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2010/07/09

「機会損失」は計り知れない。

 日本が現在苦境に陥っている背景には、グローバリズムの流れがある。世界のさまざまな地域が、「単連結」に結ばれた。競争が、地球規模になった。そんな中で、日本の今までの「オペレーティング・システム」が通用しなくなって来ている。日本は何とかして、現在の状況を「脱藩」し、ガラパゴスの状態から解き放たれなければならないのである。

 人生という「ゲームのルール」は、時々変わる。微調整どころか、前のステージの面影を一切残さないくらいにすべてががらりと変貌しまうこともある。ある時代の「ゲームのルール」において輝いていたプレイヤーも、次の時代においてはどうなるかわからない。サイレント映画の時代のスターは、トーキーになったら没落することもある。地上波テレビにおける人気タレントは、インターネットの時代においてもオーラを持ち続けられる保証はない。

 モノ自体としての優秀さ、精緻さを競い合っていた「ものづくり」の時代から、iPhone、iPadに象徴されるように、モノが情報ネットワークと結びついて付加価値を生む「ものづくり2.0」の時代になった時、日本が加工貿易産業の国として生き残れるかどうかわからない。日本人も、日本という国も。私たちは、新しい時代の「ゲームのルール」が何なのか、きちんと見きわめなければならない。そうでなければ、「次の時代」において、日本は輝き続けることができない。

 もっとも、グロバーリズムという時代の流れ自体に抗する考え方もある。グローバリズムの進展によって、文化の「多様性」が失われるという意見である。確かに、グローバリズムの進展は、世界を共通の文化で塗り込め、結果として「多様性」が失われるようにも思える。グローバリズムと多様性の関係は、これからの世界について考える上で極めて重要な論点である。

 日本は、独自の道を行けば良い。 自分たちのやり方を貫けば、かならず良い結果になる。そんな主張もある。江戸時代、ほぼ「鎖国」状態の中で、日本は高度な文化を築き上げた。世界に向って広く開かれた国であることが、文化や文明の発展の必要条件であるとは確かに言えない。歌舞伎は、誰にでも楽しめる「大衆性」と高度の「芸術性」を兼ね備えた一つの「奇跡」である。その歌舞伎が育まれたのは、「鎖国」時代の日本においてであった。

 現在世界において起こっている変化について、その含意をめぐる議論があるのは当然のことである。しかし、いずれにせよ、グローバリズム、すなわち、世界各地がより緊密な相互依存関係で結ばれる傾向は、止められそうもない。何よりも、私たち自身が、インターネットというオープンでダイナミックな「自由」を手にして、その中で呼吸することを学び、もはや元に戻れない状態にある。

 グローバリズムの弊害にどのように対処するか、とりわけ、文化の多様性の維持という課題については、後に改めて検討することとして、ここではまず、私たち日本人がグローバリズムの時代にぜひとも対処しなければならない、その必然的理由を見きわめることとしよう。

 グローバリズムへの対処が必然となっている理由の第一は、「持続可能性」である。確かに、日本という国は住みやすい。日本語は、豊饒であり、奥深い。自然は多様であり、四季の変化にも恵まれている。しかし、そのような日本という存在自体が、グローバリズムの波の中で「持続可能」ではなくなって来ている。私たちがどれほど日本を愛し、その中でゆったりと暮らすことを望んでも、グローバリズムの波の行く末を見きわめ、広い偶有性の海の中に飛び込むことなしでは、そもそも日本自体が持続できない可能性が高いのである。

 第二の理由は、「機会損失」である。日本の中には、まだまだ、すばらしいもの、美しいもの、かけがえのない価値を持つものがたくさんある。それらの「原石」が、日本人が自分たちを世界の中で表現することに消極的であるがゆえに世界に出ていかない。磨かれない。このことによって生じる「機会損失」は計り知れない。

 マンガやアニメは、非言語的な情報が豊かだったがために、世界に出ていくことができた。それに対して、言語や抽象的な思考に依存するような日本文化の真髄が、なかなか世界の中で理解されていない。そのことによって、日本はいかに多くのすばらしい発展の機会を失っていることだろう。

7月 9, 2010 at 07:55 午前 |