「沈黙」(茂木健一郎『生きて死ぬ私』より)
もし神が本当にいるのならば、神はどうして沈黙しているのか?
これは、昔から、神学上の非常に深いテーマの一つだった。
ビッグ・バンとともに、私たちの現在住んでいる宇宙ができあがったとしよう。その誕生の瞬間に、神が介在していた、すなわち、宇宙自体は神が創造したとして、その後の宇宙の発展は、自然法則に従っているように見える。
科学者は、神の沈黙を前提に仕事を進めている。もし、神が気まぐれに時折宇宙の中の物事の進行に介入してきたら、自然法則など考えることができないからだ。
もし、神が人間が善良であることを望むのならば、なぜ神は人間の営みに介入して、善行だけが行われるようにしないのか。なぜ、様々な社会的不正や、暴力、矛盾をそのままに放っておくのか? 神が万能だというのは、うそに違いない。なぜならば、神は、人間が悪を行うのを止めることができないのだから。
これは、子どもでも思いつくような素朴な疑問だ。実は、神学の専門家の間では、このような素朴な質問は解決済みに違いない。専門家は、たいていの問いに複雑でそれなりに筋の通った解答を用意しているものだ。何しろ、現実とは離れた観念の世界で、ネジを巻くようにギリギリと観念と観念をこすりあわせるのが、神学の役目なのだから。
いかに上のような素朴な問にうまく答えるかは神学者にまかせておこう。だが、神学の専門家ではない私にもわかることがある。それは、神の沈黙が、全ての宗教にとってとてつもなく大きな問題だと言うことだ。なぜ、神は沈黙しているのか?なぜ、神など存在しても存在しなくても同じだと言うように、宇宙は自然法則に従って勝手に時間発展していってしまうのか? この問題は、神の存在を信じるか信じないかに関わらず、宗教的なものに興味を持つ全ての人間にとって、とても大きな問いだ。
異教徒に迫害される信仰深いものにとって、神の沈黙は自らの生死に関わる、とても大きな問題だったろう。
遠藤周作の作品「沈黙」では、江戸時代に長崎で奉行に迫害され、踏み絵を迫られるキリスト教徒た
ちを描いている。
なぜ、神は、宣教師たちが信仰ゆえに踏み絵を拒み、それゆえに死の苦しみを味わっているときに沈黙しているのか? なぜ、宣教師の処刑を命ずる奉行の上に雷を落とさないのか? なぜ、あたかも何事も特別なできごとはなかったかのように、雲は流れ、海は波打ち、鳥は鳴いているのか?
このような疑問は、もちろん、神の存在を認めない立場からはナンセンスだ。神などは存在しないのだから、宇宙がかってに進行していくのは当たり前の話だ。自然法則自体を「神」と名付けるのならば別だが、あたかも自分の意志を持ち、その意志に基づいて行動するような「人格神」が存在するかのように考えるのは、間違っている。そのように考える人もいるだろう。
だが、ここで重要なことは、立証も反証もできない以上、人格神の存在を信じるか信じないかは、その人その人の自由だということだ。かって、科学哲学者カール・ポッパーは、間違っていると反証できることが、科学が科学たるゆえんであると言った。その意味では、人格神がいるかどうかは、科学の対象ではない。人格神の存在を信じるか信じないかは、まさに、その人その人の自由なのである。電子の質量が陽子の質量よりも大きいと信じることは、明らかに事実に反しているのだからナンセンスだ。だが、人格神の存在を信じるのはナンセンスではなく、あり得る立場なのである。
確かなことは、人格神を信じる人たちに、宇宙は今日も沈黙を守っているということだ。「神よ、なぜ私を見捨てるのですか」とキリストが十字架の上で叫んで以来、長い人類の歴史の中で、神はなぜか沈黙を守ってきた。おそらく、これからも神の沈黙は続くだろう。
神が沈黙し続けても、なお信仰を続ける人間の強さは、いったいどこから来るのか? それは、単なる無知から来るのか、あるいは、かたくなさから来るのか。信仰の内部にいる人間の心の中には、信仰を続けていれば、いつか神が沈黙を破るだろうという思いがある。「祈り」という行為は、神の沈黙を破ろうとする動機に基づいている。信仰の内部にいる人間にとってはもちろん、私のように外部にいる人間にとっても、神が沈黙を破ることを望む気持ちが心の奥底にある。神の沈黙の問題は、神の存在、不存在にかかわるというよりは、人間という存在の持つ精神性と、そのようなものに無頓着に進行していく宇宙の成り立ちの間のずれにその本質があるように思う。
茂木健一郎『生きて死ぬ私』より「沈黙」
7月 13, 2010 at 07:13 午前 | Permalink
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