があるのだから、
全力で応えようという気持ちなのだと思います。

けれどそれが結果、本の出来に影響を与え、
つまり質を落とし消費しつくされて、
著者本人にまで蝕んでいくことは、悲しくなります。
著者もそれが分からなくなってしまうほど、
「売れる」というのは怖い世界なのかも知れません。
_______

 このコラムの中で、名前が挙げられているので、私の感想を書かせていただきたいと思う。

 客観的な立場から見ると、ある時期、特定の著者の本がたくさん出て、それが潮が引くように消えていくように見えるのかもしれないけれども、著者、編集者の側からすれば、一冊一冊を誠心誠意作っているだけのことである。

 ぼくは、今まで通りのやり方を変える気はないし、刊行点数を絞ろうとか、そんな知恵を働かせるつもりもない。本の出版は、出版社の方々の企画や、編集者の創意工夫、その他のパラメータで決まっていくもので、著者が意図して仕掛けられるものではない。ある時ぴたりと企画がなくなるかもしれないし、そうでないかもしれない。本が出なかったら、やることはたくさんあるから、別にそれで構わない。 

 そもそも、ある本がバブルだとか、浮ついているとか、そんな評価をするのは、一緒に仕事をした編集者(生活がかかっており、時には社運をかけて、一生懸命やってくださっている)に失礼だし、何よりもお金を出して買ってくださり、読んで下さった読者に申し訳ない。

 どの本も、私のその時々の、目一杯の力を注ぎ込んだものです。それが結果としてバブルになろうが、何だろうが、それは仕方がない。勝間さんだって、池上さんだって、同じような気持ちじゃないのかな。

 小林秀雄ではないが、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか」と思う。

 結果として、内田樹さんとは少し異なる感想になってしまったけれども、それでいいのだと思う。この前の新卒一括採用の時もそうでしたが、内田樹先生とは、基本的な倫理感を共有しつつ、結論が少し異なることがある。それでいい。思想家、書き手としての内田樹さんに対する私の信頼には、一点の曇りも生じない。

8月 13, 2010 at 10:17 午前 |

夏はすこしぼんやりした方が良い

子どもの頃、夏休みはそれまでと違ったモードになるのだった。

プールに行って、泳いで、疲れてだるくなって、そのまま夕飯を食べないで眠ってしまったり、蝶を採りに森の中に出かけていって、まわりの緑と一体になったり、カブトムシの匂いを嗅いだり、寝転がって本を読んだり、溶けたバターのような怠惰な時間を過ごした。

そうして、9月になり、秋の気配がする頃になって「はっ」と気付くのだった。しまった、こんなにぼんやりしていてはいけない。それで、「シャン」とする。

今から思うと、ぼんやりとする時間があるのが良かったのだと思う。だからこそ、秋から「シャン」とすることができる。夏のぼんやりだらりがないと、秋からの「シャン」にも、緊張感が足りない。

だから、夏は少しはぼんやりしようと思う。毎日何かに追われていて、ぼんやりする時間もないが、いつもより少しはソファでの寝転びかたも、ぐたりのたりを心がけるようにしている。ほんの10分くらいのことだけれども。

8月 13, 2010 at 05:59 午前 |

グレン・グールドが、バッハのゴルトベルク変奏曲を弾く時間

グレン・グールドが、バッハのゴルトベルク変奏曲を弾く時間は、その流れ自体が一つの奇跡のようだ。

アリアから始まり、30の変奏が挟まり、再びアリアで終わる。

生命そのものを象徴するように、最初があり、いろいろな変化があって、再び最初に戻る。そうやって、円環が閉じる。

この演奏において、グールドは、最後のアリアを弾き終わると、祈るように手を合わせ、やがてだらんと垂らす。その、まるで人類以前の人類のような振るまいを最初に目撃したとき、私の中を戦慄が走った。

そして、その戦慄は、今も止まない。

http://bit.ly/9f9HmI 
Gould plays Goldberg Variations var.26-30 & Aria Da Capo

8月 13, 2010 at 05:50 午前 |

2010/08/12

ベニスに死す

ベニスに死す(Death in Venice)のラストシーン。イタリア貴族の末裔、ヴィスコンティが、その独自の「没落の美学」で撮影した名作。

全編に、マーラーの交響曲第五番第四楽章「アダージョ」が流れる。

ベニスを訪問した作曲家(グスタフ・マーラーをモデルにしていると思われる)は、美少年タッジオに魅せられ、次第に精神のバランスを崩していく。

ラスト・シーン。衰弱して、浜辺の椅子に座る作曲家の前で、タッジオが海の中に立つ。

やがて、タッジオが手を上げる。あたかも、永遠の美の世界、プラトン的イデアの宇宙を指し示しているかのように。作曲家は魅せられ、手を伸ばそうとするが、その瞬間に息絶える。

作曲家の時間は終わった。しかし、宇宙の時間は進行し続ける。やがて、タッジオの腕は下ろされ、人生は進んでいく。一方、作曲家の異変に気付いた浜辺の人たちは騒ぎ出す。二人の青年が、疫病がベニスに流行っていることを隠すためなのか、そそくさと作曲家の遺体を運んでいってしまうのだ。

http://bit.ly/bKMXLR 

Death in Venice. The final scene.

8月 12, 2010 at 07:58 午前 |

2010/08/11

けんちゃんの健康牛乳

「けんちゃんの健康牛乳」。
ドリフターズの加藤茶と志村けんによるスケッチの古典的名作。

加藤茶が牛乳を一気飲みして、となりのアシスタントが、「新発売けんちゃんの健康牛乳」というだけのCM撮影なのだが、完璧に行った一回目は実はリハーサル。あれこれとトラブルが続いて、牛乳を何杯も飲まされた加藤茶はついにダウンする。。。

日本の笑いの文化において、このようなコメディアンが「身体を張った」ジャンルは、一つの大切な潮流である。もともとドリフターズは、ビートルズ来日公演の前座をつとめたバンド。そのコントの、ドタバタには独特のリズム感がある。

たとえばいかりや長介が先生をつとめる「教室コント」におけるずっこけて机の蓋がドタンとなるタイミングは、音楽的である。

この『けんちゃんの健康牛乳』も、動作、声、効果音のタイミングがうまくはかられていて、心地良い。

http://bit.ly/d4iN6b
けんちゃんの健康牛乳

8月 11, 2010 at 09:24 午前 |

2010/08/10

ソクラテスかプラトンか

ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、みんな悩んで大きくなった。
(大きいわ、大物よ)
オレもお前も大物だ!

野坂昭如さんが歌っていたサントリーゴールドのCM(1975年)。
当時私は中学一年生であった。


http://bit.ly/bsgU2J 
サントリーゴールド 野坂昭如

8月 10, 2010 at 07:23 午前 |

2010/08/08

大切な人たち

大切な人たち

ぼくにとって、とても大切な人たちと、とても大切なセレモニーがあった。

暑い一日。タキシードを着てでかける。プールサイドで、記念撮影をする。

一人ひとりが、それぞれの思い出に刻む一日。

十年後、ぼくたちはこの日をどのように思い出すのだろう。 

トオル君、ユカさん、おめでとう!


8月 8, 2010 at 05:10 午前 |

2010/08/07

リューテナント・コジャック・スラップヘッドIII世

私の大好きなイギリスのコメディアン、スティーヴ・クーガンのTVシリーズ、"Knowing you knowing me" の中でも、私が好きな「リューテナント・コジャック・スラップヘッドIII世」が登場する政治討論の場面。

Steve Coonganが演ずるAlan Partridgeは、明かに保守党の候補に肩入れしていて、自民党や労働党の候補に対しては冷たい。ところが、はげ頭(スラップヘッド)の格好をして登場した「リューテナント・コジャック・スラップヘッドIII世」に、ペースを乱されてしまう。保守党の候補は、その愚かさ加減を露呈する。やがて、「リューテナント・コジャック・スラップヘッドIII世」は、政治哲学を専攻している学生の仮装であることがわかる。その指導している先生も、また、スタジオに潜入して、自らもスラップヘッドであることを明らかにするのだ。

http://bit.ly/97aovP 
‘Partridge Over Britain’ From "Knowing you knowing me" Episode 5.

8月 7, 2010 at 08:57 午前 |

2010/08/06

生きるエネルギー

生きるエネルギーのトータルの絶対量のようなものがあって、それが大きいと、下流にさまざまな構造が形成されてくる。

 一方、生きるエネルギーが低いと、どうしても「省エネ」モードになる。今のルールの枠内でやったり、制度を前提にその中でうまくやろうとしたり、予定調和でさざ波を立てないようにしようと考える。
 
 昨今の日本人は、生きるエネルギーの絶対量が足りないのかもしれぬ。

8月 6, 2010 at 07:33 午前 |

2010/08/05

テンションの高さ。

結局、求めているのは「テンションの高さ」なのかなと思う。

鳩山元首相がツイッター上で『裸踊り』と書き込んで話題になったTEDにおけるDerek SiversのHow to start a movementというトーク。

注目すべきは、このトークで、Siversは自分の所属とか、肩書きだとか、そういったことを一切に抜きにして、「一秒目から」本題に入ってトップスピードで駆け抜けていることだろう。

トークというものは、こうでなければならないと思うし、そういうトークが生まれ、評価される社会は若い。

日本ではそういうトークが余りにも少ない。

自分の所属や肩書きについてくどくどと言ったり、何とか先生がどうのこうのなどという世界に生きているから、日本はここまで堕落した。

もっと正確に言えば、日本は以前から変わらず、ただ、世界のスピードが上がっただけなのだろう。

比較して、日本のテンションはあまりにも低い。

もっと本質を見つめて、もっと走ろうよ。

http://bit.ly/afInib 


Derek Sivers. "How to start a movement".


8月 5, 2010 at 07:21 午前 |

2010/08/04

とりあえずぼくはロケットになろう

しばらく雑感のような日記を書いていなかったけれども、久しぶりに書いてみようかと思う。

講演会でまた爆発してしまって、反省しきり。

結局、いくら言っても「お説ごもっとも」で終わってしまうことが多い。

人々の火をつけることは簡単にはできないのだ。

だから、結局、自分自身に火を付けて、自分がロケットになって、びゅんと飛んでいくしかないんだな、と感じる。

海老蔵や麻生厳さんと飲んで、睡眠不足で、時差で、夏バテで、帰りの湘南新宿ラインでも目を開けているのがやっとだったけれども、それだけはわかった。

火山もいいけど、ロケットになろう。

時折は火山に戻って、まだ無駄な噴火をするとは思うけれども、とりあえずぼくはロケットになろうと思う。

8月 4, 2010 at 06:40 午前 |